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August 31, 2005

駒大苫小牧高校の暴力事件

 高校野球で優勝した駒大苫小牧高校で、部長による生徒への暴力事件が話題になっている。
 「何だ、それぐらい」と思っている人も多いと思う。

 「運動部なんだから、それぐらいあるわさ」
 「選手になれなかった部員のタレコミか」
 「殴られる生徒が悪いんじゃないの」

といった論理(援護)である。
 8月30日の中日新聞夕刊で、藤島大氏が「『暴力』に『愛』はない」として書いている。
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 殴っても教え子から人生を通した感謝をささげられるほどの
「愛情」と「人格的魅力」を有しているのなら、殴らずに同じだけの
教育を課せるに違いない。

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 鋭い指摘だと思う。でも現実的ではないようにも思う。
 「殴る」という感情を全て捨て去るほど、私は理性だけで生きられないし、教育的力量も低い。
 「教え子から人生を通した感謝をささげられよう」などと毛頭思わないし、それゆえ、
 「教え子から人生を通した感謝をささげられるほどの『「愛情』と『人格的魅力』を有している」などと思ったこともない。
 だから「殴っていい」とは思わない。「いつか殴るだろう」と開き直っているわけでもない。
 しかしながら、、一人の人間としての「感情」を考えたとき、そんなにきちんと「感情」をコントロールできるものだろうか。
 「感情」をコントロールできないなら教師失格ということか。
 藤原氏の主張は、まさにその通りで、つまりは、教師である以上「感情」をコントロールしろ、ということなのだろうか。
 怒りたい気持ちをぐっと抑えて生徒に応対できるぐらいの、心の余裕を持て、ということなのだとも言える。


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August 25, 2005

「ドラゴン桜」はすごい!

 夏休みの昼食タイムに、漫画喫茶に行って「ドラゴン桜」を9巻イッキ読みしてきました。
 前から連載を部分的にみたり、最近始まったテレビを時々観ていて、いつかきちんと全部を把握しておきたいと思っていた。
 やっぱり、すごいわ。
 そして検索すると、たくさんのHPやブログもある。
 学習法としてまとめられているのが、東大受験漫画ドラゴン桜ファンサイト
 科目一覧があって、そこをクリックしていくと、漫画に即した詳しい学習法などが分かる。
 漫画の中の「芥川先生」の芥川式国語鍛錬法の一節で「ただ読書するだけでは力がつかない」ことが述べられている。
 
 「正しく読みとは、著者の言いたいことを正しくつかむこと」・・・・・・その通り。
 「正しく読む能力をつけるには、常になぜという疑問をもつこと」・・・けんか読みという奴です。
 
 僕は、中退した大学院時代に、千葉大学の宇佐美寛氏の「けんか読み」の論文に出会った。
 そのことは、大きな収穫だったし、僕にとっての大きな変革だった。
 「本当に、そういえるのか」「なぜ、そう断定できるのか」を疑って文章を読む。ケチをつけて読む。
 「論理の飛躍」という言葉も、この時覚えた。
 「論路的思考」は、「複眼的思考」とも言えるし、「デイベート式思考」とも言える。
 芥川先生の主張は、僕の目指している国語とずいぶん近い。
  
 「疑問をもって読む」が読解力の基本なら、「読解力低下」の対策で「朝読書をやっています・勝手に読ませています」では、お話にならないということになる。 
 芥川先生は言っている。文章を読むスピードをつけなくてはならないと。
 それは、新聞なり読書なりの経験が物を言うのだと。
 「興味あるものを一気に読む訓練を積む」という芥川先生の指摘は、さすがだ。
 1ヶ月朝読書をしても、ずっと同じ本を読んでいる、という状況ではダメということだ。
 「疑問をもって主体的に読む」「興味を持って一気に読む」の2つの習慣づけを鍛えてみたい。
 
 「ドラゴン桜」からの学びは、おそらく100号まで書いてもでは足りないだろう。
 まずは、ファンサイトでお薦めの『出口の現代文』を入手しよう。
 ちなみに、先日購入した小論文の対策本の著者樋口裕一氏の名が、「ドラゴン桜」の単行本の中で紹介されていた。
 入試小論文対策として「自分で問いを立て、イエスカかノーか答えていく」という項目があった。
 それも「なぜ」にこだわる読みで育まれる論理的思考力なのである。
 

