堀田龍也先生も愛読していた「授業の腕を上げる法則」

 春日井市の小中学校で指導・助言をされてきた堀田龍也教授(東北大学)は、初任の頃、「授業のあげる法則」(向山洋一著)を一気読みし、「教室ツーウエイ」のバックナンバーを買いそろえていたそうです。

その「授業の腕をあげる法則」の前書きには、次のように書かれています。

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「愛情と熱意が大切です」「自分の授業から学びましょう」「教師の技術は苦労して盗むものです」
 これは確かに大切なことです。 でも、あまりに漠然としています。一体何をしたらいいのか分らないのです。

 手のつけようがないからです。

 まず何をしたらいいのか。次に何をするのか。それをどのくらいやればいいのか。 その結果、どの程度の技量が身につけられるのか。

 こういうことを求めていたのです。(中略)

 いかなる仕事にも「一人前になるための修業の方法、学習の方法」はあるのです。

 ところが、教師の世界には、それがないのです。みんな「無免許」で運転を始めるのです。もちろん教育に関する学問を学び、試験を通過した人なのですから「無免許」は言いすぎですがペーパードライバーということは言えると思います。 

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・・・かつて明治図書から発刊されていた向山氏の著書は、現在、学芸みらい社から復刻の形で出版されていますが、書店ではなかなか見ることがありません。「教室ツーウエイ」も廃刊となり、教育書コーナーも随分スペースが減りました。

 ただし、TOSSランドは健在です。https://land.toss-online.com

 堀田教授も学んだ「授業の腕をあげる法則」や「教室ツーウエイ」のエッセンスをお伝えし、「どうやったら教師の腕があがるか」「何をどのように努力していけばいいのか」という疑問にこたえていきたい。そのようなブログを目指しています。

 一生懸命勉強を教えて、子どもが「分かった!」「できた!」と言った時の嬉しそうな笑顔、それはこの仕事を続けていく上での大きな原動力です。
 しかし、そのような腹の底からの実感を得るためには、やはり教師が学び、「授業力」や「統率力」を身につけないといけません。また、最近では「特別支援を要する子への対応力」を身につけることも不可欠になってきています。子どもを取り巻く現状は昔に比べて大きく変わっていますが、熱意をもって真摯に学べば、必ず大きな手ごたえを得られます。その一助になればと願いブログを続けています(別の媒介にした方が、成果はあるのかもしれません。それは検討中・模索中です)。

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September 23, 2022

スーパーマーケットと商店街

春日井市の勝川駅前には商店街がある。

スーパーマーケットもあるし、大型ショッピングセンターもある。

もちろんコンビニも、ドラッグストアも。ちょっと出かけると「コストコ」もある。
3年生の社会科には「スーパーマーケット」の単元があるが、地域学習が主体だ。
だから、本当は地元商店街もしっかり合わせて伝えてほしい。
今なお、商店街が存続するというのはすごいことだ。
そして、さまざまなお店が共存するということは、それぞれにニーズがあり、固定客がいるということだ。
多くの消費者(家庭)は、それぞれのお店の特徴を理解して、使い分ける。
さまざまなお店を使い分けるのが賢い消費者なのだと思う。

