October 06, 2019

ラグビーのCMと金子みすゞの詩

昨日のブログ金子みすゞの「みんな違ってみんないい」について書いていたら、夜のラグビーのテレビCMは、そのまんま具現化したストーリーになっていた。
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CMは「体格は大きいが足が遅い」大介と、「足は速いが背が低い」小次郎の2人が主人公のストーリーだ。
2人が小さい頃、大介は運動会の徒競走で速く走る小次郎を、小次郎は綱引きで力強く活躍する大介を、それぞれうらやましく感じた。
「速く軽やかになりたい」と願う大介は図書室で敏捷性トレーニングの本を借り、「大きく強くなりたい」小次郎は牛乳を飲み、それぞれ努力を重ねる。
2人は同じ高校に進学し、ラグビー部に入部する。練習中、大介はボールを持って走る相手を止められず、小次郎はタックルを受けて吹き飛ばされる。
克服できなかったコンプレックス。
しかし、様々な個性や能力、体格の選手が一体となって勝利を目指すラグビーのプレーのなかで、大介はパワー、小次郎はスピードという長所に気づく。
「同じじゃないから、強いんだ」と、自分が持つ力でチームに貢献することの大切さを学んでいく。
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・・・「克服できなかったコンプレックス」というところがいいな。
金子みすゞの心の闇は、まさにここにあったと思う。
 試合限定のCM放映だという。めちゃもったいないぞ!
「僕にしかできないこと」篇(ラグビーワールドカップ2019™日本大会・TVCM・60秒) 
 
 
※金子みすゞの道徳の授業を見たあと代案で考えていたのは、
①すらりとしたマラソン選手を見せ
②筋肉パンパンの砲丸投げの選手を見せ
③マラソンの速い選手が、砲丸投げの選手をうらやんでも仕方ないよね。
①ミュージシャンを見せ
②ノーベル受賞のような研究者を見せ
③ミュージシャンが、研究者をうらやんでも仕方ないよね。
こんな形で、せっかく自分にはすごい才能があるのに、他人の長所をうらやんでも仕方ないよね、という授業の組み立てにしたらどうだろう、ということだった。
 この動画は、自分の授業案に近い内容だったので驚いてしまった。

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October 05, 2019

「わたしと小鳥と鈴と」の解釈

多くの先生方は分かっていると思うが、金子みすゞの詩は、決して単純なポジテイブではない。

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わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
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 道徳の教科書に付いているプリントは、自分の短所と長所を書いてみようという取り組みだった。

◆私は、走るのは苦手だけど、音楽は得意です。
◆私は、字は下手だけど、絵は得意です。
のように書き込ませていた。
 しかし、原詩の構造は違う。
 原詩の構造に従うなら

◆私は太郎君のように速く走れないけど、足の速い太郎君は私のようにピアノを弾けない。

となる。
 授業では安易に「短所と長所の対比」で理解させたがるが、本当の構造は「短所と短所の対比」。
 詳しく言うと「自分の短所と長所の対比」ではなく、「自分と他人の短所と短所の対比」。
 だから、相当にネガテイブなのだ。

 これは金子みすゞの境遇を調べたことがある人なら分かる。金子みすゞの詩をポジテイブでメルヘンチックに受けとめてしまったら、この詩を読み取ったことにはならない。

 道徳の授業だから「みんなちがってみんないい」の都合のよいフレーズだけ利用すればいいのか。
 道徳の授業だから「自分には短所もあるけど長所を大事にしよう」と結んでいいのか。

せめて

◆あなたは、いくらがんばっても他人にはなれないし、他人はいくらがんばってもあなたにはなれない。
 だから、他人をうらやましく思う必要なんてないし、あなたはあなたであることに自信を持ってほしい。

◆ある基準ではあなたは他人に劣るかもしれない。でも別の基準でみればあなたは他人に決して劣っていない。
 だから、他人をうらやましく思う必要なんてないし、自分は自分であることに自信を持ってほしい。

というまとめになるのではないだろうか。 
 ネットで検索すると、次のような感想があった。私も同感である。
 この詩の肝は「人のよさを決める価値基準は一つではない」ことだ。4年生に「基準」という意味を伝えられるかどうかは分からないが。

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「みんなちがって、みんないい」。本当は当たり前のことなのに、一つの基準で全ての価値を決めてしまいがちな現代において、この言葉は人々の心に鋭く優しく響きます。
 きっと、この言葉に救われる人も多いことでしょう。価値や基準は一つではないのだ、たとえ一つの基準で劣っていても、私の価値は失われないのだ、と思い出させてくれる言葉です。
https://www.motivation-up.com/word/036.html
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September 25, 2019

読解力を高める授業と、証明教育

 新井紀子氏が提案した「読解力を高める授業」の実例は、

答えが「〇●〇●〇●」に一意になるように、オセロの並べ方を正確に実況中継しよう

という課題だ。
https://toyokeizai.net/articles/-/256115?page=3

 この「一意」というところが重要で、多様な解答が出るような説明では困るのだ。
 論理的思考(プログラミング的思考)の基本は、漏れなく・ダブりなくのMECE(ミーシー)と言われる。

Mutually (お互いに)
Exclusive (重複せず)
Collectively(全体に)
Exhausive(漏れがない)

 向山先生の実践には、学校から自宅までの経路を書かせるものがあったと記憶している。自分も家庭訪問があった頃、高学年のクラスで自宅までの経路を書かせたことがある。まさに昭和の実践だが、順を追って正確に説明させる訓練になっていた。オセロの並べ方を説明させるのと、自宅までの経路を説明させるのは、意味や意義は同じだと思う。

