September 12, 2024

行動を価値づけする

1年生の図画工作の授業を見学したら、「めだたせたいものを大きくかこう」を目当てに取り組んでいた。
クワガタムシや、ひまわり、プール、自分などを大きく描いていた。
その時の、自分の声掛けは2通りだった。
A:行動をほめる「ひまわり大きく描けたね」「いろんな色を使ったね」
B:効果をほめる「にぎやかだね」「本物みたいだね」
自分の誉め言葉を分析してみて、ABをくっつけたら子供に伝わりやすいのではないかと思った。
◆ひまわりを大きく描いたから、すごく生き生きしてるね。
◆いろんな色を使ったから、にぎやかになったね。
◆クワガタが人間より大きく描いてあるから、すごく目立つね。
「〇〇をしたから、すごく△△になったよ」
「ある行動をしたから、すごく価値が上がったよ」
ということだから、これが「行動の価値づけ」だ。
何をいまさらというような発見だが、実体験で納得できたことがうれしい。
ちなみに、全部提示しなくても、子供に考えさせる方法もある。
 すごく△△だよ。何がよかったと思う?

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September 08, 2024

人々が画一化しないために

人間が「コモデイテイ化」しないために、注意すべき点は何でしょうか?

以下に、Geminiの回答案を提示する。

こんなふうに、まとめられたら我々に仕事はどうなるのかと思う。

また、「コモデイテイ化」しないためには、まさに、このような模範解答でない意見を提示できる存在でなければならない。

 

人間が「コモデイテイ化」しないために注意すべき点

現代社会において、「コモデイテイ化」は様々な分野で進行しています。これは、人々が画一的な存在となり、価値が低下してしまうことを意味します。人間がこのような状況を回避し、個性を発揮していくためには、以下の点に注意することが重要です。

1. 自分の強みや価値を認識する

コモデイテイ化とは、個々の違いが軽視され、画一的な存在として扱われることを意味します。人間がコモデイテイ化を避けるためには、まず自分の強みや価値を認識することが重要です。自分の個性やスキル、経験などを棚卸しし、何が自分にとってかけがえのないものなのかを理解しましょう。

2. 独自のスキルや知識を磨く

自分の強みや価値を認識したら、それを活かせるスキルや知識を磨きましょう。日々の仕事や勉強、趣味を通して、常に新しいことに挑戦し、自分自身を成長させていくことが重要です。また、他の誰にも真似できないような独自の専門性を身につけることができれば、コモデイテイ化から遠ざかることができます。

3. 人と積極的に交流する

人間は社会的な生き物であり、人と交流することで成長することができます。積極的に人と交流し、自分の考えや思いを共有することで、新たな視点を得たり、人脈を広げたりすることができます。また、人と協力して何かを成し遂げることで、自分が社会にとってかけがえのない存在であることを実感することができます。

4. 常に主体的に行動する

指示を待つのではなく、常に主体的に行動することが重要です。自分の意志で行動することで、周りの人から一目置かれ、自分自身の価値を高めることができます。また、失敗を恐れずにチャレンジすることで、新たな可能性を発見することができます。

5. 自分の軸を持つ

流行や周囲の意見に流されることなく、自分の軸を持つことが重要です。自分の価値観や信念に基づいて行動することで、周囲から信頼されるようになり、真の個性を発揮することができます。

これらの点を意識することで、人間はコモデイテイ化を避け、自分らしい人生を歩んでいくことができるでしょう。

コモデイテイ化の具体例と、それを回避するための対策

以下、いくつかの具体的な例と、それぞれの対策をご紹介します。

例1:仕事

  • 仕事で指示を待つばかりで、自分で積極的に提案しない
  • 自分のスキルや経験を活かせる仕事を与えられていない
  • 周りの同僚と比べて、特に目立った成果がない

対策

  • 上司や先輩に積極的に提案し、自分の意見を言う
  • 自分のスキルや経験を活かせるプロジェクトに立候補する
  • 資格取得や研修参加などを通して、自己研鑽に励む

例2:人間関係

  • いつも人の話を聞き役に回るばかりで、自分の意見を言わない
  • 周りのに合わせてばかりで、自分の個性を出すことができない
  • 深い人間関係を築けていない

対策

  • 自分の意見を積極的に言うように心がける
  • 周りに合わせてばかりではなく、自分の個性を出す
  • 共通の趣味を持つ仲間を見つけ、積極的に交流する

例3:生活習慣

  • 毎日同じような生活を送っていて、変化がない
  • 新しいことに挑戦する機会が少ない
  • 自分の時間を持てずに、いつも忙しい

対策

  • 週末や休暇を利用して、旅行や趣味など新しいことに挑戦する
  • 1日の中で、自分の時間を作るように意識する
  • 早寝早起きを心がけ、規則正しい生活を送る

まとめ

人間がコモデイテイ化を避けるためには、自分の強みや価値を認識し、それを活かせるように努力することが重要です。また、常に主体的に行動し、自分の軸を持つことで、周囲から認められる存在となることができます。日々の生活の中で、上記のような点に意識することで、より充実した人生を送ることができるでしょう。

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September 06, 2024

「原爆裁判」については、ほとんど知りませんでした!

