June 05, 2020

「ワクワク感」のある授業

(1)「ワクワク感」

「らーめん才遊記」というテレビドラマがあって、時々観ている。
主人公の女の子は、味覚の才能があるが、ラーメンの味をうまく表現できず「ワクワクするかどうか」を、おいしいラーメンの判断基準にしている。

ウイキにある原作コミックの解説では、主人公の女の子を次のように記している。

※味覚も鋭いが、食したラーメンを「トボトボ」「ワクワク」と表現するなど言語化、客観化できていないことが多い。
芹沢からも「ワクワクとはなんだ?」という宿題を出され、なでしこラーメン選手権予選中に「料理はバランスだが、ラーメンはアンバランス」とその「ワクワク」の正体を自覚することになる


6月1日放送のドラマでも「わくわく」を言語化できない未熟さを指摘されていた。

「すごくおいしいです。でも何だかワクワクしないんですよね」という彼女の批評は、印象批評にすぎない。
言われた方は反論も反省もしようがない。
自分の思いや自分の感覚を「言語化」する努力は必要だし、「言語化」はスキルでもあるから。ちゃんと育てないといけない。。


2)「WOW Factor」

昨年10月のエネルギーシンポジウム。東京大学の飯本先生の特別講座の中に「企画実施の各々の立場でWOW Factor 導入の工夫を」とあった。
WOW つまり感動や驚きの要素を持ち込め、というのは、

◆理科は感動だ
◆面白くなければ授業じゃない

 に通じるもので、とりわけエネルギーシンポの授業や小森先生の授業にはモノがあって、仕掛けがあって、感動があるので、まさにWOW factor導入そのものだと思った。
授業の中に、いくつWOWが入るかは、「どれだけ巻き込み感をつくれたか」の表れである。

◆WOW Factor 導入の工夫を

 ということを、私自身いつも考えてきた。
「ワクワク感」と「WOW Factor」は、まずまず近いと理解できる。


(3)「楽しい」

向山先生は、学級経営で最も大切なことをたった1つあげるとしたら「楽しいことをすること」だと話されたというメモ書きがある。


 「私の精神としては95パーセントと5パーセントです。
  管理することが5パーセントで、楽しいことが95パーセントだと思います。」

◆何かをやっていて、うれしいとドーパミンが出る。
◆快感を生み出す行動が次第にクセになり、繰り返していくうちにその行動が上達していく。

楽しいことを続けていればどんどん上達する。これを「強化学習」と言う。

「ワクワク感」と「WOW Factor」と「楽しい」は、これもまずまず近いと理解できる。


(4)「熱中する」

畿央大学大学院の島恒夫教授は、中教審道徳専門部会の委員を務め、学習指導要領解説の作成協力者もされている方だ。
その島氏は「子どもにとっても教師にとっても楽しい道徳科とは?」について、講演会の中で次のように指摘していた。

◆子どもにとって、「納得」と「発見」のある授業。
◆子どもの頭がフル回転する授業
◆子ども1人1人の思いが自由に出て、認め合いのある授業
◆45分・50分があっという間に感じる授業
◆授業が終わってからも、教室のあちらこちらで、まだ話が続いたり、余韻に浸っている授業。
◆「先生、またしようよ」という声の出る授業。

チクセント・ミハイの「ゾーン」のようなイメージだろうか。
「熱中体験」が、島氏の説く「楽しい授業」なのだと受け止めた。


(5)「好き」

◆モチベーションを上げる鍵を握っているのが、感情脳にある1.5センチの扁桃核というところなんです。
この扁桃核をコントロールすることが重要で、ここが好き、嬉しいという快の感情を抱くと、脳幹からプラスのホルモンが分泌される。
反対に、嫌いとじゃ辛いとか不快な感情になれば、マイナスのホルモンが分泌されてしまう。それは嘘でもいいんです。
絶対にうまくいく、絶対によくなるって嘘でも思い込むと、肯定的な感情が生まれるんです。

 
「致知」2019年4月号  P25「天運を呼ぶ行き方」西田文郎の言葉より


(6)「笑顔」になる

笑顔を作ると「セレトニン、ドーパミン、エンドルフィンという3つの脳内物質が出ます。
これらの物質が出ると、ストレスホルモンが下がり、副交感神経が優位になります。つまり、笑顔には緊張を緩和して、ストレスを解消する作用があるのです。

 「笑顔効果 ~笑顔を作ると10秒でハッピーになれる~」https://hiromi.fun/?p=2672


・・・(1)から(6)が同義語だとは言わないが、いずれも「つまらない授業」の対極にある語群だと思う。

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June 03, 2020

学力を育てる「家庭環境」

 『学力を育てる』(岩波新書)の中で、家庭環境の重要さを説いた箇所がある。
 フランスの社会学者ブルデユーの「文化資本論」によると、ということで、次にように書いてある。

◆「大学に行くのが当然」とする家庭の雰囲気と、「大学になぜ行くのか」とする家庭の雰囲気の違いが、学力や進路選択に決定的な違いをもらたしている。決して彼らの知的能力が異なっているからではない。
 (P108・109を私がまとめた)


 ページは一気に飛ぶが、志水氏は次のように述べる。

◆ポイントは「宿題をしないと気持ちが悪い」、あるいは「本を読みたくて仕方がない」といった子どもを育てるということである。繰り返しになるが、それを成し遂げるためには、大げさに言うなら、家庭のあり方・親の生き方自体が問われることになるのである。(P119)

◆結論的に言うなら、適切な家庭環境のもとで、子どもたちの確かな学習習慣が形成され、豊富な学習意欲が引きだされ、そして、着実な学力の基礎が築かれる。(P121)

・・・教育困難な地域の子どもは、家庭環境が悪いのだからあきらめろと言っているのではない。
 むしろ逆だ。
 子どもの将来は遺伝ではなく、環境で決まるのだから、保護者はできる範囲で教育環境を整えてあげようということなのだ。
 「どうせ、うちは〇〇だから・・」と保護者があきらめてはいけない。それが「親の生き方が問われている」の意味なのだと思う。

