October 20, 2020

嫉妬を超えて祝福できるのが、真の友達


6年道徳「コスモスの花」は、初めて見る題材だった。


光村の指導計画には次のように書いてある
 

◆いじめを許さない心
【友達だから】 B(10)友情,信頼  13 コスモスの花

◆いつもは目立たない北山が,花を上手に生けたことで友達から 称賛され,それを快く思わない「ぼく」の姿を通して,友達とは どんな存在なのかについて考えさせ,真の友情を育て互いを尊重し合うよい関係を築いてい こうとする判断力や心情を育てる。
 

★友達とは,どんな存在なのだろう。

1 友達とよりよい関係を築くにはどうすればよいか,「コスモスの花」と「泣き虫」を通して考えていくことを知る。 

2 「コスモスの花」を読み,「ぼく」が北山に初めて抱いた 「北山なんて――。」という気持ちにはどんな思いがこもっているかを考える。

3 「ぼく」は,どうして「やめろよ――。」と言ったのかを考える。

4 友達とは,どんな存在なのかを話し合う。

5 「つなげよう」を読み,友情について描かれた本があることを知る。

6 P92「学びの記録」に記入する。

【道徳的価値の理解を基に多面的・多角的に考える】 

「友達とはどのような存在か」について,さまざまな意見を 聞き,自分の見方を広げている。

【道徳的価値の理解を基に自己の生き方について考える】 

友達とはどのような存在なのかについて自分なりの考えを もち,友達とよりよい関係を築いていきたいと考えている。

https://www.mitsumura-tosho.co.jp/kyokasho/s_dotoku/keikaku/30d_nenkei6.pdf

 

これは「いじめ」を扱っているの?

◆「ぼく」は、最初、北山を批判していたのに、みんなが批判したら急に「やめろよ」って、どういうこと?


という疑問を感じる内容だった。
実習生の授業を見ながら、結局本時では何を教えればいいのか良く分からなかった。
少なくとも、実習生は、ごくありふれた「真の友達」を自由に言わせたかっただけだ。


しかし、この作品を、自分の体験(仮想体験)で置き換えてみたらストンと腑に落ちた。
 

もし、一緒に野球をしている親友がレギュラーになり、自分はなれなかったとき、素直に祝福できるか
 

難しい。
だれにも、嫉妬とかやっかみの感情はある。
友達だけが称賛されているのを見て、心から祝福できるほどの度量が自分にはない。
 

本当の友情とは、「自分より優れた点のある相手を素直に受け入れること」だ。
 

「その子も良さを心から祝福できる、応援できる」そんな自分でありたいと今でも思う。

勝間和代の提唱した「三毒追放」を思い出す。

・妬まない・怒らない・愚痴らない

なるほど、たしかに誰の心にも「妬み」はある。
しかし、それを否定すると、妬みを抱いた自分が嫌になってしまう。
嫉妬した自分を責めるのは、酷だ。
 

「妬み」をゼロにしなくても、「称賛」する気持ちを表に出せばそれでいい。
「withコロナ」と同じ、「with 妬み」。三毒とも共存していけばいい。

元々、人間は弱い存在だ。思っていてもできないことが山ほどある。
 

教科書会社の本意ではないかもしれないが、この資料で友情を扱うなら、自分はそこに焦点を当てるだろうと思った。
 

「困っている時に助けてあげるのが真の友情」


というありきたりのメッセージを送る授業ではなく、
 

「相手の素晴らしさを心から応援できるのが真の友情」


を実感させる授業になるように仕込みたい。

それは多面的な価値を考えさせる授業ではないが、自分の持っていない価値観に触れる授業にはなると思う。
授業をやる以上は、明確な意図をもち、自分の願いをぶちけたい。


 

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October 11, 2020

虚礼は要らないが、ハレの舞台は要る!

コロナ禍で、多くの学校行事がなくなり、会議や会合がなくなった。
虚礼廃止の意識は、ますます強くなり、形式だけの集会は要らなくなった。

行きたくないのに無理矢理参加させられるような会議や宴会がなくなって、ラッキーではある。

「虚飾」はなくなり、「実」だけが残る風潮だ。

しかし、一方で、何でもかんでも廃止にしてよいのかという疑問もある。

歓送迎会で言えば、退職した先生に最後の挨拶すをる機会がないままになってしまったことは心残りだ。
形式だけの会であっても、そこでしか会えないような方もいて、それなりに価値はあったのだ。

甥っ子は4月に結婚式を挙げる予定だったが、延期したまま保留。
本校職員も来月入籍するが、式は全く未定。
結構式なんて要らないという人にとってはいい風潮だが、きちんと披露したい方にとっては残念だ。


「ハレの舞台(イベント)」というのは、

・子供を成長させる、
・気持ちを切り替える(気持ちの節目をつくる)
・成功体験を積む
・人前に立つ機会を積む


といったメリットがある。
大きな舞台に立った経験があるかないかは、その人の将来に大きな影響を与える。


本校で行った運動会の代替えとなる体育授業参観は、簡素なところが好評であった。
では、次年度も簡素化でよいか、学校なりの「ハレの舞台」を設定しなくてよいか、となると少し迷ってしまう。

少なくとも、高学年の演技を低中学年が見る機会をどこかで設定すべきだった。
参観当日は保護者で埋まるから、他学年は応援できない。
しかし、前日を、全校リハにすれば、子供たちは他学年の演技を観て刺激を受けることができたのだ。

虚礼は要らないが、「ハレの舞台」は要る。
そこはきちんと意識していきたい。

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September 19, 2020

Google for Education 事務局主催の「GIGA スクール構想実現に向けたオンラインセミナー」

Google for Education 事務局主催の「GIGA スクール構想実現に向けたオンラインセミナー」

  〜愛知県春日井市の事例から学ぶ,クラウド活用を点から面に広げる教員研修と授業実践〜  

 
9月19日(土)に開催された。

今日はZOOMではなく、YOU TUBEライブ配信(Google主催だからZOOMのはずはないか)。

発表された先生方、お疲れ様でした。

13:15 - 14:00 愛知県春日井市 事例紹介
14:00 - 14:15 Q&A セッション
14:15 - 14:45 まとめ  東京学芸大学 教育学部 准教授 高橋 純 氏
 