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September 22, 2022

深く学ぶと「分からなくなる」が増えることもある。

道徳ワークシートで、「わかったこと」を書く場合がありますが、いつも「分かる」とも限りません。

授業を受けていくうちに分からなくなることもあるからです。

例えば、困っているお友達を助けようと思っていたが、本人が甘えてしまうから助けない方が良い場合。

どっちが正しいかは決まりません。

正解がないから、相手の意見を聞けば聞くほどどうしたらいいか分からなくなります。

その場合、「今日のわかったこと」は、「簡単には決まらないことが分かった」というようなスタンスになります。

モラルジレンマの資料は、むしろAかBかが簡単に決められないところに意味がありまず。

資料によっては、定型のワークが合わないかもしれません。

資料に応じて適切な振り返りをさせてください。

どの教科でも調べて終わりではなく、調べれば調べるほどわからなくなる奥の深さを伝えて欲しいです。

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「言わずとも分かれ」のジレンマ

ある古い文庫に、『冷えた天丼』と題した短いエッセイがあった。

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夜遅く夫が帰宅すると食卓に「冷えた天丼」が置いてあった。夫は、疲れて帰って来たんだから、せめて温めてほしいと思っている。でも、そんなことを口にするのはプライドに関わるから、口にしない。口にはしないが、不満をくすぶらせている。この男の愚痴に付き合った筆者が「冷えた天丼」が嫌なら「『温めて』と言えばいいのに」というと、彼は、次のように怒る。「言わずとも分かれ。言って分かられたってそれがなんなんだ、ってことなんだよ」

『男がいてもいなくても』久田恵(講談社文庫)1996年初版

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・・・「言わずとも分かれ」という気持ちはすごくよく分かる。

言われる前に自分で気づいて行動してほしいと思う。

この「やってほしいなら、ちゃんと言えばいいじゃん」と「言わずとも分かれ」の対立は、実はとても根が深い。

かつて、学年集会でも、集合してから静かになるまで教師は黙っているようにした。

「『〇〇しなさい』と注意されなくてもできるはずだから」というように話をした。

ただし、このやり方はハードルが高いので、意図が伝わらないと、いつまでも静かにならない。

結局、最後に大声で怒鳴るという失態に陥ることがある。

そもそも「注意したくないから注意しない」では、指導の放棄にすぎない。上記のエッセイの場合は、男と女のすれ違いだが、次のような対立に置き換えると、上司と部下のすれ違いになる。

◆「分からないなら聞けばいいじゃん」 と 「困っているんだから察して下さいよ」

◆「やる前に一言相談してよ」 と 「やられて困るなら事前に一言いっておいて下さいよ」

◆「そんなの常識だろ」 と 「常識と言われたって困ります。どこにも書いてないですよね」

上司と部下が、互いに一歩を踏み込まないと、ぽっかり穴が開いて大惨事を引き起こすことになる。

 「忖度」や「あうんの呼吸」に依存すると、痛い目に合う。久田氏のエッセイには、次のような場面も出てくる。

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会社から書類を持ち帰って夜遅くまで仕事をしていた夫が、受験生の息子の夜食を食べてしまった。息子が怒り、妻が夫に「謝れ」と言ったという週刊誌の記事を読んで、久田氏は次のように書く。

夫は家族のためにつらい思いで働いているのにと思い、妻は家族のために自分のやりたいいろんなことを我慢してやってあげているのにと思い、息子は親のために受験勉強をしてやっているのだぞと思い、お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていったのだろう。(P23)

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・・・「言わずともわかれ」のトラブルも、「お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていった」とリンクする。

「言葉が足りない」は、単に言葉の有無の問題ではなく、要するに「感謝や愛の有無」の問題だ。

部下に対して「困っていないかな・分からないことはないかな・初めてだけど大丈夫かな」という配慮があれば「分からないことがあったら聞けばいい・聞かない方が悪い」という横柄な態度にはならないはずなのだ。

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かば焼きの匂いは鰻屋の前で捨ててきた!

 鬱傾向の保護者は、いくら吐き出しても、すっきりできず、しばらくするとまた同じ内容について不満を言い始める。

 「過去を引きずって今を生きられない」という意味では、ひどく窮屈で残念だと思う。

 さて、禅に関して何冊か本を読んだ中の1つに一休和尚のエピソードがある。

 本はみつからなかったが、ネット検索で同じ内容がヒットした。

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逸話の多い禅僧のひとりに「一休禅師」がおれらます。ある日、お弟子さんと檀家の法事に参られる途中、たまたま「うなぎ屋」の前を通りかかったときの話です。店の中からおいしそうな鰻を焼く匂いが漂ってきます。

