「小見出し」の意義(3) ~構造化の自覚~
国語の授業で、簡単なのは「書いてある言葉の抜き出し」。
難しいのは「書いてない言葉で表現させる作業」。
対比というのは知的な作業で「書いてある言葉」を並立させることもあれば、「自分の言葉」で並立させることもある。
『故郷』という作品で、昔のルントウと今のルントウを対比させる。
といっても、なかなか生徒は対比の表が作れない。
「顔はどう変化しましたか?」
昔は、つやのいい丸顔。今は黄ばんだ色。
「手はどう変化しましたか?」
昔は血色のいい丸々とした手。今は太い節くれだったひび割れた松の幹のような手。
「呼び方はどう変化しましたか?」
昔は「シュンちゃん・おまえ」。今は「だんな様」
というように聞かれた項目について、抜き出すのは簡単である。「顔」「手」「呼び方」というように教師が項目立てを示しているからだ。
さて、問題は、自分で対比の表を完成させる時に、その「項目」を自分で設定できるかどうかだ。
授業では、この後も、教師が項目を挙げていった(挙げていかざるをえなかった)。
「昔と今の贈り物は何でしたか?」
「昔と今の間柄を示す言葉は何ですか?」
「昔の話、今の話の内容は何ですか?」
「私はルントウのことをどう呼んでいましたか?」
こんな風に教師が答えれば、生徒は項目該当する言葉を探すだけいい。
しかし、それでは、この項目そのものを生徒に考えさせることができるない。
この「項目」というのは、小見出しと同じ働きを持つ。言い換えれば「ラベリング」である。
1段抽象度の高い言葉でくくることは「抽象化」であるし、「構造化」でもあるし、「ラベリング」である。
文中の言葉を使って表現している内は「ラベリング」「抽象化」というほどのことではない。
それでも「身なり」「呼び方」「間柄」「持ち物」というような項目名は、抽象化の第一歩である。
今の自分の指導の仕方では「抽象化」「構造化」の力はつけられない。
抽象度の高い言葉で教師が問い、文中にある具体的な言葉で答えているだけの活動になっているからだ。
教師が「抽象語」を提示しないで生徒に答えさせる、という「待ち」の授業を仕組んでいかなければならない。
(追加)
「対比してみよう」「比べてみよう」という問いかけは、比べる観点が分からない子には難しい。
これに対して、
・ 「どう違いますか」
・「どこが違いますか」
と問われれば、子どもは自分自身で、ある観点に基づいて差異に着目する。
「顔が違う。昔は・・・で、今は・・・だ」
「呼び方が違う。昔は・・・で、今は・・・だ」
というような答え方をする。
この場合の冒頭の「○○が違う」の○○の部分が「ラベリング(抽象化)」になる。
そうか、何でこんなこと気づかなかったのだろう。
以前、対比について研究した時、そんなことにも言及したような覚えがあるのだが、すっかり忘れていた。
次回は、この線で攻めてみよう。
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