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December 17, 2005

汚いもの

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先日の中日新聞に、トイレの柄付きブラシは不衛生である。ブラシから飛び散った飛沫も、ブラシを受ける側の容器も不衛生であるという記事があった(記事は菌の数が明記されていた)。
 
 トイレの柄付きブラシは、前々から思っていた。濡れた状態でほかっておくのも気になったし、
ブラシを受ける容器に水がたまるのが恐ろしかった。
 そして、それを言うなら、不衛生だと感じる物はたくさんある。
1)トイレのドアノブ。誰かが手を洗って濡れたままドアを触るとドアノブが濡れる。その濡れたドアノブを触ってしまうのが耐えられない。
2)トイレのドアノブが嫌なのと同じ理屈で、病院のドアも自動ドアでないと困ってしまう。
3)スリッパをしまうのに、両足分を重ねる人がいる。片方の足形の中に、スリッパを入れてしますけど、そうしたら片方のスリッパの裏の汚れが、もう片方のスリッパの足入れの部分に写ってしまうではないか。
 だから、重ねて収納してあったスリッパなどは嫌で嫌でたまらない。

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早すぎる結論?耐震強度偽装マンションへの支援

 耐震強度偽装問題も、証人喚問が進み、新たな事実も明らかになってきた(ように思う)。
 偽装の被害にあったマンションの方々は大変なショックだと思う。それは分かる。
 確かに転居費用や住宅費用の支援も必要だと思う。それは分かる。
 しかし、である。
 本当に耐震強度偽装は、「姉歯建築士」だけの問題で済むのだろうか。
 もし、もっともっと違法建築(危険な建築物)が発覚した時に、同じような支援策がとれるのだろうか。
 生命の危険でもあるから、予算の関係で「これ以上の被害マンションには支援ができません」とは言えないはず
だが、本当に国や都道府県は、最後の最後まで面倒を見る覚悟があるのだろうか。
 もし、今の被害者にしか支援できません、ということなら、結局「声の大きい人の意見しか耳を貸さない」ような不平等な支援策ということになる。本当の地震や台風などの被害で家を失った方々とのバランスはとれているのだろうか。
 本来なら建築事務所や、建築主が負うべき責任の肩代わりをし、しかも、彼らに費用を返済させるつもりがないなら、まさに「盗人に負い銭」ではないか。
そんなことだから、政治家と業者との密約が勘繰られるわけだ。
 あるいは業者の脅しに屈したのだと勘繰られるわけだ。
 次のように。
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小嶋社長は、偽造公表の2日前の今月15日に伊藤公介元国土庁長官と共に省内で同省建築指導課長と会ったことが明らかになっている。それ以外に9日と22日にも同課を訪ねていた。いずれも複数の関係者と訪れて「私たちは被害者だ。偽造を見逃したのは建築確認を出した検査会社であり、民間の確認業務を認めた国交省にも責任がある」などとして支援を要請した。
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 当然、マンションの方々には心を痛める。
 一時的に国や都道府県が費用を肩代わりすることは必要だが、最終的には業者に請求すべきである。
 偽造ホテルを造ってしまい、客を呼べないところの営業保証は支援しなくていいわけ?
 さっさと破産した関連業者や、熟年離婚した総研の内河所長の資産隠しの疑惑には手を打っているの?
 内川所長の自宅がテレビに出たけど、まさに豪邸だった。総研も破産してごまかすかも。
 
 繰り返すけど、今後、他の業者が偽造していたいた時も公平に被害者は救済されるの?
 
