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February 20, 2005

中山文部科学大臣の発言

 中山大臣が、土曜日や夏休み(長期休業中)に授業を実施することで学力低下に歯止めをかけるというような発言をしている(いずれ証拠をリンクさせよう)。
 この発言に対する反論は、昨日の私のこのブログでの寺脇氏への批判と重なってくる。
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 学校五日制になったんだから、そのような体験をこそ、家庭に任せるよう訴えるべきではなかったのか。
 家庭に任せるべき自然体験を学校が引き受け、本来学校でやるべき体系的な基礎教育をやれなくなったということか。
 元々「自然体験を補う」など、学校の行動範囲では無理があるのだ。土日に保護者の引率であちこち出かける方がよほど成果があることは明らかである。我が家だって、それなりに自然体験を保障してきた。→ここ
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 学校ではできない体験(自然体験・社会体験)がある。 
 つまり土曜日や夏休みにしかやれない「教育」はある。
 そのような「教育」を中途半端に学校が引き受け、本来の学校教育の任務を怠るのは本末転倒の発想である。
 中山氏は、次のように言うべきなのだ。
学校教育は学校でしかできないことに専念します。基礎学力を保障します。
 したがって、社会体験・自然体験などは、家庭や地域で、土曜日や長期休業中に責任を持ってお願いします
。★

 そして保護者の側からも、次のように言うべきなのだ。
 土日や夏休みを利用して、自然体験やボランテイア体験・社会見学などをきちんとさせます。
 ですから、学校は教科の授業をきちんとして基礎学力を保障してください。
 

 お互いの領域が交錯する現状をこそ是正すべきなのである。

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February 19, 2005

寺脇研氏の発言

shokun0503 『諸君!』(文藝春秋)3月号に、櫻井よしこVS寺脇研の「『ゆとり教育』の責任者に問い糺す」があった。
 寺脇氏の発言には、これまで「なるほど」と思うことが多かったので、切れ味鋭い櫻井氏との対談でどんな話が出てくるか楽しみだった。
 櫻井氏は寺脇氏を「孔子(相手によって、メッセージの発し方や内容が変わる)」と評した。なるほど、のらりくらりと「ああ言えばこう言う」のような態度であることで、私もイライラさせられた。私がこれまで信用していた「寺脇氏」が崩壊するような思いだった。
 例えば、次のような例を挙げて子供の体験不足を訴える。そして理科・社会をなくして「生活科」を設立したことの擁護・弁護になっている。
 ・子供たちがカブトムシが動かなくなったら「電池が切れたから換えて」というような例が出てきた。「トマトはどこの工場で作るの?」なんて言い出す子供まで出てきた。 
 私は、このような例は本当に極端な事例だと思う。
 そんな極端な事例の子供の体験不足を補うために、数多くの「まっとうな」子供のための教育が犠牲になったのかと思うと愕然とする。
 学校五日制になったんだから、そのような体験をこそ、家庭に任せるよう訴えるべきではなかったのか。
 家庭に任せるべき自然体験を学校が引き受け、本来学校でやるべき体系的な基礎教育をやれなくなったということか。
 元々「自然体験を補う」など、学校の行動範囲では無理があるのだ。土日に保護者の引率であちこち出かける方が代ほど成果があることは明らかである。我が家だって、それなりに自然体験を保障してきた。→ここ
 この1点だけでも、この対談を読む意義はあった。
 また、この1点だけでも、私が寺脇氏に失望するには十分だった。


