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June 29, 2006

「していない」の2つの意味

 テレビを見ていたら言葉のクイズをやっていた。

必ず当たる予言「西暦3000年、人類は滅亡(     )」

 このカッコに入る言葉を考えよというものだった。
 僕はヒント5文字というところで答えが分かった。
 それは、先日の授業で「文節」の指導をしたばかりだったからだ。

 正解は「人類は滅亡していない」

A 「滅亡していない」=滅亡してない
B 「滅亡して、いない」=人類は滅亡して、いなくなった

の2通りの意味がとれるというものだ。
 授業では文節の補助の関係で「・・・して○○」というのを列挙した。

★食べてみる・食べてしまう・食べておく・食べてあげる・食べてやる・・・・・

 「しまってしまう」「見てみる」「やってやる」などは本来の意味と本来の意味を失った言葉の組み合わせ。
 「下げてあげる」「出してしまう」「貸してあげる」「もらってあげる」などは本来の意味にこだわるとおかしな意味になる組み合わせ。
 では、「人類は滅亡していない」のように二重にとれて面白く文法を考えられるネタは他にないものだろうか。

★「彼は探してもいなかった」
★「先生は出張に行っていない」

 もっともっとネタを用意しておきたいなあ。
 「血まみれになって逃げる犯人を追いかけた」
 「うんこのカレーはおいしい」
 「ぱんつくったことある」
などは、いつ、何年生に話しても盛り上がる。
 身近な例で子どもを引きつけられる持ちネタの量も教師の大切な「力量」である。

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June 26, 2006

プラスチックは不燃ごみか

 6月26日付の中日新聞に、名古屋市がプラスチックなどの不燃物を1997年から焼却処分していたことが報じられた。新型の焼却炉はダイオキシンの心配がないということで、埋め立て処分場の延命策としてすでに約20万トンが焼却処分されているそうだ。
 「反発恐れ公表せず」とある。
 名古屋市のごみ分別の方法は、かなり複雑だったから、分別しても焼却するなら分別の苦労が水の泡になるという印象さえ受ける。
 新聞の記事の書き方は「初耳」をイメージさせるが、ネットで見ると、プラスチック焼却はずいぶん前から既成の事実だったようだ。見学ツアーでプラスチックが焼却されていることを報じた記事は2000年のことである
http://homepage3.nifty.com/aichigomi/aichinet/gominet_tushin/gomitua.htm
 また2004年11月のテレビ番組で処分場の都合で名古屋市もプラスチック焼却という特集を行っている。最新の焼却施設ならプラスチック焼却も問題なしとある。
http://www.nagoyatv.com/up/upS/old/041124/index.html
 プラスチックの焼却処理もやむなしという立場のHPもある。
http://www.oyako-net.com/medicine_info/column_020.html
http://www.jplife.co.jp/recycle/famitec/dioxin/media/media/san09.htm
 最終処分場は限界に来ているという指摘はその通りであろう→http://www.bund.org/opinion/20060605-3.htm
 しかし、だからこそ多くの住民がゴミの分別に協力したはずなのに、処分場の延命のために焼却処分を認めていたのだといくことになると、納得しにくいものがある。
 また、焼却処分だから安心して消費していい・生産していいという風潮になることが懸念される。
 ペットボトルもリサイクルできることを言い訳にして、右肩上がりで大量生産されている。
 そもそものところで、消費を抑える・生産を抑える・資源を大切にする、という発想が大切なはずなのに・・。
 

 
 

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June 23, 2006

イコールのパターン

説明文(に限らないかもしれないが)を授業する時、1つ注意していることがある。

 「=(イコール)」でつなげられる表現はどこか」

である。
 イコールというのは3通りあると思う。

1)ある言葉を短くまとめる
2)ある言葉を詳しく説明する
3)言い換え・よく似た表現による繰り返し

 言葉の定義・解説・同義語反復などが、イコールでつながれる。
・ 「エコロケーション」とは~のことを言う。
・ 「鹿踊り」とは~のことを言う。
のような「AとはB」は、見つけやすい。

 言い換え・要約でいうと
・ ~という賢治の願い
・ ~という現代の課題
のような「AというB」も、見つけやすい。

・このような環境問題
・このような事例
のような「AのようなB」の場合も「A=B」でまとめられる。
 光村の教科書から一部引用する。
==========================
見渡すかぎりの広い高原に立ったとき、例えば、すすきが一面きらきらと銀色に波打って光っていれば、目の前の風景は、まるで海のようにも見えてくるでしょう。
==========================
 「見渡すかぎりの広い高原
=「目の前の風景」
=「海のよう
という等式(っぽいもの)が考えられる。