 早すぎる結論は、何かを隠しているようにも、何かをかばっているようにも見え怪しくて仕方ないのである。

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December 15, 2005

感想文

 中3の教科書に「二つの悲しみ」という作品と「お辞儀するひと」という詩がある。
 生徒の感想文が、どんな内容かを紹介してくれる。
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 まず「二つの悲しみ」では、大事な家族が死んでしまって、二人の人がとても悲しんでいる、という感じが出ていて、「お辞儀するひと」では、中国残留孤児の人が肉親に会いに日本に来たのに会えなかった、という話になっていて、両方悲しい話だと分かりました。
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 授業で「悲しみ」と「哀しみ」はどう違うかを考えさせた(正解を示したわけではない)。
 ただし「涙」には触れていない。
 それでも、この生徒は「ひとり読み」で「涙」と「哀」を対比させて感想を書いている。
 この生徒の感想の続きは、授業の発展になっている。
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 「二つの悲しみ」では、「涙」という文字を使っていて、本当に悲しいと言うことが伝わってきました。
 でも「お辞儀するひと」はこんなにも悲しい、肉親が生きているかも分からない状態なのに「涙」も「泣く」も使っていませんでした。それなのに「哀」という一文字ですごくさびしい雰囲気だと伝わりました。
 私には、涙・涙と何回も書くより、もっと印象の強い文字一文字で表す方が読者にとってより大きな印象になるのではないか、とこの2つの話を読んで思いました。
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 詩には「哀しいお辞儀」と書いてある。「悲しいお辞儀」と、どう違うのかを生徒に問うた。
 どう答えれば正解なのだろう。
 「哀しい」を「あわれ」で置き換えればすみとも思えない。「あわれ」は、さげすむような酷な表現だ。
 「かわいそう」あたりならいいのだろうか。
 「悲しい」と比べて「泣きもしない」「涙も出ない」「声もない」というあたりでいいのだろうか。
 答えの定まらないような問いを出したのは、久しぶりだった。
 今年度の生徒にとっては戸惑いがあったかもしれない。
 でも、正解はなくても自分なりに意見を述べる、というのも大切なことだ。
 子どもたちは「この問いは正解が何かが大事なのではなく、どう考えたかが大事なのだ」ということにやがて気づいていくからだ。

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二段落構成の作文

愛知県の高校入試(国語)には、論作文がないので不勉強だった。
OECDの学力調査の問題が大学の論作文みたいだと感じたが、実際は他府県の高校入試の論作文のテーマを見ると、OECD調査とそれほど差を感じなかった。
 例えば、ネットで検索したら次のような例が見られた。→ここ
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<宮城県>

次の資料は「小学生がよくする遊び」についてまとめたものです。これを見て、あなたが気がついたことと、それについてのあなたの考えを百六十~二百字で書きなさい。ただし、あなたが気がついたことを述べる段落と、考えを述べる段落との二段落構成とすること。
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 福島県教育委員会作成のサクシードも、とても役立つ資料であることがわかった → ここ 
 資料を見て答える問題もあるし、賛成か反対かの立場をはっきりさせて意見を書かせる問題もある。
 論作文が公立高校の入試に出ない愛知県では考えられないが、論作文が高校入試で課される地域なら、大学入試の論作文も戸惑いなく取り組めるのだろうし、中2対象のOECD学力調査でも、いい結果が出たと思う。
何といってもOECD調査で課題とされたのは、「自分の意見を述べられない子の多さ(無答率の高さだったのだから)。
 
 ところで、他地区の論作文の課題を見ていて気になったのが「2段落構成」という指定だ。
 「あなたが気がついたことを述べる段落と、考えを述べる段落との二段落構成とすること。」というのが多い。
 「気がついたこと」 → 「考え」というのは、
 「具体的な記述」  → 「抽象的な記述」
 「事実」       →「意見」
ということか。
 公立高校の入試問題として課されるなら、中学校での指導も必要になるだろう。
 該当中学校では、どんな指導を加えているのだろう。

 


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December 11, 2005

「抽象化」とは

この間から、うまく自分の思いがまとまらない。
「構造化」「抽象化」「ラベリング」といったあたりの感覚である。
日本言語技術教育学会編の『言語技術教育10』(明治図書)をパラパラめくってみた。
P97で井上敬夫氏が「抽象化と吟味」について触れている。
=================
 (前略)情報教育に働く思考は、その情報からどういう結論を導き出すかという方向よりも、一定の結論に対してそれに整合性のある具体的事例を収集する方向のほうが多い。
 例えば、(中略)
 このように、情報(具体例)は、一定の結論(抽象化)を絶えず意識して、比較検討しながら取捨選択されていれることになる。したがって、情報は、抽象化(結論)との比較(=吟味)がいつも必要になる。
==================
この引用部分そのものが、意見ー具体例ー意見の構造になっている。この構造がいかにポピュラーか分かる。.
 井上氏の主張の本意とは異なるかもしれないが、意見文には2つのタイプがあることが分かる。

