小見出しの意義~構造化の自覚~
教育論文を書くときは、章立てをする。
場合によっては、事前に章立てを決めておく。
章立てをして、小見出しを付ける。
小見出しがあって、内容ごとのまとまりを区分けしてあるから、
全体の位置づけも分かる。次のように。
①OECD調査の考察
読解力の研究・・・②研究の課題設定
③授業実践
④研究のまとめ
そして、その①②③④は、さらに(1)(2)とか、abcという形で細分化されていく。
これが僕の考える「構造化」である。「階層化」「ツリー」という意味でもある。
「論理的思考」が身についているかいないかの差の1つが、この「構造化の自覚」だと思っている。
教育論文で「章立て」がなかったら、「問題外の論文」と思うのが普通である。
その視点から、従来の学校作文で「論理的思考」がなかなか育てられない原因を考えてみる。
あるいは、「論理的思考」を育てる作文指導を考えてみる。
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学校で行われる作文は「章立て」を必要としないものが多い。
したがって、「構造化の自覚」が育てられない。
章立てできるほどの、ある程度の文量の負荷や、ある程度の項目の提示をしてやるべきだ。
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「章立て」を必要としないというのは、作文のテーマが単発で1つの事がらを述べるだけの場合が多いという意味だ。
行事作文・教科書教材の感想・あるテーマに対する意見文。
これらは、一段落・ひとまとまりの内容で書けてしまう。
運動会の作文でも形式を指定しなければ
(1)前日までのこと
(2)当日の朝
(3)リレー本番
(4)運動会を終えて
というように章立てする(あるいは小見出しをつける)ことは、まずない。
そのような1章ですまされる作文だけを訓練させていては「構造化の自覚」は達成させられず、
論理的思考も育てられないというのが私の考えだ。
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