一休禅師は思わず「うまそうだな」といいました。それを聞いたお弟子さんは驚きました。

「自分たちのようなものでも、うなぎ屋の前でうまそうだな、というようなことを言うのはあまり行儀のよいことではない、ましてや一休禅師ほどの方がうまそうだなんて」何かを食べたいといった欲望を口に出すものではないと、弟子さんは思っていました。やがて、家に到着したところで、お弟子さんは「和尚さんは先ほどうなぎ屋の前で、うまそうだなとおっしゃいましたが、あれは出家者の身としてよくないことではないでしょうか」と尋ねました。

すると一休禅師は、「お前はまだそんなことを引きずっていたのか。わしはかば焼きの匂いなどは、うなぎ屋の前で捨ててきた」と言われました。

おいしそうな匂いにそそられる、それは誰にもある当たり前の感情です。花屋の前では美しいとながめ、お菓子屋さんの前で「おいしそう」と思うことは、その時の目の前のことを精いっぱい味わっていることであり、「今」を大事にすることです。しかし、ひとつのことに心を奪われたりしばられたりすると、「今」を見失ってしまいます。

https://blog.goo.ne.jp/sakamichi361/e/25369d6e0d674ab75728bd3f7915adfb

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・・・先の保護者のことがあって、このエピソードを思い出した。

 「今を生きる」よりも、「思いを、その場に捨ててきた」という言葉の方が強烈に残っている。

 いつまでも思いを引きずることの戒めだ。

 この場合の一休さんは「うまそうだな」というポジテイブな心の声だが、「悔しい」とか「ばかやろー」などのネガテイブな心の声などは、しっかり吐き出した方が後に残らないと思う。

 保護者の方々も、いつまでも過去にこだわらないで、今を生き、未来を志向してほしい。

 「過ぎたことでなく、今後のことを考えましょう」という呼びかけは、なかなか効き目がない。

このブログでしっかり吐き出したので、自分も、この保護者に罵声を浴びた辛い過去は振り返らないでおこう。

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ぼたんを植えたのは楽しむためで、怒るためではない。

貝原益軒の言葉を引用したが、もう1つ。

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教育書の「養生訓」「和俗童子訓」など、多数の本を著した、江戸時代の本草学者、儒学者として知られています。