 さて、久しぶりに『数学的思考法』芳沢光雄(講談社現代新書)を開いてみて、「地図の説明」の重要性が書いてあって驚いた。p22~25

2004年2月に行われた千葉県立高校入試の国語で、地図を見ながらおじいさんに道案内するという記述問題が出題された。200字以内で作文する問題であったが。なんと受験生の半数が0点だったという。

・・・すでに15年前のデータではあるが、自分の言葉で説明させる向山実践が、いかに受験に有効であったかがよく分かる。
 芳沢氏もずっと課題の大切さを提言されてきたとある。

◆「地図の説明」の重要性は、私の10年以上にわたる数学啓蒙活動のなかでも主張してきたことだ。「論理的思考力は地図の説明を練習させると育まれる」とか「(中略)最寄りの駅からこの試験会場までどのような道順で来たかを説明させると、受験者の論理的説明力が一発で見抜ける」などと、いろいろなところで発言してきた。地図の説明は国語だけの問題ではないのである。

・・・「地図の説明は国語だけの問題でない」とあって驚いた。逆に言うと、これが数学の問題だと考えたことがなかったからだ。

 芳沢氏は、地図の説明は「数学の証明」につながると言う。そして、IT先進国インドと日本の差は、中学校時代の証明教育の差だと言う。

インドとはまったく対照的に、日本の中学校での証明教育の実情はまことに惨憺たる状況である。昭和40年代と比べると、現行(2002年度学習指導要領改訂)の中学校数学教科書の証明問題数は3分の1になってしまった。
挙句の果てに「証明の全文を中学生に書かせるのはかわいそうだし、試験に出しても点が取れない」などと、同情して、なんと「三角形」だの「平行」だのという単語だけを穴埋め式に書かせるという、まったく日本固有の異常な教育があちこちの中学校で行われているのである。

・・・新井紀子氏が、キーワード穴埋め式の読み取りでは、読解力が身につかないと主張している点と重なってくる。
 また、大学受験のニュースで、記述式を取りやめた惨状とも重なってくる。

◆現行の大学入試センター試験の後継で2020年度に始まる大学入学共通テストを巡り、大学入試センター(東京)が数学で検討していた文章記述の問題導入を初年度は見送る方針を決めたことが分かった。昨年11月の試行調査では、文章で解答する問題1問を含む記述式の小問3問の正答率が低迷し、本番では3問とも数式のみを記述させる。
https://edu.chunichi.co.jp/pages/entryexam-newexam-20/

・・・記述式問題の導入は共通テストの目玉の一つで、「思考力・判断力・表現力」を評価するための手段であったのに見送りとなってしまった。数学が、マークシートや穴埋め型に慣れてしまった現状を変えるのは、かなり困難なのだ。

  そんな状況だからこそ、小学校の段階から教科の枠を超えて「正確に説明させる」という課題に取り組ませ、証明問題を解く論理的思考力(プログラミング的思考力)の基盤を育んでいかねばならない。
  今は見送りにはなった数学の記述問題だが、いずれは実施されるに決まっているのだ。うかうかしていられない。

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September 23, 2019

あいまいな指示を排除する=プログラミング的思考

昨日の愛知サークル合同例会の検定授業の中で、プログラミング的思考の授業があった。

◆牛乳1つ。卵があったら6つお願いね。

この指示を聞いた買い物ロボットが牛乳を6本買ってきてしまった。どんな指示を出せばよいか考えさせるという授業の流れだが、これはもちろん日頃の教師の指示も同じだ。

あいまいな指示、二重に受け取れるような表現に気をつけないと教室は混乱する。

今日の模擬授業でも、指示が曖昧なことがあった。
それは、そもそも発問と指示がセットになっていなかったからだ。
「○○ですか。」と聞かれた瞬間、答える子役がいて、「そうですね」と教師が対応した。
自分はこのとき「なんだ、答えてよかったんだ」と思った。
聞かれた後、①挙手するのか、②ノートに書くのか、③お隣と相談するのか、④即答すればいいのか、⑤指名されるのを待つのか様々な選択肢がある。
おそらく即答が一番混乱を招く。教師の想定内で即答させている場合はよいが、いきなり即答したのに、それを認めてしまうと、教室の秩序が保てなくなる。みんなで考えさせたい場面なのに、賢い子が得意げに大声で正解を発してしまうような事態はよく起こる。

発問した後、どうさせたいのかを考えて、教師が明確に指示を出す。

教師が自分の発した言葉に指示にあいまいさがないか、誤解を生じないかを考えて指示を出す。

日頃から、そうした教師の心構えがなければ、プログラミング的思考を教えることなどはできない。

そう考えると「黒い目のきれいな女の子」という言葉が何通りに受け止められるかを考える古典的な授業も、プログラミング的思考につながっていることが分かる。

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September 13, 2019

不利を克服する子どもの特徴

「教育新聞」1月21号のコピーがある。

浜野隆氏の「全国学力調査から見えた伸びる学校の条件(3)」。久しぶりに目を通したが、コピーしておいただけのことはあった。

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 家庭の社会経済的背景(SES)が低いにもかかわらず学力の上位25%(学力A層)に位置する児童生徒を「不利を克服している子」と見なし、彼らがどのような特徴を持っているか見ていこう。

 第一は「認知スキル」の高さである。「非認知スキル」とは、読解力や計算力などの認知スキル以外の能力ー粘り強さや忍耐力、自制心、好奇心、感情安定性、協調性を指す。近年、これらの能力は「社会情緒的スキル」「性格スキル」とも呼ばれ、学校生活のみならず、人生全般にわたる成功のカギを握っているともいわれている。「不利を克服している子供」は、物事を最後までや遂げる姿勢、異なる考えを持つ他者とのコミュニケーションなど非認知スキルが高い傾向が見られた。
(中略)
SESと非認知スキルとの間には弱い相関しかない。これは、SESの工程にかかわらず、非認知スキルを伸ばすチャンスがあることを示唆している。親が子供に努力や忍耐の大切さを伝えたり、温かい褒め言葉を掛けて自信を持たせたりして、子供の非認知スキルを高めることが重要である。
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・・・論稿この後も続くのだが、とりあえず、ここまで。
 「非認知スキル」についての復習のような内容だが、「非認知スキル」の重要さを感じさせる内容である。
 どの保護者にも理解してほしい内容だ。
 順序は逆になるが、この論稿の冒頭部は印象的だ。