今週のNHKドラマ「虎に翼」で扱っていたのが「原爆裁判」(通称)。

広島と長崎に投下された原子力爆弾の被害者が、日本政府に賠償を求めて起こしたもので、原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国賠訴訟。

1955(昭和30)年から8年にわたる裁判で、まさに自分の生まれた前後の歴史である。

しかし・・・

現代の感覚では

「原爆の被害を国家に訴えても無理だよね」

「原爆の違法性を訴えても無駄だよね」

と多くの日本人が思う。

それほど、戦後の歴史教育は「あれは仕方なかったのだ」という諦めを強要してきた。

「アメリカに原爆投下の選択させた当時の日本が悪い」と自虐史観がまかり通ってきたからだ。

 

だから、以下のような判決文を、しっかり伝えていく必要がある。

==================ー

国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう

 

しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会および行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続によってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法及び立法に基づく行政の存在理由がある。
終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである

https://steranet.jp/articles/-/3516

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ドラマではなくドキュメンタリーでの特集を望みます。

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September 02, 2024

先生が子離れしないと、子どもは自立できない。

かつて、春日井市内の小学校の野外学習は2泊3日だったが、コロナによる中断のあと、負担軽減もあって1泊2日の行事になった。

2泊3日一緒に参加したある年のこと。

3人の学級担任が野外学習初体験だったため、従来のスケジュールを参考に日程を組んだ。

何とか無事にスケジュール消化させることで精いっぱいの3日間だった。

この宿泊学習で、どんな体験をさせ、何を学ばせ、何を身につけさるか、という展望がなかった。

「時間を守る」ということなら、教師がいつまでも口出ししていては、子どもが育たない。

 失敗を防ぐために、毎回子どもを急かしていたら、子どもは教師の指示から卒業できない。

 1日目の夜の反省会で「先生が子離れしなくてはだめ。あれこれ親切にしすぎだ」と指摘したのだが、直ることはなかった。

 1学期からずっとそういう指導を繰り返していたのだろう。従順な子たちなので、言われたことはがんばる。でも、そこを突破しないと、言わないとやらない子になってしまう。

 「子供の自治能力を高める」ということなら、子どもだけの相談時間や話し合いの時間が必要だ。

 キャンプファイヤーのスタンツ練習も最後まで担任教師が居合わせて、先頭になって仕切っていた。担任の心配は分かるが、もっと子どもに任せてあげるべきだったと思う。

 2日目にハイキングがあった。ボランティアのスタッフがグループを先導してくれるので、子どもは案内図も持たずガイドリーダーについて歩くだけでよかった。しかし、その結果、グループから外れて迷子になった子が、ただうろうろ歩きまわり、たまたま遭遇した一般の登山客に助けてもらうという事態が起きた。ガイドリーダーについていくだけのハイキングの意識を変えておけば、この子だって何とか自力で解決できたはずなのだ。
 
 宿泊学習は「ひとりだち」のための大きなチャンスだと思う。「通過儀礼」と言ってもいいくらいだ、

 しかし、ひとりだちさせない「教師主導のプログラム」の方が、教師には楽だ。この失敗させない配慮が「大きなお世話」になっている。

 教師にとって楽な指導方法が、子どもの自立のチャンスをスポイルしている。

 無論、「ひとりだち」を名目に、放置することは「自律の指導」ではない。放置は論外である。

 これは宿泊学習に限らない。

 「子どもを高める指導・子どもを鍛える指導」について深く考えさせられた3日間だった。

 今も様々な場園で「教師が面倒を見すぎではないか」と思うことがよくある。そこで教師が面倒を見過ぎると、子供は育たない。

Canp

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パラリンピックの理念

「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ」

パラリンピックの創始者、ルートヴィヒ・グットマン博士が唱えた基本理念。

多くのサイトで、この言葉の意義が語られている。例えばNHKの東京パラオリンピック。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/2020news/special/article_20200821_01.html

 

この言葉は、日常的な我々の心がけとしても語られている。

自分なりの学びは以下の通り。

 

◆ネガテイブに考えるな、ポジテイブに生きろ。

あれが足りない、これも足りない」

「あれも欲しい、これも欲しい」

「あれがあったら、これがあったら」といった無意味な不満や願望を捨て、

「あるもので勝負する」

「持っているものを伸ばす」

「今を大事にする」

 

そんな生き方を貫いていきたいと思わせる言葉だ。

むろん、それは「現状に満足しろ」という意味ではない。 

現状に満足することは「ぬるま湯」につながってしまう。

「残されたものを最大限に活かせ」とあるのだから逆だ。

あくなき自己改革を迫っている厳しい教えとして受け止めたい言葉である。

Para

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ソフトランデイングとハードランデイング

 授業の「詰め」を、厳しい指導という意味で「ハードランデイング」としてとらえたことがある。

 2000年3月にまとめた文章を再構成してみる。

 引用した向山洋一氏の論文の正しい出典が不明(コピーだけ残っていた)であることをお断わりしておく。また、今現在、そのコピーもないので、原文の改行等も不明であることをご了承ください。

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『教育トークライン』「向山の授業理論第一巻4章(8)授業は『詰め』まで」

ぼやっとしている子にあてていく。

 何のことやらのみこめずに分からない子もいる。

 もう一度言ってやるなどということはしない。小さな親切、大きなお世話だ。

 こんな易しい問題を、何度もいってもらえるなどという教室にしてはならない。

 即座に次の問題に入ったので、とまどう子も最初はいる。

 しかし子どもはすぐに教師になれる。

  勉強ができなくても、まじめに聞いている子もいる。

 その子に当てる。胸をはって答えるだろう。

 「正方形」。

  「よくできた。すごい。授業態度も立派だ。それにひきかえ、こんな簡単なことができない人もいる」

 このくらいは、言っておく。

 くやしい思いをする子もいるだろう。それでいい。次からは教師の問いをまじめに聞くようになる。

 子どもはお説教では直らない。このような授業の場面、場面で成長する。

 

