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July 28, 2006

教員免許の更新

教員免許の更新が話題になっている。2005年8月のHPに既にある→ここ
一時は現役教員は免除の方向だったが、ここへきて、現役教員も受講(受験)する方向に風向きが変わってきた。
誰しも試験は嫌だ。それで「落ちる」「解雇」の可能性があるとなれば事態は深刻である。
それでも、世間は「現役教師も受けて当然」「受験をして落ちるような教師は落ちればいい」と反応している。

ところで、先日1級建築士全員に「再試験」を実施しようとした。→ここ
しかし、業界からの反発で軌道修正を迫られているらしい。不合格の場合は「準1級」や、2級への降格もあり得るからだ。(2006年7月24日3時2分 読売新聞)
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 「今さら試験を受けたくない」「1人の建築士の犯罪なのに過剰反応だ」と建築士らが猛反発しているからだ。1級建築士のレベルアップを改革の目玉に据えていた国交省だが、反対圧力に屈する形で、再試験の断念も含めて再検討に入った。
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 同じ国家資格である医師や弁護士は再試験がないのに、なぜ自分たちだけ既得権を脅かされるのか、というのが本音のようだ。ある1級建築士(53)は「もう1度大学受験しろと言われるようなもの」と語る。都内自治体の50代の建築主事も「この年で今さら、勉強するのは大変。再試験はたぶん受けない」と話す。
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 結局、「総論賛成、各論反対」、「他人の苦労は賛成、自分の苦労は反対」ということなのだ。
 医師も弁護士も公務員もみんな同じように再試験をやればいいんだ。一部だから不満が出る。
 ちなみに国会議員や大学の先生には資格試験がないんだから、無試験の人にあれこれ言われたくないよね。
 
 教員の再試験では模擬授業などを実施するらしい。
 それを誰が審査するのか。
 審査する側に力量がなければ、審査なんて絵に描いた餅でしかない。
 基本的に「だいたいの教師」を合格させ、特別問題な教師だけをピックアップするための審査なら、どんどん実施して、世間の不満を解消すべきだ。
 個人的には「受けたくない人は受けなくて良い。ただし、受けたか受けないかは情報公開され、プラス査定される」ということでいいのではないかと考えている。全員無理矢理受験させるより、希望者は受験(特典アリ)にした方がスムーズだ。 自分の実力を公開できないような教師は、その時点でマイナス評価を受けるのは当然だ。
 恥ずかしながら僕も「トス授業技量検定」を受けたことがある。
 今や全国には自主的な授業技量検定を自分から(自費で)進んで受けている教師もたくさんいる。
 そのような熱心な教師が報われる世界であってほしいと切に願う。

(追記)
 我が家族にスキーをレッスンしてくれる師匠はスキー指導員の資格を持っている。
 スキーの技術も理論も年々新しくなるので、指導員の資格を取った今も講習に自主的に参加している。
 「人に教えるんだから、それなりの勉強をして当たり前だ」と言う。
 教師の中に、「何を今さら」と学ぶ意欲を持たない人がいることは残念だ。
 そのような学ぶ姿勢のない教師が資格を剥奪されるのは世間の常識から言えば仕方ないことだろう。
 また一方で学ぶ姿勢は人一倍で知識も豊富だが、コミュニケーションが苦手だとか、子どもと視線を合わせられないとか笑顔がないといった性格的な問題を抱える教師もいる。それも直せるものなら直した状態で教壇に立たないと犠牲になるのは子どもたちである。 