同じ春日井市でも、先進校は


◆1人1台環境が整い、
◆各自がGoogleアカウントを入手し、
◆G Suite、クラスルーム、チャット機能、グーグルフォーム、スプレッドシート、Jamboardを活用している

という様子が報告された。

先進校とはいえ、勤務するのはフツーの先生方だ。手探りで1つずつ実践を積み上げてきたことがよく分かる。
ただ、今後、先進校の実践報告や市の指示を待つのではなく、「できることから学校が独自の判断で進めていく」ことが大切なのだと実感した。先進校を羨ましく思ったって、仕方ないのだ。

市内の通常の小学校は、10月に5・6年生の全児童分のクロームブックが配付される。
どうせ全員分ではないのだからと、他学年の担任が気を緩めていると手遅れになる。
Googleの機能について、できる先生とできる先生の格差が小さい今だから、みんなで、手探り状態を助け合うことが可能になる。

子どもが活用する前に、職員が少しでも触れておき、先進的に取り組んだ先生の実践を共有していければと思う。

ちなみに、ZOOMの職員研修以外には何もアクションを起こしてこなかった本校だが、まずは、「後期児童会役員選挙の立会演説会をオンラインで行う」という企画をきっかけに、職員全員の意識改革を進めていく動きがある。来週、各教室での動作環境を確認することになっている。

「子どもに活躍の場を与えたい」が、職員を動かす格好のモチベーションになっている。

さて、今日の高橋純先生の総括で印象的だったのは、

①「たまに」ではなく「日常的に」
②「1人の先生」「1校」だけ先進的にすることよりも、地域全体での活用を
③高度なICTが日常に溶け込むかどうか、だから「使うか使わないか」の問題ではない。

「トケコミ」というカタカナ表記の言葉に、重みがあった。

一番の学びは、

◆GIGAスクール構想は本来「個別最適化」のためだ。

しかし、すぐに実践で使えそうなのは、「共同作業、共同編集、チャットによる意見交換(感想の添付)」などだ。

ということ。
互いの意見を交換する速度、互いの意見を取り入れて一つにまとめる速度が、圧倒的に変わる。

つまり「集合知」の効率化だ。

1人1台のパソコンが配付されると、ますます他者交流が深まるというのは、逆転の発想だった。

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ITソリューション 堀田龍也先生の講演

9月18日(金)14:00から、幕張メッセで行われたITソリューションの堀田龍也先生の講演に、オンラインで参加した。

ELMO主催の講演であったので、実物投影機の有効活用がメインになった。

この実物投影機の活用を主とした堀田先生のお話は、「IT技術と教育技術の融合」「アナログとデジタルの融合」という点で、すごく良かった。
ただし、翌日視聴した高橋純先生の言葉で言うと「擬似一人一台活用」の産物という点で、実物投影機というツールは、いずれ時代遅れになるかもしれない。
 

「ITの技術と教育の技術の融合」
 

実物投影機の使用注意でよく言われるのが「MAX ズーム=できるだけ大きく見せよ(余分な部分は見せるな)」だ。

教室の最後尾から見ると文字が小さくて見えない・画面が歪んでいるというのは、いくらITの技術があっても、教育の配慮はない・授業として成立していないことを象徴的に表している。「子供から見たらどうか」の配慮は、ICTの性能云々の問題ではないのだ。

若い先生は、ICTのスキルは高いが、教育的配慮の足りないことが多い。
ベテランの先生は、ICTスキルは低いが、教育的配慮の高いことが多い。
だから、職員研修を深めることで、若い先生がベテランの配慮を学ぶ絶好の機会になる。

「アナログとデジタルの融合」

「テクノロジーは変わっても、学習は変わらない」という指摘も腑に落ちた。

◆「お隣同士でノートを見せ合って話し合う」という学習が、今後PCになるだけのこと。
◆分かりやすくノート(アナログ)でまとめる学習が、今後PCになるだけのこと。

子どもが説明する(言語化する)スキル、人に分かるようにまとめるスキルは変わらない。
ノートや話し合いなどの「学び方習得の指導」は、デジタルになっても変わらないということなのだと理解した。

学び方を身につけさせることは、自分で行動できる子を育てる。まさに「主体的・対話的で深い学び」のできる子の育成だと堀田先生が言われた。
堀田先生が言われた「学び方が身についていれば、オンライン授業が成立する」というのは、裏を返せば「学び方が身についていなければ、オンライン授業が成立しない」という意味でもある。
堀田先生がTOSSを応援する理由がここにある。


※おまけ   過去ダイアリーより抜粋

昨年12月に名古屋で行われた堀田龍也先生の講演。
テーマは「AI時代の学校教育」。
以下、自分の文責でまとめる。

「手書きで書けなくはないよね」「紙でもできるのになぜICTを使わなければならないのか」「ICTを使わなくてもできるよね」と言ってしまったら、何も変わらない。

スマホで利用しているグーグル検索も地図アプリもオンライン予約も、昔はスマホがなくても可能だった。スマホがなくてもできるけど、あると便利。
ICTは、今までできなかったものがやりやすくなるための「道具」だ。

ICTが導入されたから、いきなりスキルが身につくわけではない。
ICTが学力を上げるわけでもない。
タブレットを見ながら相談する授業が成立するには、その前にお隣同士でノートや教科書を見合う授業が成立していないと無理だ。
スクリーンのデータを示しながら説明する授業が成立するには、黒板で説明する授業が成立していないと無理だ。
ICTは道具にすぎない。しかし、それでもICTに取り組む意義がある。

授業のまとめで毎時間PC入力させる学校があったが、もし、入力に不慣れなままなら、5文字打ってチャイムが鳴ってしまう。いつまでも、そのレベルではPCを使う意味はない。
でもやり続けているうちに授業のまとめが打ち込めるようになる。そうなったら、手書きノートとは全く違うさまざまな可能性が出てくる。時間はかかっても慣れてくれば、能力として活かせることができる。それが基盤能力。

使いこなせないうちは、基盤能力にならない。
やっていくうちにリテラシーができる。仕事ができるようになる。生活が便利になる。
だから、「紙でできることも、あえてICTで取り組む」には意味がある。

