« April 2006 | Main | June 2006 »

May 29, 2006

対照実験の論理

 理科の中間テストの問題を見ていたら「アサガオの葉がデンプンを作る実験」が気になった。

A:緑色の部分
B:白色の部分
C:アルミでおおった部分

 AとBを比べて「葉緑素」の有無が関係あることに気づく
 AとCを比べて「日光」の有無が関係あることに気づく

 ある条件の有効性を比べる際は別の条件をが同一にしておくのが基本である。
 これを「対照実験」というんですよね。
 ウイクペデイアの辞書にも掲載されていた。
====================
厳密な意味での実験では、比較のための対照(コントロール)実験が行われる。これは観察対象とする現象にある要因が影響するという仮説を実験で検証する際に、その要因だけを変え、それ以外の条件を同じにする実験をいう(対象 と対照 を間違えないように注意)。
===================
 でも、この「対照実験」の論理は、分からない子には分からない。
 小学校の発芽条件の実験でも、

①土    と ②バーミキュライト
③水有り  と ④水なし
⑤日光有りと ⑥日陰

の6通りの実験装置を作る。さまざまな条件設定をする。
 子どもはどの条件を比べているのかが理解できなくなる。
 
 この「対照実験の論理」は国語教育で鍛えられないのだろうか。
 テスト監督しながら考えていた。
 「あった!」
 「それも、以前から取り組んでいた分析批評の方法だ」

 それは「比較(類比と対比)であり、ベン図の指導である。
 Ben1

 比較をすれば「似ている部分」と「異なる部分」が出てくる。
 共通点探しが「類比」。
 相異点探しが「対比」。
 ベン図でいえば真ん中が「類比」だ。
 対照実験で統一した条件を理解するというのは、ベン図の中心の共通項を理解するということだ。

 「○○の部分は同じだが、△△と◎◎の部分が違うから、原因は△△か、◎◎のどっちかだ。」
 しかも、この場合、共通点は多くして、外側は1つのみ、というところがミソだ。
 外側の要因が複数あると対照実験にならない。
 
 これと同じ発想ができるよう、比較の練習をさせる。
 「男と女の違いをまとめよう」という時は、まず「同じ人間だけど、××は違う」と言わせる。
 「夏と冬の違いをまとめよう」という時は、まず「同じ日本でも、××は違う」と言わせる。
 これは、基準やカテゴリーが違うと比べられないことを理解する訓練だ(だから「私と仕事のどっちが大事なのか」は比べられないのである)。
 ただし、この場合、外側をできるだけたくさん列挙させることがメインになる。
 したがって、対照実験の論理と、比較(対比)の論理は完全一致するわけではない。
 その違いを自覚した上でなら、対照実験の試行練習として「対比」の学習があっていい。
 
 
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

江戸しぐさ

 Area
 中日新聞の5月某日のコラムに「江戸しぐさ」の紹介があった。
 著作権があるから紹介するのはどうしようか、と思ったが、「江戸しぐさ」は公共広告機構のキャンペーンで東京の地下鉄の中吊り広告などで紹介されていたらしい。中日新聞の紹介そのものが二番煎じなら遠慮することもないか。
 確かに「江戸しぐさ」で検索してみると、たくさんヒットする。書籍もあるし、校長先生の講話もある。むしろ「何を今さら・・・」である。
 例えば、ここ や ここ
 印象に残ったのは、やはり傘のしずくが相手にかからないようにという「傘かしげ」、お互いの通行の邪魔にならないようにという「肩引き」。
 そのようなささやかな思いやりの心が江戸時代の人々の心意気だったのだ。
 他のHPでも書かれているが、いつの頃からか日本人はこんな思いやりを忘れてしまったのか、と嘆きたくなる。
 もう少し「江戸しぐさ」について学んでみようと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 28, 2006

心情を読みとるレベル4・5

 心情を読みとるレベルの3まで書いて中断していた→ここ
 その後の授業では、4と5を説明した。
 レベル4は、表現技法。
 レベル5は、心象風景。
 レベル4は、教材の事情で加えたもので一般的ではないかもしれない。
セリフや独白の部分に、倒置法や反復法を使ってあるところは「はやる気持ち」や「気持ちの高まり」を表している、と読みとるケースである。
 レベル5は、「心象風景」。こう言ってしまえば簡単だが用語が難しいので説明はややこしくなってしまった。
 おおざっぱに言うと「風景の表現が心情の表現を暗示している」ということだ。
 「今から戦いだ」という時に、黒い雲がたれこめたり、雷が鳴ったり。
 「平和」を取りもどした時に、朝日がのぼるとか、青空が見えるとか。
 今回の授業でいうと、
 「雨」・・・・少年の心は「いらいら」「もやもや」であり、自分は「ついていない」と感じている。
 「にじ」・・・気持ちがすっきりし、自分は「恵まれている」と感じ、友達との仲もよくなっている。

 このような解説は一作品の授業で終わるのではなく、毎作品ごとに適用させることで意味を持つ。
 毎作品ごとの授業で、取りあつかっていきたいと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 27, 2006

愛国心と教育基本法改正(4)

Budda_1
 愛国心と教育基本法について述べてきたのは、実は、今日書くことの布石でしかない。
 本当は読書紹介をしたかっただけなのである。
 気合いを入れてリンクも貼ってまとめてみる。渾身のブログになると思う。