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 言うまでもなく、子供の学力は家庭の経済力や親の学歴によってすべてが決定されるわけではない。不利な環境にあっても高い学力を達成している子は少なくない。
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・・・その通り。どの保護者にも理解してほしい。

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教師に必要な「低刺激」の意識

    9月5日のサークル例会の前に、1名の若い先生を招いてミニセミナーを行った。
自分は「実践障害児教育」の川上廉則氏の文献を引用して、「教室に不穏な風を吹かせる毒語」の紹介をした。

◆何回言われたらやるの?
◆どうしてそういうことするの?
◆やる気がないなら、もうやらなくていい。
◆お母さんに言おうか?

と教師が先に売り言葉を仕掛けてしまうようなパターンだ。
   教師がイライラして毒語を吐いたら負けなのだということを伝えたかった。
   併せて、大げさに褒めて優越感を与えると、裏返しで劣等感が生じる。自己肯定感は高めたいが、優越感は要らないという話もした。およそ弱肉強食のクラスは、できる子が威張り、できない子がオドおどしている。優越感と劣等感が混在している。

   A先生は、学級の雰囲気を左右するのは教師のメンタルだという観点から、教師自身が平静を保つ心がけが必要だという話をされた。
   自分への大きなご褒美を設定すると、長続きしないから、毎回できる小さなご褒美を用意しろといわれ、ナルホドと思った。過度な感情表現をしないで淡々とやり過ごすというのも「低刺激」なのだろうと納得した。気分が落ち込んでいる時にに高段者の音声CDを聴いたら、余計、実力差を感じて落ち込んでしまうと聞いて、これもナルホドと思った。
   子どもは一度大げさに褒められたら、その大げささを毎回期待してしまう。ある子が大げさに褒められたら、自分が褒められる時もそのテンションを期待してしまう。教師のその日の気分で褒め方を変えてしまっては、子どもは戸惑うことになる。教師は、その日の気分に左右されてはいけないのだと理解した。
   子どもたちの気分をアップさせるために、ハイテンションで対応する方法もあるが、毎時間ではぐったりしてしまう。無理せず、長続きする対を前提にして、時々テンションを上げるような対応を入れるとよい。
 

  B先生が話された「ブロークンレコード」の対応も、低刺激だ。感情を荒げず、指示語を繰り返す。相手が諦めて、指示に従うまで、穏やかな声で、淡々と同じ言葉を出すというスタンスは、声を荒げたら教師の負けということを表している。

  C先生が示された算数の模擬授業は、先生の指示通りに作業していくと「できる、わかる」に到達するものだった。決して論争や大きな盛り上がりがあるわけではないが、指示通りに1つ1つ作業していく心地よさがあった。ある意味で「低刺激」だと思った。

   打ち合わせたわけではないが、2学期最初の心構えを示す講座で4人の意識は共通していた。全く同じ資料で同じ話をしたらウンザリしてしまうが、違うアプローチで「低刺激」に関わる提示だったので、「変化の
ある繰り返し」が効いたのではないかと思う。

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August 31, 2019

LINE;によって阻害される「文脈形成力」

    先日講演を聞いた愛知教育大学の丹藤博文氏は、スマートフォンの普及と「ライン」によるコミュニケーションについて、「想像力・識字能力」「文脈形成力」の問題があると指摘された。

・本を読まない。
・動画などの視覚的映像を好む
・ラインのような単語的なコミュニケーションを好む

といった傾向が、悪い影響を与えることは想像に難くない。
ただ、世の中の流れが変わらないなら、そのような状況でどんな手を打つかを講じるしかない。
今さら読書離れが止まり、動画視聴が減り、ラインによるやりとりがなくなるとは考えられないからだ。

いくら文句を言っても、今の傾向は加速することはあっても、減速することはない。

かつて、バーンステインの「言語コード論」を引用したことがある。
 
 労働者階級の子どもが中産階級の子どもに比べて、学校で成功しにくい(よい学業成績をおさめにくい)理由を探る中で、彼が注目したのが「子どもたちの言語使用」である「言語コード」であった。
 中産階級の家庭では、5W1Hが伝わる「精密コード」での会話がされる傾向が強い。
 一方、労働者階級の家庭では、「メシ・フロ・寝る」のような単純な言葉(限定コード)で会話が成立することが多い。


ラインの会話も、こんな感じか。極力短い言葉でやるとりを済まそうとする。場合によっては、意思表示を定型のスタンプで済ませてしまう。
日本中が単純な言葉(限定コード)で会話が成立する世の中で、どんな問題が起きるだろうか。あるいはどんなよいことが起きるだろうか。

新井紀子氏の講演でも、AIも大半の大学生も、単語でしか思考していないとの指摘があった。限定コードだ。

精密コード、つまりきちんと文章で会話する家庭環境、教室環境の確保に努めねばならない。

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読解力は抽象化の力

 国語の授業は、作品が変わると、新しくゼロから取り組むようなところがあって、積み上げが難しいと言われる。

作品が変わるごとに授業のアプローチを変えるからそんなことになる。

 先のブログで次のように書いた。

◆算数の計算問題が10問あるとき、低い子は違いにばかり目がいくから10問全部にエネルギーを注ぐ。一方学力の高い子は「〇〇の違いはあるけど、△△という点では同じ」と一段高い抽象度で問題を括ることができるから10問のエネルギーがいらない。