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August 23, 2005

「愛は霧のかなたに」

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「愛は霧のかなたに」少し前にNHKのBSでやっていた。
 タイトルと筋は知っていたので「ああ、あれか」と思って見ていたら、ひきこまれ最後まで観てしまった。そして、ずいぶん感動も感激もしたし、おおいに考えさせられた。
 タイトルから想像されるのは、まちがいなく恋愛映画。
 しかし、原題は「霧の中のゴリラ」。まあ、原題通りでは、ちょっと観る気にはなれないかも。
 ただ、原題は、まさにこの映画にふさわしい。「なんだ、恋愛ものじゃないのか」と落胆する者を作り出すくらいなら最初から「霧の中のゴリラ」で観たい人だけに観てもらった方がいいだろう。
 絶滅寸前の「マウンテンゴリラ」の生態を調査しに、一人の女性がコンゴの山奥へ入る。
 そして、ゴリラに魅了され、保護に奔走する。
 貧困ゆえに、平然とゴリラを捕獲し殺してしまう原住民との確執。
 熱意のあまり同僚スタッフにまで厳しい生活を強いる。恋人はついに彼女の元をは去ってしまう。
 実話をもとにしている。彼女が殺されるラストは残念だが実話なら仕方ない。
 ゴリラはもちろん本物である(どこまで演技か分からない!)。
 アクションものが好きな私だが、これはお奨め。
 「自分の好きな仕事に者の没頭する」ことのすばらしさ、尊さも感じられる。
 小学生は無理かな?中学生にもお勧めの映画(ビデオ・DVD)である。

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August 22, 2005

「郵政民営化」の論理

 もう20年も前になるか、「命の授業・命の値段」というような道徳のネタがあった。→ここ
 人間の体の成分ごとの単価で計算すると人間の値段は3000円(だったかな)になってしまう。
 「人間の値段は○○円です。反論できますか?」というような授業実践だった。
 何となくまんまとのせられるような論法だなあと違和感があった。 
 今なら反論できる。次の一言だ。

 「その値段で実際に人間を作ってみて下さい」

 人の値段が3000円だと断言するなら、どうか3000円払うから人間を作ってみてほしい。
 それができないなら、人の値段付けたところで無意味である(値段がつけられないが、やむなくつけるという意味で保険金や補償金が支払われる)。
 この場合、ぐちゃぐちゃ反論するのは駄目で、やはり「蜂の一刺し」をしたい。
 「一刺し」ができないなら、できるまで「待つ」くらいの心意気がほしい。
 
 最近の政治状況も、よく分からない。
 郵政民営化反対派が、今になって離党やら新党立ち上げで息巻いているのが変だ。
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 小泉さんが党首になった4年前から、郵政民営化反対派は離党すべきだったのではないか。
 郵政賛成派の小泉さんの下で、4年間何をしていたのか理解できない。

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 別に小泉政治にだけ肩を持つ気はない。
 小泉さんにも言いたいことはある。
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 ①「郵政民営化反対」は「行財政改革反対」とは別である。一緒にしないでほしい。
 ②また、「郵政民営化」には賛成でも、今回の法案には反対だという人もいる。
  つまり「郵政民営化反対」と「今回の郵政民営化法案反対」とは別である。一緒にしないでほしい。
 ③「郵便貯金や財政投融資」と「郵便事業」は同じレベルで「民営化すべし」とは言えない。一緒にしないでほしい。

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 特に、③は、民営化反対の格好の攻撃対象になっている。

 「民営化されれば、山間部や離島にまで今のように郵便が届かない。だから民営化に反対だ」
・・・現在、山間部や離島にも「食糧等の生活必需品」が円滑に届いているならば、はがきや封書が届くぐらいは楽勝である。
 もし「食糧等の生活必需品」も届かないような困難な場所なら、むしろはがきや封書が届かないことも覚悟の上で生活していると思うのだがいかがだろうか(ここまで論じるのは本来「勇み足」である)。
 極端に言えば、次の3段論法が成り立つのだ。
 ①はがきや封書が届かなくても人は死なないが、食糧が届かなくては死んでしまう。
 ②しかし、人が生活している以上、食糧は何らかの形で届いている。
 ③ならば、はがきや封書も食糧と同様に届けられる。

 民営化反対の人たちの論理は2段で反論できてしまうぞ。
 
 ①離島や山間部では、例えば缶コーヒーの値段(定価)が都会より高いのか。
 ②物品の定価が都会と同じならば、はがきや封書だって同様に都会より高額になるとは言えない。
  (もし起こるとしたら、都会における郵便料金の値下げである。都会のスーパーでは過当競争で安売りが激化するように)

・ 民営化反対した議員のいる選挙区に「民営化賛成」の候補者が立つのは当然で、「刺客」は不当な発言だ。
 「刺客に狙われたかわいそうな議員」というレッテルで同情を買おうとしているとしか思えない。
・「金で何でも動かせると思っているホリエモン」だと。金や数の力(自民党というレッテルの力)で地元=特定の国民 に利益誘導してきた政治家が、どうしてホリエモンを批判できるの?ホリエモンに道徳的な批判を語れる政治家はいるの?

