その表現に当事者意識はあるか!

かつて、ある学年通信を見て、ひっかりを感じた。


◆16日に、大なわ大会が行われます。

の部分が気になり、赤ペンを入れた。

◆16日に、大なわ大会を行います。

「大会が行われます」には、他人事のような響きがある。
卒業式や運動会のような学校行事なら「行われます」でよい。
しかし、大なわ大会ぐらいのイベントなら、堂々と学年で責任をもって「行います」とすべきだ。

同じように、他人事のような響きを感じたのが次の箇所だ。

◆練習を通し、クラスの団結が高まっていくとよいですね。

クラスの団結は、自然発生的には高まらない。
教師が願うだけでは何も変わらない。
だから、ここも赤ペンを入れた。

◆練習を通し、クラスの団結を高められるとよいですね。

いや、これでも無責任だ。
「~できるとよいですね」では、明らかに当事者意識に欠けている。
次のように宣言した方がよい。

◆練習を通して、クラスの団結を高めていきます。
◆練習を通して、クラスの団結を高めていければと思っています。

| | Comments (0)

November 26, 2021

「テイラノサウルス」シリーズに教えられた!

人に会うことと、

本を読むことを成長の糧にして

 学校の図書館で人気のある絵本の一つが宮西達也さんの『テイラノサウルスシリーズ』です。

主人公の恐竜は、弱い者との出会いによって、自分の持つ力の意味と、本当の強さに気付きます。

例えば『わたしはあなたをあいしています』では、ただの獲物だと思っていた三匹の小さなホマロケファレが彼のえさ探しに出かけて別の恐竜に襲われます。テイラノサウルスは息を引き取る三匹を前にして「ことばが つうじなくても こころが つうじあうことのほうが、どんなに ステキで たいせつだってこと、おまえたちに おしえて もらったよ…ありがとう」と涙を流します。

小さな頃に読んだ絵本の深い意味は大人になってからでないと理解できないかもしれませんが、作者の宮西さんは、あるインタビューの中で、このシリーズを通して「見かけはどんなに恐いものでも、やさしさ、思いやりによって変われるということを伝えていきたい」と語っています。

私は、この宮西さんの言葉を「人は、心の通じ合う相手との出会いによっていくらでも変われるのだ」と理解しました。

同時に、「人は出会う書物によっていくらでも変われるのだ」と実感しています。

ですから、これまでも多くの人にこの宮西氏のシリーズを紹介してきました。

私たちは今まで出会ったたくさんの人や友達に支えられて大きく成長します。

これまでの出会いを大切にするとともに、今後の新たな出会いを通してさらに飛躍していきたいものです。

※、「読書離れ」が問題になっていますが、様々なジャンルの書籍と出会うことで知性を蓄え、感性を磨き、人としての幅を広げていきたいものです。

| | Comments (0)

November 16, 2021

算数の文章問題でつまずかないために(2) ~立式のロジックに合わせる~

(1)

はじめに、子どもが24人あそんでいました。
そこへ、友だちが来ました。
みんなで35人になりました。
友だちは何人来ましたか?
   (「わくわく算数」啓林館 2年上P66)

 

「はじめーなかーおわり」の構造で考えたとき、問うている数は「中」だ。


①はじめに、 24人 いた。
②とちゅうで、何人か 来た(増えた)。
③全部で、  35人 になった。


②で何人来たのかを解くための【前提】は、【足し算で求めるか、引き算で求めるか】が判断できることだ。


24+何人=35

となる場合、35-24の引き算であると理解できるのは、さすがに国語ではなく算数の判断力だろうか。

 

(2)
48円の鉛筆と58円の消しゴムがあります。
消しゴムを買います。
100円出すと、おつりは何円ですか?
          (2年下p116)

単純化すると、たとえば次のようになる。

①58円の消しゴムを買う。
②100円出す。
③「おつりは何円か?

しかし、文章の流れに逆らって、立式のロジックに合わせるなら、「はじめ」は持っているお金の方がいい。

①はじめ、  100円 もっている。
②とちゅうで、 58円 使う。
③最後に、    何円 残るか?  

こうすると、

100-58=何円

という式の流れと同じになる。 

問題文を立式のロジックに合わせて、リライトする。

こちらは算数ではなく読解力の範疇だろうか。     

| | Comments (0)

算数の文章問題でつまずかないために(1) ~構造を読む~

(1)

赤いリボンと青いリボンがあります。
赤いリボンは青いリボンより10㎝みじかいそうです。
赤いリボンの長さは30㎝です。
青いリボンは何㎝ですか?
「わくわく算数2下(啓林館)P60

イラストで「だいち君」が「どちらが長いのかな」と問うている。

どちらが長いかはちゃんと書いてある。

しかし、それでも読み取れない子が、どのクラスにもいる。

そして、10㎝を足すのか引くのか、よく分からなくなる子がどのクラスにもいる。

前半「赤いリボンは~」と2つ続くが、最後に求めるのは「青いリボン」の長さ。

「赤は青より10㎝短い」を「青は赤より10㎝長い」に変換しないと、青を求める式をつくれない。

手順を追った読みとりが肝心だと思う。

 

(0)前提  赤いリボンと青いリボンがある。
(1)条件① 赤いリボンは青いリボンより10㎝短い。
(2)条件② 赤いリボンの長さは30㎝。
(3)条件①②から、青いリボンは何㎝か?