◆「『これからの教室』のつくりかた」で、堀田龍也先生の見解が示されていた。

こういうタブレットなどについて、「別に紙でもいいじゃないか」という議論は当然あります。もちろん、紙でもいいです。でも、やり直しができなかったり、色が付けにくかったり、あるいは、どのグループがどういう書きぶりで今書いているかを一瞥できなかったりします。タブレットだったら、授業支援システムでパーっと見られたり、ログに残ったり、再利用できたりということができる。そういう意味で、現在は「紙でできることを、何でICTでやるんだ」というひとがいるけれど、これからは逆に「ICTでできることを、何で今も紙でやってるの?」と、そうなると思うんです。(中略)

お互いの情報や考えていることを共有する。これは、ちょっと前まではこのように紙でやっていたわけですね。だから何も変わらないんですよ。この画像の左奥の子はタブレットでやっているんです。つまり、どっちでやってもいいんですよ。
ただ、タブレットでやると記録が残り、再利用ができるということですね。「前の理科の実験でも似たようなことがあったな」って言って、それを探して、「あのときこうだったよね、今回もこういうふうにやればいいと思います」みたいなことを、子どもが仮説的に言ったりするようなことが出てくる。「一人一台タブレットを持っていた方がいいんじゃないの?」と言われる所以は、過去の学習内容と今の学習をつなげて考えていくことがしやすくなるからです。
p82~84

・・・自分のうまく伝えられなかったことを、こんなにきちんと表現していてスッキリする。次ページには次のような発言もある。

ICTのほうが全然便利なのに、それをしないことを良しとするみたいなことがある。このことは若干、罪ですよね。だって子どもたちは日頃、デジタルコンテンツをたくさん触っているのに、学校に来たときだけ昭和のやり方をしなきゃいけないんですから。p86

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September 18, 2020

教育における「父性」と「母性」のバランス

 

「学校でもっと厳しくしてほしい」と保護者から言われることがある。
 
「父性」と「母性」の発揮の仕方が問われているのだと思う。
 
父性度の高さは例えば次のような傾向に現れる。
①妥協しない。簡単に許さない。
②ルールは厳正に守らせる。
③子供が乗り越えるための壁になる。
 
母性度の高さは例えば次のような傾向に現れる。
①まずは受け止める。受け入れる。
②厳しく叱らない。
③教師の穏やかで優しい対応が、しなやかな学級を育てる。
 
それぞれ短所もある。
 
父性的な先生は、大声で叱責し、威嚇するから、子供が怖がっている」というような苦情を受ける。
母性的な先生は「優柔不断で結局許してしまうから、しまりがない。子どもがわがままになってきた」というような苦情を受ける。
 
自分の傾向を知り、両方を使い分けることが大事だと言われているが、どの先生も自分の逆の立場からの批判を受ける可能性があると覚悟しておくとよいのかもしれない。
教師がチームになって、父性と母性の役割分担をすることが大事だと言われるが、学校の傾向としても、我が校が父性的か母性的か、分かれるのではないだろうか。
 
子供を受け入れて安心させる母性型の指導は、子供に嫌われることもないので実行しやすい。しかし子供が好き勝手するようになると歯止めがきかなくなる。
 
小学館の「小三教育技術」2017年10月号では次のような注意事項が述べてある。
 
【父性タイプの教師】
×強すぎる大声は子供を委縮させる。
×厳し過ぎるとクラスのムードがピリピリすることも。
×最近の子供は忍耐力がないので要注意。
× 干渉しすぎも子供が嫌う。
 
【母性タイプの教師】
×まずルールの守れないような子供にしてはならない。
×見守りすぎて手遅れにならないように。
×ときには理屈も出さないと、信用されない。
×許してはいけないことを見逃さない。
 
・・・バランスの問題ではあるが、今回は、保護者から担任の対応が「甘やかし」との批判を受けた。
「父性」の指導が足りなかったのだ。
 
厳しい保護者が求めるような「力の指導」をしろということではない。
 
向山洋一氏の言葉で言えば

「子供の中に権威を打ち立てよ」

だ。

「権威である。権力ではない。権力(たとえば腕力で)打ち立てた力は弱くもろい」と但し書きがある。
 
◆アドバルーンを叩く
◆ダメな場合はきちんとやり直しをさせる
 
といった指導の一貫性をこころがけ、子どもに不安や不信を抱かせないようにする。
その程度の「父性」を発揮しなくては、教室を統率することはできない。
なめられるような行為を繰り返せば、子どもが「この先生は、なめてかかってもいい」と誤学習するのは当然なのだ。

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September 15, 2020

あらためて「PISA読解力」を考える

2000年から始まったPISA学力調査
読解力の樹には2000年が8位、2003年が14位。
大きくダウンしたことで「PISAショック」と呼ばれた。
2005年に文科省が「読解力向上に関する指導資料」を作成した。それが前回の学習指導要領にも反映された(はずであった)。

国語雑誌もマスコミも「PISA読解力」を話題にした。

20年経ってみて、どうなのだろう。
読解力向上プログラムの時代に子どもだった先生もたくさんいるはずだが、それ以前の先生と指導に明らかな違いはあるのだろうか。

あらためて「PISA読解力」=「リーデイングリテラシー」を振り返ってみる。

(1)情報の取り出し
(2)解釈
(3)熟考・評価

「思考・判断・表現」という3点セットの学習指導要領の理念は、読解力の3つのプロセスに重なるところがあると判断できる。

PISAの読解力は、文章に内容を正確に読み取ったうえで「自分はどう思うか」の意思表示まで求められているというのは、カルチャーショックであった。
ただ、その後の学テの記述問題は、自分の意見を求めてはいたものの、それほど高度でもなかった。
また、市販の国語テストを見る限り、記述型の問題はなく、相変わらずの「読み取り問題」に終始している。

私学や中高一貫校など一部の入試では、情報を読み取り自分の意見を述べるような問題が出され、話題になった。

次年度より、満を持して大学センター入試でも記述式の問題が出題予定だったが、土壇場で延期(未定)になった。

採点の難しさなどが問題視されているが、要するに「読み取った内容に関して自分の言葉で意見を述べる」という指導をしてこなかったから、大学入試に出されたら困るというのが、現状なのだ。