(1)ある情報から自分なりの結論を導き出す文章
(2)一定の結論に対してそれに整合性のある具体的事例を収集した文章

 帰納的思考と演繹的思考と言っていいのだろうか。
 前掲書P134では、喜岡敦治氏が「プレゼンテーションの技術」として「結論先行型」である「演繹法」の書き方を勧めている。
 いずれにしろ、学校での国語教育の問題の1つは、具体と抽象の整合性を吟味することがあまり見られないことだ。それは教科書の文章は正しいという前提で授業が進められるからだ。
 具体と抽象の整合性の吟味は「批判読み(けんか読み」という形で行われる。
 フィンランドメソッドで言えば「批判的思考力」である。。
 前掲書P100では加藤郁夫氏が次のように述べている。
===================
 「論理」とは、そこで述べられている事柄と事柄の関係をいう。論理の吟味にも三つのポイントがある。「①事柄の選択は妥当か ②解釈は妥当か ③不整合(ズレ)はないか」の三つである。
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 この引用の文章が、妥当性・整合性の吟味をしなければ加藤氏の主張を受け入れられない(例えば、ポイントは本当にこの三つだけでいいのか、という「批判読み」も当然生じてくる)。
 加藤氏の主張が正しいなら、「論理的思考力」は「論理的に物事を考える力」である。
 授業もこの3つの流れで進めれればいいことになる。
 加藤氏の3つのポイントを同書P31で鶴田清司氏は次のように述べている。
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 情報の真偽性(ウソはないか)。
 妥当性(推論や判断は論理的に正しいか)
 適合性(自分にとって必要は情報か)など。
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December 10, 2005

フィンランドメソッド~フィンランド国語教科書~

fin
OECDの読解力調査で堂々トップのフィンランド。
そのフィンランドの4年生の国語の教科書の日本語翻訳版が出た(経済界・2000円)。
確かにすごいわ。
OECDの読解力の問題で日本の中学生がお手上げだったともいわれた、いわゆる「評論文」の設問があちこちに登場するのである。
(例1)なぜカウノ先生の家族は緑色の服を着て過ごすことになったのですか。
(例2)本がいっぱいありすぎるため、生徒たちは困っています。~どんなことに困っているか、説明しなさい。
(例3)どうすれば、ソフィアに対するいじめをやめさせることができると思いますか。

 例1のような「なぜ」の設問が多い。
 答えが大事なのではなく、どうしてその答えを導いたかのプロセスが大事なのだと言う。
 尊敬する野口芳宏先生も「なぜ」に強くなれ、と勧めている。
 たった一つの正解を選ぶ・正解となる言葉を抜き出すような国語とは対局にあるともいえる。
 ただし、難易度のハードルを下げるため(?)、書き出しが示されている。
 「ライラ先生が心配していたのは~」
 「生徒たちは図書館バスの本を全部借りてきました。なぜなら~」

・・・このように書き出しを提示しすぎたり、テーマを指定しすぎるのは、本当の自分の意思表明にならないのではないかという心配があったので、フィンランドの教科書は安心材料になった。
 ちなみに、設問の内容には驚きはしていない。
 日本だって分析批評による文学作品の読解指導が20年以上の実績を持ち、言語技術教育学会も実績を積んでいる。『向山型国語教え方教室』も、好調である。
 そこで問われていること、狙っていることはフィンランド型とよく似ている。
 そういう意味では、僕は、この教科書を手にすることで、自分の方向性が間違っていなかったことに確信できたたのである。
次のフィンランドメソッドの「5つの力」も特別驚きはしない。でも、こうやって5つの力を列挙されると、自分の方向性に確信が持てるのである。
 ①発想力 ②論理力 ③表現力 ④批判的思考力 ⑤コミュニケーション力

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December 05, 2005

「小見出し」の意義(3) ~構造化の自覚~

 国語の授業で、簡単なのは「書いてある言葉の抜き出し」。
 難しいのは「書いてない言葉で表現させる作業」。
 対比というのは知的な作業で「書いてある言葉」を並立させることもあれば、「自分の言葉」で並立させることもある。
 『故郷』という作品で、昔のルントウと今のルントウを対比させる。
 といっても、なかなか生徒は対比の表が作れない。
 