 最近、昼放課に学校図書館に行くと手塚治虫の『ブッダ』を繰り返し読んでしまい、他の書物にまで気が回らない。
 『ブッダ』の中には、うさぎのエピソードがたびたび登場する。

★おじいさんがおなかを空かせて倒れていた。
 熊や他の動物は食べ物を取ってきたが、うさぎはなにも持ってこれなかった。
 うさぎは、おじいさんに火をたくように頼みと、火の中に自らの身を投じ、自分の体をおじいさんに食べさせようとした。
 火の中に身を投じたうさぎが、月の中にいる。月の中に見えるうさぎは、このうさぎである。

 ぼくは、このエピソードを教育テレビの子ども番組で見て、衝撃を受けたことがある。
 正確なストーリーは次のものだと思う。→ここ
  『ブッダ』では、この「献身」のエピソードが、1つの教えとして語りつがれ、またこのうさぎと同じような献身の場面が登場する。
 ブッダ(手塚版のブッダ)は、どんな厳しい修行よりも自らの命を犠牲にする行為の難しさと尊さを説いている。
 
 身を投じたうさぎに衝撃を受けた僕は、結構この手の話に弱いのだと自己分析している。
 HPにした「輪中の人々を救った話」も、要するに自己を犠牲にして村人を救った人たちの話である。
 『塩狩峠』の、自ら身を投じ列車事故を防いだというラストは圧巻だった(キリスト教の教えでしたね)。読後しばらく自分もつつましく生きようと決意した覚えがある。実話に基づいていたというのも衝撃的だった。
 絵本の『泣いた赤鬼』は、自分が嫌われ者になって友達を救うという献身的なストーリーの絵本である。
 絵本の『八郎』は、自らの体を投げ出して村の人々を救う。不正確だが「おれは、この日のために生きてきたんだ」と胸を張って身を投じ荒れた海を封じ込めた話だったと記憶している。
 映画『インデペンスデイ』では、大統領の戦闘機が襲われそうになった時に「援護します」と別の戦闘機が身代わりになって爆撃された。しかも、ラストはおじいさんの戦闘機が自爆して敵を破壊したことで平和が取り戻される。
 映画『アルマゲドン』も同じで、ラストはブルースウイルスが自爆して隕石を爆破して地球の危機を救う。
 『デイープインパクト』も展開と自己犠牲のラストは同じである。また「デイープ~」では、父母が「自分たちのことはいいから早く逃げろ」と子どもをせき立てる場面があり、子どもの命を優先する親の気持ちが伝わってくる。
 映画『ポセイドンアドベンチャー』もラストで神父が自分の身を投じてバルブを閉め、仲間を救う。小学校の時、映画館で衝撃を受けた。
 『タイタニック』も彼女ローズを救うため、デイカプリオは犠牲になる。
 春日井市には、村の治安のために「人柱」の形で身を投じた少女の話(「15の森」)が伝わっている。「人柱」伝説は日本中にある。
 
・・・このような実話や小説や映画が感動を呼ぶのは、「自己犠牲」は容易ではない行為だからだ。
 それでも、いつの世も「自己犠牲」「献身的な行為」は存在する。「殉職」という言葉も存在する。
 民家への被害を避けるため自分の命を犠牲にした「自衛官の殉職」という授業実践もある。
 その自己犠牲が、我が子のため、家族のための場合もあるだろうし、もう少し拡大して、隣人や困っている人の場合もある。
 木曽川の輪中を救った人々は、何の関係もない薩摩藩の武士たちであるが「同じ日本人が困っているのだから薩摩藩の威信にかけて堤防を作ろう」と江戸幕府の無理難題を引き受けた。
 仕事へのプライドとして、献身的に職務に徹する人は今もたくさんいるはずだ。
 ちなみに先の「自衛官の殉職」のHPには次のように書いてある。
===============================
 自衛隊の皆さんは,入隊するときに次のことを約束するそうです。
  『国民の生命財産を守る,その使命のためには命を懸けても自分の役目をやり遂げる』と....。
  この約束をしっかり守り,他の人たちの命を守るためには自分の命を捨ててもかまわないと,  このギリギリの瞬間にためらうことなく決断できた航空自衛隊の隊員が二人いたことを,私達は胸に刻んでおきたいですね。
================================
 
・・・・以上が僕のとらえた「家族愛」であり「隣人愛」であり、「思いやり」であり、「愛国心」である。
 地震が起きた現場に駆けつけて自分の命を危険も省みず災害救助に尽くす人々は、「愛国心」など意識していないかも知れないが、結果として立派に国民を守っており、「愛国心」を体現している。
 「愛国心」の教育は戦争に人々を駆り立てるから駄目だという。
 その理屈で言うと災害が起きた時に「危険だから災害救助に行くのはやめなさい」ということになる。
 人の命より自分の命を大事にするのは自然である。誰も止められはしない。
 しかしながら、「人の命より自分の命を大事にするのは当然」だと言い切るのは、誤解を恐れずに言えば「エゴの論理」であると僕は思う。
 