2000年にPISA調査が始まってから20年。
2007年に全国学力テストが始まってから13年。
国語の授業は、世界標準の読解力に対応してきたのか、疑問なのだ。


さて、フェイクニュースに惑わされないという点で、「読解力」は、今まで以上に重要な能力になってきた。

OECD教育・スキル局長アンドレアス・シュライヒャー氏のコメントが昨年12月4日の中日新聞に掲載されていた。
見出しは「読解力はより重要な能力」。

 ========
 読むという行為の性質は大きく変わっており、今回の調査ではデジタル世界における読解力に焦点を当てた。
従来の紙の書物は専門家が内容を精査し、書いてあることは正しいと信じられていた。
しかし、インターネット上の情報は真偽が分かりにくく、答えも一様ではない。
複数の出所の情報を比較し、事実か違憲かの区別をつけることも求められる。
こうした意味での読解力を付けるには、デジタル機器をただ使うのではなく、どう使えばいいのかを教えることが大切だ。
フェイクニュースが広がる世界で読解力はより重要な能力になっている。
 ========

・・・そんな高級なことは望まない。たとえば、2007年にベネッセから出た「子どもの読解力がぐんぐん伸びる本」の中に、次のようなアドバイスがある。

 

◆単語でやりとりせず、主語と述語を盛り込んだ会話を

「わたしは、牛乳が飲みたい」


◆自分の意見に理由を加えさせる。

「どうして、そう思ったの?」

◆根拠と意見を文の形で言わせる

「太陽は東から昇るから、あっちが東だ」

◆比べることで違いに気づかせる

「比べてみようよ」

◆気づいたことの理由を確かめさせる

「どうしてだと思う?」

◆自分の経験を元に考えさせる

「同じような体験はあった?」

◆よく似た事例が使えないか考えさせる

「似たような例で考えてみよう」

◆考えてわかったことを言葉にさせる

「どんなことがわかった?」

◆わからなかったことも言葉にさせる

「何がわかって、何がわからなかった?」


このような「言語トレーニング」が常識になっているか。
2007年のこのアドバイスが今なお新鮮に受け止められるとしたら、「言語活動の充実」を目玉にした前回指導要領の10年間は、十分な結果を残さなかったということなのだと思う。

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September 10, 2020

子どもが熱中する場面を設定できるかが、教師の技量

「子どもたちの自立・自律・自動化」について、モンテッソーリは次のように述べている。

======================
教師にとって成功した最高の証は…

こう言えることです

「子どもたちは今, まるで 私などいないかのように夢中になっている」

つまり,教師の威厳などいらないのです。教師は学習の場そのものとなり,その子が黙々と何かに集中できていれば,それが理想の教育なのです

The greatest sign of success for a teacher...

is to be able to say,

“The children are now working  as if I did not exist.”


くしくもこれは,老荘思想でも

 
   最高の教師は教えない  ただそこにいるだけだ
 

とされているのを想わせます

https://tsuputon7.hatenablog.com/entry/2018/06/15/134541
=========================

・・・教師がいなくても「夢中になっている」=「集中・熱中している」、そのような場を設定できるかどうかが教師の腕の見せ所だ。
だから、自作のワークも、子どもたちはシーンとして取り組んでいるかどうかが、一つの評価基準になる。

ただし「最高の教師は教えない」と結び付けてしまうと、疑問がある。

マリアは「教える」のではなく「引き出す」ことが教師の役割と考えているのです

という記述もある。


「引き出す」ための何らかの指導がなければ、ただそこにいるだけで、何も始まらない。

「最高の教師は、教えてほめて、本人のやる気に火をつける」の後なら「何も教えない」という言葉の意味も分かる。

「最高の教師は教えない」という言葉だけが独り歩きしないでほしい。

 


関連するのが、昨年11月のダイアリー 「コーチングできるのが、優れた教師!」を再掲する。

「体育科教育」12月号にコーチングの話題があった。

 「主体性を引き出すアカデミック・コーチングのすすめ」
  菅原秀幸(アカデミック・コーチング学会会長)

 (1)テイーチングが「教え込む」のに対して、コーチングは「引き出す」であり、両者の方向性は真逆です。
 (2)コーチングの目的は、能力を最大限に引き出すために、適切な行動を自らとるように促すことにあります。

・・・educateの語源がラテン語の「引き出す」だから、コーチングの方が本来「教育」の本質なのだという言い分。
  テイーチングとコーチングの方向性が真逆だという菅原氏の次の一節がとても興味深い。

◆コーチングのスタートは、教育学を修めながら、テニス・コーチとして新しい指導方法を考え出したテイモシー・ガルウエイにあるとされています。その当時の指導スタイルは、模範的なプレーを知っているコーチが、命令形で教え込むというものでした。
 (中略)ガルウエイも、練習プランの作成から、スイングの仕方まで手取り足取り、こと細かに生徒に教えました。しかし教えれば教えるほど、生徒のもっている力が発揮されないことに気づいたのです。
  そこで、ガルウエイは、「教える」ことから「問いかける」ことへと指導方法を変えてみました。つまり、それまでの「ボールをしっかりよく見て打って」と教えていたのを、「飛んでくるボールの縫い目は、縦に回転していたのか、横に回転していたのか?」
 「ラケットにボールが当たる直前のボールの動きは、上昇中だったか下降中だったか」などと問いかけたのです。この結果、生徒はボールに集中し、もてる力を発揮できるようになりました。

・・・「問いかける」がコーチングの基本というなら、我々がめざす「優れた教師」は「コーチング」を含んでいることが分かる。
 我々は一方的に教えるだけの授業などは毛頭めざしていない。子どもの目の色が変わるようなすぐれた発問づくりに苦心してきたからだ。

 そもそも菅原氏は「教える」と書けばいいところを「教え込む」とネガテイブに表記して、イメージ操作している。

 すぐれた教師は「教え込む」を避ける努力をしている。
 子どもたち自身が気づき・考え、行動できるよう、発問を工夫し、授業展開を工夫し、場づくり・教材づくりに苦心している。

だから、教師は「一方的に教え込む存在」、コーチは「引き出す存在」という対立構造そのものがミスリードなのだ。

◆「教える」ではなく「問いかける」ことで、力を最大限に発揮できる状態を作りだす、これがコーチングの基本であり、それをになうのがコーチです。

とあるが、「教える」と「問いかける」は対立概念だろうか。

 「問いかけることで、教える」が、我々が取り組んでいる授業展開だから、次のように言い換えられる。

※「問いかける」ことで「教えたい内容」を習得する状態を作りだす、これが「教える」の基本であり、それをになうのが教師です。

  