 「顔はどう変化しましたか?」
 昔は、つやのいい丸顔。今は黄ばんだ色。
 
 「手はどう変化しましたか?」
 昔は血色のいい丸々とした手。今は太い節くれだったひび割れた松の幹のような手。

 「呼び方はどう変化しましたか?」
 昔は「シュンちゃん・おまえ」。今は「だんな様」

というように聞かれた項目について、抜き出すのは簡単である。「顔」「手」「呼び方」というように教師が項目立てを示しているからだ。
 さて、問題は、自分で対比の表を完成させる時に、その「項目」を自分で設定できるかどうかだ。
 授業では、この後も、教師が項目を挙げていった(挙げていかざるをえなかった)。
 「昔と今の贈り物は何でしたか?」
 「昔と今の間柄を示す言葉は何ですか?」
 「昔の話、今の話の内容は何ですか?」
 「私はルントウのことをどう呼んでいましたか?」

 こんな風に教師が答えれば、生徒は項目該当する言葉を探すだけいい。
 しかし、それでは、この項目そのものを生徒に考えさせることができるない。
 
 この「項目」というのは、小見出しと同じ働きを持つ。言い換えれば「ラベリング」である。
 1段抽象度の高い言葉でくくることは「抽象化」であるし、「構造化」でもあるし、「ラベリング」である。
 文中の言葉を使って表現している内は「ラベリング」「抽象化」というほどのことではない。
 それでも「身なり」「呼び方」「間柄」「持ち物」というような項目名は、抽象化の第一歩である。
 
 今の自分の指導の仕方では「抽象化」「構造化」の力はつけられない。
 抽象度の高い言葉で教師が問い、文中にある具体的な言葉で答えているだけの活動になっているからだ。
 教師が「抽象語」を提示しないで生徒に答えさせる、という「待ち」の授業を仕組んでいかなければならない。

 (追加)
 「対比してみよう」「比べてみよう」という問いかけは、比べる観点が分からない子には難しい。
 これに対して、
・ 「どう違いますか」
・「どこが違いますか」
と問われれば、子どもは自分自身で、ある観点に基づいて差異に着目する。
 「顔が違う。昔は・・・で、今は・・・だ」
 「呼び方が違う。昔は・・・で、今は・・・だ」
というような答え方をする。
 この場合の冒頭の「○○が違う」の○○の部分が「ラベリング(抽象化)」になる。
 そうか、何でこんなこと気づかなかったのだろう。
 以前、対比について研究した時、そんなことにも言及したような覚えがあるのだが、すっかり忘れていた。
 次回は、この線で攻めてみよう。
  

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December 04, 2005

「共通する16のつまずき」

 2005年11月30日の中日新聞の文化欄に「共通する16のつまずき」と題する記事が載った。
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 算数や数学が苦手な人は、昔も今も少なくない。従来、その原因は個人によってさまざまと思われてきたが、実は小学校から大学基礎レベルまで、難易度とは関係なく、共通する十六種類の単純な「つまずき」のパターンに分類できることが、東京理科大学の芳沢光雄教授の研究で分かった。
======================
 その16の分類とは以下の通りである(自分の理解のためにも、きちんと入力してみる)。

①0で割れないなど、0と1についての特別な扱い。
②絶対値や微積分など記号の意味を誤解。
③2:3=4:6のように形は異なっていても数学的には同じものがあると分からない。
④数学的な「または」「かつ」「ならば」の用法と「矛盾」「についての誤解。
⑤マイナスの数どうしの掛け算の結果はプラスになることが分からない。
⑦計算する前におおよその見当をつけることができない。
⑧国語力不足から、説明文や問題文の意味が理解できない。
⑨「足してから掛ける」と「掛けてから足す」の違いなど順番の概念が分からない。
⑩方程式で移項するとプラスがマイナスになるなど逆になるという概念が分からない。
⑪個数の概念など、具体例の認識不足のまま抽象概念を学んでしまう。
⑫公式を理解したり、式を変形する時に十分に吟味していない。
⑬割合の問題で、「割る数」「割られる数」がどれか分からない。
⑭5個と5センチなど、同じ数を異なった単位で示せることが理解できない。
⑮立体の切断図が想像できないなど、図形的な体験不足
⑯「限りなく近づく」など、直感的な説明が優勢で本当の理解が進まない。