 

30㎝の赤いリボンは、青いリボンより10㎝短い。

30=青ー10

 

になるのだが、「短い」という言葉にひきずられて
「30㎝より10㎝短い」つまり「30-10」というミスをしないかどうか。

青は赤より10㎝長いのだから、青=30+10=40

数学的思考であるが、読解力でもある。

 

(2)

あめを3こずつ6人にくばると2こ残りました。
はじめに、あめは何こありましたか?
      (「わくわく算数」2年下 P117)


不親切な問題文だ。

はじめーなかーおわりの構造で考えると

①はじめに、あめが何個かありました。
②あめを3こずつ6人にくばりました。
③最後に、あめは2こ残りました。

となって、ようやく「はじめに、あめは何こありましたか?」 という設問になる。

 

②だけ先に3×6=18と計算して 

はじめー18=2

はじめ=18+2=20

算数の文章問題も構造で把握させたい*

| | Comments (0)

November 08, 2021

「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然

「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然・・なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか


東洋経済オンライン2019年1月11日配信記事。
https://toyokeizai.net/articles/-/259129

執筆は、上智大学の奈須正裕氏。
奈須氏の講演を聴いたことはあるが、総合的な学習や教育課程の話が中心で、これほど作文教育を歴史的に語ってくれるとは思わなかった。

特に「読書感想文と学校行事の作文は『教育のガラパゴス』」とは痛快だ
==================
◆アメリカの作文指導はというと、説明文を書く「エッセー・ライティング」を中心に、物語や日記の形式で創作的な文章を書く「クリエーティブ・ライティング」をバランスよく行うのが一般的である。
 ところが、日本の作文指導では、エッセー・ライティングもクリエーティブ・ライティングもほとんど行われず、ただただ読書感想文と学校行事の作文なのである。俳句や短歌や詩を書く機会は結構あり、これがクリエーティブ・ライティングに当たるとも言えるが、物語を書く機会はあまりない。さらに不可思議なことに、読解では説明文も物語文も、小学校からきちんと指導されている。
つまり、日本の国語教育は、読解と作文が十分に呼応しておらず、読解での学びが作文にしっかりと生かされる構造になっていない。何とももったいないことである。
(中略)
 読書感想文と行事の作文は、日本でのみ熱心に取り組まれてきた、いわば教育のガラパゴスである
=================

 「エッセー」が説明文という時点で、もうアメリカと日本の感覚の違いが分かる。

==================
◆高度成長期に入り、生活が豊かになっていくにつれ、個々人の生活現実を赤裸々に綴ることで自らの境遇や社会の矛盾に気づく「生活綴り方」は、その時代的使命を終える。これに代わって1960年代以降に定着したのが、読書感想文と学校行事の作文である。
 指定された課題図書の登場人物に思いを寄せ、読書体験によって子どもが自己変革を遂げることを期待する読書感想文と、学校行事という共通体験を通しての人間的成長を一人ひとりが個性的に描写する行事の作文は、基盤となる経験自体は全員に共通のものである。と同時に、そこに何を感じ、どう表現するかは、個々の子どもに委ねられている。
 「一億総中流」社会と呼ばれた時代の風潮を背景に、共通の経験を基盤としつつ、そこにおけるその子ならではの独自な心情や表現を大切にしようとする当時の作文教育にとって、読書感想文と学校行事の作文は格好の題材だったのである。そして、これが今日まで半世紀にわたり、脈々と受け継がれてきた。
==================

・・・作文教育の歴史を説いた衝撃度としては、斎藤美奈子氏「文章読本さん江」(筑摩文庫)に近いものだった。
 この「文章読本さん江」は、明治以降のいくつかの文章読本を批判した後、日本の綴り方教育・作文教育の歴史を示し、学校で課す作文課題も批判している。

①谷崎潤一郎「文章読本」(谷崎読本)
②三島由紀夫「文章読本」(三島読本)
③清水幾太郎「論文の書き方」(清水読本)
④本多勝一「日本語の作文技術」(本多読本)
⑤丸谷才一「文章読本」(丸谷読本)
⑥井上ひさし「自家製 文章読本」(井上読本)


「読書感想文」や「行事作文」では、生きる力にならない。それは「主張」や「対立」を伴わないからだ。
「僕はこの本を読んで〇〇と思いました」では、「あなたがそう思うのは分かった」というそれだけのことだ。
「今日〇〇がありました。楽しかったです」では、「それで何?」とか「それはよかったね」と突っ込みたくなるだけのことだ。

国語を専門とする一部の先生は「論理的思考」や「論証」に力を入れているが、多くの先生は「ガラパゴス」のままだ。
意見文を書かせるのだ。
異論を唱えさせるのだ。
感想文・行事作文で満足しがちな今の状況を何とかしなくてはいけない。

| | Comments (0)

November 04, 2021

「学習とはシンプルな繰り返し」 ~算数も国語も同じはず~ 

手元に『教育トークライン』(東京教育技術研究所)2016.7月号、向山先生の巻頭論文のコピーがある。

「向山洋一の授業実践と授業理論」185
学習とは、シンプルな繰り返しである。



池谷裕二氏の『最新脳科学が教える 高校生の勉強法』を踏まえての主張だ。
ここでは、「向山型算数」と「問題解決学習」を比較して、繰り返しの原則を踏まえた「向山型算数」の良さを述べている。


======================
算数の問題解決学習は、なぜ駄目なのか。「学習は繰り返し」であるという古来言われてきた経験則と、最新の脳科学の知見を全く無視し、それとは正反対の授業をしているからである。
算数の問題解決学習は、日本中に「算数嫌いの子」をつくり、「算数が分からない子」を大量生産し、軽度発達障害のある子を何万人、何十万人とスポイルしてきた。

======================

・・・算数についての主張であるが、どの教科にも通じる汎用的な主張でもある。

======================
国語の〇〇学習は、なぜ駄目なのか。
「学習は繰り返し」であるという古来言われてきた経験則と、最新の脳科学の知見を全く無視し、それとは正反対の授業をしているからである。
国語の〇〇学習は、日本中に「国語嫌いの子」をつくり、「国語が分からない子」を大量生産し、軽度発達障害のある子を何万人、何十万人とスポイルしてきた。
======================

と批判されるような国語の指導法はなかっただろうか?
自分の国語の授業は大丈夫だっただろうか?