===========================
 賢治は「鹿踊りのはじまり」という童話も書いています。この童話は、命あるものの原初の姿や在り方が語られた傑作童話です。自然の中では、人は鹿にもなれるし、人も、ほかの動物も植物も、光や風や、海や野原や山なども、みんなが地球上の同じ地平に共生しているものなのだという、地球環境に対するメッセージさえも読み取れます。
 人間の自分勝手な人間中心の世界観ではなく、森羅万象、さまざまな生きとし生けるものたちに、人間は生かされているのだ、という賢治のつつしみ深い考え方に多くの人が共感する時代になってきました。時代がようやく賢治に追いついてきた、といってよいかもしれません。
===========================
 「鹿踊りのはじまり」という童話
「命あるものの原初の姿や在り方が語られた傑作童話」
「~みんなが地球上の同じ地平に共生しているもの」という内容
「地球環境に対するメッセージ」が込められている
=「~人間は生かされているのだ」という内容
=「賢治のつつしみ深い考え方」が表れている
=「多くの人が共感」する内容
=「時代がようやく賢治に追いついてきた」t言える内容

 まあ、無理無理でここまで = でつなぐとも、どうかとは思うが、
分かりにくい文章は試しにこうやって = でつなげてみると、論理の展開が分かる。
 (それにしても長い一文があったりして、難解な文章である。)
 = でつなげてみると、巧妙に内容がスライドしてずれていく場合がある。
 それは、少しずつ内容がずれていく「伝言ゲーム」みたいなもので、
隣同士は = でつなげられるのに、最初と最後をつなげようと思うと
到底つなげられないことがあるので、要注意なのである。

 

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June 22, 2006

『ドラゴン桜』12巻の学び(2)

 すでに13巻は出版されているが、12巻の気になる部分をおさえておきたい。
 東大を第1希望にしている人がすべて最後まで東大希望のままということはなく、少しずつ他校へ希望が流れていく。
 第1希望に入れる十分な能力を有しながら、より安全な合格校を目指して(決して低くはない)他校へ進路変更をする者も多い。
 そうすると、合格率ギリギリながら最後まで第1希望を変えなかったので、合格のチャンスが巡ってくるということも起こってくる。
 これは東大受験に限らない。
 どの大学を選ぶにしろ、「ちょっとしたチャレンジ」を断念して「安全策」を選ぶケースはいくらでもある。
 さらに言えば、こうしたケースは受験に限らない。
 中学生が職場体験で希望地を選ぶ時だとか、選択教科の希望をとる時だとか・・。
 人気の高い第1希望になれる確率が極端に低い場合、早いうちに第2希望や第3希望に移っておくのも1つの手段である。なぜならいつまでも第1希望に固執したばっかりに、後になって第2・第3希望に入ろうとしても間に合わず結局第4・第5希望にしか行けなくなってしまうというようなことがよく起こるからだ。
 第4希望に入るくらいなら、早めに第2希望に絞っておけばよかった・・という後悔は辛いものだ。
 
 かく言う自分は、倍率が高い第1希望に固執するより早々と第2希望に流れるタイプである。
 「鶏口牛後」は大事な事だと思ってきたし、何よりも「希望がかなう」ことを優先したら「第1希望」か「第2希望」かは、2の次だと考えてきた。
 そういう自分の生き方を考えると、最後まで第一希望を貫徹しようとする生き方がうらやましい。
 ここだけは譲れないという人生の分岐点があったのかどうか自信がないが、そうした場面で「第一希望」を貫徹したかどうかも、自分にはよく分からない。
 希望はかなわないこともあるんだからと、第一希望に固執しない生き方をしてきた。
 だからこそ、迷わずに第一志望に突き進む「ドラゴン桜」を、うらやましく感じるのである。

 

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June 15, 2006

読解力の3段階

O276
市の国語研究会(理解部会)があって、フィンランドの教育を特集した『実践国語研究』の一部が紹介された。
この特集号は、買ってはいたがしっかり読んでいなかった。
紹介されてみてビックリする箇所があった。フィンランドの国語書の翻訳版を担当された北川達夫氏の原稿の中に、読解力の到達目標が三段階で示されている(P13)(要約の文責は竹田)。