  「ここは自分がやるしかない」「自分がやらないと沢山の命が失われる」と判断したときに自らの命を賭けて(あるいは自らの命を投じて)仕事を成し遂げる人がいる。
 そのような人を尊敬し、そのような人の活動に感謝し、いざとなったら自分もそうするぞと思えるような世の中でありたい。
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

愛国心と教育基本法改正(3)

 「愛国心」と「軍国主義」がつながるのは、次の論理である。
======================
 「愛国心」があるなら、国を守り、国のために戦え。
 国を守るために戦えないヤツは「非国民」である。
 国のためなら喜んで命を捨てよ。
======================
 ここまでアジられたら、そりゃあ「愛国心」は嫌だなあと思わざるをえない。
 
 しかし、わが子を守るためなら命を捨てられる親はたくさんいると思う(ほとんどだと思う)。
 「わが子を守るために命を捨てる」ことと「国を守るために命を捨てる」ことは決して無関係ではない。
 「わが子」の同心円上に「家族」「隣人」がいて、「地域」があり「国家」があるからだ。
 道徳教育でも「家族愛」「思いやり」「愛校心」の延長上に「愛国心」がある。

 先にも書いたが、「愛国心」が自然に育つものというなら、「家族愛」や「思いやり」も自然に育つことになる。
 自然に育つかも知れないが、教育の現場で「家族愛」や思いやり」を賞賛するような指導を加えることは可能だし、「思いやり」教育は容認されると思う。
 「おうちの人に感謝しようね」と呼びかけることは意義がある。
 それなのに同じような発想で「国に感謝しようね。国のために働いている人に感謝しようね」と呼びかける「愛国心」教育は阻止される。
 意固地になってるとしか思えない。
 でも、うっとうしいから「思いやり」教育の推進で構わないと僕は思う。
 「家族愛」「愛校心」「思いやり」「愛国心」は、やるべきこと・教えるべきことが同じだからだ。
 
 

| | Comments (0) | TrackBack (1)

May 25, 2006

愛国心と教育基本法改正(2)

 5月24日に教育基本法改正案の衆院特別委員会があった。
 改正案は、「愛国心」について、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」などと明記している。
 民主党は、「愛国心」については「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」としている。
 個人的にはどちらでもいい。
 問題は「愛国心強制反対」の立場の人たちの思考である。
 某新聞の投稿欄には、時折反対論者の意見が掲載される。
①「自国を知れば愛国心は育つ」
 ~先祖に感謝し、未来を担う子どもたちに日本の良さを伝えていけば、自然と愛国心のある人間に成長するのではないだろうか。

②「法で強制する愛国心に嫌悪」
~国を愛する心は法律などによって強制されるものではなく、この国が内外に信頼される国になったとき、国民が自然発生的に感じるのではないでしょうか。

 愛国心の自然発生論が根強い。
 これは教育界で言えば、昭和30年代に「道徳」の授業が特設された際に、「道徳」はあらゆる教育活動において育てるもので、1週間に1時間の授業で教え育つものではないと主張された時の論理と似ている。
 道徳心は教えられないもの・自然に育つもの・
 愛国心は教えられないもの・自然に育つもの。

その意味では、民主党案の「涵養」の語句が鋭い(というかずるい)。
 「涵養」という言葉なら、指導にも使えるし、「自然に育つ」にも使えるからだ。

 かんよう 【▼涵養】
(名)スル
〔「涵」はひたす意〕水が自然にしみこむように、少しずつ養い育てること。
「徳性を―する」

 道徳教育は日常も行われるが、特設「道徳」の時間が無意味なわけではない。
 特設の授業時間の中だからこそ「道徳」が可能になることも多い。
 同じように考えれば「愛国心」は自然発生もするだろうが、特設時間の指導が無意味なわけはない。
 「愛国心」をきちんと伝えずにおいて、自然発生を期待するのはあまりも虫がよすぎる。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

May 24, 2006

愛国心と教育基本法改正

「愛国心」などと書き込むだけで、怪しい読者が増えるかも知れないが、まっとうな気持ちで教育基本法改正を考えてみたい→ここ
 「愛国心」復活は戦前の軍国主義につながるのだという発想が存在する。
 例えば、次の例と重ねてみる。
=================
 株に手を出して失敗した人がいる。
 その人は、今後株に手を出さなくなるかもしれない。
 でも、だからといって「株は手を出すな」と全ての人が撤退することはあり得ない。
 たとえ、株で痛い目にあった人がいても、「株」が悪いわけではない。
 だから、株のシステムはこれからも存在する。
 社会は「リスクもあるが株は経済の基本システム」という姿勢は変えない。
==================
 一部の人が苦い経験をしても、体勢は変わらない。
 この例に「愛国心」を挿入してみる。

===================
 「愛国心」が強すぎて失敗した人がいるとする。
 その人は「愛国心」に懐疑的になるかもしれない。
 でも、だからといって「愛国心を教えるな」と全ての人が撤退することはあり得ない。
 たとえ、「愛国心」で痛い目にあった人がいても、「愛国心」が悪いわけではない。
 だから、「愛国心」という精神は存在する。
 社会は「リスクもあるが愛国心は国家思想の基本システム」という姿勢は変えない。
====================
 失敗から学ぶことは大切だが、失敗を警戒しすぎると先に進まない。
 そう、次のことわざと同じだ。