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June 01, 2020

オンラインの時代にますます必要な「絶縁能力」


かつて野口芳宏先生が「絶縁能力」が大事だと言われ納得した事がある。
1つの仕事を成し遂げるなら他を捨てる決断力が必要だ。
私自身、テレビっ子で昔からダラダラとテレビを見て過ごしてきたタイプだから、誘惑に打ち克つのが難しい事はよく分かる。
今の自分はyou tubeにはそれほどハマらないが、ネットを開いて、ニュースの見出しを見かけると、ついついクリックして深掘りしてしまう。だから、ゲームや you tubeなどを何時間でも見ていられる子の気持ちはよく分かる。子供たちが何時間も熱中するようにコンテンツが作り込んであるのだ。

さて、勤務市の場合、児童生徒に配信される授業動画が、you tube の形でアップされている。
学習動画を見終わるとズラーっと別の動画が紹介される。学習動画とは無縁の過去の閲覧動画を含め色々並んでいる。

「うちの子はyou tubeばっかり見て困っている」という保護者にとっては、学校公認でyou tubeに繋げているようで悶々とした思いだろう。
授業動画を見るためという口実で機器やネット環境を入手できた子どもにとってはラッキーだ。学校の授業動画をさっさと見て、後はじっくり好きな動画を見ているかもしれない。

でも、もはや、そんなネットの誘惑は誰にも止められない(つまり「規制」には意味がない)。
確かに「休みの日には10時間ゲームやっていました」と平気で言えるような世の中になってきた。
​しかし、だからこそ、子どもは幾千とあるエンタメの動画やゲームと共存し、時には「絶縁能力」を発揮して、自分の進む道に時間を注いでいかねばならない。
「今、本当にそれをしていていいのか」を常に自分に問いかける姿勢を習慣化させていかねばならない。
時間管理の習慣化は100%教師が請け負うべきものではないが、100%家庭の問題と放置するわけにもいかない。

なお、ここまでは一般論だ。
「依存症」となれば、もう「本人の自覚次第」というような呑気なことは言っていられない。
「休みの日には10時間ゲームやっていました」なんて何の自慢にもならないよ、事実であったとしても口に出すことではないよ、と向かい合う必要があると思う。場合によっては「治療」も必要なのだ。



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May 31, 2020

「言葉」が足りないのは「愛と感謝」が足りない証拠

ある古い文庫に、『冷えた天丼』と題した短いエッセイがあった。

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夜遅く夫が帰宅すると食卓に「冷えた天丼」が置いてあった。
夫は、疲れて帰って来たんだから、せめて温めてほしいと思っている。
でも、そんなことを口にするのはプライドに関わるから、口にしない。
口にはしないが、不満をくすぶらせている。

この男の愚痴に付き合った筆者が「冷えた天丼」が嫌なら「『温めて』と言えばいいのに」というと、
彼は、次のように怒る。

「言わずとも分かれ。言って分かられたってそれがなんなんだ、ってことなんだよ」

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・・・『男がいてもいなくても』久田恵(講談社)という1996年初版の文庫だ。

「言わずとも分かれ」という気持ちはすごくよく分かる。言われる前に自分で気づいて行動してほしいと思う。
この「やってほしいなら、ちゃんと言えばいいじゃん」と「言わずとも分かれ」の対立は、実はとても根が深い。

かつて、学年集会でも、集合してから静かになるまで教師は黙っているようにした。
「『〇〇しなさい』と注意されなくてもできるはずだから」というように話をした。
ただし、このやり方はハードルが高いので、意図が伝わらないと、いつまでも静かにならない。
結局、最後に大声で怒鳴るという失態に陥ることがある。
そもそも「注意したくないから注意しない」では、指導の放棄にすぎない。

上記のエッセイの場合は、男と女のすれ違いだが、次のような対立に置き換えると、上司と部下のすれ違いになる。

◆「分からないなら聞けばいいじゃん と「困っているんだから察して下さいよ」
◆「やる前に一言相談してよ」と「やられて困るなら事前に一言いっておいて下さいよ」
◆「そんなの常識だろ」と
「常識と言われたって困ります。どこにも書いてないですよね」

上司と部下が、互いに一歩を踏み込まないと、ぽっかり穴が開いて大惨事を引き起こすことになる。

「忖度」や「あうんの呼吸」に依存すると、痛い目に合う。

久田氏のエッセイには、次のような場面も出てくる。
 会社から書類を持ち帰って夜遅くまで仕事をしていた夫が、受験生の息子の夜食を食べてしまった。
息子が怒り、妻が夫に「謝れ」と言ったという週刊誌の記事を読んで、久田氏は次のように書く。
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夫は家族のためにつらい思いで働いているのにと思い、
妻は家族のために自分のやりたいいろんなことを我慢してやってあげているのにと思い、
息子は親のために受験勉強をしてやっているのだぞと思い、
お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていったのだろう。(P23)

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・・・「言わずともわかれ」のトラブルも、「お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていった」とリンクする。

「言葉が足りない」は、単に言葉の有無の問題ではなく、要するに「感謝や愛の有無」の問題だ。
部下に対して「困っていないかな・分からないことはないかな・初めてだけど大丈夫かな」という配慮があれば「分からないことがあったら聞けばいい・聞かない方が悪い」という横柄な態度にはならないはずなのだ。

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アボガド・・・見事な比喩には「知性」が表れる

「サンデー毎日」2020・5・3号『対談 阿木燿子の艶もたけなわ』

ギタリストのMIYAVI氏が日本の音楽文化を世界に伝えるためのポイントを「アボガボ」「カリフォルニアロール」に喩えていた。

◆一度お寿司を食べた人に「もう一度食べたい」と思ってもらうには、どんな工夫が必要か、ですよね。相手に理解してもらいたいなら、こちらも理解してもらう努力をしなければいけない。で、いろいろ考えた結果、気付いたんですが、僕に足りなかったのは、カリフォルニアロールで言えば、アボガド。そのアボガドを探しにアメリカにいったんです。
 