宇佐美先生が主張した発問の「間接性の原理」は、まさに「教えないで教える」であったのだと理解している。

ところで。
  
「これからはコーチングの時代だ」と、子どもに丸投げしている教師がいるとしたら、それでは「コーチ」の仕事をしていないことが分かる。

「子供に気づかせる努力・発問(質問)の工夫」を怠る者は、コーチでも教師でもない。

 「教え込む」より「気づかせる」の方が、実は手間がかかるし、指導の腕も求められる。
 コーチングには、その「気づかせる」が求められているというのに、「教え込む」よりもはるかにレベルの低い「教えない(何もしない)」をやろうとしている教師がいるとしたら、それは、まさに「コーチング」とは真逆だ。


  何もしない < 教え込む < 問うて気づかせる

 「コーチング=教えない」を口実に、ただサボっているにすぎない。まさにコーチングの歪曲だ。


  我々がめざすべき「すぐれた教師」は、子どもの能力を最大限に引き出すために努力と工夫を続けるのだから、「コーチ」を含む存在だ。

というのが、今回の自分の結論だ。

  部分的に抜粋したので菅原氏の真意とはズレるかもしれないが、「コーチ」よりも「教師」の方が求められているのだという思いを強くした。

  菅原氏の論稿の冒頭は、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉を引用している。

◆平凡な教師は、ただしゃべる
 よい教師は、説明する
 すぐれた教師は、やってみせる
 偉大な教師は、やってみようという気にさせる。

 しかし、自分の都合のよい解釈をする怠け者教師は、教師とは「しゃべらない・説明しない・やってみせない」が望ましいのだと豪語する。
「やってみようという気にさせる」=「教えない」とは、どこにも書いていない。
「教えない」教師を理想とする意味はどこにもないのだ。

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September 09, 2020

2つ以上の例を調べないと、科学ではない。

算数の授業参観ダイアリーの続き。

平行四辺形の特徴を調べるために、教科書には2つの図形が示してある。
計測結果を書き込みできるようにと準備したプリントにも2つの平行四辺形が載せてある。
子どもには2つの平行四辺形について取り組ませていたが、教師がまとめる段階では1つの図形しか扱わなかった。

「そうだね、向かいあった辺の長さは同じだね。」
「向かい合った角の大きさも同じだね。」

・・・これは科学的におかしい。

1つの図形の辺と角を調べて、平行四辺形の普遍的な特徴を断定できるはずがない、
たまたまその図形だけに言える特徴かもしれないからだ。
2つの図形で計測するから、共通した特徴を見出すことができる。

「あ」の図形で言えた特徴を、「い」の図形でもあてはまるかを検証するから、意味があるのだ。
「あ」と「い」の2つの図形でも信じられなかったら、別の図形を持ってきて検証すればいい。

教科書にある「2つの図形」には意味がある。

時間の都合で1つで終わらせてはいけないのだ。

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「調べる」を「見える化」する

4年生の算数の授業を参観した。

「平行四辺形の辺や角の大きさを調べ、性質について理解する」

本時の目標は「辺や角に着目して、平行四辺形の性質について調べたり説明したりしている」

黒板に書いた本時のねらいも「辺の長さや角の大きさを調べて、平行四辺形のとくちょうを見つけよう」

2つの平行四辺形の載ったプリントを配付して作業を促した。

プリントの図形に計測した数値を書き込むものと思っていたが、多くの子は、その書き込みがなかった。

指導案では「特徴を調べる」「特徴についてみんなで話し合う」とあり、「計測する」と明記してない。

つまり、先生自身も「計測させる・計測した数値を書き残す」という強い意志がなかったのではと思う。

辺の特徴を調べるのに、定規ではなくコンパスを使わせていたが、これは、数値の計測より、どこが等しいか調べることが主眼だったからだ。

この授業における「調べる」は、次の3点が主になる。

①計測する 

②計測した数値を見比べる 

③計測した数値から言えることを考える 

 記入された数値をみれば、同じ数値があるから、色分けしたり丸で囲んだりすれば、個々の「気づき」を促すことができる。

 

本時の「調べる」行動を「見える化」するには、まずはプリントに「計測した数値を書き込む」が必要だった。

全員に数値を記させて、全員に気づきを考えさせる・・これが、本時の「全員の原則」だ。

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学習のまとめは「わかったこと」しかダメなのか?

ある学年の理科の学習プリントを見たら、実験の後に「わかったこと」を書くことになっていた。

記入内容は「わかったこと」でなくてもよいのでは? と思う。

①分かったこと。

②分からなくなったこと。

③疑問に思ったこと・解決してみたいこと。

④家で調べてみたいこと。

⑤今度の授業で実験したいこと。

などを書いても良いことにすればいい。

 

「分かったこと」だけを書かせると、お利口さんしか活躍できない。

「分かったこと」以外に、面白い疑問や課題を書いた子がいたら、みんなの前で発表してあげれば、他の子にも波及する。

 

せめて 記入欄を「分かったことなど」にして、思ったことも含めて自由に書かせると、人と違った発想をする子が活躍できる。

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August 14, 2020

物語の「題名」の分類は作文指導にもつながる 〜「ベストセラーコード」④〜


「ベストセラーコード」の第5章には、題名の分析・分類もあった。

「タイトルの価値」という項目から抜粋して整理する。P204から212
元が洋書なので「A」と「The」の冠詞の違いの指摘などは、日本では不要であるが、それだけ新鮮であった。

(1)タイトルが「物語の展開する場所」

「コールドマウンテン」「シャッタシャッターアイランド」など。

◆著者がタイトルで場所を指定すれば、読者はその環境ならではのストーリを期待することになる。そうでなければそのタイトルをつけた意味がない。

◆タイトルとストーリーがうまく噛み合えば、タイトルの場所はストーリーを推し進める役目役割を果たす。小説を読み終える頃には、読者はその場所に愛着を感じるようになっているだろう。


(2)タイトルが「出来事」

「アクシデント」「ワンデイ」「キス」など

◆その出来事がプロットの中心になるだけではなく、物語の根本に関わる深い意味を持っているのでは、と思うだろう。

◆おそらく、その瞬間、その日、そのキス、その事故を境に、全てが変わってしまうのだろう。登場人物はそうした状況に対応したり、逆らったり、順応したりすることが運命づけられる。
 

(3)タイトルが「物体」

①何か特定の言葉が加わる場合

:「ドラゴンテイアーズ」は、ただの涙ではなく「ドラゴン」の涙
:「悪しき遺産」はどこかの遺産ではなく、「ブーリン家」の遺産
:「ダヴィンチ・コード」はただのコードではなく、「ダヴィンチ」のコード
 