羮(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く
〔屈原「楚辞(九章、惜誦)」〕羹の熱いのに懲りて、冷たい膾まで吹きさまして食べる。
一度失敗したのに懲りて、度の過ぎた用心をすることのたとえ

 「愛国心」の教育に対する過剰な反応は「「あつものに懲りてなますを吹く」の状態なのだ。
 「愛国心」の教育の「愛国心」という言葉が問題ならば「隣人愛」教育でもいい。
 あるいは「思いやり」教育でいい。
 自分の都合や利益だけでなく、隣人や社会全体のことに思いをよせることのできる日本人が育って欲しい。
 「思いやり」教育が推進されるなら「愛国心教育」といった名前を捨ててもいいと僕などは思う。
  
 堀江元社長は自分の利益しか考えない人だったようだ。
 東海地区のフェロシルトのように不法投棄の社長も自分の利益しか考えていない。
 国家公務員の中にも自分の省庁の利益や自分の保身・将来の利益しか考えていない人がいるらしい。
 そんな風潮だから「思いやり」の教育が必要なのだ(それが「愛国心」教育に通じる)。
 軍国主義復活の懸念をするくらいなら、利己主義の国民の増加を気にすべきだ。
 利己主義者の増加の方がはるかに現実的だ。
 利己主義者ばかり増えては国家が成り立たないことを、全ての国民が理解すべきだ。
 脱「利己主義者」という意味での「愛国心教育」なら、多くの支持を得られると思う。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 21, 2006

HPのキャッシュ削除

諸事情があって、自分が発信したHPの一部の変更が必要になった。
HPの内容の変更は難しくはない。
直接HPにたどりつく人には、修正後のHPを見てもらえる。
しかし、キーワード検索で調べられると「キャッシュ」が残っていて、変更前のHPが見えてしまう。
このキャッシュ機能は、調べる側にとっては便利だった。
だから、まさか、自分がこのキャッシュ機能で困惑するとは思ってもみなかった。(でも、当然想定できることだった)。
グーグルのサイトで調べても、どうやっていじるのか自信がなかった。メタタグと言われてもよく分からなかった。
「キャッシュ削除」で検索したら、分かりやすいサイトに巡り会えた。

Googleにキャッシュページを登録させない
==========================
 Google クローラーにページをキャッシュさせない/キャッシュ削除させるためには、次のMETAタグを ~ の間に記述します。
META NAME="GOOGLEBOT" CONTENT="NOARCHIVE"
このタグを記述することで、Google は次回のクロールからキャッシュページを削除します。Google は引き続き該当ページのインデックスは行います。
==========================

 よくわからないけど、やってみた。コピーして張り付けた。

==========================
なおキャッシュ削除について Google による次回クロールを待てない場合は URL自動削除システム http://services.google.com:8882/urlconsole/controller を利用することで 24時間以内に削除することができます。
==========================
 
これについても、やってみた。
 少し自信がついたのでグーグルのサイトにあった形で、別の検索エンジンにも対応できるようにした。

==========================
サイトの個々のページをクローラがインデックス付けないようにするには、次のメタ タグ要素をページの HTML コードに挿入します。
META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX, NOFOLLOW"
===========================

 これで、グーグルは無事完了した。
 翌日、キーワードを入れてもヒットしなくなった。
 ところが、ヤフーで検索すると、まだキャッシュで見えてしまう。
 ヤフーでは、どうやってキャッシュ削除するのか分からない。
 残念ながら、あるブログには次のようにあった→ここ
 
 検索が更新され、古いHPのキャッシュがなくなるまで、まだまだ油断ならないということか。
 ということは僕にとっての困った事態は変わらないのである。 
 ちなみに、このブログに問題部分がある場合も本文は修正できるが古いキャッシュが残る。
 上記のタグを入れようにも、ブログでは、そうしたHTMLコードが自分の手元にない。
 だから、ブログも注意しなければいけない(のだと思う。削除の方法を知っていたら教えて下さい)。

 HPやブログを後で修正したり変更したりするのは簡単だが、一度流出してしまうと「過去は戻せない」。
 一番すべきことは、最初にアップする際に細心の注意を払うことだ。
 自分のHPもブログも「安全管理」をもっともっと意識しないと・・。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

『ドラゴン桜』12巻の学び

13
 『ドラゴン桜』のストーリーも、かなり本格的な大学入試のノウハウになってきた。
 それでも、一般的な学びがたくさんある。
 昨年の秋に作者三田紀房氏の講演を聴き、ブログにも書いた。→ここ
 その時の講演内容とも重なるところがあった。
 医学部を狙っている大沢君という人物に
「苦しい勉強なんてしたくないだけだよ。だからどうやったら簡単に点数がとれるかいつも考えてるんだ」
「僕は一番楽な方法で大学に入りたい」
「コツコツなんてとんでもない、まるで逆・・・頑張るの大嫌い・・努力しないで済む方法ばっかりいつも考えてる」

という台詞を言わせている。
 大沢君という真面目タイプの子に言わせているところがポイントで、これが龍山高校の矢島に言わせたら、ただの言い訳に聞こえてしまう。
 ただし、大沢君は受験のテクニックだけを会得しようとしているわけではない。
「僕は受験にしか役立たない勉強を1教科だけ より突き詰めるなんてしたくない」
「東大の問題なら受験でしか使えない知識がいらないから5教科やっても色々勉強できて楽しいけどな。」
「数学も物理もパズルみたいで面白いし世界史も英語も何かと役立つし・・」