再度、向山氏の文章を引用する。

=========================
向山型算数は「繰り返し」のシステムである。同じような流れ、同じような展開によって、授業が進む。
シンプルである。分かりやすい。算数って簡単だということになる。
算数の授業で「説明」は、シンプルなほどいい。
シンプルな繰り返しで「解き方」を「自然に身に付ける」のがいい。
反対に、長い説明、くどい解説は、多くの子どもを落ちこぼれにしてしまう。
教師の長い説明は、ほとんど悪いのだ。同じ話でも「説明」と「語り」は、全く違う。語りで子供をひきつけられる教師はすばらしい。
教養が豊か、体験がいっぱいある教師にしかできない指導なのである。知性がシンプルさをもたらすのである。

=========================

・・・あえて「国語」に置き換えてみるまでもない。
国語の授業だって、「シンプルな繰り返しで、分かりやすくて、国語って簡単だ」となるべきなのだ。

シンプルな繰り返しで「解き方」を「自然に身に付ける」のがいい。

国語においても(他教科においても)、心しておくべき指摘だと思う。

| | Comments (0)

「PISA型読解力は何を示唆するか」

「PISA型読解力は何を示唆するか」は、「現代教育科学」2006年9月号の特集テーマ。
 最初のPISAショックが起きて、文科省の「読解力向上に関する指導資料」が出たことを受けた特集であった。
 15年もずっと同じ議論をグルグルしているのかと思えてしまうが、少し復習。

(1)2005年12月文部科学省より出された「読解力向上プログラム。
 「はじめに」で次のように書いてある。

◆なお、PISA調査の「読解力」とは、「Reading Literacy」の訳であるが、わが国の国語教育等で従来用いられてきた「読解」ないしは「読解力」という語の意味するところとは大きく異なるので、本プログラムでは単に「読解力」とはせずに、あえてPISA型「読解力」と表記することとした。

①数学的リテラシー ②科学的リテラシー ③読解力リテラシー

であるべきところを、「読解力」としてしまった。
 本来「Reading Literacy」と書くべきところを「PISA型読解力」と表記したと言いながら、冊子のタイトルは「読解力向上プログラム」。
ここに初動のミスがあると思う。
 今もマスコミは「PISA型読解力」と書かずに、「読解力」と表記して騒ぐ。
 問うているのは「Reading Literacy」なのに。「PISA型」という注釈をつけても、いつしか「読解力」に置き換わってしまう。

◆リテラシーとは、特定分野の事象や情報を正しく理解・分析・整理した上で、自分の言葉で表現したり、判断したりする能力を指す
(「総合教育技術」2020年2月号の教育ジャーナルより)

 PISA調査の「Reading Literacy」は、従来の日本の読解力とは大きく異なる。
 この「Reading Literacy」に沿った具体的な対応が、学力テストB問題であり、2020年の大学入試記述問題であった。

(2)センター試験に代わって2020年度から行われる大学入学共通テスト(国語)

 

大学入試問題も、これまで行われてきた全国学力調査問題と傾向が酷似していた。
==============
「大学入試が求めるもの」
①複数の種類の実用文を読ませる  
②複数の文章を組み合わせて考えさせる
③大量の情報を処理させる
④最大200字程度の文章を20分程度の短時間で書かせる
⑤多くの条件を踏まえた文章を書かせる
⑥誰かの立場で文章を書かせる

 難波博孝氏(広島大学大学院教授)
東京書籍発行「教室の窓 Vol.55」
=============

 この点について難波氏は次のように指摘していた。

==========
実はこの方向性は、文科省がずっと追い求めてきたことであった。
小学校・中学校関係者の方ならすぐわかるだろうが、今まで10年以上行われてきた全国学力・学習状況調査のB問題と共通テストのここまで傾向はそっくりだからである。
文科省は10年かけて、共通テストの基盤をつくってきたといえる。
============

 

2018年11月、朝日新聞に掲載されたコメントも、同様の趣旨だ。

=============
文部科学省はこれまでも高校までに教える内容を決める学習指導要領で「思考力、判断力、表現力」を身につけるよう学校に求めてきた。
だが、高校では大学入試に向けた勉強に重点が置かれがちだ。
そこで大学入試も、より学習指導要領の内容に合わせるよう大きく変えることにした。
                            
朝日新聞 進学特集「20年度入試から共通テスト」2018/11/5朝刊
=============

 授業を変えるためにゴールを決めた。
 入試を変えるというウルトラCを決行したのだ。
 さて、同様の指摘は「全国的な学力調査に関する専門家会議」の委員である田中博之氏も述べている。

============
(2017年の大学入試試行調査は)全国学力・学習状況調査の問題と、とてもよく似ています。これは偶然ではなく、意図的に合わせているのです。つまり、記述力が全国学力・学習状況調査から大学入試まで一貫して問われる必須の学力になる、という画期的な出来事が起きようとしています。だからこそ、小中学校では一層B問題的な学力観を重視すべきなのです。  
「総合教育技術」2019.11月号 P43
=============

・・・「記述力が全国学力・学習状況調査から大学入試まで一貫して問われる必須の学力になる、という画期的な出来事が起きようとしています」であったはずなのだ。
 大学入試にまでつながる「PISA型読解力」が、土壇場になって混乱してしまったが、我々の意識を延期するわけにはいかない。
学力テストを、無理矢理やらされているテストと捉えているようでは、PISA型読解力が身につくわけがない。
 学力テストで問われているような内容を授業の中で行わない限り、PISA型読解力向上は望めないし、国際的な場で日本の生徒は活躍できない。

(3)2019年の文科省のPISA読解力の見解

=============
 読解力についていえば、前回までは、「読解力」の定義は、書かれたテキスト(本や新聞など出所や校正・校閲がしっかりした書きもの)の中から「情報を探し出す」「字句の意味を理解する」「統合し、推論を創出する」「内容と形式について熟考する。」等でありました。つまり「従来型」の範囲内での「読解力」を問うものだったといえるでしょう。
 今回からは、オンライン上の様々なデジタルテキスト(ブログ、投稿文、宣伝サイト、メール文)など、文責が誰にあるのか、出所が定かであるのか、校正・校閲がしっかりなされているのかなどが一見明確ではない文書について、「質と信ぴょう性を評価したり」「矛盾を見つけ対処したりする」ことも求めており、問題自体もその7割がPC使用型調査のために開発された新規ものとなっています。つまり、前回までの「読解力」の調査からは大きく変化しているということです。
 OECDの責任者であるシュライヒャー局長も、現代社会においてデジタルの世界で求められる読解力に焦点を当てたこと、「フェイクニュース」が広がる世界での読解力がより重要な能力になっていることを明確に言及しており、今回のPISA調査は、これまでの「読解力」の範囲に加え「情報活用能力」をも求めていることは明らかだと思います。