・・・このMIYAVI氏の真意を阿木燿子が補足している。

◆お寿司は日本の誇るべき食文化ですが、そのまま世界に受け入れられにくい。生魚を食べ慣れない外国人には、多少のアレンジが必要だと。そこでカリフォルニアロールが出てきた。それを音楽に当てはめるところが、MI YA VIさんの凄いところで。
◆アボガドって、マグロに近い食感がありつつ、生臭くない。だから、わさびやお醤油に合う。アボガドを入れることで、お寿司がインターナショナルになった。ポイントはそこですね。

・・・MIYAVI氏は、国連難民高等弁護官事務所の親善大使をしている。言葉では通じ合わない世界中の人々とも、音楽なら一つになれるという深い思いがある。
 MIYAVI氏は「哲学」という言葉を用いて、自分の思いを語っている。

◆一番大事なのは「哲学、道徳観だと思うんです。知識や教養より先に、他人と共存する、共存するために必要なことを、まず学べる環境を与えてあげたい。
◆音楽って別に無くても生きていけるじゃないですか。だけど、音楽にしかできない役割があると信じています。音に乗せてメッセージを届ける。これも教育につながっていきます。教育を通じて学んでいく道徳観や共有の意識は、水や食料などのライフラインと一緒で、命の根源に関わっていますから。

・・・「アボガド」「カリフォルニアロール」という比喩表現ができる背景にはMIYAVI氏の知性と哲学、ポリシーがあることがよく分かる。教育に対する彼の強い信念が以下の部分によく出ている。

◆僕達はなぜ、言葉で話し合うことができるのか、そもそもお互いにどこが違うのか、肌の色、文化、言語、なぜ違うのか、なぜわかり合う必要があるのか、そういうことについて十分に学べる環境を作ってあげたいです。これは難民キャンプだけの問題ではなく、日本も含め、先進国の問題でもあるんです、押し並べて教育の水準を上げなきゃ駄目だと強く感じています。それは学問ではなく、もっと人間の本質に近いような部分というか。

・・・冒頭の引用箇所の前に次の言葉がある。

◆挫折して折れかかった僕の心を救ってくれたギターに、僕は恩返しをする義務もある。

・・・だから、「インポート」された洋楽文化に日本的な価値を加えて「エクスポート」していきたいと言う。

世界的なギタリストMIYAVIさんの熱い思い・深い人生哲学に心を打たれました。

相手に理解してもらいたいなら、こちらも理解してもらう努力をしなければいけない。

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国語読解法〜「物語の型」「一文の要約」〜

久しぶりに、石原千秋著の「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書)を読んだ。1999年出版だ。
「国語(特に物語)」の授業ってギリギリ何を教えればいいのかを考えていて、書棚から引っ張り出した一冊だ。

P178に、では「国語」の勉強を始めよう とあり、次のページから第二部「入試国語を考える」の第一章「『国語』の基本型」が始まる。
久しぶりに目を通して、冒頭の数行だけでしびれてしまった。

まず「物語の型」をつかめ
フランスの批評家ロラン・バルトは、「物語は一つの文である。」という意味のことを言っている。これが、これから僕が「国語」について解説する立場である。
「物語は一つの文である。」ということは、物語が一文で要約できるということである(これを物語文と呼んでおこう)。たとえば、『走れメロス』(太宰治)なら「メロスが約束を守る物語」とか『ごん狐』(新美南吉)なら「兵十とゴンが理解し合う物語」とかいう風に要約できる。これが物語文である。もちろん、もっと抽象的に「人と人とが信頼を回復する物語」(走れメロス)とか、「人間と動物が心を通わす物語」(ごん狐)でもいい。ここで気づいてほしいのは、こんな風に物語文を抽象的にすればするほど物語どうしが互いに似てくるということだ。この共通点が「物語の型」なのである。 P179


・・・「桃太郎」の要約が重要な意味を持つことを、この箇所で知った時の衝撃が蘇ってくる。

それはさておいて、「これはどんなお話ですか」を端的に答えることが、第一段階だという。これをやらずに次へ行くなという意味だ。

一文で言うとどんなお話かをノートに書かせることを6年間(9年間)続けたら、ずいぶん手慣れてくるだろう。
石原氏は、次のように補足している。

基本型は二つある。一つは「〜が、〜をする物語」という型。これは主人公の行動をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが恋をする物語」といったものになる。もう一つは、「〜が、〜になる物語」という型。これは主人公の変化をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが男になる物語」といったものになる。両方とも「たっちゃん」が成長するわけだが、そのことはもう分かっているわけだから、ここでは「どうやって成長したのか」「何が成長なのか」というレベルで一文にまとめるといい。

・・・be動詞「〜になる」でまとめるパターンと、一般動詞「〜をする」でまとめるパターンがあるということだ。

一文で書けない子に「このお話の場合は、どっちが書きやすいかな」と2つのパターンを示したり、書けた子に「あなたは、どちらのパターンで書きましたか」を考えさせたりすることで、物語文をまとめる作業に慣れさせていく。
 キーワードをきっちり指定しなければ「桃太郎」の要約のようにドンピシャにはならないから、個々で書いた要約文(物語文)を互いに見せ合って、情報交換すると、より完成度の高い一文になるだろう。

 作品を読み終えたら「どんなお話か」を一文でまとめさせる

・・・何回も繰り返せば、自動化できる。

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May 13, 2020

ウイルスより怖いのは「人の心」

◆4月28日 市教委の指示で学校HPに以下の動画を紹介した。

日本赤十字社作成『ウイルスの次にやってくるもの

https://youtu.be/rbNuikVDrN4

動画を公開した日本赤十字社は

「この感染症の問題の一つは、嫌悪や差別が『人』に向かっていくことだ。本当に戦わなくてはいけない相手は『ウイルス』であり、『恐怖』なので、団結し、励ましあうことにより、『恐怖』を乗り越えられると伝えたい」