という台詞を言わせて、受験だけのための勉強に異議を唱えさせている。
 
①受験のためだけの勉強を勧める気はない。
②しかし、受験は通らなければならない。
③ならば、楽できるところはできるだけ楽をする。楽しめるところは楽しむ。

という三段論法なのである。
 「楽できるところはできるだけ楽をする」という点では、川下りのエピソードの場面も同じである。

A・「橋がなければ泳いで渡る」 ・・・橋を探すのが面倒だから
B・「濡れずに渡れる方法を探す」・・自力で渡るのが面倒だから

 普通ならAだが、東大生はBだという。
 Bの発想は「情報を集める」「すでにあるものを利用する」につながり、
「何とか楽をできないか」を実現させるさまざまな科学技術の発展につながっていくと述べている。
 なるほど、見事な論理だ。
 「楽をしたい」というのは人間の根元的な欲求である。
 それをきれいごとのように否定するよりは、素直に受け入れる方が現実的だと言える。
 そもそも「温故知新」という格言だって、先人の学びをきちんと押さえなさいということで、先人の業績を学ばないことの愚かさを桜木は「自分で考えるということは何も考えてないということなんだよ」といさめている。

 「受験のための勉強にならない」という意味では、理科の阿院先生の姿も素晴らしい。
 特進1・2年の2学期の理科の実験を授業に取り入れようとしている。
 「受験勉強だけかと思いましたが、ちゃんと授業もやるんですね」という反応に対し、

「教室で先生の説明を聞くだけでは科学的興味なんてもてるはずがありません」
「いろんな実験をして教科書の理論を自分の目で確かめるうちにさらなる科学的探求心が涌いてくる」
「1・2年生にはいろんな体験をさせてあげたい。それが受験につながって合格を後押しできるように」

とコメントを返しており、『ドラゴン桜』が目先の受験テクニックの漫画ではないことが、ひしひしと伝わってくるのである。
 受験勉強の目標設定、人生の目標設定という点で言うと、阿院先生は話した「二重目標」という発想も大切である。
 「最低でもこれくらいは到達したい。(最低ライン)」
 「でも、できるならここまで到達させたい(理想ライン)」 
 日々の生活はいつもこの二重目標の繰り返しだなあと思う。
 実際は、その最低目標さえ達成できないこともあって自己嫌悪に陥ってしまうのだが。
 「最低でも○○、最高で○○」は、現在の学校教育での授業の評価基準(C基準とA基準)の考え方と同じである。C基準の子どもを限りなくゼロに近づける努力が我々には求められている(ゼロに近づけたいからといって目標レベルを下げるのは本末転倒である)。

★オリンピック柔道の谷亮子さんの「最低で金、最高でも金」というのは、自分を追いつめるあまりにも過酷な二重目標だったよなあ(金メダルが取れたからよかったけれど)。
  

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 18, 2006

中1ギャップ

 「中1ギャップ」という言葉を耳にした。
 新語ということで、ネットの辞書にも掲載されていた。
http://dic.yahoo.co.jp/tribute/2005/07/27/1.html
 新語があってもなくても、事象はあったと思う。
 複数の小学校から1つの中学校に集まる場合
・知らない子がたくさんいる。同級生はもちろん、知らない先輩は怖くて仕方ない。
・校区が広くなり、登下校に時間がかかることもある。
・教師の数も多くなる。各教科や部活動など関わる先生が多くなる。
(ただし、小学校の学級担任に比べると、関わり方は薄いかもしれない)。

 中1ギャップによるいじめ・不登校の型が2つ挙げられている。
・コミュニケーションが苦手な生徒が小学校時の友人や教師の支えを失う「喪失不安増大型」
・小学校でリーダーとして活躍していた生徒が中学校で居場所を失ってしまう「自己発揮機会喪失ストレス蓄積型」

 特に後者については、当然ありうるケースでありながら、これまであまり意識することがなかったので驚いた。
 本校のように3つの小学校から集まる場合は、議員や学級委員の候補もたくさんおり、リーダーのチャンスは逆に減ってしまう(競争倍率が高くなる)のである。

 先日、懇談会で保護者と話をする機会があった。
 僕は、「さまざまな不安の中で、きちんと登校するだけでも1年生は大変だと思う」と話した。
 大人だって、半分以上知らないメンバーの集団でいきなり生活しろと言われたら「たまらない」と思う。
 だからこそ、そのような「大変さ」を承知した上で生徒に接するかどうかの違いは大きいのだと思う。
 保護者の方も「家に帰ってきたらしばらく口もきけないほどぐったりしている」というような話をされた。
 「ひょっとして家庭で生意気な口の聞き方をしている子の中には、学校で礼儀正しくしている反動の場合もある」と話したら、何人かの保護者がうなずいてくださった。
 クラスや学年の生徒間のコミュニケーション・学習の進度や教科担任との意思疎通、部活動への参加など期待は膨らむが、それは不安の材料でもある。
 不安の種を挙げればキリがない。
 だからこそ、「中1ギャップ」についての危機意識を高めなければならない。