①復唱読解レベル・・・素材文に含まれる情報をそのまま取り出し「何が?」「だれが?」「どこ?」などの問いに答えられる段階

②結論読解レベル・・素材文相互の情報を関連づけ、解釈や「なぜ」に答えられる段階
③推論(評価)読解レベル・・素材文に含まれる情報と自分の知識や経験を関連づけ独自の結論を推論できる段階。内容を踏まえた自分の意見や物語の続きの推論を書く。

 これは、そのまま「評価規準」になる。
 ①復唱読解レベルを最低ラインのCとして、②をB規準、③の推論をA規準と想定できるのだ。
 ただし、「いつ?」「だれが?」などと書いてあることをそのまま問うだけの問題でも答えられない子がいるのが現実で、①ができない子をCにしてしまうことが多い。
 それにしても、注意しなければいけないことが、いくつか列挙できる。
◆日頃の自分の授業の中心発問が復唱読解レベルになってはいけない。
◆小学校の市販の国語テストは大半が復唱読解レベルの問題なので、それができたからといって油断させてはいけない。
◆とはいえ、力のなさを感じる子には、きちんと「復唱読解レベル」の発問で最低ラインの力を保障してあげたい。
◆①②のレベルを飛び越えて③のレベルの問いをしては、単なる思いつきの文章ができるだけで、内容を踏まえた自分の意見とは程遠いものとなってしまう。解釈や空想を超えて「妄想」のような状態になってしまった作文を評価することのないように注意しなくてはいけない。
◆「なぜ」とさえ問えば②レベルの活動と思いがちだ。しかし「・・・・から」と明記されている部分があれば、いくら「なぜ」を尋ねても「復唱読解レベル」になるはずだ。定期テストでも「・・から」と書いてある部分を指摘させるために「なぜ」を尋ねることはあるが、それは「復唱読解レベル」の問いであることを自覚しなくてはいけない。
◆とはいえ、答えが分散しないようにするのは、テスト問題は「復唱読解レベル」に終始することも多い。テストとは別に授業の中では②や③のレベルの活動をさせていきたい。
◆そのためには、まず自分が②や③のレベルで自分がどれだけ書いたり思考したりできるかを試してみたい。
◆国語の読み取り問題には、答えとなる表現を「摘出」するだけでいいものと、自分で「表現」なければならないものがあることは意識していた。それを3段階のレベルで示されたら、ずいぶんスッキリできた。
◆「一字読解」とか「教科書の見開きで100問」といった問題作りは、「復唱読解レベル」の問いを大量に体験させる効果がある。だからこそC規準の子の学力を保障できるのだと思う。

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June 14, 2006

江戸しぐさ(2)

 Photo
 「江戸しぐさ」の中に「うかつあやまり」というのがある。
 自分が相手に迷惑をかけたときに謝るのは当然で、この場合は謝られる側も「いえいえ、こちらこそ、うっかりしておりました。申し訳ありません」と謝ることを言う。
 ◆こちらに手落ちがなくても「すみませんが○○していただけませんか?」と腰を低くしてお願いする。
◆相手に否があっても「わざわざ学校に来ていただいてすみません」「何度も電話してすみません」と相手への配慮を忘れない・・・そんな教師でありたいと思う。
 子ども相手の授業で「・・・しなさい」「・・・して当たり前です」と言う態度を、保護者相手にしてはいけない。
 そんなことは当たり前ではあるが、心の奥の部分で「・・・してやっている」「本当は保護者が謝るべき問題だ」というように思っていると態度に出てしまうこともある。
 そのような態度をいさめたのが「さしのべしぐさ」である。
 『身につけよう江戸しぐさ』越川禮子 KKロングセラーズには、次のように書いてある。
================
 困った人の相談にのってあげることは大切なおつき合いのひとつだけれど、助けてやろうなどという根性は傲慢すぎます。
 見下ろししぐさでなく、相手の立場を理解し、相手の自主性を重んじ、それから手を貸すこと。これができる人を「一人前の大人」といいます。
 ================
 電話や家庭訪問といえば、心がけたいのが「時泥棒をしない」という点だ。相手の都合を考えず、いきなり押しかける「時泥棒」は、死罪にも相当する「弁財不能の十両の罪」と呼ばれていたそうだ。
 そして、もう1度話をしてみたいという名残惜しい気持ちになってもらう心遣いを「あとひきしぐさ」、相手が見えなくなるまで見送る「見送りしぐさ」。
 モンスターのような保護者も多い時代ではあるが、「うかつあやまり」を筆頭とする「江戸しぐさ」の気持ちを保っていたいと思う。
 えっ、それがどうしたの、だって?
 せっかくいい気分で書いているのに、その気分を冷ましてしまうのは「水かけ言葉」「刺し言葉」と言われ江戸人にはタブーだったのだと。
 「でも」「だって」「しかし」「そんなこといっても・・」というような未練がましい・言い訳がましい言葉は「戸閉め言葉」として嫌われた。
 「へりくだりしぐさ」の観点からすると「知ってますか」はNG。
 「稚児しぐさ」の観点からすると、「わからない」はNG。