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「食品のカラクリ」

Syoku
 読んでしまった。
 別冊宝島の恐ろしい1冊である→ここ
 みんな知らずに食べている!食卓の「舞台裏」
という表紙のコピーが生々しい。
 こんな本を読んでしまったら、本当に食べる物がなくなってしまう。
 BSEのアメリカ産の牛肉の輸入ばかり気にしているけど、もっともっと身近な危険が放置されているではないか。
 おそらく僕の実家には「危険な食品」(三一書房)という本もあるはずだ。
 そのようなタイトルの本を買ってこだわった記憶がある。
 食品添加物等の恐ろしさは、何十年も前から話題になっていた。サッカリン・チクロなどは戦後の産物だ。
 確かに今は「自然食品」「食の安全」「食と健康」が話題になるが、その一方で冷凍食品や安価な食品が世に出回り、むしろ危険な食品の数は増えているのではないかとさえ感じてしまう。
 繰り返す。
 どうしてBSEの牛肉と同等のボルテージで添加物の危険性が騒がれないのだろうか。
 勝手な推測をはさめば
・狂牛病ほどインパクトのある実害が今のところ出ていない。
・もはや、多少の危険を冒しても、食品添加物を使わない食生活は維持できない。
・非難の声を上げたら、食べる物がなくなるか、価格が暴騰し、生活がおびやかされる。
などが挙げられるだろう。
 結局、安価な食べ物はリスクを伴うことを理解するしかない。最後は「自己責任」だ。
 40才を過ぎた私の体は既に食品添加物で冒されているかもしれない。
 数年後、突然、日本中で人体の異変が多発するかもしれない(生まれてきた子に現れるかもしれない)。
 こんな妄想が妄想でとどまってくれることを願う。
 石油がなくなるという事態も深刻だが、「食の危険」という事態も深刻である。
 不安をあおるだけの本ならいらない。
 科学的な裏付けがあるなら、もっともっと話題にして使用停止まで持ち込んで欲しい。

 

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July 19, 2006

「正しいことは言うな」

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中日新聞7月18日付の朝刊に「ひろさちやのほどほど人生論」という連載がある。
「正しいことは言うな」という逆説的な表現の意味を知って感銘を受けた。
確かに、教師という仕事上、子どもの失敗を責めることは多い。
しかし、「どうして、宿題を忘れたんだ」などと相手のミスを責めてみても、
その言葉が正しければ正しいほど相手を追い込んでしまうだけだ。
言われた方は一番聞きたくない言葉を耳にして憎しみさえ、わいてくる。
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怠けている人間、遅刻した人、それぞれに事情があり、理由があるはずです。
その事情・理由を斟酌(しんしゃく)することなく正しいことを言う人は、じつは、
ー正義という名の魔類ー
になっているのです。
仏教では、その正義という名の魔類を
ー阿修羅ー
と呼びます。阿修羅というのは、本来は正義の神であったのですが、自分だけが正義だと思って、他人に対する思いやりがないために、神界から追放されて魔類になった存在です。(後略)
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 「阿修羅」とは、そういう意味だったのか→ここに詳しく書かれている。
 教師は「よかれ」と思って平気で子どもを傷つけることがある。
 悪意がない分だけ、たちが悪いのだという。
 正義感を振りかざす鈍感な教師はまさに阿修羅だな。
 何も言わずにじっと相手の聞いて上げる行為が「慈悲」なのだとも書いてある。
 何と、仏教の教えは奥が深いのか。
 仏教に没頭するつもりはないが、宗教をバックボーンにすると自分の言動を律することができる理由がよく分かる。

(追記)
 以前、紹介した『身につけよう!江戸しぐさ』の中に「見て分かることは言わない」というのがあった。
「おやせになりましたね」「太ったんじゃないの」「ひどい汗ですね」など、見て分かるようなことを稚児のように言ってはいけないとある。
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見て(暑いんだな)と察したらすぐ冷たい飲物を出すものだよ、というわけです。急な雨で濡れていたら、サッと手拭いを差し出す方が感性度が高く、相手の思いやりが偲ばれるものです。
 それに加えて「読んで分かることは聞かない」というのもあります。
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 何の配慮をする気もないのなら、見て分かることを言うな、というのは、実に鋭い指摘である。

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July 16, 2006

正しい言葉

 ラジオで聞いた話。

 「最近、『全然』っていう言い方、よくするじゃないですか。あれ絶対おかしいですよね。」

 「全然おいしい」「全然おもしろい」のような「全然」の肯定的的な使い方を批判したかったのだろう。
 しかし、「・・・じゃないですか」は、ないだろう。
 「・・・じゃないですか」は、もう何年も前から使われ、定着しているようなもので、今更とがめても何ともならないと思う。
 でも、最近の日本語の乱れを訴える人に「・・・じゃないですか」を使ってほしくない。
 「お前に、日本語の乱れなんて語ってほしくない」という気持ちだ。
 それって「天に唾を吐く」ような行為じゃないの?
 