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 14, 2006

暗号を読む作業(2)

 中1の教科書(光村出版)に、杉みき子の『にじの見える橋』がある。、
 なにもかもうまくいかずいらいらしていた少年は、雨上がりの虹に気付いて、自分を「恵まれた者」の思い、気を取り直していく話である(と、まとめていいかどうかは問題があるが)。
 最後は「ハッピーエンド」である。
 どんな考え方をしたら、どんな生き方をしたら少年のように幸せになれるのか?を考えさせた。 

 生徒に聞いてもそれなりのメッセージができた。

Aタイプ(プラス思考=幸せ)・いやなこともあればいいこともある。
 ・前向きに考えれば幸せになれる。
 ・いやなこともがまんしていれば、いつか幸せが訪れる。
 ・いやなことがあってもプラスに考えれば幸せになれる。
 ・不幸は幸せの前兆
 ・いやなこともあれば、いいこともある。
 ・恵まれていると思えば恵まれる

 ただ、「にじ」というキーワードが気になる。
 「にじ」は自然現象で、「ささやかな幸せ」「平凡なもの」ともとれる。

Bタイプ(ささいなものに気付く気持ち=幸せ)
 ・小さな幸せが大きな幸せにつながる。
 ・ささやかな幸せに感謝できる気持ちが大きな幸せを呼ぶ。
 ・ささやかなものに感動できる気持ちがあれば幸せになれる。
 ・ささいなことを大切にしよう。
 ・本当の幸せはどこにでもある。気持ちの持ち方次第で幸せになれる。
 ・ちょっとしたきっかけで自分を変えられる。

 しかし、見た人の印象から言えば「虹」はめったに見られない貴重なものである。 
 虹を特別視する考えの人にとっては「幸せはどこにでも転がっているよ」というBタイプのメッセージは冒涜でさえある。「虹」はそれほどありふれていない。
 すると、Bタイプの裏読みは読めなくはないが一般性がないということになる。
  Aは万人が認める無難な読み方だが、Bはやや主観的なのである。
  とすると、AもBもどれも正解ですよ・・という授業の締め方は極めて危険だということになる。

 
 ちなみに、国語の大家である大西忠治氏は「二通り解釈できるなら、きちんと二通り解釈させなければ本当の読みの力とは言えない。一通りの解釈ができて満足させてはいけない」というようなことを書いていた。
 Aタイプの裏読みをした人に、Bの読み方があることを伝え、Bの読み方もできるようにする(逆も同じ)。
と言いたいところなのだが、この場合Bの読み方を「にじは特別なもの」という意識(読み)の生徒を納得させるのは難しいのである(自分としても結論が出ていない)。

 このように「暗号を読む作業」は難しい。
 難しいから面白いのである。

ちなみに、以下が生徒作品(一部修正)。

◆私はこの話を読んで「幸せは気の持ちよう」というメッセージを感じました。
なぜかというと不幸なことばかり起きてマイナス思考にしか物事をとらえられなくなっていた少年が、虹を見て「自分は恵まれている」と感じたとき、仲たがいした友達と仲直りできたりと、幸福が訪れたからです。
悪いことを「悪いことだ」と考えるから余計悪い方向へと流れていくと私は思っています。
なので悪いことは反省して「次に生かそう」、よい事は「次もがんばろう」とプラス思考にとらえていけば多くの幸福を感じることができるだと思いました。

◆私は「にじの見える橋」を読んで「何があっても、ぜったいだいじょうぶ」というメッセージを感じました。
少年はいくつものもやもやがあって、信号が黄色に変わるだけで足踏みしていました。
でも「にじだ、にじだ」と声がして、少年は走り出しました。にじを見た少年の心のもやもやがふっきれて幸せな気持ちになりました。
そのおかげで少年は仲たがいした友達と仲良くなりました。これはきっと「何があってもだいじょうぶ」とう気持ちを持って少年が虹を見たから虹が祝福してくれたんだと思いました。
だから「何があっても、ぜったいだいじょうぶ」というメッセージにしました。

| | Comments (20) | TrackBack (0)

暗号を読む作業(1)

 かつて中学1年の国語の教科書(光村図書)に、杉みき子氏の『あの坂をのぼれば』があった。
少し前は東京書籍の6年生の教科書に掲載されていた。
 
 「あの坂をのぼれば、海が見える」

→「坂をのぼる」は「苦しいことをなしとげる」という意味
 「海が見える」は「願いがかなう・いいことがある。幸せになれる・努力が実る」という意味で読める。
 したがって
 「苦しくてもがんばれば、願いはかなう」
という裏の意味は明快に確定できる(だから小学校の教科書にでも掲載できる)。
 子どもには「主題」というよりは「作者のメッセージ」という方が伝わりやすい。
 「作者は、この作品にどんなメッセージを込めているのでしょうか?」といった具合。

 同じような形で、星野富弘氏の随筆『鈴の鳴る道』のメッセージも読んでみたことがある。
 「鈴が鳴る道」とは「車椅子に付けた鈴が鳴るでこぼこ道」のこと。
→「でこぼこ道」は「苦しいこと」という意味
 「鈴が鳴る」は「いいことがある」という意味で読める。
 したがって
 「苦しくいことを乗り超えれば、きっといいことがある」
というような裏の意味は明快に確定できる。