 僕の論理にも、どこか穴があるかも知れない。それならそれで潔く認めようと思う。
 とにかく「かみあわない議論」を大人がするのは止めて欲しい。分かっていてやるなら、なおのことだ
 今は、意図的にかみあわないように、巧妙に「論理のすり替え」を行っているようにしか思えない。
 教育も国民の義務なら、投票行動も国民の義務である。
 悪あがきのような痴話喧嘩のような、みっともない場面を子どもに見せて、義務遂行の意欲を失わせないでほしい。
(後日記)
8月22日の中日新聞夕刊の社会時評で日垣隆氏が次のように述べている。
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 三事業を同列に論ぜず、郵貯と簡保は解体して民間に移行し、郵便は国民の財産として継承しつつ、これら諸問題を一つ一つ解決してゆく、という選択肢こそ最も合理的だと思う・・・
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 民営化法案に反対しておいて、民営化だけが命である党総裁が率いる執行部に公認されると思っていた人々
は能天気すぎる。
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 どちらも同感である。「けれども民営化すれば、すべてうまくゆく、というのは本当か。冷静に考えてみよう」という立場も同感である。
 世の中はAかBの二元論だけではうまく進まないのである。

 

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August 20, 2005

責任逃れの論理

 8月16日付の中日新聞「ひろさちやのほどほど人生論」で「変な因果関係」と題したコラムがあった。
 禅の言葉に「張公喫酒 /李公酔」というのがあるそうだ。
 「張さんが酒を飲んだ。李さんが酒に酔った」としか書いていない。
 では、李さんは酒を飲んでいないのか、いやいや、書いていないだけで李さん自身もちゃんと酒を飲んで酒に酔ったのだ。
 さて、世の中には、まるで「張さんが酒を飲んだから、そのせいで李さんも酒を飲んで酔っぱらってしまったと主張している」ような責任逃れの言い方をする人が多いのだとコラムでは書いている。
 「その人は自分でも酒を飲んだのです。すなわち、自分の人生を滅茶苦茶にするようなことをいっぱいしてきたのです。そういう自分の責任を棚上げにして」悪いのは人のせいだと責任逃れをする。
・父の言葉に傷ついて私の人生は狂って滅茶苦茶になった。
・世の中が悪いから自分は失敗した。

 こういう言い逃れをする人は多いが、そうした人を一喝する人は少ない。
 なにせ、外国では自分で吸ったタバコによる害まで裁判にしてしまうんだから。→ここ
ただし、日本のJTの裁判では、原告敗訴になっている→ここ
 「トラウマ」という言葉が流行になって、何でも「トラウマ」のせいにしてしまう風潮もある。
 「トラウマ」のせいにしたところで事態が変わるわけではない。
 自分が自分の力で立ち直るしかないのだ。
 こういう言い方は弱者にむち打つようで厳しいから批判される。みんな言いたがらない。
 でも、バシッと言わないと変わらないなら、変わるように言ってあげるのも相手のためだ。
 本日読み終えた『この国の宿題』で櫻井よしこ氏と対談している宮川俊彦氏は次にように書いている。
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 教師が「されたからこうなりました。仕方ありません」という論理を是認すれば、おしつけた側(文部科学省)の問題に責任の重点が移動していきます。された側(教師)は「被害者」ということになります。
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 これも同じ「責任逃れ」の論理である。
 「・・されたから」という理由であれ何であれ酒を飲んだのは自分なのだ。
 そのことをきちんと指導し、責任逃れのしない子どもを育てていきたい。
 いずれ、このネタをサイトにアップして、授業にかけてみたい。
 導入は「喫煙者の裁判、アメリカでは勝訴・日本では敗訴」あたりにしてみようか。

 

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August 19, 2005

重松清の世界 『見張り搭からずっと』

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 春には読み終えていた作品だが、読後感が重かったので感想を書けないでいた。
 『リング』に匹敵するようなホラー小説という印象を持ちながら読み進めたが、リアリテイという意味では『リング』以上である。
 あとがきによれば第二章の「扉を開けて」は恐怖小説の一編として掲載されていた、とある。確かに「怖い」。
 『四十回目のまばたき』の文庫版の解説で藤田香織氏が、本書に触れている。
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 私は『見張り塔からずっと』に登場する場所同様のニュータウンで暮らしていて、表の顔と裏腹の地元の陰湿さも知っていたし、自殺した肉親をもつ友人も、若くして成り行きで結婚した友人もいた。でも、そんなことにはなるべ触れないようにして、それまで生きていたのだ。見ないようにさえしていれば、傷つくこともなく、心乱すこともなく、平穏に生きている。
 それなのに、重松清は私に、目撃させようとしていた。誰によっても「遠い夢物語」ではなく、極めてリアリテイのある設定で、登場人物の苦しみや痛みを見せつける。見せつけておいて、心を乱しておいて、すっと一歩下がるように結末は読者にゆだねる。