としている。
「人が傷つけ合うのはウイルスよりも恐ろしい」と自分もそう思う。
 

◆4月1日に神戸市外国語大学学長のメーセージが配信された。

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(前略)病気という目に見えない脅威は、人々を不安にし、その不安に何らかの説明を求めようとします。この不幸の原因は自らにあるとして、病を神から下された懲罰と考えることもありました。その反対に、自分は何も悪くないのに、病気が迫ってくることは理不尽であると考え、他人に原因を求めることもありました。そのため、パニックに陥った人々が、悪魔や魔女といった邪悪な存在によって脅威が引き起こされているのだと思い込み、何の罪もない弱者を魔女とみなして処刑する、といった不幸な出来事もありました。また、社会で疎外されている人々--宗教的マイノリティや抑圧されている少数民族など--が病気の原因をもたらしたのだ、といった「陰謀説」にとらわれて、迫害するといった例も数多くあります。

 遠い歴史の話ばかりではありません。身近な例では、2009年に新型インフルエンザの流行があった際に、流行が始まった神戸・大阪の高校生、というだけで偏見の目を向けられるということがありました。不安のあまり、理性的な対応ができなくなってしまうのです。
http://www.kobe-cufs.ac.jp/news/2020/20547.html

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・・・同じ大学だというだけで京都産業大学の生徒たちが非難を浴び、差別を受けたことなどが話題になっていた頃だ。

「魔女狩り」という言葉がずっと気になっていた。
人は誰しも「魔女狩り」の素地を持っているのかもしれないからだ。
感染していながら歩き回った、感染地域から慌てて帰国した、感染地域へ旅行に行ったという話を聞くたびに、自分も腹立たしいと思った。自分だって同じような怒りの感情がある。

 GW中に「自粛警察」という言葉を知った。通報したり、脅迫したり、ネットで拡散したりと、自分たちは正しいことをしていると信じて「私刑」を行う人たちだ。「やりすぎだ」と思うが表立ってはやらないが、自分も腹立たしいと思うことがあるから、同罪だ。
 そもそもマスコミは、散々「自粛警察」みたいなことを報道しておきながら、一般人の「やりすぎ」をとがめる。マッチポンプだ。

 正しいを貫いて鬼になってしまった神を「阿修羅」と言う。
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怠けている人間、遅刻した人、それぞれに事情があり、理由があるはずです。
その事情・理由を斟酌(しんしゃく)することなく正しいことを言う人は、じつは、ー正義という名の魔類ーになっているのです。
仏教では、その正義という名の魔類をー阿修羅ーと呼びます。
阿修羅というのは、本来は正義の神であったのですが、自分だけが正義だと思って、他人に対する思いやりがないために、神界から追放されて魔類になった存在です。

2006年中日新聞7月18日付の朝刊に「ひろさちやのほどほど人生論」 より
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 若い先生は知らないだろう。永井豪の漫画「デビルマン」。
これも、悪魔と化した人間が誰か分からず「人間が人間を殺し合う」という壮絶なシーンが出てくる。
「悪魔狩り」と「人間狩り」がイコールになってしまうという含蓄のある作品だ。
愛蔵版というのを所有していて、今日もまた読み耽ってしまった。

「人が傷つけ合うのがウイルスよりも恐ろしい」と自分もそう思う。


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May 02, 2020

情報リテラシー 「非常事態」を疑う発言が封じ込められていない

4月15日、西浦博氏(疫学理論の専門家)が発表したのは、次のシミュレーションである。

 「感染拡大の防止策を実施しなかった場合、重症患者が累計85万3000人になり、その49%(41万8000人)が死亡する」

今や「8割おじさん」とも言われる西浦氏は、当初から複雑な計算も示されたが数値の意味は自分にはよく分からなかった。
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①新型コロナウィルス感染症は、R0=2.5である。

②「人と人との接触」には「削減可」のものが75%、医療者と患者等「削減不可」のものが25%ある。

③2.5×0.75×(1-0.8)+2.5×0.25=1で、「削減可」の部分を80%削減すれば感染は収束する。

ここで、①②③を全体としてみたロジック自体は、結局のところR0=2.5×(1-0.6)=1.0という間違い様の無い事を言っているのであり、当然ながら合理的なものといえます。

問題は、①、②、③の個別の事項にあります。

R0J=1.7だと「55%削減」で収束

まず、①ですが、新型コロナウィルスは新しいウィルスであり確定的な事は言えませんが、WHOが公表しているところでは、そのR0は1.4~2.5とされており(参考)、R0=2.5は実は最も大きい(感染拡大速度が速い)推計です。
 さらに「ウィルスの性質」という意味で世界共通のR0を使うことは、純粋な計算の前提としては分かりますが、これを日本での対策の前提とした場合、例えば「日本人は欧米人にくらべて『ハグ』をしない」というような、日本社会においてはすでに社会的・文化的に削減されているものも「新たに削減するべき人と人の接触」に入ってしまうことになります。

日本での対策における削減率を考えるのであれば、「日本におけるR0(日本における対策前のRt)」を前提として計算すべきですが、この「日本におけるR0(R0J)」は4月1日に発表された「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の見解等(新型コロナウイルス感染症)」(参考)において、R0J=1.7と推定されています(この推計は他ならぬ西浦教授自身が行ったものと考えられます。この推計が誤っていたという事になると、シミュレーションの前提が全てひっくり返ってしまいます)。
従って「4月1日の日本の現状からの削減率」を考えるなら、①´R0J=1.7を前提として計算すべきで、①´②③で計算すると、
1.7×0.75×(1-0.55)+1.7×0.25=0.99
なので「4月1日の日本の現状からの削減率55%」で感染は収束することになります。漠然と感じたのは「確率の変数を変えれば、結果としての数値がいくらでも変動する」ということだ。

