「葉っぱのフレデイ」
写真は市販の絵本であるが、私が読んだのは光村教育図書の中2の国語の教科書である。
恥ずかしいことを承知で言うと、これまで「葉っぱのフレデイ」は読んでいなかった。
「ちょっと流行して芸能人が涙した絵本」という触れ込みが気に入らなかったのだ。
でも、教科書にあるので読んでみることにした。
そして、読んで驚いた。自分が40歳を過ぎたせいか、とにかく心にしみてしまったのだ。
書評で検索したら「こんな説教っぽい絵本はいらない」という意見があった。
作者は哲学者である。易しい哲学書だと思えば、そこまでケチをつけることもないだろう。
というより、この本は、むしろ子供向けだと思わない方がいい。
あるクラスの子の感想は「1人で家で読んだら泣いていたかもしれない」だった。
聞くところによると、一時期この作品が入試問題に(中学や高校)多く出されたことがあり、試験の最中に泣いてしまった子がいるのだとか。確かに感情移入する子なら泣けてしまうと思う。
3月の終わりで国語の授業もあとわずか。
最後の2時間分の授業(1時間分の授業)は、「葉っぱのフレデイ」を授業すると決めた。
1時間はCDを聞いて、簡単に説明して感想をノートに書かせる。
さて、問題は次の時間だ。
この1時間で「葉っぱのフレデイ」を扱ってよかったなと思える授業をしたい。
「授業をしたい」というのは「教え込む」ではなく「つかませたい」である。「読みとらせたい」とも少し違う。
何しろ、1時間目の感想では
★「これからは葉っぱを大切にしたい」「葉っぱにもそんな気持ちがあったんだな」というように「葉っぱ」を「人間」に置き換えて読むことに気づかない子。
★ 「なぜ友人のダニエルは同じ年なのに、そんなに物知りなのか」と作品の設定にこだわる子。
★ 「すごい」「感動した」といった言葉が踊っているだけで具体的で書けない子。
などがいる。
そこを何とかしたい。
誤読や自分勝手な解釈を正し、作者の主想に近づきたい。
作品(人物)の構造は
フレデイがダニエルに教えてもらい、安らかな気持ちで死を迎えることができた。
というようになる。
これを作者の思想の流れで言うと、
読者は作者に教えてもらい、安らかな気持ちで死を迎える準備ができた。
となる。
死を怖れていたフレデイが安らかになれたのは、
A)春が夏になるように、変化するのは自然なことだから。
B)春から冬まで十分楽しく幸せであったから
である。
自分が新しい命の準備になるということは、フレデイは知らない。
A・Bの理由では死の恐怖は消えない、説得力が弱いということはあり得る。そういう意見は認めていけばよい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちなみに「『命』は永遠に生きているから」という理由は私は列挙しない。
あまりに意味が通じにくい文だからだ。
「いつかは死ぬさ、でも、『命』は永遠に生きているのだよ」
というのは、日本語訳が悪いのだろうか。分かるようで分からない。
意味もよく分からないフレーズに感動するような非論理的な子供は育てたくないから、この部分は意識して外す。
「ゆずり葉」のように、自分の命を子孫に残して死んでいくという設定なら、また違った展開もあるだろう。
友人で物知りのダニエルは「父親」役の方がスムーズである。父親のダニエルがフレデイにいろんな知恵を授けて死んでいく。フレデイがダニエルに教わったことを今度は子孫に伝えて自分の生を終えると筋である。
まあ、これは読解と異なる世界だから生徒に伝えることではないのだが・・。
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Comments
この話は、>というとニュアンスが少し違うと思います。
葉っぱも人も、木も石も水も鳥も虫も、、、
それどころか、この宇宙のありとあらゆるものは
「ただ変化」している仮定の一時の「形」を
葉っぱとか人とか木とか石とか水とか鳥とか虫とか星とか銀河とか
ニンゲンが記号のように区別(あるいはフンベツ)しているだけに過ぎず
死や生についても同様である。
ただ変化している一時の形に過ぎないという意味だと思う。
仏教的に言えば、色即是空、諸行無常という事で
般若心経の内容と同じ。
これは、ひとクラス30人の生徒の中で、全員が心から理解出来るという事は
かなり困難であるし、また教える教師側も、また理解出来る者は少ないと推測される。いわゆる、これがソクラテスも釈迦も「気が付いた」という
「真理」だからだ。
Posted by: とりむ | May 16, 2005 12:25 AM
コメントありがとうございました。
この話を宗教でとらえるという視点はありませんでした。
私は「人の一生」の比喩として「葉っぱの一生」が語られていると考えたので、葉っぱの生き方がそっくりそのまま人の一生のたとえをして使えない部分に不満を感じていました。自分の解釈にこだわりすぎたんですね。
Posted by: 竹田 | May 22, 2005 04:36 PM