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 なるほど、見事な評だ。
 見て見ぬふりは「思考停止」につながる。
 「現実を直視し、なお厳しい現実を想像しろ」と重松清は訴えているのだろうか。
 「いじめ」は学校だけであるのではない。団地では新参者が「いじめ」を受ける。バブルがはじけて値下がりした物件を手に入れようモノなら、値下がり前に購入した人たちの恨みを買うのは当然だ。
・・・そのことを想像すると第一章の「カラス」が読める。信じたくはないが十分ありうる世界なのだ。
 子どもを失った家庭の前に、同じ年の子が転居してきたら平静でいられるか。かわいがっえあげたい気持ちと許せない気持ち・・・そのことを想像すると第二章の「扉を開けて」が読める。
 なみなみならぬ母親の愛を受けて育った息子と結婚してしまう女は、義母と、うまくやっていけるか。
・・・そんなこと無理に決まっている・恐ろしいバトルが起こると想像すると第三章の「陽だまりの猫」が読める。ただし、この章は予定した復讐ができなくなってしまうという意味で「どんでん返し」がある。復讐を企てる女の執念が圧巻だった。
 
 読後感は重かった。それは自分が現実(特に「負」の世界)を直視してこなかった・現実的な悲惨な世界を想像してこなかったからだ(想像すれば「ナイフ」や「疾走」の世界も受け入れられるのだ)。
 人物のキャラもすごいが、カラスやサッカーボールといったコモノもすごい。
 人物間のトラブルを描くのに、コモノが実に効いているのだ。

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August 18, 2005

「八月十五日の神話」

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 この本もまだ入手していない。8月15日の中日新聞朝刊に、著者の佐藤卓己氏が「つくられた終戦記念日」について解説をしていた。この書物に関連したブログを見たが、新聞の内容とかなり近いように思われた。
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8月15日が終戦記念日である根拠は1963年に閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要項」
・1982年に正式名称「戦没者を追悼し平和を祈念する日」が閣議決定。
・ポツダム宣言受諾は8月14日
・ミズーリ号上での降伏文書調印式は9月14日
・アメリカの対日戦勝記念日は9月2日
・ロシア・中国の対日戦勝記念日は9月3日

・玉音放送は8月15日正午
・大本営が陸海全軍に停戦命令を発したのは8月16日
・1939年から8月15日には「大東亜戦々没英霊法要盂蘭盆衣(うらぼんえ)」が行われていた。

・伝統的なお盆の行事から、日本の「終戦記念日」は8月15日になった。
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 「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」で誇張した数値や誇張した被害の様子が一人歩きしていった時、なぜ50年もたたない最近の史実でさえ、きちんと正せないのかと不思議だった。
 この「終戦記念日」についても、そんな経緯があったとは全く知らなかった。
 正式名称が閣議決定した1982年なら僕は大学生なのに・・。
 著者の佐藤氏も、僕と1つ違いの1960年生まれ。
 むしろ、我々のように実体験のない世代の方が、冷静に資料分析ができるのかもしれない。
 あるいは「本当などうだったのかな?」と、素直に疑問を提示できるのかもしれない。
 僕も、自分の感性と自分の疑問を大事にしようと思う。
 

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「競争しなくても世界一」

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 まだ入手していない本だが、PISAの学力到達度調査でトップだったフィンランドの現地取材した様子が書かれているらしい。→ここ
 たまたま知ったのは、愛教組のチラシである。
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 フィンランドの学力世界一の秘密は、PISA2003年調査によると社会生活をするのに極めて困難が予想される「レベル1」未満が非常に少ないことにある。(中略)
 競争しなくても、どうして学力がトップレベルにあるのか不思議に思っていたが、本書を読むことで、その背景を知ることができた。国が財政的にしっかりと保障し、かつ、現場では質の高い教師が個人の学びを適切人支援する。そこにあるのは高度福祉社会の上に築かれた教育立国であった。

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 日本も「教育立国」であるはずだ。
 しかし、福祉国家として有名な北欧諸国とは比べモノにならないということか。
 1教師ががんばってできることと、できないことがある。
 1時間の濃密度を工夫することはできても、週3時間に削減された中学校の国語の授業時間を4時間に戻すことはできない。子どもの学力を保障できない「選択授業」の時間を正規の教科の時間に戻すこともできない。
 などと、ぼやいていたら、次のような解説もあった。
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 「授業時間数と学力は比例しているわけではない。問題は単に時間数にあるのではなく、教員が十分に準備し、体力・気力とも充実して授業に当たるかどうか、あるいは子どもたちが準備段階の学力に達していて、元気に生き生きと授業にはいっていけるかにある」(本書P39~40)=====================
 授業時間数を言い訳にせず、充実した1時間を準備せよ、ということか。
 逃げ道を封じられたようなものだが、まさに王道だな。
 