コロナ対策で人と人の接触「8割減少は折れてはいけない数字」は本当か?
2週間後に感染者がピークに達した後、減少に転じるというシミュレーションを検証


https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020041200003.html

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・・・数式はともかく(としてはいけないのだが)、国語の教師からすると、1点、素朴な引っ掛かりがあった。

「感染拡大の防止策を実施しなかった場合」

というそもそもの前提だ。

ウイルス感染が本格的になった3月から学校は休校になり、多くの国民がマスクを求めて奔走した。
大学の卒業式も中止となり、たくさんの宴会や会合がキャンセルになった。首長は、それぞれにメッセージを発し、みんな我慢してきた。わずかに気を抜いたのが春分の日の3連休だった。
4月15日以前のそうした措置は、このシュミレーションに加味されているのかが分からなかった。

A  今程度の自粛を続けた場合なのか。
B  最初から防止策を実施しなかった場合なのか。
C   今後全ての防止策を実施しなかった場合」なのか。

を明らかにしないでマスコミは「41万人以上に死者が出る」という最悪の数値を強調した。
確率変数を変えればいくらでも数値は変わる。あくまで最悪のシュミレーションで41万人だという補足はなかった。41万人死亡というショッキングな数値だけが一人歩きした。ちなみに、池田信夫氏は「シミュレーションではなくフィクション」と批判している。

後出しジャンケンで「今になってそんな事を言うな」と批判されるかもしれない。
しかし、実際には、41万人は大袈裟だと疑うことを許さない「同調圧力」がある。
ここに記すことさえ勇気がいったのだ。

ゼロリスク」の病だ。

ゼロになるまで「まだまだ油断してはならない」と警告し続けるなら、もう非常事態宣言はいつまで経っても解除されない。いつまでも休校にしないといけない。

医者は患者ゼロや医療崩壊ゼロを目指した対策を提言する。
政府は経済的な死者ゼロを目指した対策を考える。
双方が歩み寄らないと、日本は崩壊する。

「命か経済かの2択はない。当然、命だ」という人もいるが、経済でも人は死ぬ。
「学校再開は後回し。教育の遅れは後で取り戻せる」という人もいるが、教育力は将来の国力だ。

5月末まであと1か月。東京や大阪といった一番の危機的な都市以外で、早々と休校宣言を出す必要があったのかどうか。

こういう疑問自体が「不謹慎だ」と思われるかもしれない。
しかし、入手した複数の情報を、自分自身で咀嚼して、自分なりの判断をアウトプットすることが大事だと思う。
もちろん一方的な過剰報道に飛びつく態度も戒めねばならないが、思っていながら反対意見を発しない態度も、情報社会にはそぐわない。

 

※以下の参考HPは、自分の都合のいい情報だけを引用する「確証バイアス」の証拠になるかもしれませんね。

◆緊急事態宣言前夜? 「感染者数」速報で不安を煽るメディアが全く報じないデータと発言

https://news.yahoo.co.jp/byline/yanaihitofumi/20200406-00171775/

◆「新型コロナで42万人死ぬ」という西浦モデルは本当か

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60207

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April 25, 2020

国語の学習は「テキストを正確に詳しく読むこと」

TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室⑧学テ・PISA型読解力を育成する授業づくり」で、向山洋一氏の巻頭論文が見ることができる。

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 さて、国語の学習での「読み」とは、「テキスト」(教材)を「読む」ことが中心となる。
 正確に読むことである。
 一字一句にも、心を配って読むことである。
 深く読むことである。
 国語の学習とは、いかなる国においても「テキストを正確に、くわしく読む」ことが中心なのである。
 教材を紙芝居にして発表するなど、信じられない学習である。
 ある県の公開発表では、「野菜」についての説明文の授業で、「野菜の気持ちになってみよう」という「芝居」を発表していた。
 これでは、「文を読む力」がつくわけがない。
 PISA型テストとは、国語学力テストB問題とは、つまり「テキストを正確に読みとる」という問題である。
 これまでの日本の国語授業の常識を超えて「さまざまな文」「さまざまな表現」「長文」からも、「正確に読みとりなさい」ということなのである。
 それを基本にして、「自分の考え」を問うているのである。
 これは向山型国語が一貫して追究してきたことである。
 「テキストを正しく深く読む」授業をすすめよう。

(教室ツーウェイ2007年9-10月39号)
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 教師が、問いと答えに敏感でなければ、子どもの言語感覚は育たない。
 このような細部にこだわった指導が「向山型一字読解指導」だと理解している。
 以下、『向山型一字読解指導』東田昌樹先生の著書より引用する。
 

私は「問い」と「答え」の基本を学ばせるために、学期に一、二度は「一字読解」という指導法をする。

というのが、『向山型国語教え方教室」(2000年10月 呼びかけ号)の巻頭論文での主張だ。
もう少し詳しく引用する。

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子どもの行ノートに、番号をつけさせる。
一行に一問を答えさせるのである。
通例は、ノートには答えを書かせるが、時として「問い」を書かせる時もある。
「問い」について、まるで習っていない子どもたちには、最初は「問い」も書かせる。
教科書のタイトルから読み始めて、イチイチ問題を出し、ノートに書かせ、答を言い、丸をつけさせるのである。
説明は簡単にして、テンポよく進める。
話し合いなどはさせない。
最初は、例えば「この作品の題は何ですか」あるいは「作者は誰ですか」ということになる。
簡単だ。簡単でいいのである。
こういう問題を20問、30問と続けて出して、基礎体力をつけるのである

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・・・「イチイチ問題を出し」という表現、がたまらない。「基礎体力をつける」という主張にゾクゾクしてしまう。
 『教室ツーウエイ』1994年10月号では「国語のテストの答え方」について、次のように述べているとある。

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「どんなこと」と聴かれたら、答えは必ず「こと」で終わること。
「どんな気持ち」と聞かれたら、答えは必ず「気持ち」で終わること。
このようなことは、基本中の基本だ。