初中教育ニュ-ス(初等中等教育局メ-ルマガジン)第373号(令和元年12月24日臨時号)
【矢野 文部科学省大臣官房審議官(初中教育担当) 特別寄稿】PISA調査2018とGIGAスクール構想
https://www.mext.go.jp/magazine/backnumber/1422844_00003.htm
====================

 この審議官の言葉が一次資料なら、求められる読解力は
1 「情報を探し出す」
2 「字句の意味を理解する」
3 「統合し、推論を創出する」
4 「内容と形式について熟考する」
5 「質と信ぴょう性を評価する」
6 「矛盾を見つけ対処する」

となる。これを、

◆これまでの「読解力」に「情報活用能力」を加えたもの
◆新たな読解力(読解力と情報活用能力のハイブリッド型)◆

と呼んでいる。これがまさに新学習指導要領の先の課題ということになるだろうか。

デジタルニュースの信ぴょう性を検討するには、今後ますます「Reading Literacy」だ。
ハイブリッドなどと呼ばずとも、元々の「Reading Literacy」の「リテラシー」が一層重視されてきたのだとも理解できる。

そもそも「Reading Literacy」をオーソドックスにしなかった初動のミスではないかという思いが増している。

| | Comments (0)

November 03, 2021

「学習の振り返り」は、一言感想とは違う。

過日、主事訪問があり、参観後の講評の場で、「振り返り」についての指摘があった。
単なる「反省」や「一言感想」を書かせるだけでは「振り返り」としては質が低いという内容だ。
本時で学んだこと(分かったこと・できたこと)は何か、
次時の課題は何か、本時の何が良かったのか、何が悪かったのか・・・
1時間の授業の振り返りが「難しかった」「楽しかった」「よくがんばった」では、次の授業につながらないという指摘は、これまで何度も聞いてきたが、「振り返り」の質向上の意識は、なかなか浸透しない。


これは先のダイアリーの「学び合い・話し合い」と同じロジックだ。

指導者が「話し合い」で何をさせようとしているのか、その要求水準が明確でないと、単なる意思表示になってしまう。
指導者が「振り返り」で何を書かせようとしているのか、その要求水準が明確でないと、単なる一言感想になってしまう。



授業最後に書かせる「振り返り」の質が低いからと書き直しをさせていたら、授業はいつまでたっても終わらない。
そもそも、授業の質が低ければ、高い質の「振り返り」を望めるわけがない。

いや、そもそも普段やらないのに、研究授業のときだけ「振り返り」をやろうとするから無理があるのだ。

日常的な表現力の指導も必要だ。
子どもが書く「振り返り」の質は、教師の力量に規定される。

| | Comments (0)

「話し合い」の意味と意義 ~協働学習というからには~

手元にある「学び合い」に関する資料で、元中教審委員の嶋野道弘氏がインタビューに答えている。古い資料だけど意義は薄れていない。
「学び合い」という言葉を聞いただけで拒絶する先生もいると思うが、「協働学習」と同義である。

 =============================
◆「協同(共同、協働)学習」のように、学び合いと似た意味で使われる言葉は多くありますが、「考えの違う者が集まり、考えを出し合いながら深める」という点は共通です。
 学び合いは「自己との対話を重ねつつ、他者と相互にかかわりながら、自分の考えや集団の考えを発展させて、共に実践に参加していくこと」と整理できるでしょう。

◆まず「自分の考えを持ち自分を見つめる」ことから始まります。それが「自己との対話」の意味です。
他者とかかわる事によって、自分の考えを吟味し、友だちの考えを取り入れることで、一人では解決できない問題への新たな見方が生まれます。

◆学び合いとは、自己の考えをもち、他者と共に考えを発展させていくものであることを、本当の意味で理解し、思考力・判断力・表現力等を育む上で学び合いの必要性を切実に感じている先生は、意外と少ないのかもしれません。本質を理解しないまま、形だけを踏襲してグループ活動などを取り入れても、中身が伴わず学び合いが形骸化してしまうでしょう。

2011年VIEW21(小学版)vol2 ~特集 思考が深まる「学び合い」~
===============================

・・・個々の考えもないままにグループ活動させれば、賢い子の独壇場になり、相互交流は起きない。
賢い子の言い分を共有するだけでは「話し合い」とは言えないし、「学び合い」とも言わない。


「這いまわる経験主義」と揶揄されたように、いくら見た目が活発でも、深まりのない話し合いなら意味がない。

嶋野氏が指摘するように、形を踏襲しただけのグループ活動は中身が伴わないのだが、「今日の話し合いは盛り上がったね」と勘違いする教師も多い。
残念ながら、前任校にいた学び合い推奨の教師は、子どもをここまで高めたいという思いがなかったから、ワイワイやっていればそれで満足していた。
話し合いのレベルは、教師の力量に規定されるのだとつくづく思う。

| | Comments (0)

November 01, 2021

読書は脳の想像力を高める

『脳を創る読書』酒井邦嘉(実業之日本社)には、次のように書いてある。

◆想像力が身についていない人は、メールなど文字だけの情報の場合、読んでも相手の意図を察することができないので、日常的に多くの失敗を経験していることだろう。しかも、その原因が自分自身にあると自覚していないため、何度も同じ失敗を繰り返してしまう。p125