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August 15, 2005

「教育が拓く未来」櫻井よしこ

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 櫻井よしこさんのHPは鋭い。中途半端に国会議員などにはならないでジャーナリストとして鋭い指摘を続けて欲しい。
 さて 『教育が拓く未来』を木曽川図書館で借りた。この手の教育書は書店よりも図書館の方が入手しやすいことがある。
 この第一章に、OECD学力調査についてのコメントがある。
 これは前回の調査結果に対するコメントである。
 「日本の十五歳児の特徴の第一は、低下したといわれながらも正しい答えを出す率はまだまだ高いということだった。」というあたりが、今回との相違だろう。
 しかし「課題」については、前回からすでに兆候が現れている。そのことをきちんと示す証拠品という点でありがたい書物だった。
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長い段落全体の意味や目的をとらえること、または、文章で回答を書くことが際立って苦手なのだ。
・この種の問いに対する日本の子どもたちの正答率は、OECDの平均よりも驚くことに20~30パーセントも低く、最低の部類に落ちている。
・自分の言葉で答えを説明しなければならない落書きと広告についての質問では「無答」がOECDの平均で10.2パーセントだったのに対して、日本の子どもは28,8パーセントだった。
・「贈り物」と題された物語についての解説も自分の言葉で書かなければならないのだが、日本の子どもは約30パーセントが「無答」、同じ文章に暗示されている主人公の行動の理由を書かせる問いでも、日本の子どもは約34パーセントが「無答」で、答えない子、答えられない子はフィンランドやアメリカの子どもたちの5倍から7倍にのぼっている。
・(前略)それにしてもこの問いでも、日本の子どもたちの「無答」は約41パーセントで断トツに多い。他方、アメリカの子どもの「無答率」は8パーセント、他の国々の子どもたちも多くが10パーセント台にとどまっており、日本の子どもたちの沈黙がとりわけ目立つのだ。
・(家庭内の蔵書が)日本の子どもは「1~10冊」の所に10.1パーセント。(中略)各国のなかで最も高い数字である。
・55パーセントが「趣味としての読書はしない」と答えている。これも各国中、最も高い率だった。
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 無答の多さは「思考停止」と「ねばり強さの欠如」だと語る。
 今回はOECD調査に関する部分の引用にとどめる。実際紹介したい記述箇所は山のようにある。
 紹介された百マス計算・陰山メソッドについては異論もあるが、きちんと「教え込む」ことの大切さは同感である。
 また幼児用の絵本「チャイルドブック」よりも薄っぺらな教科書、という批判はまさにそうだと思った。
 教科書だけで我が子への教育が十分などと思わない方がいい。自己責任・自己防衛策として、子供には良書を与えていこうと思う。
 また、職業柄・子供への防衛策として1つ前・2つ前の教科書を入手・保管しておきたいと思う。
 算数’数学)・理科・社会など3割削減された薄っぺらな現行の教科書以前のものをきちんと置いておきたい。
 3割削減の批判は根強いので、次回改訂では戻される部分もあるかもしれない。
 となると、10年もたってみれば、今の教科書の子どもたちだけが「削減」の犠牲者になっている可能性もあるのだから。
 

 