 「犬・猫・人間」を「哺乳類」で括るように、「白いぼうし」と「一つの花」と「ごんぎつね」の共通項をとらえて抽象度を上げる思考が必要だ。
  どれも「物語」だから、場面設定がある・主人公の変化がある・主役と対役がいる・起承転結がある・語り手の視点があるなどなど。説明文なら「問い」と「答え」があり、序論ー本論ー結論がある。筆者の主張と具体例があるというように。

 先週は、県の国語研究会があって、愛知教育大学の丹藤博文氏が講演された。
 物語教材の「読まれ方」として
①人物の変容
②はじめー中ー終わりの構成
③語り手の視点
などについて、解説があった。

 三人称視点や一人称視点があることは、国語を教える先生なら誰でも知っておくべきことだ。
 それを分析批評や西郷文芸研や読み研といったある特定の団体の用語のように受け止めてアレルギー反応を起こしているとしたら不幸なことだ。
 1つの作品で学んだ力が、次の作品に生かせるような授業の積み上げをスタンダードにしていきたい。

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21世紀型のキーワード

先日、動員で県の教育講演会に行った。

講師は都留文科大特任教授の石田勝紀氏。教育デザインラボ代表の肩書きもある。東洋経済オンラインで「ぐんぐん伸びる子は何が違うのか」の連載を担当しているそうだ。

(1)
印象的だったのは、20世紀型キーワードと21世紀型キーワードの対比

論理ーー感性、発想力
ピラミッド型組織ーーネットワーク型組織、コミュニティ
気合、根性、努力ーークリエイティブ、楽しい、ワクワク感
偏差値型ーー価値型

21世紀型は、「ゆるい、面白い」といったキーワードも含まれる。
これは働き方改革でも強調されているが、好きなことをやるのが一番ストレスがないし、成果も上がる。気合、根性、上意下達では生産性も上がらないし、クリエイティブな仕事はできないのだ。

(2)
ウインドウズ95では、最新版のワードエクセルは動かない。
OSのスペック十分でないと、ソフトがうまく動かない。
つまり、頭の素地をきちんと作っておかないと、国語算数といった各教科の授業内容はうまく処理できない。その点では東大生は頭のスペックが違う。
頭の素地をつくるのは、
いつも「なぜ」と問いかけ、「どう思うか」を主体的に判断すること。
そして「要するにlと一段高く抽象化したり、「例えば」で一段低く具体化したりすること。

算数の計算問題が10問あるとき、低い子は違いにばかり目がいくから10問全部にエネルギーを注ぐ。一方学力の高い子は「〇〇の違いはあるけど、△△という点では同じ」と一段高い抽象度で問題を括ることができる から10問のエネルギーがいらない。

「違いしか見えない人は抽象度が低い」という指摘にナルホドと思った。

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August 23, 2019

「艦長は血の出るほど舌を噛む」~リーダーの自制心~

「艦長は血の出るほど舌を噛む」
(The captain bites his tongue until it bleeds)

という言葉があるそうだ。
 これだけでは意味が分からなかった。

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これは海軍用語なのだが、船長が自分の部下に舵を握らせておくことは、非常に危うい。
しかし、船長が自分で舵をとると部下が育たない。
そこでジーッとこらえると血がタラタラ出てくるという話である。
リーダーというのは下からクリエイトされるアイデアを、悪意で潰すということはもちろんあるだろうが、善意で介入しすぎて潰していくというのが案外多いので、これを戒めているのである。

野中郁次郎 「創造する組織の研究」講談社 P31
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 実際にやらせてみない限り、本人は永遠にできるようにはならない。
 部下が四苦八苦してからといって、代わりに全部やってしまっては、本人のためにならないのだ。

 
野中氏は以下のようにリーダー論を語る。


◆要するにリーダーというのはイノベーションを支援はするが口は出すなという意味合いである。

 このワードで検索していたら、「冷暖自知」という禅の言葉に出会った。

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またアメリカの3M(スリーエム)社で、社内でよく使われる言葉に 

   “The captain bites his tongue until it bleeds”
   (艦長は血の出るまで舌を噛む)というのがあるそうだ。

 これは米国海軍で生まれた言葉だそうで、馴れない部下はへたくそでなかなか思うように舵が切れないので、艦長はつい口を出して教えたくなる。しかしここで教えたのでは部下のためにならない。ほんとに操舵法を身につけるには、失敗をしながら学んでゆくしかない。そう思って艦長は口をつぐんでジッとがまんしているという状態を言ったものだそうで、若い社員のミスやもたつきを、舌を噛んでジッとがまんして黙って見まもり、自ら体得することを気長に待つのが最良の社員教育だというのだそうである。
 まさに冷暖自知、「証の得否は、修せんものおのづからしらんこと、用水の人の、冷暖をみづからわきまふるがごとし」(『正法眼蔵・弁道話』)という禅の教育と軌を一にするものである。

「冷暖は身体で覚える」
http://www.jtvan.co.jp/howa/Sato/houwa018.html
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「冷暖自知」とは、真の悟りは自分で感得するものであるということを、水の冷暖を自分で手を入れてみて知ることにたとえていう語。

 「冷暖自知」でさらに検索して、以下の指摘には納得した。

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◆人から聞いただけの借り物の知識でなく、自分自身の体験を何よりも大切にするように。
それが本物の知識なのだと「単にそのことについての情報を知っている」という意味での「情報」は、「知識」とは質的にまったく別ものと言っていい。