「脳はなぜ行間を読むことができるのか」の項には、次のようにある。

◆人間はいつも外界を受容しながらモデルを作り、それを外界の情報で確認しながら次の展開を予想して先読みを続けている。だから、出来事だけが書かれていて主人公の心情については書かれていない場面でも、「主人公はきっとこう思っているのに違いない」というモデルを脳の中に作り、「きっと話はこう展開していくだろう」・・などと予測しながら読んでいるわけだ。こうして文章に表現されていない部分のモデルが脳の中に作られているからこそ、行間を読むことができる。p98

・・・この主張の例示として登場するのが有名な「サリーとアン」のテストの話だ。

◆「アンがボールを箱の中に移し替えたのだが、このことをサリーは知らないはずだ」ということを想像力で補わない限り、実際にボールの入っている箱のほうを答えてしまうだろう。我々は頭の中に、それぞれの登場人物(この場合はサリーとアン)に対して別々のモデルを作り、想像力で行間を埋めながら先の展開を推理しているのだ。
 しかし、一部の子どもたちは、登場人物のモデルをうまく作ることができずに、このテストデ間違える傾向にあるという。p100

・・・「想像力」の重要性が、あちこちに書いてある。

◆文章や漫画から登場人物の心を汲み取るためには、脳の想像力で使って人に対するモデルが作られなくてはならない。
日常生活で相手の心がわかるには、目や表情やわずかな仕草などを読み取り、言葉からの断片的な情報を結びつけて真意を読み取る必要がある。だから、相手の嘘や、その中に隠された真意も見通せるわけだ。人間の想像力は実に奥深い。p102

◆小さいときにあまり本を読まずに、想像力が欠如したまま大人になってしまうのは恐ろしいことだ。文字通りの意味がとれるならまだいいが、自分の思い込みだけで読むようになったら、その間違いを決して自分では修正できなくなってしまう。だいだい自分勝手なことをそのまま書いただけでは、相手が時間をかけて読んでくれるはずがない。相手の立場から自分の文章を読んだらどう受け取るだろうか、という想像力が身について初めて、自分の真意を相手に伝えることができ、相手の心を動かすような文章が書けるようになるのだろう。p122/123

・・・「想像力が言語コミュニケーションを円滑にする」という見出しの項には次のようにある。

◆映像は情報が多い分、想像力の余地を与えない。想像力で補うべき情報は欠落したままなので、知識の応用も利かない。
そのときはわかったつもりになるのだが、想像力で補うことが必要とされないものにばかり接していると、結局、想像力が身につかないことになる。紙の本では、どうしても足らない情報を想像力で補うことによって、その人に合った、自然で個性的な技が磨かれたのだ。p125

・・・クリエイテイブの「創造力」を調べる途中で、「想像力」にぶつかってしまった。
たしかに、正しい読解には、正しい想像が必要だ。
足りない情報は「想像力で補う」しかないのだ。

| | Comments (0)

October 31, 2021

身体の「超回復」と、心の「トラウマ後成長」

大学時代に「超回復」という言葉を知った。
今はネットで検索するとたくさんヒットする。効果的なトレーニング・負荷と休養のバランスを知る重要なキーワードだ。

ブリタニカ国際大百科事典
◆運動前よりもエネルギーを増加させ大きな回復力を示す現象をいう。一般的に,運動することで筋肉のグリコーゲンは減るはずであるが,休養と栄養補給で逆にふえることがある。こうした反応を利用することで,ゲーム前にエネルギーを大量に貯蔵したり,筋肉を効率よく増強することができる

大辞林
◆強い運動後疲労がたまった筋肉が、休養により運動前より高い筋力を得ること。

「知恵蔵」の1行目のみ。
◆運動で消費された筋肉のグリコーゲン量が、休息と炭水化物補給によって運動前の貯蔵量を大幅に超えて回復を示すこと。

https://kotobank.jp/word/%E8%B6%85%E5%9B%9E%E5%BE%A9-163344

当時、理解した内容も、およそ、こんなところだ。

ただ、今になってネット辞書後半を読むと、ちょっと違うニュアンスが含まれている。
自分は陸上部に所属していたが、体育科ではなかったので、この部分の理解が不足していた。

デジタル大辞泉の解説
強い負荷をかけることで傷つき衰えた筋肉細胞が休息によって回復し、さらに負荷を受ける前よりも筋力が強くなる現象</op:b>。過負荷から2~4日間が超回復の期間といわれ、その期間に過負荷運動を行い、次の回復を待つということを繰り返すことで筋力を合理的に増強できると考えられている。

他のサイトでは、もっとはっきり書いてある。

トレーニングを行うと、筋繊維が破壊される。筋線維が破壊されると、人間の身体は、壊れた組織を修復しようとする。この修復にかかるのが、一般的に24~48時間と言われている。筋線維が壊れてから修復するまでのプロセスを、超回復と呼ぶのだ。
https://moneytimes.jp/sense/detail/id=2827

・・・知っている人にとっては当然のことだ。

トレーニングを行うと、筋繊維は破壊される。
我々は、筋トレと称して、筋繊維・筋肉細胞を傷つけている。
そして、その回復のメカニズムをうまく活用することで、傷ついた筋力を前よりを強くしている。

これが、身体的な回復と成長のメカニズム。

心理的なストレスやトラウマに対して、ポジテイブ心理学の研究では「トラウマ後成長=PTG」と呼ばれる現象があると指摘されている。

以下「トラウマ後成長と回復」ステーヴン・ジョゼフ著 筑摩選書より、


◆現実に研究結果が示しているのは、トラウマになりかねない出来事に直面した多くの人たちのが相応の回復力を持ち、ストレスに屈しないか、屈したとしても急速に回復でき、その後も比較的高レベルの機能を維持できるということだ。p19

◆こういった変化は「ベネフィット・ファインデイング」「逆境後の成長」「自己変革」「ストレスに伴う成長」「スライビング」など様々に表現されてきた。
なかでも、1990年代半ばに二人の臨床心理学者リチャード・テデスキとローレンス・カルホーンが考案した「トラウマ体験後の成長posttraumatic growth」という言葉はもっとも関心を呼び、現在では、トラウマがどのように幸福感を高める足がかりになるかを探求する新たな研究領域を示すものとして広く用いられている。P39