今回は貝原益軒の生き方から寛大さ、視座の高さを学んでいきたいと思います。

ある日、外に出ていた間に、留守番の若者が隣の友達と、庭で相撲を取って、益軒が大切に育てていたぼたんの花を折りました。

若者は心配して、益軒の帰りを待ち受け、隣の主人に頼んで、過ちを詫びてもらいました。益軒は少しも腹を立てた様子がなく、

自分がぼたんを植えたのは楽しむためで、怒るためではない。」

と言って、そのまま許しました。

https://copel.co.jp/category2/ekiken-kaibara-precept/

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・・・もし、登校早々ケンカやトラブルが生じたら

「学校に来るのは楽しむためで、ケンカするためでもトラブルを起こすためでもない」

という意識で対峙したい。

しかし、これでは直接すぎるので、少し和らげて

「登校して、すぐにケンカやトラブルでは悲しいな。学校は楽しむために来るところだから、ケンカやトラブルが起きないよう気をつけようよ」

ぐらいで諭せたらよいと思う。

益軒の言葉は

◆そもそも学校は勉強するところであって、悪ふざけするところではない。

◆今は勉強する時間であって、ケンカする時間ではない

◆先生のお仕事は勉強を教えることであって、みんなを怒るためではない。

などとも言える。

ただし、正論を押しつけると逃げ場を失った相手は反感しか持たない。

諭し方を十分注意しないと、益軒の「寛容さ」とは真逆の対応になってしまう。。

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「自分には厳しく、他人には甘く」

江戸時代の儒学者である貝原益軒の言葉のメモ書き。

出典は不明です。

「 聖人をもってわが身を正すべし。聖人をもって人を正すべからず。凡人をもって人を許すべし。凡人をもってわが身を許すべからず」

現代語訳を自分で考える。

厳しい基準で己を律するべし。しかし、厳しい基準で他人を律するべからず。

緩やかな基準で他人を許すべし。しかし、緩やかな基準で己を許すべからず。

「自分に厳しく、他人には甘く」ということだが、ともすると、逆になりやすい。

だからこそ、自分には常に厳しい目を向けねばならない。

「努力した」などは、他人が評することであって、自分で言うほどのことはない。

「あなたが思う以上に、あなたはよく頑張っていますよ」と言えるのは、他人でしかない。

​ただし、自分を過度に追い込んでいる人には「緩やかな基準で己を許す」ように他人が声をかけて上げる必要がある。

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二宮金次郎の「率先垂範」

二宮金次郎について、そんなに詳しくないのだが、手元にメモ書きが残っている。

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 幼い頃に両親を亡くし伯父の家に預けられた金次郎は、愛読書の「大学」を読みながら山で柴刈りをして背負って帰るような生活をしていた。

 「お前が本を読むための灯油はない」と伯父に言われた金次郎は、空き地にアブラナを植え、油屋で灯油と交換した。

 「本を読む暇があったらもっと働け」と言われた金次郎は、空き地を開墾してコメを作り、ついには、その財を元手に伯父の家を出た。

  亡くなった両親の家に戻った金次郎は、人が踏み入れない土地を耕して農地を増やしていった

  真面目な金次郎の噂を耳にした下野の殿様から、荒れ果てた村の再建を頼まれる。

 家と農地を処分して新しい土地に赴いた金次郎は、村の真ん中に家を建て、以前と同じように農地を耕した。

 殿様から派遣された指導者だけれど、粗末な着物、徹底した粗食で、睡眠時間を削って働く金次郎の姿に、周囲は感化された。「自分らも働くしかない」と心を入れ替えた。心の荒れた村人も働く喜びを知り、村は見違えるように豊かになっていった。

 金次郎は後の世に「農政家」と呼ばれたが、彼の凄さは、説教で人を動かすのではなく、自ら働いて、村人に「共鳴」を起こした点にあった。

 参考「なんのために『学ぶ』のか」ちくまリマー新書

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 まさに「率先垂範」だ。

 説教では人は動かない。人を動かすなら、自分から動くことだと実感する偉人のエピソードだ。

 このまま語っても、現代の子供の心には響かないから、別途、作戦を練り、別の資料にもあたり、アレンジする必要がある。

 ただ、まずは、自分の行動が職員に「共鳴」を起こしているか、日頃の行いを反省し、「率先垂範」を意識していこうと思う。

※心理学では、人間には「辺報性」という性質があるそうだ。やってもらったら、お返しをしないと気が済まないというよな心理。スーパーで試食すると買わないと悪いかなと思うのは「辺報性」なのだとか。

◆自分の話を聞いてもらいたかったら、まず相手の話を聞いてあげること。

ということは

◆自分の望むように動いてもらいたかったら、まず相手が望むようなことをしてあげること

二宮金次郎が、村人の心を動かしたのは、「荒れた村を再生する」という点で金次郎が率先して動いたからだということが分かる。 

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「ごんぎつね」の額縁構造 

「ごんぎつね」の額縁構造を考えると、主題も違ってくる。

◆これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞いたお話です。

 

 この話を語った相手が兵十や加助でないということは、長年、伝承されてきたということだ。

あれほど孤独だったごんが、死後、たくさんの世代に語り継がれる存在(愛される存在)になった。

という変化があることが分かる。

兵十との関わりで、この話を完結させてはいけない。

 

①ごんは誰とも関わらず一人で生きてきた。

②しかし最後は、兵十と関わって死んでいった。兵十にごんの思いは伝わった。

③だから、ごんはやさしいきつねとして、ずっと村人に語り継がれる存在になった。

 