◆「情報」と「知識」の違いは、僅かなようでまったく別次元の事柄なのでよくよく気を付けておかなくてはいけない。
 現代社会では頭に所有する「情報」を指して「知識」と呼ぶことがあるが、それはかなり危うい混同といえる。

【禅語】 冷暖自知 - 体験してはじめてわかること -
https://www.zen-essay.com/entry/2016/09/25/231514
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 だから「教えるな」ということではない。
 知らないことは教えねばならないし、できないことは少しずつクリアさせていかねばならない。

 「艦長は血の出るほど舌を噛む」はアメリカ海軍の用語。

 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」は、連合艦隊司令長官山本五十六の言葉。

 野中氏は、組織論を語るのに軍事組織を研究している。組織員の命が懸かっているのでいるので、勝つ組織としてたえず自己革新しながら進化しているからだと言う。
また、逆に日本軍の敗北から「失敗の本質」を抽出している。読まねばならない本がまた増えた。
 

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August 19, 2019

「一字読解」という国語の技法

 手元にあるのは、『向山型一字読解指導』。

 東田昌樹先生の著書で「向山型国語微細技術1」とある。2008年版を書棚の奥から引っ張り出してきた。残念ながら「積ん読」状態だったのだ。

◆私は「問い」と「答え」の基本を学ばせるために、学期に一、二度は「一字読解」という指導法をする。

というのが、『向山型国語教え方教室」(200010月 呼びかけ号)の巻頭論文での主張だ(と前掲書にまとめてある)。

 もう少し詳しく引用する。

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子どもの行ノートに、番号をつけさせる。

一行に一問を答えさせるのである。

通例は、ノートには答えを書かせるが、時として「問い」を書かせる時もある。

「問い」について、まるで習っていない子どもたちには、最初は「問い」も書かせる。

教科書のタイトルから読み始めて、イチイチ問題を出し、ノートに書かせ、答を言い、丸をつけさせるのである。

説明は簡単にして、テンポよく進める。

話し合いなどはさせない。

最初は、例えば「この作品の題は何ですか」あるいは「作者は誰ですか」ということになる。

簡単だ。簡単でいいのである。

こういう問題を20問、30問と続けて出して、基礎体力をつけるのである。

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 ・・・「イチイチ問題を出し」という表現がたまらない。「基礎体力をつける」という主張にゾクゾクしてしまう。

 この2000年の読みかけ号より古い『教室ツーウエイ』199410月号では「国語のテストの答え方」について、次のように述べている。

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「どんなこと」と聴かれたら、答えは必ず「こと」で終わること。

「どんな気持ち」と聞かれたら、答えは必ず「気持ち」で終わること。

このようなことは、基本中の基本だ。

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・・・ 向国の呼びかけ号には「テストの解き方の基本パターン15」が示されており、東田氏は「向山型一字読解指導10の原則」の原則9として「テストの解き方15パターンを意識せよ」を挙げている。

 テストの解き方と一字読解はセットだというと、受験テクニックの指導だという批判があるのかもしれないが、そうではない。目的は「問い」と「答え」の基本を学ばせ、基礎的な読解力をつけることである。

「あれども見えず」と言われるように、文章全体を見ていると、子どもたちは読めているようで実は読めていない。部分に焦点化して問いを立てることで、子どもたちは文意を正しく読んでいくことができる。他人に問われないと、自分が読めているか自覚することは難しいのだ。

  一字読解という技法は、文章が意味を成すための最低ラインの内容を確認しているともいえる。

 だから、新井紀子氏の主張する「基礎的読解力の保証」「リーデイングスキルテストへの対応」が可能になるのだ。教科書の内容が正しく読み取れない子をなくすには、一字読解のような取り組みが最適だと思う。

  さて、向山氏の「向山国語教え方教室」呼びかけ号巻頭論文は、TOSSMEDIAで見られる。「向山型国語教え方教室❶」

 同じくTOSSMEDIA「向山型国語教え方教室8 学テ・PISA型読解力を育成する授業づくり」でも、向山氏の巻頭論文が見ることができる。

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 さて、国語の学習での「読み」とは、「テキスト」(教材)を「読む」ことが中心となる。

 正確に読むことである。

 一字一句にも、心を配って読むことである。

 深く読むことである。

 国語の学習とは、いかなる国においても「テキストを正確に、くわしく読む」ことが中心なのである。

 教材を紙芝居にして発表するなど、信じられない学習である。

 ある県の公開発表では、「野菜」についての説明文の授業で、「野菜の気持ちになってみよう」という「芝居」を発表していた。

 これでは、「文を読む力」がつくわけがない。

 PISA型テストとは、国語学力テストB問題とは、つまり「テキストを正確に読みとる」という問題である。

これまでの日本の国語授業の常識を超えて「さまざまな文」「さまざまな表現」「長文」からも、「正確に読みとりなさい」ということなのである。

 それを基本にして、「自分の考え」を問うているのである。

 これは向山型国語が一貫して追究してきたことである。

「テキストを正しく深く読む」授業をすすめよう。(教室ツーウェイ2007年9-1039号)

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 ・・・ただし、「一字読解」を真似て、矢継ぎ早に質問を繰り返すだけでは、これも退屈な授業になる。

 簡単な問題を出すことをためらう教師が多いから、一字読解を真似た教師の授業は、難解な問いを投げかけて優等生しか活躍できなくなる可能性が高い。

  通常の国語研究の発表では、出来の良い子の発言やノートを提示して成果を自慢するケースが多い。算数の授業でも、全員ができる授業は簡単すぎるからダメだと否定する先生が存在する。全員ができる問題を次々繰り返す一字読解の授業などは、想定できない。