◆易しい問題なので、すぐに指名する。

  クラスで何人か、ノートも開かないでもたもたしている子がいる。

  そんな時、「まだノートに書いていない子は、立ちなさい」という。

   私の場合、黒板に問題を書いて、三十秒後には、このように言う。

 これが、二分も三分も待っている教師がいる。小さな親切、大きなお世話だ。

  こんな簡単な問題をのんびり、ぐずぐずやらせてはいけないのだ。

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 「赤鉛筆しかいけません」

 「定規できちんと線を引きなさい」

 「消しゴムは一回だけ」

「日付やページがないとやり直し」

というように、いろんな制約がある。

  ここまで徹底させようとしたら子どもが反発しないかな、というのが甘い私の感想であった。

  私の知っている中学校の陸上部顧問の先生も、厳しいがきちんとした実績を上げられる先生である。

 その先生は「若い先生が俺の厳しいところだけまねをして失敗することが多い」と言われた。

  厳しいやり方を貫くには、指導方針と指導結果に強い自信がないとできない

 結果も出してあげられない教師が厳しい指導のまねだけしても反発を招くだけだ。

 

①明らかに聞いていない生徒に質問して答えられない状況を作る。

②まだできていない子を立たせる。

③できるまでやり直しをさせる。

④ノートの取り方や文房具の使い方まで指定する。

 

 言い直しややり直しにスンナリ応じない子も中にはいるだろう。

 だからといって、何でもソフトランデイングで子どもに迎合しようというつもりはない。

 そういう子をほかっておいて授業を成立させようというのがそもそも問題なのだ。

 それは、かつて有田和正氏が言われた「マラソンコース的授業(教師の学習コースに乗ってくる子どもだけを相手にする授業」や、かつて野口芳宏氏が言われた「上澄みの授業」と同じである。

 

「詰める」「やり直しをさせる」

 

 向山先生のノートチェックの厳しさは、さすがである。

①一字一句間違えないように書き写す。

②ミニ定規をきちんと使う。

③途中の式もきちんと大きく書く。

④ノートはゆったりと「うっとりするほど美しく」 などなど。

 

『教室ツーウエイ』1996年2月号「特集 学級王国の変革を迫るT・T」の向山論文では次のような記述がある。

 ============================

さて、日付、ページ、問題、自分の考えを書かせた所で「ノートチェック」をした。

「日付、ページ記入」の簡単なことでも、口で説明し、言葉で言っただけではできない子がいる。

 (中略)当然「やり直し」をさせる。

  こういう簡単なことを、きちんと徹底することが大切だ。

 

・・・この後、珠玉の言葉が並んでいる。

 

◆教室における、つまり現場における授業とは、こういうことのつみ重ねである。 

  「支援」とか「個性化教育」などというのはずっと高級なことなのだ。

◆「フォーマット記入はきびしく。考え方はゆるやかに」

◆ひどい子はやり直しをさせる。上手な子は全員に紹介する。

 これだけで、ノートはずいぶんとていねいになってくる。

◆教えたことは、完全にできるまでやり直しをさせる。こうした所で妥協してはいけないのである。

 

 『教室ツーウエイ』1996年3月号「特集 本当の個別指導とは何をどうすることか」向山氏巻頭論文「個別指導三つのステージ」にも個別指導の「詰め」ということで、ノートチェックのことが書かれている。

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◆ 必ず、全員のノートを見る。

 なぜ、こうするのか?

  それはクラスの中には「やったふりをしてやらない子」「のんびりかまえて出来ない子」「まちがっていても〇をつける子」がいるからである。

  こうした子を放っておくと、ザルに水を入れるようなものだ。

熱心に教えても教えても成果があがらない。どこか、手ごたえに欠けるところが出てくる。

 くどいようだが、このチェックを一分以上かけてはならない。

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・・・「詰め」というテーマで書かれた先の「教育トークライン」。

長方形の公式を説明した後で、長方形の面積を出す公式を言わせる場面がある。

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◆練習することによって、はじめて「分かり」「使える」ようになる子もいる。

 これを、教科書の公式を読ませ、赤線を引かせるぐらいで教えたつもりになっている教師がいる。

 はっきり言って甘い。

 そんなことぐらいで学力をつけられるのなら教師はいらない。

 ここまで「詰め」るのである。

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 こうしたチェックも「詰め」もなしに、授業スタイルだけ確立させたって子どもの力はつかない。

 「詰め」もないくせに、何度説明しても子どもはよく分かっていないと腹を立てる教師は、自分の力のなさを誇示しているにすぎない。

 

向山先生の指導を単に「厳しい」と断じるのは、一面的である。

 向山先生は、誰でも分かる質問だから聞いていない子にあてたのである。

 全部終わってからの書き直しでは子どもにも酷だから、何度も細分化してノートチェックしている。

 定規で線を引かせたり、赤鉛筆を使わえるために、余分に教師が用意している。

  出来ない子を救うための配慮と、やっているふりをしてサボっている子への指導である。

それをやらないというのなら、そんな授業にどんな価値があるのか。

 

一斉授業よりも個別学習の方が徹底指導という「武田塾」の方針を知って、向山先生の「詰め」の厳しさを思い出しました。

 