「ごんが死んだ話、銃で撃たれた話」で終わらせず、「ごんは長く村人に愛される存在になった」と解釈するのが、全体の枠組みを意識した読み方だ。

ごんの思いは伝わらず、兵十に誤解されて撃たれてしまったが、ごんのやさしさは、その後もずっと長く語り継がれていった。

「死して、名を遺す」が主題にもなりえるわけだ。

「兵十は、ごんの命を奪ったが、その代わりに名誉を与えた」と言えるかもしれない。

だから、「ごんぎつね」を書いて、名を遺した新見南吉と重なるのだ。

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「ごんぎつね」セレクト

◆フィンランドメソッドで「ごんぎつね」の発問計画

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2010/01/post-55bd.html

 

◆題名から要約・題名からサブタイトル

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2020/12/post-2b4aa5.html

 

◆『ごんぎつね』の構造は「序破急」

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2021/10/post-ff1270.html

 

◆『ごんぎつね』の構造は「無限ループ」

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2022/09/post-ad34f2.html

 

 ◆「ごんぎつね」の解釈(1)「つぐない」

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2008/06/post_f418.html

 

 ◆「ごんぎつね」の解釈(2)悲劇を繰り返さないための教訓読み

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2008/12/post-c1c4.html

 

◆『ごんぎつね』の解釈 (3)「人間と狐」だからこその悲劇

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2021/10/post-14fa17.html

 

◆『ごんぎつね』の解釈(4)「有隣」

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2021/10/post-abc9be.html

 

◆「ごんぎつね」の解釈(5) 「分かってほしい」作者の投影

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2021/10/post-c57571.html

 

◆「ごんぎつね」の解釈(6) 額縁構造から読めること

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2022/09/post-8c786a.html

 

「ごんぎつね」の主役の検討

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2022/09/post-9152b8.html

 

◆「ごんぎつね」の対比の検討

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2022/09/post-a9dff2.html

  

◆別教材で「有隣」

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2022/09/post-1e76a5.html

 

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September 21, 2022

「ごんぎつね」の構造 ~ラストまで読んだら振り出しに戻る~

「ごんぎつね」は、「起承転結」ではなく「序破急」で考えると分かりやすいと考えたこともある。

前ばなしー起承転結ー後ばなし

で考えると、「結」も「後ばなし」もないように読める。

「教育科学国語教育」9月号No873の特集は「ごんぎつね」。
誌上座談会で、上月康弘氏(松本大学専任講師)は、次のように発言している。
多くの物語は「設定―展開―山場―終末」といった構造をとることが一般的ですが、「ごんぎつね」は、突然物語が中断され、読者は行き場を失います。「後ばなし」としての「終末」がないからです。しかし、このような一旦の読みも、再読によって更新されます。すなわち、初めの「語り」に戻ることによって、「ごんぎつねというきつねが確かに存在していたことを伝える話」として読めるのです。つまり、2度目の読みによって、「ごんぎつね」作品全体が「後ばなし」としての「終末」に位置付きます。「ごんのつぐないの話」から「兵十のつぐない話」への転回です。そして、3度目は、時間を越えて現在の「私たち」へと語り継がれてきます。このような永遠性をもつ語りのループの中で、ごんと兵十は「今」もなお「解り合い」を求めて悲しくさまよい続けています。
・・・なるほど、全部を理解したわけではないが、「後ばなし」がない作品も、再読で「前話」に戻れば、作品がひとつにつながる。
最後まで読めば、こういう経緯があって、ごんの話は今なお語り継がれているのだよということが分かり、そのまま、もう一度「ごんの話」を読み返す。
後ばなしで後日譚を説明してしまうのは「野暮」と言えるだろうか。
だから、後ばなしを加えずに、前ばなしに戻らせる。
この構造は、「大造じいさんとガン」でも同じだ。(ただし前ばなしのないバージョンもある)。
大造じいさんが囲炉の前で語った武勇伝を「お聞きください」と始まるのだから
「いかがでしたか」と後ばなしを加えてもいいが、なくてもいい。ない方がいい。
「前ばなし」があって「後ばなし」がない作品は、「黙して語らず」の美学に支えられていると考えればいい。
まだまだ、資料分析は終わらない。