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重松清の世界『舞姫通信』

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 テーマは「自殺」「死」。もちろん「死」の問題は「生きる」の問題でもある。
 ある高校を舞台とし、ある教師を主人公としているので、教師の僕には設定場面に親近感があった。
 「普通に会話しているが、実はその生徒の名前がよく分かっていない」というのは僕も経験したことがある。
 それでも、作品全体にはリアリテイがない(そのことを批判するつもりはないが)。
 女子高生の1人が自殺すること・双子の兄が理由もなく自殺すること・心中未遂の青年をアイドルスターにしたてること。
 これらが見事にリンクし合っている展開が、ある意味で見事すぎて、「出来過ぎ」のような感覚が残ったのである。
 一番リアリテイのないのが、双子の兄の恋人であり、アイドルスターの仕掛け人である「佐智子」。
 佐智子の心情に踏み込んだ描写がないだけに彼女の行動の真意が今一つかめない。それは主人公にとっても同じなのである。
 それにしても作品の中で「舞姫通信」が出るタイミングがいい。
 「舞姫通信」は舞台となる高校の生徒に向けて発信されたメッセージであるが、同時に作者が読者に向けたメッセージにもとれる。
 僕などは、そろそろ「舞姫通信」が出てくるかな、と何度か期待した。生徒が期待するような気持ちとシンクロしてしまった。
 そして最後に教師2人が合作して書こうとした「舞姫通信」。これが見事なクライマックスとなっていた。
 この作品のストーリーは、結局のところ、(生徒には届かない)このラストの舞姫通信のために書かれているんだな、全てが、ラストの「舞姫通信」のための布石なんだなと思えた。
 そこらあたりもまんまとのせられてしまったようで、見事だなあと思う。
 「見事だなあ」と言いながら、実は、あまり、おすすめしていない。
 「よかったー」と思えるような感覚がなかったからだ。まあ「自殺」がテーマだから仕方ないか。

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February 16, 2005

「京都議定書」本日発効

CO2削減を提唱する「京都議定書」は本日発効された。→骨子
新聞には「温暖化防止へ歴史的一歩」という見出しが躍った。
参加しなかったアメリカを批判することは簡単だが、1990年から6%削減しなければならないはずの日本は、すでに8%排出量が増えており、14%の削減は不可能に近い数値である。
 となると裏技はお金によって他国の排出量を買い取るような方法だ。
 議定書の意義は分かる。
 しかし、肝心なのは具体策だ。14%削減のためには、どんな点で我々の生活が不便になるのか、どんな準備がいるのかをきちんと報道してほしいのだが、なかなか見つからない。
 新たな技術に安易に期待するのではなく、今の便利な生活の1つ1つを切り崩していく覚悟がいることをマスコミは報道するべきだと思うのだが・・。
たとえば、ここのようなHPをよーく見て、日本の対策の本当の効果を吟味しなければいけない。

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February 11, 2005

学力低下とスポーツ向上

 2005年2月9日のサッカーワールドカップ予選北朝鮮戦は、ロスタイムのゴールで勝利を収めた。→ここ
 1993年のドーハの悲劇とは全く正反対の出来事が起きたといえる。あの時はロスタイムに同点ゴールを決められ、得失点差でワールドカップ出場を阻まれてしまったのである。生放送で見ていた世代にとっては、本当に「うっそー」と思える瞬間だった。
 「結局、自力がないんだよな」と自虐的にぼやいていたあの頃に比べ、サッカー選手の実力がアップしたのだろうか。
 確かに、サッカー界はJリーグ・海外組の誕生・ワールドカップ出場と順調にステップアップしている。
 そして、それはメジャーリーグへの挑戦者がどんどん増えているプロ野球でも同じことが言える。
 陸上男子短距離界や女子マラソンもすごい。女子フィギアスケートも愛知勢が層の厚さを誇っている。
 学力低下が叫ばれるが、スポーツ界は順調に層の厚さを増し、順調にレベルアップしているといえるのではないか。
 「近頃の若者は・・」と嘆かれることは多いが、スポーツ界は評価されていいのではないか。
 だとしたら、その原因はいったい何なのか。
 逆に言うと「体力低下」のようなマイナス面はよく強調されるが、スポーツ界での活躍が正当に評価されることがないのはなぜなのだろうか。
 以前「菊次郎とさき」でコメントしたことと関連する。
 「大学へ入ればいい生活ができる」という神話が通用した頃は、たくさんの母親が教育に熱を入れた。
 今でも同じような思いで子供に塾通いさせる親はたくさんいる。
 それと同じような感覚で子供に熱心にスポーツに通わせる親が確実に増えていると思う。
 私の知っている範囲でも、少年野球・サッカー・スイミング・テニスなど親が熱心に送迎したり試合会場で黄色い声援を飛ばしている親がたくさんいる(我が家も、そうした部分をもっている)。
 「勉強で一流は無理だけどスポーツなら一流を」などと夢見ている親が多いとは思わない。
 ただ、勉強もいいけどスポーツもできた方がいいと思うのは自然のことで、授業後(放課後)に自然にみんなが集まってきて空き地で遊んでいた昔と違い、今はお金を払ってきちんとしたスポーツ団体に加入して組織的に練習することがごく当たり前になった。
 スポーツに投資することに違和感がなくなってきて、きちんとしたスポーツ団体に加入する年齢が確実に低下してきて、その結果、さまざまなスポーツで早期教育を受けた子供は成長してきているというのが私の印象である。
 無論、全ての子供がスポーツをやっているわけではないので、平均的な体力は低下している。
 そういう意味では、学力同様「二極分化」しているといえるかも。