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授業技量としての「視線」

 「詰め」=「全員の原則」+「確認の原則」

かつて、模擬授業をみてもらったサークルメンバーから、スクリーンを見ないようにアドバイスを受けた。
当時の自分はいつも算数でデジタル教科書を使っていたが、リモコンマウスの操作を画面を見ながら行っていた。
そして、スクリーンを見ながら説明している。
その癖が出てしまっていたのだ。

サークルメンバーは、スマートボードのタッチの経験から、スクリーンを見ないでクリックして授業を進める技を磨いた。
いちいちスクリーンを見ないと不安で授業できないでは、甘いのだ。。
せめて一瞬のチラ見ができるよう修行したいと思って、授業改善に取り組んできた。

さて、「スクリーンを見ながら授業する」は、「視線を子どもから外すこと」の問題であった。
しかも、PC操作を優先すると、PCの場所に固定しがちで、机間巡視も減ってくる。

○算数の問題を復唱させるとき
○フラッシュの答えを言わせるとき
○百玉そろばんの答えを言わせるとき

手遊びしていたり、さぼっていたりする子も見かけるが、しつこく注意するのもどうかと思い、放置することが多かった。
それは、注意すべき子を確定できているか自信がなかったからでもあった。

①全員にきちんとやらせることが「全員の原則」
②全員がきちんとやっているか見抜くことが「確認の原則」
③やっていない子にやり直しさせたり、やらせるように仕向けるのが「詰め」

「詰め」の甘い授業は、だれるし、子どもも教師をなめてかかる。
さぼってもばれないことを日々学び。
さぼっても注意されないことを日々学ぶ。
だから「放置」は、「誤学習」であり、「崩壊」の第一歩なのだ。

①きちんとやっている子をほめることが大切。
②やっていない子にやり直しをさせることも大切。
③そして、隣同志確認したり、ノートを持って来らせたりする「ごまかせないシステム」の確立も大切。

 

PC操作にばかり意識がいく教師、スクリーンばかり見ている教師の授業では、学習者が次々にこぼれていくのだ。

「いらすとや」の授業風景。

さすがですね。

先生が黒板を背にして、しっかり子供に目線を配っています。

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防災教育の2つの方向

2012年6月に名古屋大学減災連携研究センター長の福和伸夫氏の講演を聞いた。
その時、福和氏の挑発的な言い方に驚いた。もう10年以上経ったから書いてもいいかな。

◆さんずいのつく地名の場所に住んではいけない。
◆「新」のつく地名の場所も、要注意。
◆名古屋で言えば熱田神宮の南に住んではいけない。
◆濃尾平野も西側はいけない

◆防災対策をしていない人が、言い訳ばかりしている。

生死を分ける問題である。
甘い考えの人には、厳しい注意もしなければならない。
そのような福和氏のプロ意識を肌で感じる1時間ではあった。

福和氏は、ライフステージを上げるごとに、住まいの高度を上げるようにとのアドバイスもされた。
これは、危険な地域と分かっているなら、いつまでも住む必要はない。年収がアップしたら住居を安全な地域に移せという、ある意味で冷たい「リスク回避」である。

福和氏のような防災教育の授業を受けた子は。

我が家が危険地域にあるなら、早く転居すべきだ。

という感想を持つだろう。
授業を終えた子どもの感想が「早くこの町を出たいです」でよいのかは疑問であった。

これは、津波の危険のある地域で繰り返し避難訓練を指導してきた片田教授の防災教育とは真逆である。

津波も心配なら、高地の土砂崩れも心配だ。
どの土地にも、それなりの災害リスクがある。
転居しても転居しても心配したらきりがない。
どの土地に住むにしろリスクを受け入れる覚悟がないと、よそへ移りたくなるだけだ。
今住んでいる土地で、リスクを受け入れて、自助・共助する意識を育てることが、学校で行うべき防災教育の基本であるとは思う。

防災教育を行うなら、「受け入れる」タイプの授業をすべきだと思う。

 

とはいえ、福和氏に反論できない。

リスクの高い地域と、リスクの低い地域を選べるなら、リスクの低い地域を選ぶ方が賢明だ。

「リスクの高い地域」に住むならば、それなりに覚悟が必要であることは間違いない。
自分の住む地域のリスクについて、自己責任でしっかり調べておくことが「自助」の第一歩とも言える。

 

※「日本各地のくらし」の授業をするときに、「その土地ごとの苦労」を前面に出して授業を展開すると「あんな土地には住みたくないな」というマイナスのイメージを植え付けることになりかねない。
 どんな地域にも長所短所があり、どこの住民も長所短所を生かしてたくましく生きている、というプラス思考の授業に取り組まねばならない。

「どこどこの土地には住んではいけない」などという資格は誰にもない。それは差別にもつながっていく。

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September 01, 2024

Why so? と So What?

言葉足らずな表現を大人が安易に受け入れてしまうことについては、かつて次の例を用いました。
===============
給食の時に箸を忘れた子は、(本校では)職員室にスプーンを借りに来ます。
先生、箸を忘れました」っていう子には、「だから何ですか?」と聞きます。
「スプーンを貸してください」と言う子には、「なぜですか?」と聞きます。
「何年何組の〇〇です」「箸を忘れました」「スプーンを貸してください」
この3つがそろわないと言葉足らずで相手に伝わらないのです。
これからは「伝え合う力」が求められます。
ご家庭でも「水!」みたいな子どもの言葉足らずの部分を先どりするのではなく、ちゃんと自分の言葉で説明する訓練をしていただきたいです。
=================
これが「Why so?」 と 「So What?」です。

不十分な子どもの言葉を安易に受け入れる大人が、子供の思考力・表現力。語彙力の育成を阻んでいます。
そして、その風潮は、LINEのようなSNSによって加速しました。
もはや「いいね」の一言も発しないスタンプだけで意思表示してしまう時代になりました。
そのことを嘆いているだけでは何も変わりません。
Why so? と So What?
を、きちんと繰り返し、子供に言わせないといけません。
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August 30, 2024

一斉授業より個別指導の方が徹底管理される?