 まずは簡単なことを問えばいいのだ。

 それなのに、子供の実態に合わない難解な解釈を優先してきた結果が、新井紀子氏が指摘した基礎的読解力不足の問題だ。「教科書が読めない子供に、解釈など考えさせるんじゃない。書かれていることを問え」というのが、新井氏の主張だ。学校現場は教科書が読めない生徒の存在にどう対応するつもりなのか。

 ただし、易しい問いは難しい。優しい問いこそ難しいと言うべきだろうか。

 冒頭で紹介した東田氏の本の中に、椿原氏の講座資料の引用がある。

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「易しい問い」というのは、ある意味では討論になる発問より難しいのである。(中略)

基本は見開き2ページで、100の発問の中から選ぶということである。一字読解指導は「易しい問いを20問、30問と出す」のではなくて、「見開き2ページで100の発問から選りすぐられた問いを20問、30問と出す」のである。p21

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July 29, 2019

『わかったつもり~読解力がつかない本当の原因~』

 久しぶりに書棚にある『わかったつもり~読解力がつかない本当の原因~』西林勝彦著(光文社新書)2006年7刷をめくってみた。
 帯に「『ドラゴン桜』でも教材に」とある懐かしい1冊だ。
 すっかり忘れていたので、新鮮な驚きがたくさんあった。
 自分の問題意識が変わったから、以前ひっかからなかった箇所にひっかかるのかもしれない。
 結局10年前は、「分かったつもり」レベルで読了したのだとも言える。

今回、脳裏に浮かんだのは「三角ロジックと同じ理屈だ!」ということ。

例えばP32に【小銭がなかったので、車を持って行かれた】という一文がある。
「ので」でつないであるから「原因ー結果」であることは分かる。

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 【小銭がなかったので、車を持って行かれた】
 
   根拠   →   主張
   原因   →   結果
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 しかし、いくら【原因→結果】だと分かっても、多くの人は何のことか意味が分からない。
 ここに【コインパーク】というワードが入ると、駐車場の場面が浮かんでくる。
 【コインパークは小銭を入れないと、駐車違反とみなされるから】という解説(理由)があると「ああ、そういう意味か」と理解できる。
 この場合の「コインパーク」は、「理由」と呼ばれたり「前提」と呼ばれたりする。

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前提 コインパークには小銭を入れないと使えないのに
原因 私は小銭がなかったから
結果 駐車違反になった(車を持っていかれた)
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というロジックになる。

 【小銭がない】と【車を持っていかれた】を関連づけるための「コインパーク」があると、文脈がわかる。
 部分間の関連を理解する「コインパーク」が文中の記述の場合もあれば、自分の知識や常識による場合もある。
 文中にないからといって必ずしもルール違反ではない
 ただし、自分の常識が邪魔をして、提示された文章を正しく読み取れなくなることもある。「思い込みによる誤読」だ。

 「思い込みによる誤読」と言えば、最近書いた「ゲシュタルト知覚」とも重なってくる。10年前には自分の頭に中になかったワードだ。

◆「ゲシュタルト知覚」とは、より多くの情報を簡単に処理するために少ない情報をもとに、脳が補ってある認知をすること。
  プラスで言えば、少ない情報から類推して効率的に情報処理できること。
  マイナスで言えば、思い込みや早合点をおこすこと。

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2019/05/post-cf3db3.html


 「早合点・思い込み」はAIでも起こるミスだと言う。
 「わかったつもり」とよく似ていると思う。

今回、脳裏に浮かんだのは「三角ロジックと同じだ」ということ。

「三角ロジック」を知ったのが2年ほど前。
直接的には鶴田清司氏の書籍だが、ロジックの元になる「トゥールミンモデル」は、もう少し前から、聞きかじってはいた。
https://ameblo.jp/gen-dai-bun/entry-12356809584.html


 国語の授業で「表にしてまとめる」という活動がよく行われる。社会科でも表にまとめる活動は多い。
 学テでも、表に書いてあることを読み取らせることは多いから、「文章を表にする」と「表の内容を文章化する」という双方向の力が求められていると言えるだろう。

『わかったつもり~読解力がつかない本当の原因~』西林勝彦著(光文社新書)では、「もしもしお母さん」という三匹のねこのお話を表にまとめる場面がある。
 西林氏は、3匹の子ねこの「性別」「性格「もらわれ先」「話した内容」「母ねこの言葉」などを表にしてまとめることを「個体識別」と呼んでいる。

◆こうして「個体識別」の表を埋めていく過程において、私たちは以前とは異なる、より細かな文脈を使い、部分から異なる意味を引き出して、「わかったつもり」から脱出しようとしていたことになるでしょう。pP72

 西林氏の用いる「文脈」は「読みの視点・観点・切り口」と同じだと理解した。
「時間軸」「色彩」「心情描写」「情景描写」「対比構造」のような切り口で表を作ることがあるからだ。

 文章を読み取って表にすることについては、数学的処理との関連で2年前にダイアリーで書いた。
 「そもそも『論理的に考える』って何から始めればいいの?」(日本実業出版社)に出てくる「整理って何をすることなの?」というQに対して、「一言で言うと、表を作ることです」というAに衝撃を受けたからだ。

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たとえば、「ごんぎつね」を整理する場合、切り口は様々にあるが、場面ごと(時系列)が大前提になるから

    ごんの行動  兵十の行動
1場面   〇〇    △△
2場面   〇〇    △△
3場面   〇〇    △△

というような表にすることができる。むろん切り口は「ごんの行動」「ごんの心情」でもかまわない。そこは授業者が決めればいい。
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 また、2つの事象を関連付けたクロス集計についても2年前のダイアリーに書いたし、4年前に授業技量検定で指導案に書いたことがある。
 西林氏の「個体識別」というワードは今でも十分理解していない。
 だが、表にまとめることについては10年前よりも理解が進んでいたので、今回、納得する点が多かった。