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教科書を疑う

 中2の国語の「モアイは語る」について、続きを書く。
 教科書の記述は、イースター島は森林の消滅によって文明が破壊されモアイ像も作られなくなった、というのが主旨である。森林消滅の根本的な原因は人口増大によるとされている。家屋や燃料や船、そしてモアイを運ぶ「ころ」などに木材が使われたということだ。
 しかし、別の書籍によると、イースター島には奴隷狩りのような形で島民が連れて行かれたことや、伝染病で島民が絶滅状態になったこと・島民同士の争いでモアイ像が破壊されたことが書いてあった。
 ネットでも次のような解説がある。→ここ
 となると、モアイが作られなくなったこと(文明の崩壊)の原因を森林破壊だけに押しつけるのは極めて危険な発想である。言い方を変えれば「ミスリード」である。
 限られた教科書の紙面で全てを書き尽くすことは難しい。しかし一面的な書き方は教育的にもよくない。さまざまな可能性に言及しつつ、可能性の低い原因を消去し、可能性の高い原因を残すのが、論理的な文章の基本である。
 そもそも5世紀に移住したのに、突然モアイ像が作られ出したのが11世紀頃だと書いてあるが、そうなると空白の600年が気になるのが自然な発想である。
 むしろ11世紀になってわざわざモアイを作り出したことにこそ疑問が生じる。まあこれは先にリンクしたHPで「10~16世紀に島を支配した長耳族が権力誇示のために巨像を作った」と解説しているので教科書以外の記述のおかげで納得できたというところである。それにしても教科書が言うような単なる「祖先神・守り神」とHPが示す「権力誇示」とでは少し意味合いが違う。奈良の大仏だって「大きさ=権力誇示」だったはずである。
 結局、論証抜きで言えば、私は教科書とは異なる図式で「モアイ消滅の原因」を考えてしまう。
 部族の権力誇示の道具であったモアイ像の消滅は食糧危機による「争い」というのが、私の印象なのである。
 教科書のように、モアイ像を引き合いにして生徒に警鐘するなら、「森林破壊は文明を崩壊させる」よりは「食糧危機は人々の心を荒廃させ戦争をもたらす」とでもしようと思う。環境破壊も深刻だが、人間同士の紛争も相変わらず深刻な問題である。
 
 ついでに「モアイは語る」の最終段落についても疑いの目を向けてみる。
 ・人類はこのままでは2030年に80億を越える。
 ・しかし、農耕地の限界から考えて、80億人分の食糧が限界である。
 ・だから、限られた資源を大切に生活しよう。

という3段論法になっている。
 ・本当にこのまま80億・100億まで順調に人口は増大するか。減少の要因はないのか。
 ・このまま農耕地に頼った食糧生産であり続けるのか。新たな進歩はないのか。
 ・30年以内に「食糧」以外の危機はないのか。
 「食糧」以外の問題で地球が滅びるなら、そちらの対策が先決であるが、その自覚はあるか。

 また、
 <人口増大→森林破壊→食糧危機→文明崩壊>
というのが教科書の論理展開になっているが、森林破壊はCO2増加(地球温暖化)や生態系破壊の問題と絡んでいることは生徒も承知している。
 「食糧危機」だけを取り上げるのは、「イースター島」との共通項が「食糧危機」だったからというご都合主義にように思えてしまう。