記事には「これまで、方程式、ベクトルといった内容別に引っかかっりやすいポイントを指摘した研究はあるが、小学校から大学まで通底する『つまずき』の分類は初めてとみられ、近く学会誌で発表する予定という」とある。
 ベタ誉めの紹介記事になっている。
 
 正直な感想を述べよう。
・このような「つまずき」の分類は大切である。
・しかし、この16で全部網羅できるのか。あまりにレベルの差を感じるものが羅列されている。
・しかも、小学校の教師なら、およそ実感している内容が多く、そんなに注目すべき内容ではない。
・むしろ、これを叩き台にもっともっと完成度を高めていくといいのではないか。
・ところで、この①から⑯の順番はどうなっているのか、もっと意味のある順番に整理したらどうか。
 適当に並べるのではなく、順番を考えたり階層的に並べようというのが、僕の「構造化の自覚」の持論である。
・細かいことかもしれないが、文末表現が不統一で、それだけでも同じレベルで分類できるのかどうか分からない。自分なら文末は「できない」「わからない」「理解が足りない」「習熟が足りない」という表現で揃える。
 とりあえず、次のように整理してみた。

<A 「数学的な知識(計算ルール等)」が身についていない>
①0で割れないなど、0と1についての特別な扱い。
②絶対値や微積分など記号の意味を誤解。
⑫公式を理解したり、式を変形する時に十分に吟味していない。
⑤マイナスの数どうしの掛け算の結果はプラスになることが分からない。
⑨「足してから掛ける」と「掛けてから足す」の違いなど順番の概念が分からない
⑩方程式で移項するとプラスがマイナスになるなど逆になるという概念が分からない。

<B 数学的な法則が十分理解できない>
⑪個数の概念など、具体例の認識不足のまま抽象概念を学んでしまう。
⑭5個と5センチなど、同じ数を異なった単位で示せることが理解できない。
⑬割合の問題で、「割る数」「割られる数」がどれか分からない。
③2:3=4:6のように形は異なっていても数学的には同じものがあると分からない。

<C 言葉の理解が足りない>
⑧国語力不足から、説明文や問題文の意味が理解できない。
⑯「限りなく近づく」など、直感的な説明が優勢で本当の理解が進まない。
④数学的な「または」「かつ」「ならば」の用法と「矛盾」「についての誤解。

<B 直感的な把握ができない>
⑦計算する前におおよその見当をつけることができない。
⑮立体の切断図が想像できないなど、図形的な体験不足

 このように再分類することで 

A・D:習熟練習を増やすことでクリアできるつまづき。
 B  :再度、概念規定の部分からやり直すことでクリアできるつまづき。
 C  :言葉の学習をきちんとすることでクリアできるつまづき。
 
というような対策も浮かんでくる。
 私の分類も対策も『向山型算数教え方教室』(明治図書)の雑誌論文に比べたら、お話にならない低レベルである。ただ、それをアピールしないと、ちょっとした大学教授の調査結果にインパクト(知名度)で負けてしまうのである。

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December 03, 2005

小見出しの意義(2)~構造化の自覚~

 自分自身が「カテゴリー」という概念を理解したのはいつのことだろう。
中学校で「カテゴリー」という言葉を覚えなかったのは間違いないが、概念としてはある程度分かっていただろうか。
 『故郷』という作品の感想を書くときに

・読む前  ・一度読んだ後  ・何度も読んでみて

というように段落を変えられるのは、カテゴリー概念が身に付いているからだ。
 もし、それがないと

・読む前の感想  ・印象に残った人物の感想  ・疑問に思ったこと

など、バラバラな構成になる。書いている内容に統一感がないのだ。
 バラバラになるのは、事前に何を書くか決められず、書いているそばから思いついたことを書いていくからだということもある。それでは「カテゴリー」概念など意識していられるわけがない。
 出来る人は無意識にでも育っている、この「カテゴリー」の概念を、出来ない子にどう身につけさせればいいのだろうか。
(1)まずは、一文一義と、すぐに改行。
(2) 思いつきをなくすなら、「何について書く」ということをタイトル(小見出し)に表したり、予告文を書くことを習慣づける。
(3) 文章を読み解く際に、「この段落は○○について書いてある」という「○○」を意識付けさせ、抽象化の訓練する。そして、書くときに「○○について書く」という意識を持たせる。

あたりしか思い浮かばない。何とかしたいなあ。
 
 

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