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重松清の世界 『疾走』

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 そもそも、この表紙を見ただけで、ためらう人もいるだろう。
 重松作品の「ほのぼの系」ではなく、「おそろしいまでのリアリテイ系」に属することは想像できる。
 いくつかの書評を先読みしたが、重い・読後感が悪いというようなものもあり、かなり身構えて読んだ。
 身構えてしまえば、読める。
 そして、ラストは悲惨ではあるけれど爽快感もあった。ラストはあれでいい、と思った。
 たとえば、たけし監督の「ブラザー」も、最後は壮絶に全滅する。「ひょっとして生き残るのかな」という淡い期待も吹き飛ばされる。
 そうした壮絶さを織り込み済みで読むと、「生き残るといいな」と期待する時とは違った読みの味が出てくる。そんな感じだ。「生き急ぐ」シュウジ。「死に急ぐ」シュウジ。タイトルは『疾走』である。死ぬまで走り続けるしかあるまい。
 ネタバレで書きますよ。
 次から次へと家族の不幸を背負ってしまうシュウジ。そして、ますます深みにはまっていくシュウジ。
 思わず笑ってしまうのは、次の場面だ。冗談で言う所長の言葉が見事に当たってしまう。
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 「ひとでも殺したか?」
 所長は笑う。
 「それとも、放火魔か、おまえ」
 嘲るように笑う。
 「ヤーさんの女に手え出したのか?ガキのくせによお」
 語尾を跳ね上げて、笑う。
 おまえはなにも答えない。そうだよ(中略)俺はひとごろしで、放火魔の弟で、やくざの女に手を出して、妊娠させたガキだ。
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 それでいて暴君のような兄にも、兄だけを愛し自分を放置した母にも「うらみ」を見せないシュウジはすごいと思う。それが「孤独の人」ではなく「孤高の人」ということなのか。
 皮肉なことに家族がシュウジを見捨てるのに、他人は妙にシュウジにやさしい(新田を除く)。
 泣いているシュウジをほかっておけなかった鬼ケン、シュウジを守るために逮捕されるアカネ、シュウジを守るために自分は殺されてしまったみゆき、シュウジをやさしく受け入れる教会の宮原、そしてシュウジがつながりを求め続けたエリ。
 エリと2人で歩くシーン、宮原に故郷を離れる挨拶をするシーン、アカネとみゆきと3人でお風呂に入るシーンなど全体的に悲惨なストーリーの中にほっとする場面が何度も挿入される。
 下巻に入ると、新田が登場して壮絶な拷問シーンが登場する。そして殺人が起きる。
 そのことを承知してみると、上巻だけで終わっていたら、バラ色の未来もあり得そうな「いいお話」だと思う。
 上巻で終わっていたら、不幸を克服して明日に期待して故郷を出発する主人公にエールを送ることができる。
 しかし、残念ながら新田との出会いで、シュウジの人生は急降下する。
 それは不幸な結末ではあるし、できれば違う結末がよかったと思う。
 それでもシュウジの生き方には迷いがなく後悔がない(だから「孤高」なのか)。
 だから、読者である我々もシュウジの生きざま(死にざま)を素直に受け入れねばならないのだと思う。
 
 中1の息子に読ませられるか・・・否。
 現在担当している中3の生徒に読ませられるか・・・微妙。
 誰に読ませられるか、と言ったら重松清の、「おそろしいまでのリアリテイ系」に慣れた大人としか言えないかも。
 でも、世の中にはいろんなサスペンスものやミステリーものもあって、これくらいの暴力シーンはどうってことないのかもしれないな。
 現実には15歳で妊娠する少女も、暴走族に入ってしまう奴もいる。
 シュウジは決して特異な15歳ではないのだ、と思うには覚悟がいる。
 覚悟を決めて読めば、死ぬしかなかったシュウジのラストにも拍手を送れると思う。
 


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戦後60年

 s30th
 戦後60年。昭和80年にもあたる。区切りのいい年である。
 今年はいつになくテレビ番組も「太平洋戦争」関連が多かった。20年目にあたる日航ジャンボ墜落の特集も多かった。
 僕は昭和36年生まれ。20年早く生まれていたら、戦中・戦後の大変な時代に遭遇していたことになる。
 昭和1けた生まれの両親は戦争体験者だが、戦中のことを詳しく聞いたことがない。辛かったのではないかと思うとどうしても聞くのを遠慮してしまう。
 前任校の校区に名城大学の農学部(農場)があって、古めかしい立派な建物がある。
 20年近く前、新任の頃に農場見学の依頼に行った折りに中に入って、その建物の古めかしさにドキドキしたものだ。
 その建物が昔の軍事工場(鷹来工廠)の本部そのものなのだと最近知った。→ここ
 この工場では、「風船爆弾」という笑い話のような秘密兵器を作っていた。
 「あの建物が軍事工場だったんだよ」
 知らなければ、そんな一言も子どもには伝えられない。
 知らずに校区の教師をしていたことが恥ずかしい(今だって校区にいろんな名所があるにちがいない)。
 
 もちろん、実際に工場で働いた人の話が聞ければ、子どもの心に響くことは間違いない。
 前任校では「総合的な学習の時間」で、神社のドングリを調べたり町のバリアフリーを調べたり、職場体験をしたりした。
 それはそれでよかったが、戦争体験を聞くような場の設定を「道徳」や「総合」で設定すればよかったと反省している。そのような形でお年寄りと交流してもよかったのではないかと・・。
 ただし、お年寄りの話を聞くのは決して容易なことではない。 
 元教員のような方でさえ、子どもにわかりやすく話していただけるとは限らない。
 そういう意味では「聞き語り」は人選が勝負なのである。