 疑って読むことにより、見えてくるものがある。
 疑って読むから、叙述の細部までが気になってくる。数字の1つ1つが吟味され、論理の飛躍にチェックが入る。
 もちろん、疑って読むには予備知識が必要で、教科書以外の資料に目を通し比較するからこそ見えてくることもある。
 教科書を疑って読め、ということは、他の情報源と比較しろ、ということでもある。
 疑って読めるということは、比較して論じられるように幅広く情報を獲得しておけるということである。

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February 08, 2005

ネットの情報も最新ではない

 「モアイ」で検索したら、次のページが引っかかった→ここ
「この島でどうやって50t以上もあるモアイ像を運び、立てたかについては今も謎のままです」とある。
 光村図書の中2の国語の教科書では、環境考古学者の安田喜憲氏が「わたしたちの最新の調査結果」ということで、
・イースター島には五世紀にはヤシの森があり、モアイを運ぶ「ころ」にも、生活にも用いられた。
・人口の増大とともに森は消滅し、今、写真で見るような草原になった。
と書いている。
 タイトルで示したように、ネットの情報も最新ではない、ということを改めて感じる出来事だった。
もちろん、教科書の内容と一致するネット情報もあった→ここ
 それでも、天然痘や結核などの伝染病でイースター島の人々は死に絶えたというような情報も得られたので、決して無駄ではない。今の人口は2100人だと教科書の注に書いてあるが、人口の推移は気になるところ。ある生徒がイースター島では戦争が起こった時期もあると教えてくれた。
 ちなみに、教科書にはイースター島は「南太平洋の絶海の孤島」「日本の徳之島の約半分」と説明しており、注の欄で面積118平方キロと記している。
 ネットの情報では「周囲約58km」「佐渡島の1/4」とある。
 徳之島の半分と言われても、佐渡島の1/4と言われてもイメージできないというのが、生徒の反応であった。
 ならば、面積約118平方キロを別の例で置き換えて伝えてやらねばならない。
 これもネットで調べたら春日井市の面積が93平方キロとあった。イースター島は住んでいる市より少し広い。授業では、そこまで説明をした。
 それは教科書の本文から逸脱しているのだが、「自分の身近な数値に置き換えてイメージする」という作業を実演することも大事な読解作業ではないかと思っている。


 

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読解力と想像力

moai6_04 国語の教科書にイースター島のモアイ像に関する説明文が出てきた。
 モアイ像は「大きなものでは高さ二十メートル、重さ八十トンにも達する」とある。
 二十メートルというと三階建ての校舎よりも高い。
 八十トンというと普通自動車なら約八十台ということになる。
 そう考えれば、このモアイ像の大きさ・重さは相当なものである。容易には作れないし、運べないし、立てることも、安定させることも、かなり困難であることが分かる。
 「ころ」を使って10キロ・20キロ先まで運んだと書いてあるが、クレーンでさえ大変な大きさの石像である。「ころ」さえあれば容易に運べると言うものではあるまい。明らかに想像の範囲を超えているのである。
 また、いくら写真を見ても、まさかこの像が二十メートル近いとは想像できないのである(ちなみに奈良の大仏は16M)。別の書籍では「平均7・8M」とあったから、よく写真に載っているモアイはそのくらいなのであろうが・・。
 いずれにしろ、こういう数字を読んで、何らかの「驚き・疑問」が生じるのが自然(?)である。
  突拍子もない「百万馬力」だとか「百万年」とかいった数値は別にして、数値を具体的に意識できないようでは「読んだ」とは言えない。
 いくら説明文でも、数値を理解して想像すると、それなりの「驚き(感動や疑問)」が生じる。
 だから、数値を理解すると、説明文だって、十分、感想文は書ける。
 
★数値を読むということは、数値の意味や価値を理解するということであり、
★数値の意味を理解するということは数値の意味を具体的にイメージできるということであり、
★数値をイメージできるというとは、自分の知っている数値で置き換えられる

ということなのかな、と考えている。
 


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