②平易な言葉を2つ並べて関係を示し、読者に疑問を抱かせる場合

「サーカス像に水を」「琥珀の中のトンボ」など

◆象は水が飲めない状況なのか、なかにトンボが入った琥珀って何、と疑問が湧いてくるだろう。


③タイトルが単語1つ

「ゴールドフィンチ」「法律事務所」「ザサークル」など

◆冠詞は、「A」よりも「The」の方が圧倒的に多い。

◆タイトルの名詞が珍しいものだったり、何か特性されるものだったりする場合には、一般的なものであることを示す「A」をつけることで、普遍性や比喩的な意味合いを付加することができる。

④「A」も「The」もないタイトル

◆個別化を避けることで、テーマを比喩的に表現している。しかし「The」で始まるタイトルが最も広角的であることは間違いない。
 

(4)タイトルが人物

◆「ゴーンガール」のようなタイトルを見れば、読者の関心は自然と恋したい者としての登場人物に向かうだろう。

◆私たちが集めたベストセラーの5分の1は、登場人物を示すタイトルになっていた。
といっても、主役の名前そのものがタイトルになっているものはあまりない。(中略)
こうしたタイトルが示しているのは、その小説が、物語を最後まで引っ張る力を持つ、1人の登場人物を描いたものであるということだ。読者は、物語の原動力となるその人物の内面を知ることになる。

◆小説が勃興した18世紀から19世紀にかけては、人の名前をタイトルにした作品が多かった。これに対して今は何らかの言葉が出されていることが多い。

「ジェイコブを守るため」「フランクを愛して」「アレックスを殺せ」

これらのタイトルは、主人公の描写以上のものを示唆している。主人公の名前はプロットを構成する基本要素と結びつき、2つが一緒になって物語を作っている。

◆しかし主人公の名前をつけたタイトルより、その役割や地位を示したものの方がはるかに多い。

「アルケミスト(錬金術師)」「ゴーストライター」

タイトルはうまく選択できれば、行為主体性を前面に押し出し、それによって物語の中のアクションやドラマを際立たせ、さらに物語の構造、焦点、推進力、魅力を伝えることができるということになる。

・・・などなど。
題名が「人」「時」「場所」「主題」「クライマックス」に絡むことは、およそ理解できていた。ベストセラーとなるような作品は、読む前から読者を引き込むための仕掛けを「題名」に込める。
「題名」一つで、その本を読むか読まないかが決まることもあるのだから、題名の価値は大きい。

それは、作文活動(表現活動)でも同じことで、「夏休みの思い出」「楽しかった運動会」「『ごんぎつね』を読んで」のような平凡な題名をつけて満足させてはならない。

冒頭に書いた「A」「The」の違いで言えば、日本語の場合は

「あの日の出来事」
「ある一日」
「その日が来るまで」
「この日を待っていた」


のような指示語の使い方によっては、読者を惹きつけるのではないだろうか。

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ヒーロー・ヒロインの「動詞」の特徴 ~人格は運命なり~



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「ベストセラーコード」(日経BP社) は、「テキストマイニング」によってコンピューターがヒット作品の傾向を分析した様子を描いている。トピック構成、プロット、文体、キャラクターなどの傾向から新たなベストセラー作品を予測する。
 
第5章の「ノワール 『ガール』は何を求めているか」の章は、人物キャラクターの分析である。

強いキャラクターには行為主体性(エージェンシー)がある。パワーがあり、動機があり、推進力がある。その力を駆使して何をするか、そしてどういう邪魔が入るか、というのが、キャラクター重視の小説の読みどころだ。P215

この後のキャラクター分析を読んで感じたのは、主人公であるヒーロー・ヒロインの行動は、確かに小説の中の出来事ではあるが、現実世界でも、やはり憧れの行動になる点だ。
魅力ある人物の「行為主体性=エージェンシー」を分析するために、コンピューターは「動詞」に着目する。
 
◆そのキャラクターがどういう人物なのか、読者が判断するための手がかりは外見、性別、人種などたくさんある。しかし、その人物の行動を見るまではその人を本当にわかったことにはならない。この研究において私たちが知りたいのは、ベストセラーにつながる動詞、行動があるのかどうかと言うことだ。217ページ

◆ベストセラーの主人公は男女問わず、必ず何かを必要として(need)いて、それを表明している。必ず何かほしがって(want)いて、読者は主人公が求めているものを知る。needとwantは、ベストセラー小説には欠かせない動詞なのだ。
(中略) 
ベストセラー小説の世界では、登場人物は自らの行為主体性を自覚し、コントロールし、表現する。使われる動詞は迷いがなく、自信が伴っている。彼らはつかんで(grab)、実行し(do)、考えて(think)、訊いて(ask)、見て(look)、離さない(hold)。そして、愛する(love)。彼らは自分をよくわかっている。自分自身を好きであるとは限らないが、自分をしっかりと持っている。自分の人生を生きて、ことを起こす。ベストセラーのキャラクターは男女問わず、伝えて(tell)、好み(like)、見て(see)、聴いて(hear)、笑って(smile)、達成する(raach)。そこにはエネルギーがある。引いて(pull)、押して(push)、何かをはじめ(start)、働いて(work)、知り(know)、そして到達する(arrive)。ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに載るキャラクターは、目的と能力と自信を持ちあわせている。一方、リストに乗らなかった小説では、これらの動詞が見られる回数は少なくなる。
 
 自信を持って行動するキャラクターとは対照的なキャラクターを見てみよう。モデルが抽出した結果によれば、彼らはあまり何かをしようとせず、求めず、行動せず、語らず、達成しない。そのかわり、立ち止まり(hart)、諦める(drop)。ところが読者は、一方的に要求しながら(demand)、見かけだけではっきりせず(seem)、じっと待って(wait)、邪魔をする(interrupt)キャラクターにはつきあいたくはないと思っている。読者は見かけだけではなくてはっきりさせて欲しいと思っている。
待つのではなく、行動してほしいと思っている。要求して邪魔をするのではなく、自信と品格を持ってほしいと思っている。魅力のないキャラクターは、男でも女でも、声を張り上げて(shput)、放り投げ(fling)、突然向きを変えて(whirl)、相手を押しのける(thrust)。勘弁してほしいと思うだろう。さらには、ぶつぶつと文句を言い(murmur)、抗議して(protest)おきながら、ためらう(hesitate)。読者は呆れるに違いない。これらの動詞は物語の主人公というより、ぐずる子供のためのものだ。「ためらう者は機会を逃す」というが、小説にもあてはまるようだ。「ためらい」はページをめくらせない。あなたが小説の登場人物で、立ち止まったり、あきらめたり、ためらってばかりいるとしたら、それは空白のページを生み出しているに等しい。P221~222
 