◆武田塾は「授業をしない」個別指導塾として知られています。徹底管理の学習方法が特徴で、生徒一人ひとりに専任の担当者がつき、学習計画の立案から進捗確認まで細かくサポートします¹²。

 具体的には、毎週の宿題ペース管理や確認テスト、個別指導がセットになっており、学習の質と量を確保するために毎日記録をつけ、定期的に学習状況をチェックします³⁴。これにより、生徒が自分の学習の成果を実感しやすくなり、効率的に成績を上げることができます⁴。

 ソース: Copilot との会話、 2024/8/30

(1) 日本初!授業をしない。武田塾|徹底管理の個別指導塾. https://www.takeda.tv/.

(2) 武田塾徹底管理の個別指導塾. http://takeda-smartstudy.com/.

(3) 武田塾の指導方法徹底解説!成績アップの秘密に迫る .... https://www.takeda.tv/sakado/blog/post-276360/.

(4) コース案内 - 武田塾. https://www.takeda.tv/course/.

(5) 【武田塾の主要コース】個別管理特訓SLについて徹底解説‼. https://www.takeda.tv/nagaoka/blog/post-265154/.

 

世の中的には、一斉授業は管理的で、個別授業の方が自由なイメージがある。

甘かったなー。

一斉授業をしない指導は自主性を重んじる「自由の気風」があるのかと思ったら「真逆」だった。

徹底管理が武田塾のアピールポイント。別のサイトでは「もともと自習できる力があるなら武田塾に行く必要はない」とも書いてあった。

自学自習のペースがしっかり管理され、確認テストで成果が出るかどうかが厳しく問われ、点数が低ければ指導を受けることになっている。

本人に、自主的な学習態度が身につくかどうかは別問題。

繰り返しになるが、下記の部分は驚愕だった。

◆毎週の宿題ペース管理や確認テスト、個別指導がセットになっており、学習の質と量を確保するために毎日記録をつけ、定期的に学習状況をチェックします³⁴。これにより、生徒が自分の学習の成果を実感しやすくなり、効率的に成績を上げることができます⁴。

そりゃあそうだ。

成績を上げるために授業料を払っているのだ。授業料は、自習教室を提供するだけの金額ではない。

武田塾は塾の世界における「ライザップ」という書きこみもあった。

確かに、ライザップのように高い費用を払って徹底管理されないと、「幽霊会員」にとどまってしまうのが世の常だ。

一斉授業では自分事として取り組めない人は徹底管理されないと成果は上がりませんよ、というのが「武田塾」の現実的な提案だ。

「勉強は自学自習が最強」と口当たりのいいことを言って、学習者本人に任せているだけでは成果は出ない。

 

武田塾に比べて、学校における「個別最適学習」は、きわめて緩い。

人は弱くて流されやすい。怠けやすいし楽したい。

性善説に立って放置するだけでは、結果はコミットできない。

(「結果をコミットする」とは、結果を出すことにきちんと責任をとるという意味)。

かといって、徹底した個別管理が学校で可能かとは誰も思わない。難しいところだ。

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August 29, 2024

「学習評価」は大丈夫か?

「今求められる学習評価」という市川伸一氏の論稿が出されたのは、20211月。

新しい学習指導要領のもとで、「評価の3観点」は正しく機能しているだろうか。

例えば、従来の「知識・理解」が「知識・技能」に変わったことで、学校現場は何か意識改善が起こっただろうか。

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 まず,「知識・技能」はあまり変わっていないといわれますが,評価の方法に目を向けてもらうと,そうではないことが分かると思います。「知識・技能」とは,まる暗記で対応できるペーパーテストで評価するような,断片的な知識だけではなく,記述式問題や実演などを通して,知識どうしが関連づいた状態,例えば原因や理由などの理解を伴った知識を評

価することが求められています。算数・数学であれば,公式を暗記するだけでなく,その公式がどうやってできてきたかや,他の公式との関係まで理解する。歴史であれば,年号を覚えるだけでなく,その出来事が起きた原因や影響など全体の流れまで理解する。従来よりも,知識の高度化が求められているともいえます。先生にしてみると記述式問題は採点がたいへんです。大学入試でも,ついついおろそかにされてしまいます。だからこそ,定期テストなどの機会に学校できちんと評価することを,「知識・技能」では求めています。

☆東京書籍「教師の窓」2021年1月号、市川真一氏の論稿

 https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/ten_download/2021/2021017255.htm

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 覚えるだけでは「知識・技能」ではない。

 記述問題だから「思考・判断・表現」というわけではない。

 国語にいたっては「知識・技能」に「情報の扱い方」が含まれることになった。

===================

◆話や文章に含まれている情報を取り出して整理したり、その関係を捉えたりすることが、話や文章を正確に理解することにつながり、また、自分のもつ情報を整理して、その関係を分かりやすく明確にすることが、話や文章で適切に表現することにつながるため、このような情報の扱い方に関する「知識及び技能」は国語科において育成すべき重要な資質・能力の一つである。