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・・・ 向国の呼びかけ号には「テストの解き方の基本パターン15」が示されている。
東田氏は「向山型一字読解指導10の原則」の原則9として「テストの解き方15パターンを意識せよ」を挙げている。

 テストの解き方と一字読解はセットだというと、必ず受験テクニックの指導だという批判があるが、そうではない。
 目的は「問い」と「答え」の基本を学ばせ、基礎的な読解力をつけることである。 
 だから、新井紀子氏の主張する「基礎的読解力の保証」が可能になる。
 教科書の内容が正しく読み取れない子をなくすには、一字読解のような取り組みが最適だ。
 しかも、テンポよくやれば、1時間で作品全体の内容を網羅できる。
 場面に分けて当たり前のこと当たり前の言葉に置き換えるフニャケタ授業から脱却できるのだ。
 
 授業時間が不足する中で指導内容の厳選が求められる。向山型国語・一字読解の指導が威力を発揮する!

※向山氏の向国呼びかけ号巻頭論文は、TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室❶」で見られます。

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April 11, 2020

リスクコミュニケーションの基本的なスタンス

安全など事業活動にかかわるリスクは、少ないことが望ましいのですが、リスクをゼロにすることはできません。このため、上手にリスクとつきあっていくことが重要になります。(中略)そのためには事業者が地域の行政や住民と情報を共有し、リスクに関するコミュニケーションを行うことが必要になってきます。これがリスクコミュニケーションです。

https://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/law/risk-com/r_what.html

・・・これが「リスクコミュニケーション」についての経済産業省の解説。

「 地域から信頼される企業をめざして」の「企業」を「学校」に置き換えてみると、「リスクコミュニケーション」の重要性が分かる。
現在、学校は「3密」のリスクを背負っている。地域からは学校再開に対する不安の声も強い。
できる限りの「安全」を配慮し、正しく情報を公開することで「安心」を提供することが大事だ。

よく言われる「説明責任」「情報公開」にも近いが、ワンウエイの説明責任でなく、ツーウエイの「対話」を重視した用語なのだと思う。

年度当初、学校・学年から様々なお便りを発行する。ついつい例年のものを上書きしたりコピーペーストして使い回すことが多いのだが、とりわけ今年は「例年通り」の文面では、今の危機的状況には全く合わない。のんきな文面は保護者の怒りを誘発する。

コピーペースト=使い回しの言葉では「対話」は成立しない。何も考えていないからだ、

自分の言葉で今の状況にあった言葉を発信しないと、コミュニケーションを図るつもりが逆効果になることを、よく自覚したい。

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リスクマネジメントの基本的なスタンス

古い話題だが、2月16日に有本香氏がツイッターで次のように発信していた。

◆お化け屋敷がなぜ怖いか。暗くて見えない中を進むうちに、あちらに一つ、こちらに一つお化けが出て来るから恐怖心を煽られる。
国民の心理を考えたら、こういう「お化け屋敷」発信は最悪のやり方。日本人だから世論が荒れないだけのこと。広報のプロを入れたほうがいい。

◆初めに「全員検査」とアナウンス ⇒ 現実的でないので体調不良者のみ ⇒ 感染拡大 ⇒ 全員検査へ。
これも「お化け屋敷広報」+「戦力逐次投入」という最悪のパターン。

https://twitter.com/arimoto_kaori/status/1228839893368881152


 「お化け屋敷広報」は初耳。「戦力逐次投入」は、少しだけ記憶があるが理解不十分。

 ツイッターを検索したのは、「虎ノ門ニュース」2月20日(木)の有本香氏の話で、開始43分頃に「リスクマネジメント」に関する指摘があったからだ。以下は私の責任でまとめたメモ。

◆最初に、大きく網をかけてだんだん小さくしていくのがリスクマネジメントの基本。
「大きすぎる蓋で押さえ込め。」大丈夫だったら徐々にだんだん蓋を開けていけばいい。
徐々に危機管理レベルを上げていくのが心理的に一番まずい。これが、「お化け屋敷」理論。
お化け屋敷では一番怖いお化けは最初から出てこない。この、ちょっとずつ悪い情報・だんだん悪くなってくる情報を提示するのが心理的に悪い企業広報のパターン。投資家が信用しないのは、ちょっとずつ悪い情報が出てくること。

・・・司会の居島一平氏が、ガダルカナル島の戦いのようだと評したが、これが「戦力の逐次投入」の典型例。

◆ガダルカナル島の戦いでは、「戦力の逐次投入」の愚かさも『失敗の本質』で指摘されました。問題の大きさを正しく把握せず、小出しに解決策を出して自滅していくことです。
https://diamond.jp/articles/-/98447?page=2

 中日新聞の2月23日の「視座」の欄。宇野重規氏が「危機に備える哲学」と題した論考の中で、災害対応の経験がある自治体首長の話を紹介されていた。同じような意味だ。

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(前略)その首長は言った。「危機を管理することはできないが、対応することはできる。」管理と対応はどう違うのだろうか。
 災害などの危機にあたって、その危機を完全に管理することはできないとしても、「追い抜かれない」ことが大事だという。言い換えると、初動において、なるべく「大風呂敷を広げる」ことが求められる。迅速に、可能な限りの対応を取るべきで、その決断が重要である。なるほど、多くの場合、そこまでの対応は不要だったという結果になるだろう。とはいえ、そのような対応は、来るべき大災害に対する良い訓練になる。
 逆に、初期の段階で小出しに対応すると、」危機が深刻だった場合、取り返しがつかないことになる。いったん後れをとると、対応は後手後手になり、災害に「追いつく」ことができないからだ。

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・・・「初動において大風呂敷を広げる」は、有本氏と同じ主張だ。