・・・この後もキャラクター分析は続くが、要するにヒーローヒロインの積極的な生き方が読者の支持を得ることが分かる。
ベストセラー小説から列挙された動詞を見るだけで、「アクテイブ・ポジテイブ」が感じられる。
それは無論小説だけのことではない。日常生活においても積極的な生き方をする人物が求められ信頼されることの証だと思う。

我々教師は、現実社会の中で、子どもに良い意味で影響を与える「行為主体性」を持っていたいと思う。

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「文体」がいかに重要か 〜「ベストセラーコード」②〜

『斉藤喜博を追って』の少し長いあとがきで圧巻だったのは向山洋一氏の文体選定の場面であった。
 向山氏はこれまでも、5つの文体を内容によって使い分けてきたと述べている。

①論文風  ②大衆小説風  ③美文風   ④叙述風   ⑤私小説風

※註: それぞれの具体例となる文章に納得します。ぜひ原文をご覧ください。

◆これらの文はむろん内容によって違ってくる。逆に言えば文体によって、内容も限定されてくる。

※註: それぞれの文体の活かし方の解説に納得する。ぜひ原文をご覧ください。

 以上の五つの文体のどれにするかを悩んだのである。

◆つまるところそれは、何を表現するかと言う事でもあった。

という部分にしびれたことを思い出す。

A 教育論を書くのか
B 学校での出来事をパノラマ風に書くのか。
C 教師の心情を書くのか。
D 事実の描写とその分析を書くのか。
E 教師としての歩みを書くのか。

・・・そして、最後は「私小説風」の文体を選んだと言う。
 
文体を意識する、文体を選ぶとは、これほど重要な作業なのだ。
 
 
 さて、『ベストセラーコード』(日経BP社)の第4章「デビュー 句読点は語る」は、まさに文体研究であった。
有名な作品の冒頭の一文を列挙する箇所を読んでいて、向山氏のあのあとがきを思い出した。
 
作家の文体をコンピューターで研究するのは、応用言語学の一分野で、計量文献学とも呼ばれているそうだ。これによって作者不詳の作品を誰が書いたか推定することも可能になる。

「人は誰でも言葉に指紋、すなわち文体を持っている」 P155

という指摘も魅力的だ。the やof の使用回数というようなかなりマニアックな分析も行われている。
 
◆数千冊の本を、ベストセラーメーターに読ませて、こうした文体の基本要素をチェックさせてみたところ、売れる本に特有のパターンが明らかになった。もっともよく使われる単語や句読点を491個チェックしただけで、コンピューターは70%の確率で売れる本と売れない本を正確に区別したのである。p180
 
◆要するに、文体は重要だということだ。プロットやテーマ、登場人物を届ける手段である文体は、機械的なものであると同時に有機的なものでもあり、持って生まれた才能と後天的に身に付けた技術が結合して生まれるものである。p160
 
◆作家の文体を操る力量は冒頭の1文に現れると思うのでここでは有名な3作品を見てみよう。(具体例略)
これらの文のどこがよいのだろうか。まずひとつには、3つともこの最初の一文から声が聞こえることだ。長さ、句読点、簡素さに注目してほしい。誰かが私たちに話しかけていて、それがリアルに感じられる。そこにはある種の力がある。ためらいも迷いも不安もない。作家には個性を作り出すいう課題がある。それが魅力的であろうとなかろうと、とにかくそれが小説の中に存在し読者を引っぱっていく限りは、小説は読んでもらえる。大勢の読者をつかむ作家というのは、さりげなく文体をコントロールしながら、一文目から読者にこの個性の存在を感じさせる。p161〜164
 
◆最高のオープニングとは、純文学だろうが娯楽小説だろうが関係なく、300ページの物語がはらむ対立のすべてを20ワード以下の一文に盛り込んだものだ。作家は文法を駆使したり、わたしたちには思いもよらない言い回しを使ってそれを成し遂げる。p169
 
◆こうした文体の微細な特徴を、作家ごとに分析したところで大きな発見にはならないと思われるかもしれないが、実際には集めるうちにベストセラー小説のパターンが浮かび上がってきた。I wouldの代わりに、I‘d、 You areの代わりにYou'reを使う事は、皆が思う以上に重要なことだと分かった。形容詞と副詞、特に形容詞は使われる頻度が低いということもわかった。つまり、売れる小説は、余計な言葉を含まずに、より短く簡潔な文で成り立っているということだ。余計な従属節で飾りたてる必要もなければ、名詞を3回言いかえる必要もない。動詞のあとに「ly」で終わる単語を続けるのも好まれないようだ。p184


・・・付箋だらけになってしまった。どこも外せない。翻訳者の文体が優れているから魅了された。

およそ30年前に『斎藤喜博を追って』のあとがきを読んだときに見抜けなかった「文体論」の価値が、今になって、少しだけ分かった。

これもまた「向山実践」のバックボーンと言えるだろうか。夏休みの成果である。

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物語の展開(プロット)を考える 〜「ベストセラーコード」①〜

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​『ベストセラーコード』(日経BP社)は、たまたま目にした1冊だが非常に興味深いものだった。


「テキストマイニング」によって、コンピューターがヒット作品の傾向を分析する。
そして、トピック構成、プロット、文体、キャラクターなどの傾向から新たなベストセラー作品を予測する。
 

◆小説であれ、映画であれ、舞台であれ、物語の基本は3幕構成であり、それは古代ギリシャの時代から変わらない。一般的には設定、対立、解決と言われており、簡単に言えば、ストーリーが盛り上がり、クライマックスに達し、その後収束する、という流れになる。この基本を身に付けている作家であれば、物語の3分の1のところで話を転回させ、さらに3分の2のところで再び方向を変えることを意識するだろう。129ページ