 相手が乱暴な言葉を使ったら自分に非があると思え。

・・・耳の痛い言葉も多いが教師にとっては心したい仕草ばかりである。
 

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「読解力」=けんか読み

 読解力は単なる内容理解の上に、自分の思考判断を加えられるかどうかが問われている。OECDも指導要領も同じである。
  中1(光村図書)の『クジラたちの声』を読んで、段落ごとに一言感想を書かせる。
  例えば、①②段落を、まとめて感想を書かせる。
 今はやりの言葉で言うと「つっこみ」をさせる。
 「ほんまかいな」「そうかなあ」とか「なんでやねん」 「それは分からんやろう」のように・・・。
 まあオーソドックスなのは5W1Hである。
===================
①大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。

②しかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。
====================
 ◆「大昔」っていつごろの事? 
 ◆「当時の研究者」っていつの事?
 ◆船乗りや研究者って、日本人?
 ◆声帯がなくても、叩いたり、こすったり、鼻息とかで「音は出せる」って思わなかったのかな? 

 もちろん、生徒からは、こんな鋭い意見はなかなか出ない。
 そこまで意固地にならないし、意地悪くアラ探しなどしないからだ。
 ◆僕も、その音を聞いてみたいなあ。
 ◆どんな音なのかなあ。
くらいが無難な感想である。
 でも、そのような「つっこみ」の意識で本文をよめるかどうかが目的意識を持って文章を読めるかどうかの分かれ目となる。
 宇佐美寛氏は「ケンカ読み」と言った。
 「批評読み」というと「分析批評」と混同しするので、「ケンカ読み」がいい。
 私は、この「ケンカ読み」の実践を知ってから、読みの構えがガラッと変わった。
 批判するには、精読・熟読が必要で、自分の読みの精度が試される。
 何しろ相手は教科書の著者である。簡単に批判できる相手ではない。 
 浅はかな読みで批判をすると「返り血」を浴びることになる。
 だからこそ、真剣勝負ができる。だからこそ、自分の読みの力も鍛えられていく。

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「要約指導」の2タイプ

  中1(光村図書)の国語の教科書に『クジラたちの声』の要約指導を行う。
  例えば、①②段落を、まとめて要約する。
===================
①大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。

②しかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。
====================
 長々と文をつなぐのは難しいから、この場合は「キーワード」に着目させる。
 「大昔」「クジラ」「不気味な音」「鳴き声」「研究者」「声帯」「別の音」あたりがキーワードになるだろうか。
 ぎりぎり絞って「クジラ」「鳴き声」「声帯」の3つである。
 つまり、この3つのキーワードが入った文を自分で考えればいいわけだ。

A)大昔、船底にひびく不気味な音をクジラの鳴き声だと信じられていたが、声帯がないので違うと考えた。

B)クジラには声帯がないので、船底にひびく不気味な音は鳴き声ではないと考えられた。

 ちなみに、要約のポイントとしては「クジラ」を何度も使わないことも挙げられる。
 同じ言葉を繰り返すのは文字数がもったいないのである。

 続いて③④を要約する。
======================
③だが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う。
④例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。おとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。
=======================
 この2段落は、キーワードで考えるより、トピックセンテンスで考えた方が早い。
 この2段落をまとめているような1文を探すのである。
 すると「そうしたことから・・・」という統括の言葉があるから最後の1文がいい。

そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。

 この1文を縮めてみる。

◆研究者は、クジラには情報を受信・発信する手段があると考えた◆

 1段落ずつ要約をしなかったのは、全部検討したら多すぎてうんざりするかもしれないことと、段落によっては非常に短くて要約する意義が見いだせないからだ。
 ちなみに、③④のトピックセンテンスとして選んだ「そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった」の一文だけ改行して1段落として独立させることができる。自分が筆者だったらそうする。
 1文1段落を多用する人もいるので、段落指導を1段落ずつやるか複数段落で扱うかはケースバイケースということになると思う。

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June 12, 2006

接続語と段落構成

 中1(光村図書)の国語の教科書に『クジラたちの声』というのがある。
 説明文の授業のパターンとして、形式段落を、意味段落にまとめていく。 
 内容面でグルーピングできるところはグルーピングしていく。
 また、構成面からもグルーピングしていく。
 段落冒頭の「接続語」や「指示語」によって見分けていくのである。
 例えば、5段落までは次の文章である。
===================
①大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。

しかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。

だが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う。

例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。おとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。

では、その「手段」とは、いったいなんだろうか。
=======================
 ①と②は「しかし」でつながれている。
 ②と③は「だが」でつながれている。
 ③と④は「例えば」でつながれている。
 ④と⑤は「では」でつながれている。
 
 「例えば」でつながれた③と④は、グループとして認識できる。これは分かる。
 では、「しかし」「だが」という逆接でつながれた①と②、②と③はどうしよう。
 逆接というと、意味が変わる印象がある。
 しかし、ベン図と同じで共通項を持った上で違いを述べているので段落はつながっている、というのが私の考えである。生徒も次のような例で納得できたようだ。
◆今日は6時間だ。しかし、明日は5時間だ。
◆国語は得意だ。しかし、数学は苦手だ。
というように、逆接でつながる2文・2段落は強い関連を持っている。
 
 では、「では」でつながれた④と⑤はどうか。
 「では、次の問題です」「では、また明日」
というように「では」は次の話題に移るときに使う。
 ということは④と⑤は「では」によって意味が切れる、というのが私の考えである。
 生徒も納得できた。
 よって、

 ①②③④ / ⑤

というように段落分けできる。
 ちなみに⑤は「では、その『手段』とは~」というように「その」という指示語がある。
 段落冒頭の指示語は前段落との強い関連を示す。
 したがって、⑤は、それまでの①から④を十分に受けているので①から④と「切れない」という意見も捨てがたい。
 ①から④が序論、問題提起を含む⑤から本論に入る、というのがオーソドックスな分類である。
 指示語と接続語では、接続語の方が影響が強い、と言い切れるかどうかは、もう少し検証してみたい。
 
  

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「だが、しかし」の論理

 論説文の書き方として、1つの模範例になっているものがある。
 「A」という内容を主張したいとする。
 その時に、「A]について述べ始めるのではなく、まずは反対意見となる「B」から述べる論法だ。

==================
 たしかにBである。
 だが、しかしAである。
==================

 自説Aを述べる前にBを述べるのは、
 自説に対する反論を十分理解し想定していることのアピールである。
 反論を想定して自説を述べているというのは、いかに「独善的でない意見」が展開されているかの証明なのである。
 例えば「教育技術は必要だ」という意見にしよう。
======================
 たしかに、技術さえあれば教育が成り立つわけではない。
 教育に対する愛情も情熱も必要であるし、技術の重要性は数パーセンに過ぎないとも言われる。
 だが、しかし、だからといって技術なしの指導はありえない。
 子どもを夢中にさせる技術、授業に集中させる技術などは明らかに存在するのである。
 そうした技術をたくさん持っている教師が、持たない教師よりも教師の技量が高いのは当然である。
=======================
 このような指導を知ったのは石原千秋著「秘伝 中学国語入試読解法」である。
 最近、いろいろな著作のある樋口裕一氏も書いているとのことだ(どの著作かはまだ確かめていない)。
 ただし、いきなり「確かに・・・・」で反論のBから書いてしまうと、Bの印象が強すぎて本来の主張であるAが弱くなってしまう。
 読者を納得させる見事すぎる反論Bを用意するのは逆効果なので注意しろというアドバイスもあるらしい。
 これは尾括型の文章の短所でもある。
 尾括型の文章の短所を補うには「双括型」の文章にすればいい。
 最初に主張Aを述べる方法である。
==================
 私はAを主張する。 
 たしかにBという短所もある。
 だが、しかし~という長所を考えるとAである。
==================

 
 
 

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