 読解した内容を表にして整理するにしろ、話し合いをするにしろ、大事なのは「切り口」だ。
 とりわけ高段者の先生の国語の授業では、あっと驚くような切り口で思考させられることが多い。
 たとえば「話者はどこにいますか」、「どこを見ていますか」、「AですかBですか」など。
 AB選択の場合は、「解釈Aしか考えてこなかった子どもに新たな解釈Bを提示して比較検討させる」というような意味で思考の幅を広げさせる。

 これらは「あれども見えず」「わかったつもり」を浮かび上がらせる手段だ。
 教師もざっと読んだだけでは、「あれども見えず」が分からない。100発問のような課題を自分に課すと、ようやく自分自身の「あれども見えず」が浮かんでくる。

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 あまり難解な文章でなければ、ざっと読んで「わかり」ます。そして、読むこと一般、たとえば新聞や雑誌の記事、ネットの情報を読んだりすることを考えれば、ほとんどの場合は、その程度のわかりかたでよいのだろうと思います。
しかし、(中略)当該の文章を足がかりに、そこから応用や探求へと進んでいかなければならなかったりすることがあります。
ざっと読んで「わかる」以上のわかり方が要求される場合です。
そのようなときに、「よりよくわかる」ための障害は、文章を「わからない」ことではなくて、文章を読んで「わかったつもり」になることです。P78
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という西林氏の指摘に納得した。以下の指摘も同じだ。

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「読む」という作業に支障をきたすのは、「わからない」せいだと一般には考えられています。このことは「わからない」から「わかる」に達する過程ではその通りです。
 しかし、「わかる」から「よりわかる」うえで必要なのは、「わかったつもり」を乗り越えることなのです。「わかったつもり」が、そこから先の探究活動を妨害するからです。P73
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「わかったつもり」には、「物足りない読み」と「間違った読み」があると言う。
 読みの浅さを自覚させたり、間違った読みを正したりするために、授業では鋭い発問による切り込みがある。
 鋭い発問が思い浮かばなければ、まずはある観点に沿って表にまとめさせてみるだけでもよい。


 国語の授業では、一読で「分かったつもり」レベルのことを「より分かった」「よりよく読めた」という状態にするために、問答法や図表化を用いて部分と部分の関連を緊密にするのだと西林氏は言う。
 一読だけでは本当はよく分かっていないのに、「わからない点はなかった」「自分の分かり方に不満はない」と満足してしまうと、そこで読みのレベルも終わってしまう。

◆浅いわかり方から抜け出すことが困難なのは、その状態が「わからない」からではなくて「わかった」状態だからなのです。P40
◆「わかったつもり」が、そこから先の探索活動を妨害するからです。P41

 「分からないところはないかを意識しながら読む」「疑って読む」「矛盾を指摘するように読む」と考えると、「クリテイカルシンキング」の重要性が見えてくる。
 
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(ⅰ)事実等を解釈し,説明することにより自分の考えを深めること

  事実等を正確に理解した後,それを自分の知識や経験と結び付けて解釈することによって自分の考えをもつこと,さらにその自分の考えについて,理由や立場を明確にして説明することなどを通じて,自分の考えを深めていくことが重要である。
  また,他者の考えを認識しつつ自分の考えについて前提条件やその適用範囲などを振り返るとともに,他者の考えと比較,分類,関連付けなどを行うことで,多様な観点からその妥当性や信頼性を吟味し,考えを深めること,すなわち「クリティカル・シンキング」も大切になる。
  そのため,自分の考えを深める指導を行う際には,(1)事実等を知識や経験と結び付けて解釈し,自分の考えをもたせるようにすること,(2)自分の考えについて,探究的態度をもって意見と根拠,原因と結果などの関係を意識し,説明する際にはそれを明確に示すこと,(3)自分の考えと他者の考えの違いをとらえ,それらの妥当性や信頼性を吟味したり,異なる視点から検討したりして振り返るようにすることなどに留意することが大切である。

「言語活動の充実に関する指導事例集【小学校版】」第2章 言語の役割を踏まえた言語活動の充実 イ(ⅰ)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/gengo/1300858.htm
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 「なんとなく分かったつもり」で安心してしまうと、読解力の精度が上がらない。
 まさに「ぼーっと読んでんじゃねえよ」ということだ。 

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July 26, 2019

「哲学的対話」と「道徳の授業」

『はじめての哲学的思考』(苫野一徳著)には、「哲学的対話」について言及した箇所がある。

これを参考にすれば、1つの道徳授業のモデルになるかもしれないと感じる内容だった。

哲学者の西研氏の提案する手順が示されている。

①体験に即して考える

②問題意識を出し合う

③事例を出し合う

④事例を分類し名前を付ける(キーワードを見つける)

⑤すべての事例の共通性を考える

⑥最初の問題意識や疑問点に答える

...この本では「恋愛」を例にしているが、「泣いた赤鬼(思いやり)」に変えて考えてみると、けっこう、道徳の授業パターンになる。

体験に即して考える

 導入でよく使うパターン。

 「人に親切にしたことはあるかな?」みたいな。

問題意識を出し合う

 「泣いた赤鬼」を読んで疑問点や気になる点を出し合う。

 「青鬼を失って赤鬼は後悔しているか?」

 「赤鬼を悲しませた青鬼の行為は、いいことなのか?