・・・筋トレと異なり、好きで不幸な状況に身を投じる人はいない。
それでも不幸が過ぎた後、それまでの自分より、どこかポジテイブな生き方ができるようになる人は一定数の割合でいるという(無論、苦難に打ちひしがれてしまう人もいる)。

「トラウマ体験後の成長=PTG」は、トラウマ体験前のレベルを超えるという点で、筋トレの「超回復」と同じなのだ(という解説は見られなかったが、自分はそう思っている)

 筋トレは筋肉を傷つけていると知った衝撃
 筋肉の超回復と、心のPTGが酷似していると知った衝撃

 だから勉強はやめられない。

 

PTG関連書籍
①「トラウマ後 成長と回復―心の傷を超えるための6つのステップ」 (筑摩選書)
②「悲しみから人が成長するとき―PTG 」(風間書房)
③「PTG 心的外傷後成長: トラウマを超えて」 (金子書房)近藤 卓

| | Comments (0)

October 29, 2021

黒柳徹子 「小さいときから考えてきたこと」(新潮文庫)

最近の自分の読書は教育書・ビジネス書が多いが、自分の知らない世界に触れるという意味では小説やエッセイも大事にしたい。

星新一のショートショートは今の中学生にも人気があるとのことだったが、まずはエッセイや短編で読書の基礎体力を付けさせたい。最近は重松清も恩田陸も読んでいないけど、「これではいかん」という気になった。児童生徒に読ませたい作品をしっかり把握できるように読書の方向を調整したい。特に朝読書という短時間でそこそこキリがつかないようでは、授業中に続きが読みたくなって困るので、エッセイは都合がいい。

 黒柳徹子の「小さいときから~」は、ユニセフ親善大使として訪れた紛争地域での子どもたちの様子と自身の戦争中の体験とが重なる部分があり、中学生にも読ませたいと思う章が多かった。
 特に「黄色い花束」は、中学校定番の「字のないはがき」や「大人になれなかった弟たちに」よりも、生徒の心に響くかなとも思ったくらいだ。太平洋戦争だけではあまりに遠い過去だが、現在の紛争地域の話題があるので、戦争や紛争にリアリティがあるのだ。
 少しだけ引用する。

◆私が子どものとき、何も知らないで、日の丸の旗を振って送り出した兵隊さんは帰ってこなかった。自由が丘の駅に行って、出征する兵隊さんに旗をふると、スルメの足を焼いたのを一本もらえた。私は、それが欲しくて、時間があると、行っては旗を振った。スルメなんて、あの頃、めったに食べられるものではなかった。知らなかったとはいえ、私は、あのとき、スルメが欲しくて送り出した兵隊さん達が帰って来なかったことを、今も申しわけなく、私の心の傷になっている。あどけなく手を振っている子ども達(注:コソボの子ども達)を裏切っては、いけないのだと、私は子ども達が手を振るのを見るたびに思う。あの女の子から貰った黄色い花は、ノートに挟んで押し花にした、コソボの記念に。

・・・心の傷は、小さいときに生ずるものもあるが、大人になってから「知らなかったとはいえ申し訳ないことをした」と生ずるものもある。
 大人の入り口にあたる中学生にも、そんな「心の傷」の存在に共感してもらいたい。
「知らなくてもよかったことまで、知ってしまうのが大人なのだ」と言えば、ちょっと格好良すぎるか。

 

| | Comments (0)

文章理解の三段階

手元に「総合教育後術」2020年3月号がある。特集は「『読解力』を育てる!」。

埼玉県戸田市教育長戸ケ崎勤氏のインタビュー記事の中で着目したのが、文章理解の三段階の解説だ(意図的に改行を加える)。

===========

「文章の理解について、3段階あると私は言っています。

まずは、アイ、シー(I see)の段階。これは『なるほど』くらいの理解でしかなく、一般的にはここで止まってしまっていて、意味の取り違いも起こりやすい。

次がアンダースタンド(understand)で、『本当の意味が分かる』。ここまでくると、意味の取り違いは起こりにくい。

最後がアプリシエイト(appreciate)で、『本質の意味まで深く分かる』段階になります。ここまでくれば、次へ転用していくことも可能になります。」

==============

 

・I see

・understand

・appreciate

 

と英語で説明されると、はぐらかされたような気にもなるのだが、理解のレベルを自分なりに設定することは大事なのだと思う。

LINEのようなSNSのコミュニケーションツールは、まさに「I see」レベルでとどまっているような気がする。

短い言葉のやりとりは「阿吽の呼吸」である分、誤解を招き、トラブルを引き起こす。

冗長でまわりくどい説明は要らないが、本質の意味を相互で共有するには、それなりのボリュームの言葉のやりとりは必要だと思う。

 

そのことは2年前にも書いた。ますます深刻化しているか。

LINEによって阻害される「文脈形成力」


愛知教育大学の丹藤博文氏は、スマートフォンの普及と「ライン」によるコミュニケーションについて、「想像力・識字能力」「文脈形成力」の問題があると指摘された・・・。
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2019/08/post-b1a411.html

| | Comments (0)

人を動かす条件、最後は「情熱」

『横井軍平ゲーム館』~「世界の任天堂」を築いた発想力~

 

この本を読んで、人を動かすのは、最後は「情熱」だと納得した。
 
 任天堂の世界進出のきっかけになったのが、「ゲーム&ウオッチ」。

後のゲームボーイにつながる「ゲーム&ウオッチ』誕生のエピソードがすごい。

(1)横井氏は、新幹線の中で退屈しのぎにできるゲームを作りたいと思っていた。
(2)たまたま社長の外車の運転手を頼まれた(ほかに左ハンドルの車を運転できる人がいなかった)。
(3)車中でゲーム企画の話をした。
(4)その日の会合で、社長の隣にシャープの佐伯社長が座り、電卓サイズの液晶ゲームの話を伝えた。
(5)数日後、シャープ側から、ゲーム開発の打診があった。