 指導要領解説(国語編)P23

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・・・国語の市販テストのおもては読み取りだから「思考」、裏は漢字や語句だから「知識・技能」という配点では、指導要領の意図に沿っていないのだ。

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August 28, 2024

模擬授業検討会の覚書

2009年 井上好文先生からの学び

(1)授業開始直後、プリントを出す場面で混乱があった。指示されたプリントを多くの先生が探せなかったのだ。
 見つからない人がいるという前提があれば、予備のプリントを持って黙って渡すという手も打てる。
(2)プリントが出せた人に「出せました」と言わせるなら、「見つからない人は手を挙げなさい」というフォローも想定できる(叱責ではなく、フォロー)。
(3)教室で「教科書P60」と指示するなら「忘れた人は手を挙げなさい」も想定できる(これも叱責ではなく、フォロー)。
(4)「教科書  P60  2番」
  この一文にわずかな間を入れるのは、本来「教科書を出しーP60を開きー2番に注目する」の3つの行動を含んでいるからだ。
 「一時に一事」の指示の原則を知り、なおかつ、この場合は3つの指示内容を含んでいると分かっていれば、わずかな間を置いて3分割して言える。
(5)「教科書  P60  2番」
  SHOW-TELL が原則だから、教科書やプリントを見せながら話す。
  見せながら話すから「視覚優位」の子にも対応できる。
(6)SHOWしてからTELLをする。このコンマ数秒の時間差が大事である。
(7)全員起立させての本読みなどは、全体の空気がよどんでいるなら行うのもいい。
しかし、そうでないならやる必要もない。なぜやるのかの意味が大事。
(8)「できた人は○をつけておきなさい」という指示を出すなら、「できていない人はどうするんですか?」
 「確認の原則」「全員の原則」で言えば、「できた人は○」と指示すると同時に「できていない人は写します」を想定する必要がある。
 実際は確認を怠って、できていない子への対応を見落としてしまうが、「ほぼ大丈夫」に当てはまらない数人の子から授業は崩れる。
 細心の配慮をするというのは、さまざまな可能性を想定して手を打っておくことだ。
 
(9)「できました」は、高学年や中学生は言わない。
 言わない子が多いと分かっているなら最初から言わせなければいい。
 言わせるなら全員にきちんと言わせないと「教師の指示は守っても守らなくてもいい」と教えることになってしまう。
 TOSSでよく見かける行為だからと形式的に取り入れても意味がない。
 実際の授業はTOSSの模擬授業のようにスムーズには進まない。
 空虚な褒め言葉・なんとなくの机間巡視は、授業行為の意味が意識されていない証拠。
 すべての授業行為に「意味」を持たせる必要がある。
(8)「早い」「よくできました」「賢いね」などの褒め言葉は時間調整である。
 「できていない子を叱るのではなく、できている子をほめる」
 「できている子を褒めるのは、できていない子がやり終えるまでの時間調整」。
(9)教師が教材文を覚えるのは自慢するためではない。
 教材文を覚えれば、それだけ子どもに目を配ることができるから。
 大事なのは子どもに目を配ること。
 黒板に書く・教科書を読む・1人の子の指導をする、といった場面で、いかに他の子の様子に目を配れるかが、教師の力量。
 せっかく教材文を覚えても、子どもに目を配っていないなら何の意味もない。
(10)舘野校長先生の学校の公開研究で、椿原先生が授業されたときのことを思い出した。
 子どものノートを次々に見ながらの「よし!」「そうか!」という言葉が印象的だった。
 「よし!」の「し」、「そうか(よくがんばった!)」の「か」の部分がささやくような無声音だったからだ。
 ささやかれる方が、集中する。
 無声音を有効に使える方が、対応力があるのだと勝手に思っている。
(11)これまで、授業開始の15秒のポイントは「インパクト」だと思っていた。
 しかし全く逆、基本は「低刺激」。
(12)だから、いくら高学年や中学生相手の授業でも、丁寧な授業を組み立てなければいけない。それが「易から難」の展開だ。
(13)授業開始前から授業は始まっている。
 大事なポイントは、チャイムが鳴ったと同時に授業を始めるための「逆算」の思考。
 担任ならば、前の授業の終了時に次の時間の用意を出させてから放課にする。
(14)専科の場合は早めに教室に行って準備を促す。
 いつも準備の遅い子がいる。
 いると分かっているのなら、手を打てばいい。
 黒板を写すのが難しい子のノートには放課中にあらかじめ書き写せるように伝えておくという方法もある。
 授業開始前に「所持物」の確認をしておくから、全員参加の授業が可能になる。
 授業開始前から「確認の原則」も「個別評定の原則」も始まっている。
 そして「褒める」行為=「激励の原則」も始まっている。