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August 11, 2005

さざれ石

「さざれ石の巌となりて苔のむすぶまで」という国家『君が代』の一節について、安易に聞き流していた。
「さざれ石」というのは音のイメージから「流れる石=漱石」のようなものだと思っていたからだ。
でも違っていた。
「さざれ石」は鍾乳石と同じ成分で、長い年月を経て、小さな石から大きな岩石に積み重なっていくのだ。
 「さざれ石」で検索するだけで、いろんなサイトに出会え、いろんな事が分かった→ここ
 このリンクサイトが述べているように「さざれ石が巌になる」は比喩ではない。
 岐阜(恵那IC近く)の「博石館」にも実物がある。
 10年以上前に学年旅行で行っただけなので、再度でかけて写真を撮ってみたいと思っている。

 こんなことを思い出したのは、国語の教師でありながら、国語の知識が不足していることを強く感じるからだ。
 「今こそ分かれめ、いざ さらば」という『仰げば尊し』の一節も「分かれ目」だと思っていた。前任校で同僚の国語の先生に言われるまで気がつかなかった。
 知ってしまえば何かの折りに話をすることができる。
============================
 『こそ』があるから意思を表す『別れむ』が『別れめ』になる。
 これが『係り結びの法則』だ

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 最近は『仰げば尊し』を歌わないし、知らない生徒がほとんどなのでネタとして使えないが。

 僕が以前からよく小ネタとして使うのは「風とともに去りぬ」の「ぬ」だ。
 これは、僕自身、中学生の時は理解していない「ぬ」だったからだ。
 1学期の古典(和歌)の授業でも使った。
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 「風と共に去りぬ」の「ぬ」は完了の「ぬ」。意味は「去ってしまった」
 ふだん我々が使う「ぬ」は否定の「ぬ」。でも否定の「ぬ」だったら「風と共に去らぬ」になる。

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 こうした小ネタはきちんと整理しておきたい。
 また、こうした小ネタをもっともっと増やしたい。
 ちなみに「さざれ石の巌となりて」の「の」は、主格を表す「の」である。
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 「の」には2つの用法がある。
 1つは我々が普段使う「の」。
 もう1つは「が」の意味になる「の」。
 「さざれ石の巌となりて」は「さざれ石が・・」の意味である。

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 慣れてしまえば当たり前の用法だが、生徒には機会あるごとに提示して定着を図らねばならない。


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凛とした態度

 「凛とした」と漢字で書けない。
 でも「凛とした」はいい言葉だと思う。
 今日は夏休みながら、市の国語研究会の部会が開かれた。
 新任の先生が「授業がうまくいかない。朝の会もうまくいかない」というような悩みをこぼされた。
 部会は校長先生もいればベテランの先生も多い。自分の悩みを堂々と話せという方が無理だろう。
 それでも、新任の先生たちの自信のない話し方に「頼りなさ」というか「不安」を感じざるを得なかった。
 この先生方が、子どもを前にしても、今のような話し方(対応)をしているとしたら、子どもを統率できないのではないかと。
 僕は「ルールをきちんと決めて言い切ることが大事。あれもいいね、これもいいねといっていると、かえって子どもは混乱するから、先生がルールをきちんと示す方がいい」というようなことを発言した。
 「発言するときは、まず結論を先に言いましょう」「作文を書く時は一文が長すぎないように気をつけましょう」というような指導事項を「どっちでもいいよ」ではなく「そうしましょう」と言い切れるかどうか。
 「下敷きを引くんだよ」「定規を使って線を引くんだよ」というような学習ルールも「どっちでもいいよ」ではなく「そうしましょう」と言い切れるかどうか。
 それを言い切れる態度は、「凛とした態度」という言葉がぴったりだと思っている。
 向山氏は「教師の権威を打ち立てよ」と言われた。
 声量も含め、視線(眼力)も含め、空間支配できる雰囲気をもった態度である。威圧感といっては言い過ぎかもしれない。
 
 

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August 10, 2005

愛・地球博での学び

 先日、市の教育講演会で特別支援教育のお話があった。
 講演の中で「見通しを持たせる」というポイントがあった。
 「あと何分だよ」「ここまでやったら終わりだよ」というように見通しを持たせると安心して取り組めるという。
 これは何も特別支援の必要な子だけの対応術ではない。
地元の愛知万博に家族で出かけてきた。
 さんざん待ったトヨタ館では、モニター画面で「あと5分お待ち下さい」「あと3分お待ち下さい」と提示された。
 JRの超伝導リニア館では、「7分間の映像をご覧下さい」「12分間の映像をご覧下さい」というようなアナウンスがあった。
 こういった待ち時間や所要時間の提示が、待ちくたびれた体にいかにありがたかったことか。
 「見通しを持たせる」ことの大切さを身をもって感じることができた。
 『TOSS特別支援教育ML小事典』では、「タイマーになれ」という表現で、教師がタイマーを持ったり、タイマーを持って時間を提示提示してやることを紹介した。 
 「タイマーになれ」が大切なポイントだと分かっていながら、実際には授業の中で実践していないことも多い。
 「5分やろうな」と宣言しながら、時間を短縮したり延長したりすることで信頼を損ねていることもある。
 1学期の授業を振り返ってみる。
 国語の教材CDを聞く時は「何分聞くよ」と呼びかた。
 黒板に教材内容を箇条書きする時は「あと○つ書くね」と予告した。
 「ここまで書いたら今日は終わりだよ」などと言うこともあった。これは生徒に言っているというよりも自分に言い聞かせているようなものだった。
 「○○ができていたらAだよ」というように評価規準を明示するのも同じような意味合いだと言えようか。