・・・ストーリーのパターンについて読んでいて、手塚治虫の作品傾向からAIが作成した「ぱいどん」を思い出した。
TEZUKA2020の企画は、多くの手塚作品から、AIが、手塚らしさを抽出し新作を作り出そうとするもので、ヒット小説を予測する「ベストセラーコード」の過程とよく似たプロジェクトだ。

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物語の展開は「発端」「展開」「結末」の3つに分けられ、さらにその中で「日常」「事件」など13の段階に分けられるということがわかりました。

日常 事件 決意 苦境 支援 成長 転換  試練 危機 糸口 対決 排除 満足

映画など大方の作品はこの13個のパーツで収まっています。
つまり、この流れに基づいていれば、少なくとも一貫性があった話として、腑に落ちるプロット(あらすじ)になる可能性が高いということです。

手塚治虫の新作漫画に挑んだ裏側 ーAIを活用したあらすじ&キャラクター生成 2020年7月3日
https://ainow.ai/2020/03/06/190130/
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・・・「フェイズ」=局面は、馴染みのない言葉だったが、この13の「フェイズ」は、「プロット」のパーツと言えるだろうか。

「ベストセラーコード」では、「プロットライン」という言葉が出てくる。「小説の中で描く登場人物ひいては読者の感情の浮き沈み浮き沈みを示したもの」の意味で、この「フェイズ」と「プロットライン」がよく似ている。
この「プロットライン」は、「センチメント分析」と呼ばれる「感情の分析」に通じるもので、感情の起伏がグラフ化される。これも初耳。

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◆感情といった目に見えないものをどうやってとらえて、書きあらわしているのだろうか。実は、自然言語処理の世界には感情のアップダウンをとらえて、曲線で表現する方法がすでにある。センチメント分析と呼ばれるもので、実際にオンライン映画や商品のレビューの分析などに利用されているが、私たちは同じツールを使って物語も分析できることに気づいた。簡単に言えば、ポジティブな感情をあらわす言葉とネガティブな感情をあらわす言葉に注目しながら物語を読むことをコンピューターに教えたのである。p145

◆物語の中でこうしたポジティブな感情とネガティブな感情は積もったり、消散したりする。小説はそれぞれが独自の旅であり、著者は困難にぶち当たったり、乗り越えたりする登場人物を通して読者に様々な感情を体験させる。こうして積み上がった感情はストーリーにとっての句読点となり、コンピューターが発見する感情の高みや落ち込みは重要な転換点になる。こうしたデータを使ってコンピューターはグラフを描く。
 たくさんのプロットラインを分析してみて、ベストセラーは基本的な3幕構成のいずれかの形を取っていることがわかった。147ページ
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・・・第3章 「センセーション 完璧なカーブをどうやって作るか」は、ベストセラーとなる作品のプロットラインには7つのタイプがあるというもので、この図を見たとき、いわゆる「心情曲線」の事かとびっくりした。

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ちなみに、「ダヴィンチ・コード」のフェーズは次にように分析されている。
 

講演会 →死体発見 → モナリザの謎を解く →ファーシュから逃げる → ソフィーが謎を解く
→ テイーピング宅襲撃 → テンプル騎士団の謎が解ける → レミーとシラス→ すべての謎が解ける


・・・心情曲線は授業で使ったことがないが、使った授業を見たことはあるし、実践記録をWEBで見たことがある。
「プロットライン」「センチメント分析」など、これまで自分がやらないからと軽視してきたが、馬鹿にできないかもしれない。

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「想定外を生き抜く力」は教育によって培われる 〜情報リテラシー〜


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2011年5月の雑誌WEDGEが出てきた。東日本大震災を扱った1冊で、特集タイトルは「『想定外」を生き抜く力」。

◆岩手県釜石市では、市内の小中学生、ほぼ全員が津波の難を逃れた。多くの者たちは、これを「奇跡」と呼ぶ。しかしそうではない。教育で子供たちが身に付けた対応力が「想定外」を乗り越えさせた。

という片田敏孝氏の特集記事は

「奇跡」という言葉は「思考停止」につながる

ことを教えてくれた。いつか来る災害に備えて防災教育を重ねてきたからこそ、多くの学校で避難ができた。
そのことを、今の「コロナ騒動」に置き換えたら、何が言えるだろうか。

(1)新型コロナウイルスについては、当初より「正しく恐れる」と言われてきたが、今は明らかに「正しく恐れる」を逸脱している。大半が無症状の感染者数なのに、連日の数の多さに大騒ぎしている。死者や重症患者の数で言えば熱中症の方が心配ではないか。

(2)今のような「コロナ騒動」を防ぐには「情報リテラシー」が必要である。
  「正しく恐れる」ができないのは、「ペスト流行」や「魔女狩り」まで遡るから、日本だけの問題ではないし、今に始まったことではない。動物は噂に惑わされないから、これは人間にとって極めて根源的な問題なのだろう。今回だって、マスク、トイレットペーパー、ヨードうがい薬が品切れになっており、いかに情報リテラシーが欠けているかがよく分かる。

(3)ネットでは「芸能人のコメントはいらないから専門家の見解を聞きたい」とか「こういう(逆の)意見があることをマスコミはきちんと流すべきだ」というコメントがある。マスコミの報じ方がバランスを欠いているのだから、我々は自衛策を取らねばならない。
 先の「WEDGE」には「ハザードマップを信じるな」とも書いてある。P33

防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えた事は、端的に言うと「ハザードマップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリオに過ぎない。最後は、自分で状況判断し行動し、行動することの大切さを伝えたかった。

・・・トレースしたら「マスコミ報道を信じるな」となる。マスコミの情報に惑わされるのも自己責任だが、少なくとも芸能人コメンテーターの言葉を疑ってかかる世の中でありたい。

(4)だからこそ、教育の重要さ(批判的思考力の重要さ)が問われている。
「教科書や資料集、教師の言うこというが全て正しい」などと教えてはならないし、重要な話題については多面的に情報を収集する習慣を教えねばならない。

WEDGEには、次のような記述もある。P33
 
◆どれだけハード整備しても、その想定を超える災害が起きる。最後に頼れるのは、一人一人が持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることができる。

「教科書だってあてにならないぞ」という小さい頃の体験があれば、テレビや新聞の報道もちゃんと疑ってかかることができる。
「正しく恐れる」が可能になる。

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«新学習指導要領が求める「クリティカル・シンキング」