 メッセージの宝庫は昔話や「イソップ物語」にある。
 「うさぎとかめの話」は「自分の才能におごらないで努力しましょう」
 「ありときりぎりすの話」は「先のことを考えてきちんと準備をしておきましょう」
 昔話は「正直者が一番」「正義が勝つ」なんてメッセージが多い。
 そのような簡単なものを紹介して、大物のメッセージ読みに挑戦させたい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

オオキンケイギクと言えば

 P1010002
以前、オオキンケイギクについてネットで調べたことがある。→ここ
 僕の周りでも河原や土手などでもよく見かける(写真をクリックすると大きくなります)。
 外来種ということで、きれいではあるが、見事に広がるオオキンケイギクの様子におそろしさも感じていた。
 自宅から30分ほどで遊びに行ける「かさだ広場」も名所になっており、オオキンケイギクが見ごろの時期になるとフラワーフェスタが開催されている。→ここ

 ところが、中日新聞によると、今年のフラワフェスタはオオキンケイギクが特定外来生物ということで中止になったそうだ(著作権があるから全文は掲載しない)
 ※今年2月には外来種被害防止法に基づく特定外来生物に指定され、許可なしに栽培や販売ができなくなったのを受けたのだそうだ。
 ※「個人の栽培が禁じられた以上、行政がPRするわけにはいかない」と中止を決めた。
とのこと。
 ということで「外来種被害防止法」を検索してみる。さすがに大元は詳細である→ここ
 何が外来種か、違反したらどうするかも説明されている。→たとえば ここ
 あるHPで、次のような文章も出会えた。
==========================
 一方、ボタンウキクサ、オオキンケイギク、オオハンゴンソウおよびアレチウリは、私たちがよく知っている植物であり、本法律が次第に身近になりつつあることが実感される。とくに、ボタンウキクサとオオキンケイギクを観賞用に栽培している方々は少なくないと思われるが、栽培をやめないと処罰の対象になる。
========================== 
 このような背景があって、かさだ広場のオオキンケイギクをメインにしたフラワーフェスタは中止にせざるをえなかったわけだ。
  自分で調べたことがあると、キーワードが飛び込んでくるし、引っかかってくる。
 次々に調べてみたくなる。
 だからこそ、「自分で調べる」ということは重要なのであると、つくづく思う。 
 ちなみに、中日新聞のHPをそのまま掲載したら著作権にひっかかるだろうということで、別のHPを調べざるを得なかった。そういう意味では中日新聞のおかげで「調べ学習」が進んだのである。
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 04, 2006

心情を読みとるレベル3

 国語の授業で心情を読みとるという活動がある。
 「読みとる」は「想像・空想」とは違う。
 確かな根拠のある部分について心情を確定していくのである。
 授業では、まず3つのレベルを示した。
(1)「思った」「感じた」「気がした」といった認知の動詞が文末に示されている場合

(2)「思った」などの動詞が省略されているが独り言として「 」を付けられる場合
   「  ・・なあ」と思った  のように付記できる。
 例 このところ、なにもかも、うまくいっていない。
    この前、にじを見たのはいつだったろう。

(3)心情を含む行動表現
 これをレベル3と呼んで、多めに解説をした。

 「先生を見る」って何も感情は入っていないね。
 じゃあ「先生をにらむ」だったらどう? 先生に恨みがありそうだね。
 じゃあ「先生を見つめる」だったらどう?(教室苦笑) 先生に特別な思い出がありそうだね。
 このように、行動を表す表現の中には、気持ちが含まれているものがあるんです。
 (1)(2)よりはぐっと難易度が高いですね。
 まあ、レベル3でも、「気がいらだって」のようにかなり簡単なものもありますけどね。

 例 ためらわずに~。  上の空。 歓声を上げた。 友達を足踏みしながら待った。
   

| | Comments (1) | TrackBack (0)

May 01, 2006

野外学習のだいご味

Joko
 土曜日は陸上部の強化練習ということで、市内の定光寺公園と寺の前の石段や坂道を使っての練習を行った。
 昼食を食べてから午後の練習まで30分ほどあった。
 何度も来たことのある生徒たちはラグビーボールでキャッチボールしたり、ハンドベースをしたり楽しんでいた。女子の中にもバドミントンのようなラケットを持参した者もいた。
 この日、本校の2年生の先生方は、野外学習の下見にでかけていた。
 野外学習の2日目はハイキングや選択制で小物づくりやマスつかみなどを企画したことがある。
 この日、陸上部の子どもたちが自分たちの選んだ遊具でのんびり楽しんでいる姿を見て、野外学習でもぜひ、こういったフリータイムが確保できないかなあと言う思いを強くした。
 教師は欲張りで貧乏性で心配性だから、次から次へとスケジュールを埋めたがる。
 当日の気分や気候で決めるのではなく、あらかじめプランを確定したがる。
 でも、

 ・川が気持ちよさそうだから川に入ってみる。
 ・芝生がきれいだから、みんなでボールゲームしてみる。日陰でトランプもいい。
 ・青空がきれいだからのんびり昼寝してみる。