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ICT活用で「他者参照」が容易になった

「今日の授業の感想を書きなさい」「振り返りを書きなさい」で終わる教室が多い。
 個々の感想を発表させる場面が設定されていたら
「そうか、そんな考え方もあるんだ」
「自分の考えより、友達の考え方の方がいいな」
など、人によって異なる感じ方や考え方に触れることで、自分をさらに高めることができる。
 これが「子ども同士の相互作用」
 目新しい主張ではない。「討論」は、子ども同士の発言が互いの思考を深め高める作用を持つ典型例だ。
「話し合い活動」は、このような相互作用の意義があるので、各教科においても「友達の意見から学ぶ」場面が設定されている。
 友達の意見から学ぶ機会が設定されない授業なら、個別学習でいいことになる。
 学校が集団で授業を受けていることの意義は、この互いの相互作用(対話的な学び)にあるといっても過言ではない。
 だから、いくら価値のある授業であっても、感想や振り返りを交流させることもなく終えてしまうとしたら、それはもったいないと思う。
 向山学級の子どもたちが、教師からの学び・教材からの学びだけでなく、相互交流からも多く学びとって成長していたことは間違いない。
 むろん「相互作用」は、たった1つの正解を志向する授業では成立しないから、まずは大前提として、多様な思考を促す授業の確立が必要である。
 それに、いくら「話し合い」の場面を設定しても
・自分の意見を言いたいだけ・言いっぱなし
・「人は人、自分は自分」とばかりに、意見が多様に分かれても自分の意見と照合しない
では意味がない。
 また
「○○さんの意見を聞いて、思いついたことがあります。それは~」
「確かに○○さんの意見もいいと思うんだけど自分は~」
「○○さんの意見を聞いて、意見を変えます」
「○○さんと△△さんの意見を聞いて、合体すればいいと思いました」
のように、きちんと前の人の意見を受けた言い方をさせる訓練が必要になる。
 要するに「聞く・話す」の指導が欠かせないのだ。
 これらの指導は全教科で取り組まないと成果は出ない。
 かつての自分の図工の授業の鑑賞活動は、各自がプリント記入して回収して終わりだった。それでは相互批評の場がないから×である。
 国語のまとめの時間も、作文を書いて終わりが多かったが、本当は、各自がどんな感想を書いたかを交流する場がないと×である。
 指導書にも教育課程にもそのような感想発表の場が設定してあるが、どうしても時間切れになってしまう。
 中学校勤務の時、国語の授業も道徳の授業も、各自の感想記入で終わることが多かった。
 いい意見を、あとでまとめて印刷配布することはあったが、発表の時間を設けることが難しかった。
 発表する側も聞き取れる声で伝えることが難しいし、そもそも自分の本音の詰まった感想を発表を嫌がる子が多かった。要するに「聞く・話す」の指導が成り立っていないから、発表による相互作用の効果など期待のしようもなかったのだ。
 でも、本当は、それでは、相互交流・学び合いは得られない。大きな損失であった。
 だからこそ・・・
 現在、ICTを使って、自他の意見を瞬時に交流できることの意義は大きい。
 何を書いて分からないか戸惑っている子は参考にすればいい。
 自分の意見を書いて時間がある子は他の子の意見を聞いて書き足せばいい。
 (先生の許可があるなら)、時間切れでノートを回収ではなく、納得するまで書けばいい。
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August 27, 2024

「物のかぞえかた」の覚書

(1)数助詞・助数詞

例えば、日本では人の数は「5人」で、「5本」とは言いません。

ところが英語では人でも鉛筆でもfiveです。

そしてfive pencils (5の鉛筆)とは言っても「5本の鉛筆」と、わざわざ「本」を付けません。

数助詞は、日中韓越及び東南アジアでがよく発達しており、分類毎に数え方を変える方式はこの地域の他に南北アメリカ大陸の西側の原住民に共通である。この事から数助詞の発達は環太平洋地域の特徴といえます。

日本語ではこの種類の語が非常に発達しており約500種類もの数が存在するが、今日では意識される事が少なくなりつつあり、「個」、「匹」(動物)、「本」(細長いもの)、「枚」(平たいもの)等の多数の語に充てられる助数詞を使う事が多くなっています。

日本人なら自然に区別できる数助詞ですが、海外留学生には理解が難しく、留学生に対するある日本語指導の業者は次のようにPRしています。

「日本語の基礎を教えます。まずは、あいさつ、数の数え方、日常会話などお教えします!」

  この数助詞は、日常における言語環境の整備が大切で、言葉を大切に育っていないと、数助詞の区別ができないまま放置されてしまいます。

 たとえば、次のような調査結果があります。

◆小学生の国語力が不足していると感じる教師が約9割に上ることが「岩波書店」(東京都千代田区)が教師100人を対象に行った調査で分かった。同社は「現場の先生が危機感を持っている表れではないか」としている。具体例を挙げてもらったところ、4年生が「八つ」を「はちつ」と誤読したほか、数え方を知らずに、何でも「個」とする児童がいたという。 

 

・・・私の感覚では、年齢で「二個上、一個下」と「個」は使わない。でも「二個上、一個下」はスタンダードだ。

 

 NHKでは、かつて大人向けの教育テレビで4回にわたり「数え方」を特集したことがある。

「知って納得! 数え方レッスン~タンスからロボット犬まで~」

◆電子メールは「1通」それとも「1件」?

 携帯電話は「1台」から「1個」へ

 年齢や学年が「1個上」はおかしい?