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September 16, 2022

リーダーの役割は決断をすること

 ほとんど読まない「週刊現代」。2020年3月7日号の「リレー読書日記」のコーナーが講演を聴いた楠木建氏担当だった。

◆リーダーの一義的な役割は決断をすることである

 競争戦略論という分野で仕事をしている。戦略とは決断(の連鎖)であり、決断とは選択である。リーダーの一義的な役割は決断をすることである。

 ポイントは2つ。第1に、決断が選択である以上、複数の選択がなければならない。「◯◯せざるを得ない」という言葉を軽々に使う人はリーダーの要件を欠いている。これは単に「追い込まれている」のであり、もはや戦略ではない。

 第2に、真の戦略的意思決定は「良いこと」と「悪いこと」の間の選択ではない。決断は常に「良いこと」と「良いこと」、もしくは「悪いこと」と「悪いこと」のどちらを選ぶのかという問題である。ここに決断の難しさがある。

 良いことと悪いことであれば、前者を選べばいいに決まっている。そんな仕事は誰にでもできる。そもそも「決断」は必要ない。

 無能なリーダーは「一理ある」というフレーズを連発する。しかし、考えてみれば世の中に「一理もないこと」など存在しない。錯綜するさまざまな「理」のどれを捨てるか。これが決断の正体だ。それは定義からして「苦渋の決断」になる。(後略)

・・・「真の評価は歴史が決める」

その通りである。明快で何も足せないし、何も引けない。こういう明快な文を自分で創り上げたいものだ。

 そして、また自分も難しい決断に果敢に対処していきたい。

※「1つを選ぶこと」は「残りを捨てること」というフレーズが、楠木氏の別の本にあった。

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「対比」には共通点ある

ごんぎつねは、場面途中で次のようにつぶやきます。

「おれと同じ一人ぼっちか。」

これが、ごんと兵十の共通点です。

「では二人の違いは何?」と問うと

・人間と動物・友達や仲間がいる、いないなどが出るので、ベン図でまとめられます。

対比は違いを比べる手法ですが、全く違うものを比べるのは難しく、共通項(比較の基準)を持たないと比べようがありません。

「五月」と「十二月」を比べられるのは、いずれも「月だから。

「十二月」と「一月」を比べられるのは、いずれも「冬」だから。

「男子」と「女子」を比べるのは、どちらも「人間」だから

「子ども」と「大人」を比べるのは、どちらも「人間」だから

「夏休み」と「冬休み」を比べられるのは、どちらも「学校の休みきかん」だから。

・・・したがって比べるときは、

◆どちらも同じ○○だけど、違いは何?というように比べる基準(観点)意識させないと、何を比べているのか、何を列挙させているのか分からなくなってしまいます。

これは説明文で例示するとよく分かります。

「動物の赤ちゃん」「自動車くらべ」「海のかくれんぼ」

・・・どれも、このタイトルの基準に沿って、いろんな「動物の赤ちゃん」「自動車」「海の生き物」が列挙され、違いが説明されていきます。

ですから、対比の効用・対比表現・表にして内容を整理する方法は、説明文で学んでから物語に適用した方が理解がスムーズです、

「大造じいさんとがん」・・・一年目、二年目、三年目の攻略法を比べ、整理する。

「一つの花」・・・戦時中と戦後を比べ、整理する

「ごんぎつね」・・・一人ぼっちの兵十に共感する前後のごんの変化をまとめる

「やまなし」・・・「五月」と「十二月」の場面を比べ、整理する。

「説明文でやったときのように表にまとめてみよう」と取り組むことで、国語の授業に一貫性が生まれます。

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「ごんぎつね」の主役は?