事例を出し合う

 自分たちの経験を基にして「思いやり」を言葉にして、より深く考えてみる。

 「相手が望んでいないなら、思いやりとは言えないのか」

 「自分がよいと思えば、相手の気持ちはどうでもよいのか」

 「相手に知らせないから喜んでもらえることもある」

 「あまり負担をかけられると、喜びよりも申し訳ない気持ちになる」

事例を分類し、キーワードで括ってみる

 「自己満足」「双方の満足」「相手の満足」

 「サプライズ」「自己犠牲」「ありがた迷惑」のように。 

すべての事例の共通性を考える

 「本当の思いやりは、された相手が感謝の気持ちをもつような行為だ」みたいな。

最初の問題意識や疑問点に答える

 「ということは、赤鬼を悲しませた青鬼は『思いやり』が足りないんじゃないか」

 「ということは、赤鬼は感謝してるはずだから、青鬼の行動は『思いやり』でいいんじゃないか」

 

...なお、苫野氏は「本質定義」「類似概念」「本質特徴」「発生的本質」を考えることが大事だと言う。

 難しいので、自分が言葉を理解できた範囲で「思いやり」を例に示してみる。

①「本質定義」

 「思いやりとは」を端的に言わせる。

②「類似概念」との違いを意識させる。

 「思いやりと友情はどう違うのか」のように。

③「本質特徴」。その特徴がないと「思いやり」とは呼べないという特徴を考えさせる。

・・・「相手が喜ぶ・相手が感謝する」が「「思いやり」の必須条件かな。

④「発生的本質」を考えさせる。

 なぜ人は「思いやり」をしたくなるのか。

 人はどのようにして、「思いやり」の気持ちを持つのか、など。

・・・「してもらった時のうれしい気持ち」「相手の喜ぶ顔を見た時のうれしい気持ち」といった答えが出るだろうか。

 

 「みんな違ってみんないい」では、言いっぱなしになってしまう。

 「相手を言い負かしてやろう」というスタンスでも建設的な対話にならない。

 それぞれの違いを乗り越えて何らかの着地点を見つけることが対話の意義だ。

 

 こんな授業も可能だと感じたのは、前調査官の横山利広先生の模擬授業が、結構、上記の流れに近かったからだ。

 子どもたちから出された意見をキーワードで示してグルーピングするような場面があった。

 そして、小学生なりに「そもそも○○とは~」「本当の○○とは何だ」みたいな問いかけを行っていた。

 従来の道徳の授業の流れに何ら裏付けがないのなら「哲学的対話」をモデルにしましたという理屈もアリなのかなと思う。

 

フランスの哲学者デカルトによると、物事の真偽を見極めるために必要なのは次の4つのステップだと言う。

(1)とにかく疑うこと

(2)徹底して細分化すること

(3)単純なものから複雑なものへと段階を追って考察すること

(4)漏れがないように見直すこと

 この4つのステップを踏んでもなお「確かである」と残ったものは、本物である。

『世界のトップスクールが実践する考えの磨き方』福原正大(大和書房)P37より

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道徳の発問を哲学で考える

苫野氏は「はじめての哲学的思考」の中で、「~せねばならない」「~してはならない」という「命令の思想」から脱却せよと言う。

「人を殺してはならない」という命令でさえ、実際にはケースバイケースなのだから、絶対に正しい命令など存在しないという考え方だ(いついかなる時も絶対に守らねばならない命令を「定言命法」と呼ぶそうだ)。

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「いつ、いかなる時も、困っている人に手をさしのべよ」
「命令の思想」はそう主張する。
それに対して次のように考えてみよう。
「どのような条件を整えたなら、人は困っている人に手をさしのべようと思うのだろう?」
このような考え方を、ここでは「条件解明の思考」と呼ぶことにしたいと思う。
 

P142
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 だから、次のように発想を変えよという(私が改作した)。

◆人に思いやりを持つべきだ

→「どうすれば人は人を思いやれるだろう?」

◆苦しんでいる人に関心を持つべきだ

→「どうすれば人は無関心が関心に変わるんだろう」

◆震災ボランテイアをやるべきだ

→「どのような条件の時に人は震災ボランテイアをしたくなるんだろう」


◆いじめは絶対にダメだ

→どんな時に人はいじめをしてしまうんだろう
 どんな条件を整えたら、いじめをなくすことができるんだろう


 「命令の思想」ではなく「条件解明の思考」の方が、現実的な力強い哲学思考だと苫野氏は言う。
 
 「すべき」かどうかを問うよりも、どうすればよいか条件を考えさせるアプローチの方が、道徳的であることが分かる。


※「命令の思想」を持つ人は、自分の正義を振りかざして、それに従わない人を「なぜ、○○しないのだ」と断罪する。
 ヘーゲルは、そうした人を「徳の騎士」と呼んだそうだ。
 
でも、それはかえって非道徳的な行為になりかねない。「徳の騎士」、それは、正義を笠に着て他者を傷つける。ひどく独善的な人間なのだ。P143

・・・道徳的であろうとするあまり、独善的になることのないよう注意したい。道徳の授業で「徳の騎士」を育ててはいけない。

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July 17, 2019

二重否定を否定できる言語能力

新井紀子氏のリーディングスキルテストの結果を読むと、子供たちは、複文や受け身など、少し複雑な文を読めないことがわかる。

https://toyokeizai.net/articles/-/256115
https://toyokeizai.net/articles/-/266708?page=2

その意識で、今回の学力調査問題を読む。

公衆電話は、わたしたちにとって必要がなくなってしまったわけではないと考えました。

この二重否定は分かりづらい。

公衆電話は、わたしたちにとって、必要だ考えました。

なのだと瞬時に理解できないと、必要な証拠を探すにも時間がかかる。

日頃から、二重否定が出てきたら、さっさと肯定文に書き換えておくという習慣をつけておくとよい。

2つの文を一文に書き直す。
1つの複文を、2つの短文に書き直す。

といった作業を普段からやっておくと、学テ本番で困らない。
日常的な指導の積み重ねが大事。日頃から布石を巻いておくことが大事なのだ

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