 などの話題提示があり、「数え方は日本語の貴重な財産」と記しています。

 ロボット犬AIBOの表記が推移したことが紹介されています。

1999年624日付けの朝日新聞には、AIBOを「12台」と表記していたが、一般家庭にAIBOが浸透しはじめると、「12頭」(1999825日付)。やがて、ペットと同じように「12匹」と表記(1999928日付)されるようになり、以後「○匹」と数えるようになったということです。ちなみにソニーは「3000体を完売」と表記。電気量販店でのAIBOの数え方は「12点」だったそうです。現在、ASIMOの数え方は「12体」。

 講師の飯田朝子氏の著作は、『数え方でみがく日本語』「数え方もひとしお」「数え方の辞典」「数え方と単位の本」など多数あります。

 お寿司の数え方は1貫・2貫、一巻き・二巻き。でも子どもたちの感覚は一個・二個、あるいは一皿・二皿でしょう。身近な例で考えると、助数詞の問題は、日本語の奥深さを学び、言語感覚を磨くのにとてもいい機会になるでしょう。

 

 ものを数える場合の注意点は「対象ごとの数助詞の変化」以外に3つあります。

1つは、数の読み方の変化。イチバン・イッポン・ヒトツ

2つは、数助詞の読み方の変化。イッポン・ニホン・サンボン

・・・この読み方で、かつては「十本=ジッポン」だったが、今は「ジュッポン」もOKとなった。

 

(2)算数の数・・3者関係の体得

 数(かず)を教える場合・・「いち」「に」「さん」「し」と数の言葉を暗記させるのではなくて、「実物」と対応させる「タイル」とを同時に、「目に見える」ように教えると説明されています。

「1」とは、ミカンでもリンゴでも、ビスケットでも、「ひとつ」の量しかない場合の事実を指す、というようにです。

「ひとつ」(1)という「量」を分からせることが大切である、といわれています。この「1個のタイル」に対応させて「いち」(1)という数称が「話し言葉」として話されます。

「いち」「に」「さん」といった数詞があらわしている最も重要なものは「大きさ」(集合・量)である。「順番」ではない。

「いち」(1)というのは「一つの大きさ」をあらわしている。

「に」(2)というのは、「2の大きさ」のことをさしている。

「一番目」「二番目」という意味は第二義的である。英語では「two」(2)と「second」(2番目)とでは明らかに区別されているが、日本では、量(集合)も順序も「いち」「に」「さん」という言葉でいいあらわす。

 日本では、「順序」を教えることから指導している。

 左の「タイル」から順に「いち」「に」と唱えると「二つ目のタイル」だけが「2」だと思い込む間違いが生じる。

 実際は、「一個のタイル」を二個集めた集合が「2」の「大きさ」である。

 日本の子どもは「二つ目のタイル」を取り出して、これは「1」であるにもかかわらず「に」(2)であるという誤った「認識」を記憶している傾向がある。   

 『幼児の算数』(国土社・刊)(遠山啓・栗原九十郎)より

 

 「一対一の対応」とは、「ミカンの1」も「リンゴの1」も「クッキーの1」も、形や姿、属性もそれぞれ異なるけれども、抽象化した量(りょう)としては「どれも同じ1である」という「意味」の理解のことです。

 遠山啓(ひらく)は、子どもに「数」(かず)を教えるにあたっては「数」(かず)の「意味」を正しく分からせることが重要である、と説明しています。「数」(かず)の意味とは、「実物」のもつ「属性」や「形象性」などを抽象化して捨象(しゃしょう)した実体のことです。それが「量」(りょう)です。「数」(かず)の意味とは「量」(りょう)の集合のことです。

 この遠山啓(ひらく)の「数(かず)の教え方」(水道方式)の説明で重要なところは、「数の唱え主義」「暗算中心の教え方」と「水道方式」とが、ハッキリ区別されている点です。

 「数の唱え主義」とは、「1,2,3,4…」というように、数称だけを暗記することをいいます。

 この「数称の暗記主義」は数(かず)をただ「順序」としてたどるので、「量」(りょう)(集合)の把握ができません。リンゴを「1,2,3,4…」と一つずつ指で抑えてたどります。「リンゴの数(かず)はいくつ?」と問うと、「4番目のリンゴ」を手に取って、「リンゴの数(かず)は4(よん)です」と、「1個のリンゴ」を示す、という誤りを起こします。

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算数で脳トレ 1から10までの合計

1から10の和が55であることは、分かっている。

その解き方がいくつ思い浮かぶか、チャレンジしてみた。

解法①・・・「0~10」と「10~0」を足してから、2で割る。

0+10=10
1+9=10
2+8=10
3+7=10
4+6=10
5+5=10
6+4=10
7+3=10
8+2=10
9+1=10
10+0=10

(0~10)と(0~10)を足すと10×11=110になる。
(0~10)だけなら、その半分だから110÷2=55

→これをNまでの数とすると、【N×(N+1)】÷2


解法②

0+10=10

1 +9=10

2 +8=10

3 +7=10

4 +6=10

5 +5=10

6 +4=10

7 +3=10

8 +2=10

9 +1=10

10+0=10
=====

(1~9)と(9~1)を足すと10×9=90になる。
0+10と10+0があるからプラス20で、110。
(1~10)だけなら、その半分だから110÷2=55。

 

解法③ 10でなく、11の和の合計で考える。

1+10=11
2+9=11
3+8=11
4+7=11
5+6=11
6+5=11
7+4=11
8+3=11
9+2=11
10+1=11

(1から10)と(10から1)を足すと11×10=110になる。
(1から10)は、その半分だから110÷2=55

→これをNまでの数とすると
【(N+1)×N】÷2

 

解法④ 10の合計になるよう半分で折り返す

0+10=10
1+  9=10
2+  8=10
3+  7=10
4+  6=10
5

 10×5+5

 

解法⑤ 11の合計になるよう半分で折り返す

  1+2+3+4+5+
+10+9+8+7+6

11×5=55

→これをNまでの数で表せるか? ちょっと分かりませんでした。

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