『ごんぎつね』の主役は「ごん」でなく「兵十」という考え方がある。

「いたずら好きのごんが、母を亡くした兵十に共感して、心優しいごんに成長する」という構図で考えるなら、主役は「ごん」だ。

クライマックスで考えや行動がガラッと変わる人物を「主役」とすると、

(1)銃で撃たれてしまう「ごん」

(2)自分の償いがようやく兵十に伝わった(願いが実現した)「ごん」

という解釈が可能だ。

ただし

(1)火縄銃をばたりと取り落とす「兵十」

(2)ラストで償いがごんの仕業だと知る「兵十」のショック

も印象深い。

「人物の成長」という構図を考えると「ごん」を主役にし、分かりやすい主役の例として「ごんぎつね」を扱いたいところだが、実際は、そうとも言えないのだ(だから面白い)。

『大造じいさんとガン』の場合は、原題が「残雪」だったということもあり、主役がどちらかは学者の間でも議論になっている。

クライマックスをはさんで、考えがガラッと変わったのが「大造じいさん」だ。

しかし、途中で現れて、最後に去っていく人物で、しかも元々は題名になっていたとなると、「残雪」は主役として十分な重みがある。

◆『くじらぐも』の「くじら」は、子どもたちを楽しませて、去っていく。

◆『かさじぞう』の「じぞうさま」は、じさまとばさまに施しをして、去っていく。

「くじらぐも」や「かさじぞう」の感情表現はほとんどなく、作品は「子どもたち」や「じさま、ばさま」を中心に進んでいく。

それでも、題名になるくらいだから、やはり主役は「くじらぐも」や「かさじぞう」なのか。

「主役に最も影響を与える「対役」が題名になることも多い」と言ってよいなら、「かさじぞう」「くじらぐも」を対役の典型と見なすことができるが、それを言い切る自信が自分にはない。

「正解を1つに特定する必要がない」

「各自が根拠を持って意見を表明できればそれでいい」

ということで、意見が割れることを楽しみにしてはいる。

しかし、主役と対役の定義がブレるのは困るのだ。

そう考えると、主役で迷わないのは「スイミー」、「モチモチの木の豆太」、「海の命の太一」かな。

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September 13, 2022

人に頼る経験を積んで、人に頼っていいことを学ぶ

「実践障害児教育」2014年7月号のコピーが手元にある。

ケースから学ぶアプローチ第4回 「未学習や誤学習を読み解こうの」の巻

執筆は今をときめく川上康則氏なので、敬意をもって自分の責任で抜粋と編集をして紹介させていただく。

 

できない・わからないが続いた時の子どもたちの様子を3つ提示している。

できない経験を繰り返すと・・がんばろうとしなくなる。

わからない経験を繰り返すと・・理解しようとしなくなる

やってもらう経験を繰り返すと・・自分でやろうとしなくなる

こういう状況を「学習性無力感」と言う。

 

どうせ何をしても無駄だという気持ちになってしまうと、回復が難しい。

「バカにされるに決まっている・叱られるに決まっている」とシャッターを下ろしてしまう。

 

失敗恐怖・敗北恐怖」が行動にブレーキをかける。

「行動すると、心が傷つくと決めてしまう」

・勉強はわからない(ことに決めた)

・自分ばかり叱られる(ことに決めた)

・学校には意味がない(ことに決めた)

・授業には入らない(ことに決めた)

・どうやっても無駄だ(と思うことに決めた)

 

というわけで心を閉ざし行動にブレーキをかける彼らへの「カギは援助要求スキル」だという。

 

困難に直面した時「こまった・わからない・むずかしい・思いどおりにいかな」と思う。

そのとき、おすすめしないのが

「なく・さわぐ・にげる・やらない・めちゃくちゃにする・物にあたる・隠す・ごまかす」

そのとき、おすすめするのが

手伝ってください」「わからないので教えてください」

「聞き逃したのでもう1度言ってください」「助けてください」

 