 振り返って、もっともっと想起しリストアップしなければとは考えている。

(追記)
 万博で逆にいらだったことは「まもなく開場です」「まもなく開演です」の「まもなく」。
 あまりに「はば」があって、聞き手に何の安心感ももたせないし、場合によっては、その気にさせておいて更に待たせるという最悪のパターンで「いらだち」を誘ってしまうだけだった。
 

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August 05, 2005

「夜盗」

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図書館にあったので読んでみた。結構夢中になって一気に読んだ。
帯を見ても、ミステリーではなさそうだった。
刑事モノという点で『半落ち』と重なるような印象で読んでいった。
読み終えても「似ているな」と思った。
『半落ち』も『夜盗』も要するに犯人が「いい人」なのだ。
コピーが「大人の恋愛小説」だから、『半落ち』のようなドンデン返しがない。
途中で犯人は分かってしまう。
じゃあ最後はどうなるのか、ストーりーはどう展開するのかすごく気になった。
金銭とは別の犯行動機は最後に明かされるが、「そんなのあるの?」という印象が強かった。

背景となった、戦争・戦後の日本について知らなかった一面を知ることができた。

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「イン・ザ・プール」

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一言でいって「変わっている」。でも面白い。読んでよかったと思っている。
たまたま図書館にあったのを手にしただけで、どんな内容なのか全く知らなかった。
そもそもタイトルが「イン・ザ・プール」で、表紙が不気味。
何か暗い話なのかと思っていた。
舞台が精神科と分かっても、まさか、ふざけた話だとは思わなかった。
とんでも精神科医はマザコンでデブで注射フェチで自分のことしか考えていない。
看護婦は不愛想で治療してるんだかどうだかよく分からない。
それでも、結果的に訪れる患者は回復に向かう。
自分が興奮したいためにとりあえず行う注射さえ、正しい処方に思えてしまう。
ハチャメチャな治療で患者がハチャメチャになるだけの内容なら読み進めなかっただろう。
治療の成果が表れるので「うーん」とうなってしまう。
水泳にはまったり、携帯電話が手放せなくなったりといった症状もリアリテイがある。
携帯電話の依存は実際に話題になっているし、水泳は僕もはまりかけたことがある。
それなりの医学的な事実に基づいた上でのハチャメチャなんだろう。
何となく勉強になるようだし、読後感がよいので息抜き読書にもよい。
中学生が読むとなると第二章の「勃ちっぱなし」がネックかな?

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August 04, 2005

子どもの目線(水難事故)

 夏休みになって、ようやく家族で過ごす時間がとれた(年休をいただきました)。
 自宅の一宮市から30分程度で金華山付近の長良川河畔に着く。
 膝丈の水深のところでちょっとだけ川遊びをした。
 子どもはかかと付きのビーチサンダルと浮き輪とゴーグルを持参していたので完璧。
 浮き輪を手に水中の小魚を追っかけたりしていた。
 僕は裸足で短パン1つなので、転ばないように歩くのが精一杯だった。
 歩くだけではつまらないので、肩まで水につかってみた。
 ビックリ。
 膝までの水深では感じなかった水流が、すごく強く感じられたのだ。
 
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 体の4分の1程度なら水流を受けても、残り4分の3の胴体で支えられる。
 しかし、4分の3以上の胴体が水流を受けると、とうてい支えられない。
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 これは支点と作用点の力学の問題だな。
 
 これを家族の立場で考えると
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 親は大したことのない水流だと思っている場所でも
 子どもはあっという間に流されてしまう。
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ということだ。
 教室で子どもの学習机に座って教室を眺めてみると、違うイメージを持つことがある。
 授業中、ある程度板書したところで教室の一番後ろまで下がって板書を眺めてみると
どうにも字形がゆがんでいたり、縦横が揃っていないことに気がついたりする。
 模擬授業を受けることも、授業を受ける子どもの感覚を体感するのは最適である。
 「子どもの目線」は当たり前の言葉だが、改めて自覚していきたい。 

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