 宇野氏の論考の中で、もう1つ印象に残ったのは、次の箇所だ。
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 その首長がまず指摘したのは「危機を管理する」という発想そのものが、人間の傲慢さを示しているということであった。「危機管理」という言葉には、危機は予測可能であり、ゆえにコントロールできるという発想が込められている。しかし、予測できない事態だからこそ危機なのであり、完全に予測することなどできるはずがない。
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・・・すべての危機を管理できると思うことが傲慢なのだろう。「自然の営み」は少なくとも現代は、予測不可能であり、制御不可能なのである。

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抽象化と具体化の往復で思考が深まる

例えば、自分の好き嫌いを分析する場合は、具体化して考えてみる(実話ではありません)。

①カツ丼いいなあ。
②ラーメンもいいなあ。
③チャーハンもいいなあ。

その後、①②③の3つの具体例から共通項を見出す。

◆ということは、俺って脂っこいものが好きなんだ。
◆色々あるけど、要するに俺って脂っこいものが好きなんだ。

これが「抽象化」である。

キーワードは、「ということは」「つまり」「要するに」などだ。

その後、「抽象化」から再度「具体化」を導く。

◆ということは、俺って天ぷらも好きかな。うん、確かにそうだ。
◆ということは、俺って魚より肉が好きかな。うん、確かにそうだ。

具体と抽象の往復活動・・・それが「論理化」である。

さて、日常的な例で書いたが、教育実践で言えば、次のような理屈になる。

①実践Aがうまくいった。
②実践Bもうまくいった。
→ ということは、ABに共通する△△の指導が成果をもたらしたということだ。

これが「具体例から抽象化」である。
その後、「抽象化」から再度「具体化」を導く。

→ならば、次の実践でも△△の要素を取り入れたら、うまくいくかもしれない。


具体と抽象の往復活動が「論理化」である。

そして、これが「教育技術の法則化運動」の肝であった。

「授業の腕をあげる法則」の10原則は、いわば「抽象化」だ。

授業の原則は、向山洋一氏の挙げた具体例が身に染みるから腑に落ちる。
教職体験のない学生よりは、数年、学級がうまくいかない体験をした先生の方が、具体例に共感できるから、抽象化された原則の意味や価値に気づくことができる。

そして、10の原則が、自分のふだんの授業行為、指導場面どう生かせばよいかを具体的に考え実行してみることで、その原則の意味や価値にさらに気づくことができる。
これが「抽象と具体の往復」だ。

「抽象から具体」が弱い人は、書籍に載った実践場面でしか追試できない。原則を自分の実践に応用できずに終わってしまう。いわば「ないものねだり」だ。

「具体から抽象」が弱い人は、自分がうまくいったとき・自分がうまくいかなかったときの原因を、共通化できない。
 ビキナーズラックのようにうまくいった実践があったとしても、「たまたま」のまま終わる。
 あるいは、うまくいかなかった指導の原因が分からず、その後も繰り返したりする恐れがある。

 授業の腕を上げる10原則を暗記するだけで成果が上がらないのは、それを具体的な指導の場に降ろせないからだ。
 楠木氏の「経営センスの論理」(新潮選書)の6章は「思考の論理」ということで、「抽象」と「具体」の往復運動について数ページ書いてある。

◆もちろんビジネスの現場で抽象的なことばかりでは「じゃあ結局どうするんだ」という話になる。どんな仕事も最後は具体的な行動や成果での勝負である。ただし、具体のレベルを右往左往しているだけでは具体的なアクションは出てこない。抽象度の高いレベルでことの本質を考え、それを具体のレベルに降ろしたときにとるべきアクションが見えてくる。P218

◆抽象的な思考がなければ具体についての深い理解や具体的なアクションは生まれない。P211

◆実務経験がある人でも、具体的な経験はしょせんある仕事や業界の範囲に限定されている。抽象と具体の往復運動ができない人は、いまそこにある具体に縛られるあまり、ちょっと違った世界に行くとさっぱり力が発揮できなくなってしまう。また、同じ業界や企業で仕事を続けていても、「抽象化や論理化ができない人は、同じような失敗を繰り返す。ごく具体的な詳細のレベルでは、ひとつとして同じ仕事はないからだ。必ず少しずつ違ってくる。抽象化で問題の本質を押さえておかないと、論理的には似たような問題に直面したときでも、せっかくの具体的な経験をいかすことができなくなる。P217


・・・抽象度が高い典型は「算数」の授業で、例題と違う数字にして練習問題を解く。文章題の場合は、数字はもちろん状況設定が変わる。

これが「数学」になると、数字を抽象化して、NやXなどの記号で数式を表すようになる。
 社会科でも、たとえば「トヨタの自動車工場」で学んだことを、別の「工場」に応用して考える。これが「具体から抽象」だ。

 これに対して、通常の国語は、授業で「ごんぎつね」で扱い、事後のテストでも「ごんぎつね」を扱う。
 「ごんぎつね」で学んだ読みの力が、「おじいさんのランプ」の読みになかなか直結しないから、抽象的な(汎用的な)国語の力が付かないと言われる。
 「汎用的読解力」というワードが注目されるのは、具体的な作品を読み取る授業だけに没頭していては、別の作品を読む力が身につかないからだ。

 まさに「具体から抽象」が課題になっているのだ。

 

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「言いました」だらけの作文じゃつまらない

少し古い光村図書の「国語教育相談室(小学校)」98号に、達富洋治氏の面白い実践紹介があった。
https://www.mitsumuratosho.co.jp/material/pdf/kyokasho/s_kokugo/kohoshi_s_kokugo_all.pdf

「    。」と言いました。ばかりじゃつまんない ―「お手紙」(二年)―

セリフ中心のこの作品で「言いました」で終わりそうな箇所に、別の表現を入れてみようという試みだ。
語彙の少ない2年生には難しいかもしれないが、やってみる価値はある。