 これが「ゲーム&ウオッチ」開発のスタートだと言う。何と偶然だらけであることか。

======================
◆私としては、あくまで開発課長なんだというプライドで、アイデアの一つとして話しただけなんですね。ですから、その後、何事もなかったら、私自身も半年もしたら忘れてしまっていたかもしれない。ですから、世の中はタイミングなんですね。たまたま社長が佐伯さんと隣り合わせじゃなかったら消えていたし、その日、運転手が風邪を引かなければ消えていた。P107
======================

 しかし、たまたまの繰り返しで世界的な大ヒットが生まれるのは、偶然を引き寄せるだけの必然があったのだと思う。

==============
◆当時、私は開発部長で、やっぱりプライドがあるでしょ。私は運転手なんかじゃないんだというね。で、社長を乗せているときに、何か仕事の話をしなければというわけで、新幹線の中で退屈しのぎの話をしたんですね。「小さな電卓のようなゲーム機を作ったら面白いと思うんですけど」と。ま、社長はフンフンと聞いていましたけど、さほど気にしている様子でもなかった。P106
===============

 偶然を引き寄せたのは、アリストテレスが人を説得するのに必要だと述べた3つの要素だ。

「エトス(信頼)」
「バトス(共感)」
「ロゴス(論理)」

 パトスは、パッションだから「熱意」と言い換えてもよい。

 横井氏はそれまでも数々のヒット商品を生み出していたから任天堂社長の「信頼」があり、ヒット商品に対する「ロジック」があった。
 それを「熱意」で語り、「共感」をもたらしたから、たまたま隣席のシャープの社長に話題を振ることになった。
 シャープの社長にとってみても、「信頼」できる任天堂社長が話す開発商品の説明には「ロジック」があり、語る言葉に「パッション」があったのだろう。

 さて、自分の言葉と行動に「エトス・パトス・ロゴス」の3要素はあるか。
 人は「ロゴス」だけでは動かない。最後の決め手は「パッション」だと言うが、自分の言葉にはパッションがあるか。
 「〇〇に取り組んでいます」だけでは、人に伝わらない。誰の心も揺さぶらない。
 熱のある文章、毒のある文章にもチャレンジしていこう。

| | Comments (0)

October 28, 2021

「テイーチング」と「コーチング」の一考察

(1)教師はコーチングに注力すべきなのか?

 

『教育新聞』2019年1月1月号に、以下の記載があった。

 

「テイーチングはICTに任せて、教員はコーチングに注力すべきだ」

 

 通信高校「N高校」のポリシーだそうだ。

 Edtechの第一人者佐藤昌宏氏がインタビューで次のように答えていた。

 

◆教育は「人間がやる領域」、経験や感覚が重視されてきました。経験を積んだ教員の職人的な技が発揮され、伝達は難しい。約150年、日本で続きました。

  世界では「教育の科学」がテーマになっています。教育の再現性が一層進めば「機械で再現できる部分」「人間にしかできない部分」が分化する。教育は大きく変わるでしょう。

 

◆機械には不可能なのが4象限の「コーチング」「ファシリテーション」。教員には「教える」ではなく、寄り添いながらモチベーションを上げる「導き」が求められます。

 

     教える

 Tutor  |  Teacher

     |

個別 ――――――大人数

     |

 Coach   |  Facilitator

     導く

 

佐藤教授が作成した「教師の役割4象限」は、「教えるー導く」の縦軸と「大人数―個別」の横軸による4象限だ。

 

確かに、進学塾のサテライト授業や、「スタデイサプリ」など、ICTの活用により、優れた授業コンテンツが作成され、個々の理解度や反応に応じた学習プログラムが組み立てられている。中途半端な教え方の教師では到底かなわない。特にその子の苦手分野やつまずきを分析するのはICTの方が長けている。

 しかし、だからといって、テイーチングをICTだけに任すのは難しい。

 

(2)教師の理想は「教えない」のか?

『最高のコーチは教えない』(デイスカバー21)という一冊がある。

 メジャーリーグでも活躍した吉井理投手がピッチングコーチになってからの学びをまとめたもの。タイトルだけ見ると「教えないことが美徳」と思えるが、中身はそうでもない。

 

 第一ステージ(初心者・新人)に該当する選手は

◆「技術の基本を細かく教えていく」

◆「自らの状況を把握できないうちは、まず基礎を徹底させる」

◆「一人前と認めるまでは、このステージで二年から三年は過ごさせる」

 

とある。技術の基本は細かく教えていくものなのだ。

最初から「教えないで任す」では、初心者は何も身につかない。

 

コーチの仕事は「教えること」ではなく、「考えさせること」であると吉井氏は言う。

 「考えさせること」はコーチの仕事であることに異論はない。

ただし、氏の「コーチング」の主張を「テイーチャー」である教師が全部受け入れる必要はない。

 

 「究極のコーチ像は、コーチングの結果、相手が何でも一人でできるようになり、はた目から見るとサボっているようにしか見えないコーチだ」と吉井氏は言う。

 

 「サボっているように見える」は「サボっている」とは違う。吉井氏はコーチングの3つの基礎として「観察」「質問」「代行」を挙げている。この3つを怠る教師はコーチングを理由にサボっているだけだ。

 

(3)コーチングできるのが、優れた教師では?