失敗することは誰にだってある。現実的な課題を受け止め、失敗恐怖を少しでも解消していくためには、他者を頼ることの価値を知り、援助を求めることで壁を乗り越えていけるという「経験を積むことが大切だ。

 

という言葉が心に響いたのは、「多くの若者がここでギブアップしている」と思ったからだ。

大人が援助要求スキルを使って他人に頼ることは我々だって難しい。

だから、先生が、意図的に子どもに助けてもらったり手伝ったりしてもらう場面をつくり、模範を示しろと提言している。

(上司が部下に頼ることも同じ)

 

先生(上司)が、弱いところを見せる。依存するところを見せる。

「他者から必要とされる経験」を積んで育つから、自分も「他者に頼っていいんだ」ということを学んでいくのだ。

特別支援教育でなくても重要な「生き方スキル」である。

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September 09, 2022

「アプリシエーション」「最近接領域」・・・

手元に畿央大学の島恒生氏の講演メモがある(道徳)。

「アプリシエーション」「最近接領域」といったメモを見て、そうだったそうだったと思い出している。

自分の理解したままにメモを再構成してアウトプットしてみる。

したがって文責は竹田。※は、竹田の感想。

 

(1)従来は、マイナス志向の道徳だった。

これまでの道徳は「本学級の子どもは△△が欠けているから」という発想であった。

そして、主人公やストーリーのマイナス面(何が問題だったか・どうすればよかったのか)を考える授業展開であった。

しかし、これからは、「ない」ものを教えるのではなく、本来持っているものに気づかせる「プラス志向」の授業に取り組んでほしい。

子供たちが持っている能力や資質を引き出すことがeducate(教育)の本質。

「マイナス志向・・こうすべきである」の授業は、教え込みになりやすい。

「どうすべきだったか」と行動を問うても、分かりきった答えしか出ない。

どうすると良いかは、みんな分かっているから、「〇〇しなさい・〇〇しましょう」では道徳の授業にならない。

「〇〇すると、こんな気持ちになるね」が、道徳の授業。

 

(2)道徳の評価はアプリシエーション(appreciation=真価を認め、励ます評価)。

アプリシエーションでは、マイナスは指摘しない。子どもがいかに成長したかを積極的に受け止め、認め、励ますもので、評価する側も成長する。保育の現場ではすでに行われている。

※通知表の所見も、「アプリシエーション」ということだ。

 

(3)抽象的な議論では、道徳の授業にならない

道徳性は抽象的だが、観念レベルで話し合う授業では、道徳的には深まらない。

具体的な資料(状況)に即して考えさせるから議論が深まる。

また「たとえば・・」と具体的な事例で語らせるから、道徳的価値を意識できる(汎化できる)。

「見えないもの」を言語化させる1つのパターンが「主人公を変えたものは何か」

※「変えたものは何か」と問われれば、語彙の豊富な子が活躍する授業になるが、言葉の美しさに惑わされると、「きれいごと=抽象的な議論」になってしまうところは要注意だと思う。

 

(4)みんなの意見で解決する「議論する道徳」=最近接領域の考え方

中心発問に対して1人目で出る答えは決して中心ではない。

1人目の答えを踏み台にして、みんなの意見を高めていくことが「発達の最近接領域」の考え方。

「最近接領域」は、一人では分からないが、みんなで考えると分かるようなレベルのこと。

自分の考えと友達の考えは違うことが大前提。だからこそ「主体的な判断」と「自立」が求められる。

※逆に言うと、1人目で答えが出るようでは、思考させるレベルが低いということ。

 

(5) 状況の理解は短時間で行う。

資料の状況は「発問」しなくても、「確認」すればよい。

「状況」の把握は必要だが、決して授業のメインであってはならない。状況理解のレベルで授業をすると読解になってしまう。道徳的価値を話題にしないと意味がない。

 

※「分かっている」ようで「分かっていない」部分が多々あると思っている。「分かったつもり」が一番危険なのだ。

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