「がまくん」
①呼びました。 ②声をかけました。 ③近寄りました。

「ひょっとして・・」
①こっそり言いました 。
②思いなおすようにせつめいしました。
③かおをのぞきました。

「でもね」
①もういちど言いました。
②ちかくに言いました。
③あきらめません。
④がまくんが言うまえに言いました。

「きょうは・・」
①本当はしっているのに言いました。
②じしんをもってなだめました。
③いっきに言ってからがまくんを見ました。
などなど。

でも、この実践を知るだけではもったいなので、自分でモデル化する。

◆「言いました」を書き換えるというのは

A:どんなふうに「言いました」の、「どんな」を加えるタイプ
B:「言う」に近い動詞を使うタイプ
(説明する・叫ぶ・つぶやく・うったえる・どな る等)
C:「言う」の場面に応じた別の動詞を使うタイプ
(近寄る・あきらめない等)

という ABCのタイプがある。
これは「語彙」の訓練だけではなく、セリフを発する人物の心情理解につながる促す問題でもある。
月並みに言えば「どんな気持ちで言ったのですか」なのだが、それをひねった形で思考させている。

◆さらに、この実践の応用を考える。「言いました」以外の場面にも応用しないともったいない。
①「そして」以外の接続語を考えて作文を修正させる実践。
②「楽しかったです」以外の感想を考えて作文を修正させる実践
③「がんばります」 以外の決意の言葉を考えさせる実践
④「すごいです・上手です」以外の褒め言葉を考えさせる実践
などが考えられる。

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March 28, 2020

マスク着用が必須となると、教師の対応は変わってくる

 

TOSSが作成した「授業力トレーニングテキスト」の13ページに「あたたかな表情(笑顔)」という項目がある。
 
 ① 授業の開始を笑顔で始めている。(1点)
 ② あたたかな笑顔を最後まで保持している。(1点)
 ③ 場面に応じて表情を豊かに使い分けている。( 1点)
 
 子ども達は、教師が思っている以上に教師の表情や雰囲気に敏感である。
教師が怒った表情で教室に入ってくれば、「先生、何かあったかな。」と身構えたり、具合が悪そうな表
情であれば「大丈夫かな。」と心配したりしてしまう。
 教師の表情は、子ども達にとって非常に強い刺激物でもあるのだ。
 だからこそ、教師は授業の開始を笑顔で始められることが「前提条件」なのである。
 当然のことであるが、授業の開始に笑顔になれなければ、次の項目である「②あたたかな笑顔を最
後まで保持している。」ことも、「③場面に応じて表情を豊かに使い分けている。」こともできはしない
だろう。

http://toss.gr.jp/kyoushiryoku/wp-content/uploads/2017/04/training-text.pdf
 

・・・次年度、教師も子どもも「マスク着用」が必須となると、「笑顔」「豊かな表情」や非言語の対応がかなり困難になる。
「セレトニン」の分泌を促す5つのポイントについても、感染対策に伴い、かなり困難になる。

○「見つめる」「ほめる」
×「ほほえむ」
△「話しかける」「ふれる」

「口元がゆるむ」という笑顔の効用が激減するとなると、それをどう埋め合わせていくかを考えないと、子どもとのコミュニケーションづくりがうまくいかなくなる。出会いの印象も悪くなる。
 

①マスクからはみ出すような大げさな笑顔。目尻を下げて笑っていることをはっきり伝える。

②声の強弱やトーンで感情を伝える
③「バンザイ」など、身振りで表現する
④「OK」などのハンドサインで表現する
⑤意図的に拍手を増やす
⑥「すごいね」「やったね」のようなカードを多用する
⑦「すごいね」「やったね」のようなスタンプを多用する
⑧「すごいね」「やったね」のようなシールを多用する
⑨(濃厚接触にならない程度)の「握手」や「ハイタッチ」を使う。
⑩(濃厚接触を配慮して)原監督の「グータッチ」を使う。
11一筆箋・連絡帳、ミニ賞状を使う。

などと考えてみたが「笑顔・あたたかな表情」が伝わらないことのハンデは大きい。
少なくとも、そのハンデはあることを前提に、学級づくりや「出会いのドラマ」を作る戦略を立てる必要がある。

※それにしても、あらためてTOSSのトレーニングテキストはすごい。



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March 20, 2020

映画「フクシマ50」  〜9年前は騙されていた〜

映画「フクシマ50」を観た。観客の少なそうな時間帯を選んだので、本当に少なかった。

東電所員の決死の対応でギリギリ助かっただけで、あと一歩間違ったら日本は甚大な被害をもたらすところだった。

・・・この事実は、その後の報道で聞いて知っていたつもりだが、ここまでギリギリだとは思わなかった。
例えば「「炉心溶融」「メルトダウン」といった言葉を使わないように指示があったといった記事も目にしてはいた。
https://toyokeizai.net/articles/-/123129

震災直後の原発のニュースは注意深く見ていたつもりだ。
ベントが重要だと何度も強調していた。建屋が炎上するシーンも見た。近隣住民が避難するシーンも見た。
米軍が早々に家族をアメリカ本土に帰国させたという噂も聞いた。
しかし、自分に「正常化バイアス」があったのだろう。
これほど危機一髪であったという感覚はなかった。

映画を観ながら「作られたシーン」ではなく、実際の報道場面を見せてほしいと何度も思った。

今、新聞やテレビはウイルス感染拡大で過度に不安を煽っているが、当時の原発事故はどうだっただろうか。
自分は「いたずらに不安を煽っているな」と冷ややかに見ていた記憶がある。
実際に、数日後は安定したので、マスコミは大げさに報じただけだと思っていた。
しかし、メルトダウンの報道は決して大げさではなかった。
むしろマスコミも本当にあそこまで危機が迫っていたという自覚がなかったのではと、今は思う。

当時、相当な危機意識を持って原発現場のニュースを観ていた人も多いと思う。
しかし、自分は油断していたのだということが、今回の映画を観てよく分かった。

「相変わらずマスコミは大げさに危機を煽っているな」と決めつける自分にはエビデンスがあるのか、そこをきちんと見極めていかねばならない。
 

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«「成功志向」と「成長志向」は全く違う!