というような、その場の気分による行動もあっていい。
 先生が「これをやったら面白そうだ」と決めつけるのではなく、子どもの意志やプランニング能力を信じたい。
 全部とは言わないが、そのような時間があっていい。
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『博士の愛した数式』(小川洋子) 新潮文庫

 Suusiki
 面白い。こんなに面白いとは思わなかったので得した気分だ。
本屋大賞なるほど! 高校の課題図書なるほど!
 「得した」と思えるのは、数学の勉強になったから。
 素数って、こんなに不思議でキレイで整然とした規則が存在するなんて数学の授業で習わなかった。
 友愛数や完全数って言葉が出てくるだけでワクワクした。
 フェルマーやオイラーなんて言われても理解できていないけど、触れただけで新鮮だった。
 おまけに阪神タイガースに江夏豊。
 阪神ファンでなくても、江夏の伝説を知ってる自分には読み応え十分だった。

 また、文庫で読むと数学者藤原正彦氏の解説が掲載されている。
 これが実にいい。この解説で10倍わかりやすくなると言っても過言ではない。
 すばらしい解説に救われて、数学の世界にますます入り込んでいけたのである。
 ちなみに、藤原氏の解説の中で、感銘を受けたのが博士と家政婦さんの関係だ。
 恋愛関係と言うには教授は老いている。老人介護のような一面もある。

 そのような感情のことを「博士への慕情」と呼んでいる。

 そうか、数学への憧憬・尊敬の念・敬愛の念を含めて「慕情」か!
 「慕情」とは、ふだん使ったことのない言葉だけに、まさに「言い得て妙」だった。
  
 そんな中で、あえてクレームをつけてみる。
 1つ目は、

「80分しか記憶が持たない」という博士の人物設定

が理解できなかった点だ。
 80分と言うことは、家政婦さんがいる1日の間に何度も何度も記憶が途切れるということだ。
 野球観戦の途中や、数学の証明に取り組んでいる途中でも記憶が途切れるということだ。
 そんなに細かな時間の単位で記憶が途切れたら、小説でみられるほどスムーズには事が進まないのではないだろうか。
 せいぜい、一晩たったら記憶が途切れているという程度の設定でいいと思う。

 
 2つ目の疑問はカード入れの下に隠れていた「永遠に愛するNへ」と題した論文の意味。
 3つ目の疑問は、オイラーの公式の意味。

 オイラーの公式については、文庫のP197・198に次のようにある。
==========================
 予期せぬπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する。
 彼らは身を寄せ合い、じっと身をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。
===========================
 
 これを、作中人物にあてはめてみる。

→予期せぬ家政婦が少年ルートの元に舞い下り、恥ずかしがり屋の博士と握手する。
 彼らは身を寄せ合い、じっと身をひそめているのだが、一人の未亡人が1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。

 もし、その状況と公式の意味を理解して未亡人が引き下がったのだとしたら、それを読者に理解させるにはあまりにも説明が足りない。
 
 最後に、残念だったのは、僕の脳裏から寺尾聡の博士像が離れなかったことだ。
 寺尾聡では、ダンデイすぎる。
 小説の設定から想像すると、もう少ししょぼくれてみすぼらしいイメージなのだが・・・。

| | Comments (13) | TrackBack (0)

お弁当

 先週の金曜日に校外学習のような行事があった(中1)。
 市内の自然施設でオリエンテーリングや集団ゲームをやった。
 昼はお弁当である。
 教師は各自持参ということで、僕は朝コンビニ弁当を買った。
 弁当の時間になって 
「先生は愛妻弁当ですか?」
 「ううん、コンビニ弁当だよ」
などと会話をする。
 子ども達は、見た限りみんな手作り弁当だった。
 手作り弁当は見られるのは恥ずかしいところもある。
 でも、見ている側から言うと、とてもほほえましい。
保護者の方々が、朝から準備したのだな、と思うだけで感謝の念がわいてくる。
 我が家の息子が弁当だというと準備でバタバタするだけに、お弁当を用意する保護者の方のご苦労が想像できるのである。
 
 ちなみに、陸上の練習会や記録会で男子の弁当を見ていても、手作りである。
 前任校では、コンビニ弁当や菓子パンもいたので、すごくほのぼのとした印象を受ける。
 わざわざ弁当を準備していただける家庭の生徒は、たとえ記録が思わしくなくても「健やかに育っている」という気がするのである。

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「詩」を読ませる

 「のはらうた」は、詩を写す前に「朗読」と「群読」を行った。
 光村の教科書は、朗読をやらせる単元になっている。
 東京書籍の教科書の最初は、脳内トレーニングの川嶋隆太教授の書いた、音読のススメの説明文である。
 内容的には音読のススメの方がレベルが高くていいと思っていた。
 しかし、実際に朗読をやらせるとなると、「のはらうた」のような全てひらがなの短い詩は扱いやすい。
 しかも4編の詩があるから、選択の自由もある。個性も出る。
 最初から個人の朗読発表だから、相当な緊張を強いる。
 だからこそ、そんな生徒には、「のはらうた」くらいがちょうどいい。
 どこを大きく読むか、どこを開けて読むか、を考えさせるだけで、たくさんの朗読が誕生しておもしろい。
 

| | Comments (1) | TrackBack (0)

« April 2006 | Main | June 2006 »