 

「体育科教育」201912月号にコーチングの話題があった。

 

 「主体性を引き出すアカデミック・コーチングのすすめ」

  菅原秀幸(アカデミック・コーチング学会会長)

 

 ◆テイーチングが「教え込む」のに対して、コーチングは「引き出す」であり、両者の方向性は真逆です。

 ◆コーチングの目的は、能力を最大限に引き出すために、適切な行動を自らとるように促すことにあります。

・・・educateの語源がラテン語の「引き出す」だから、コーチングの方が本来「教育」の本質なのだと言う。

 すぐれた教師は「教え込む」を避ける努力をしている。  子どもたち自身が気づき・考え、行動できるよう、発問を工夫し、授業展開を工夫し、場づくり・教材づくりに苦心している。

  だから、教師は「一方的に教え込む存在」、コーチは「引き出す存在」という対立構造そのものがミスリードだ。

 

コーチングに関する次の一節がとても興味深い。

 

◆コーチングのスタートは、教育学を修めながら、テニス・コーチとして新しい指導方法を考え出したテイモシー・ガルウエイにあるとされています。その当時の指導スタイルは、模範的なプレーを知っているコーチが、命令形で教え込むというものでした。

 (中略)しかし教えれば教えるほど、生徒のもっている力が発揮されないことに気づいたのです。

  そこで、ガルウエイは、「教える」ことから「問いかける」ことへと指導方法を変えてみました。つまり、それまでの「ボールをしっかりよく見て打って」と教えていたのを、「飛んでくるボールの縫い目は、縦に回転していたのか、横に回転していたのか?」

 「ラケットにボールが当たる直前のボールの動きは、上昇中だったか下降中だったか」などと問いかけたのです。この結果、生徒はボールに集中し、もてる力を発揮できるようになりました。

 

◆「教える」ではなく「問いかける」ことで、力を最大限に発揮できる状態を作りだす、これがコーチングの基本であり、それをになうのがコーチです。

 

とあるが、「教える」と「問いかける」は対立概念にはならない。

我々は一方的に教えるだけの授業などは毛頭めざしていない。子どもの目の色が分かるようなすぐれた発問づくりに邁進してきた。

つまり「問いかける」がコーチングの基本というなら、我々がめざす「優れた教師」は「コーチング」を含んでいる。逆に言えば「劣った教師」は「問いかけ」がない。

 「問いかけることで、教える」が、我々がいつも取り組んでいる授業展開だから、次のように言い換えられる。

 

※「問いかける」ことで「教えたい内容」を習得する状態を作りだす、これが「教える」の基本であり、それを担うのが教師です。

 

  「これからはコーチングの時代だ」という言葉を切り札にして、子どもに丸投げしている教師がいるとしたら、それはサボっているだけだ。

 「子供に気づかせる努力・発問(質問)の工夫」を怠る者は、コーチでも教師でもない。

 「教え込む」より「気づかせる」の方が、実は手間がかかるし、指導の腕も求められる。

 

  何もしない < 教え込む < 問うて気づかせる

 

  菅原氏の論稿の冒頭は、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉を引用している。

 

平凡な教師は、ただしゃべる

 よい教師は、説明する

 すぐれた教師は、やってみせる

 偉大な教師は、やってみようという気にさせる。

 

 

 しゃべる < 説明する < やってみせる < やる気にさせる

 

 「しゃべらない教師・説明しない教師・やってみせない教師が望ましいとは、どこにも書いていない。

「教えない」教師を理想とする根拠など、どこにもないのだが、「コーチング」=「教えない」=「説明しない」=「何もしない」という不自然な等式を勝手に作り出してしまう。

 

4)「丸投げ」では、力をつけられない。

 

『総合教育技術』11月号で田中博之氏が、学テ問題対策の「丸投げ」を批判している。

 少々長いが引用する。

==================。

 丸投げというのは、教員は机間指導で見て回ってアドバイスはするものの、基本的に「はい、これを解きなさい」と言って、子どもに自力で解かせるやり方です。 

 子どもたちが活用問題を解けない理由は二つあります。一つは論述して書く力が弱いことです。これは決定的な問題ですから、問題解決の過程や根拠を文章で書く練習をしなければなりません。もう一つは、どんな既習の知識や技能を使えば解けるのかを、正しく思い出せないことです。既に学習した知識や技能を活用せず、やみくもに解こうとしてもできませんから、「難しくてできない」と言い出すのです。

 かといって、「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまうのではないか」と懸念する先生方もいることでしょう。それは正論ですが、活用問題は難しいのです。丁寧な指導が必要です。(中略)

 授業中に補助輪付きの時間を、5分でもいいのでとってほしいと思います。活用問題はテクニックを覚えればできるわけではありません。一種のひらめきが必要であり、低位層の子どもがひらめくためには、どの知識が使えそうなのか、どんな公式が使えそうなのかなど、問題を解くために手がかりになるような既有知識を想起させることが重要です。例えば、必要になる既習の計算の技をヒントカードにして「ヒントが欲しい」子どもに挙手させて配るなど、見通しレベルの既有知識の想起をしてほしいと思います。

    「新学習指導要領を反映し活用問題を重視へ」より

===================

 

・・・田中氏の言う「丁寧な指導」は、子どもにヒントを与えて既有知識の想起を促すという意味では極めて「コーチング」的だ

 このコーチング的な丁寧な指導の対局が「丸投げ」だ。

 「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまう」とある。

 ダメなのは「教えすぎる」であって、「教える」ではない。

  教師の重要な仕事である「見通しレベルの既有知識の想起」を怠ってはいけない。

 

 蛇足で書くが、「教師が教える」代わりに「子ども同士の話し合いに委ねて、教師が何もしない」は、もっとタチが悪い。

 教師でも難しい「既有知識の想起を促すヒント」を子供に出せるわけがない。

 もし、利発な子が「そうだ、○○を使えばいいんだ」と発言して、みんなが納得したとしたら、それは「ヒント」ではなく「教え込み」だ。

 

 配慮のない教師、見通しのない教師、子どもに任せっぱなしの教師は、次の①②③を起こす。

 

①みんなの前で恥をかかせる

②意味の分からないこと・嫌なこと・難しいこと・失敗しやすいことをやらせる。

③つまらないことを我慢させる

 

 コーチは本人のやる気を促すべき存在だ。 だから、「テイーチ」より「コーチ」と言いながら何も教えない教師は、まさにコーチの真逆の存在だ。「テイーチ」より「コーチ」「ファシリテート」などと格好のいいことを言いながら、何も教えない教師は、何の価値もない。

 

※過去のブログを加えて再構成しました。

| | Comments (0)

«どの学級にもいる発達障害の子への対応