 その前にラジオで聞いた話。

 「僕は、『こだわり』っという言葉が肯定的に使われるのが許せない」

 「こだわる」というのは「固執する・しがみつく」というようなマイナス面もあるので、自嘲的に言うのは構わないが、自慢げに「こだわりの一品」「この店のこだわり」などと紹介するのはおかしい、ということだった。
 これも、定着しているようなもので、今更とがめても何ともならないかもしれないが、自分は注意しようと思う。
 
 国語のワークに「なおざり」があって、「先生、これって『おざなり』じゃないんですか?」と質問された。
 「両方あるんだよ、微妙に意味が違うんだけど・・」としか言えなかったので、あとで調べてみた。→ここ
 なるほど、「御座なり」「直・猶+去」とあって誤用や転用ではなく元々の言葉が違うんだ。
 このような言葉を集めたサイトは多いので大いに活用しようと思う。
 「気の置けない友人」の意味なども、すぐに「どっちだったっか?」と忘れてしまうので。
 「なおざり」について説明してくれたサイトのトップページ「がんばれ凡人!」からは、さまざまなアドバイスのコーナーにいける。ここは、なかなか面白い。

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ハインリッヒの法則

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ハインリッヒの法則というものがある。
検索するとかなりの数のWEBがヒットする。例えばここここここ
 これはアメリカの技師ハインリッヒが発表した法則で、労働災害の事例の統計を分析した結果、導き出されたものです。数字の意味は、重大災害を1とすると、軽傷の事故が29、そして無傷災害は300になるというもので、これをもとに「1件の重大災害(死亡・重傷)が発生する背景に、29件の軽傷事故と300件のヒヤリ・ハットがある。」という警告として、よく安全活動の中で出てくる言葉です。
 「氷山の一角」の図がよく分かる。
 
 学年でケガやケンカが続いたので学年集会を開いた。
 その際に、次のような形で話をした。
 1つの事故や事件があったときは、その裏に29の「赤信号」があったと言われている。
そしてさらに300の「黄信号」があったと言われている。
 注意した方がいいよ、という300の黄信号を突っ切ってしまう。
 止まらなければいけないはずの29の赤信号を突っ切ってしまう。
そうしてとりかえしのつかない大きな事故が起きる。大きなケンカが起きる。
 一生残るようなケガをさせてしまった、相手が学校に来れなくなるほどキツイことを言ってしまった、ということにならないように、自分で自分の行動にブレーキをかけないといけない。
 「もう、この辺でやめておかないと、そろそろ大きな事故になるな」と感じることがあるはずだ。
 「ヒヤリとした」「ハッとした」時に、止められる中学生になろう。

・・・「次のような話をした」と書いて、正確に再現できないのは、それだけ確固としたシナリオをつくれずに集会を迎えてしまったからだ。
 はずかしい話だが、こうやって振り返ってみると、「ハインリッヒの法則」を効果的に生徒に伝えたかという点で「弱かった」「甘かった」と思わざるえない。
 有田和正氏は「材料7分に腕3分」と言う。
 「ハインリッヒの法則」というネタに価値があるとしても、それを印象的に伝える努力と工夫がないと生徒には伝わらないし、ましてや、今後の生活をコントロールするためのヒントにもなり得ない。
  事故が起きてから「ほらね、言った通りでしょ」では遅い。
 「そろそろ止めておかないと、大きな事故になるよ」
 「神様が『もうやめておけ』と言っている合図だ」
 「大きな事故になる前に気がついて、よかったじゃない」
という意識を持たせたい。
・・・今は短期記憶に「29の赤信号・300の黄信号」が送られただけだから、長期記憶に送られるよう2学期最初の学年集会でも話題にしてみようか。
 集会の度に同じ話題はつまらない。
 しかし、大事な話なら繰り返さないと長期記憶に残らない。
 子供が何度聞いてもあきないような話題の提示の仕方も工夫しないと。 

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July 08, 2006

具体的に語る

 「人間の自分勝手な生き方」とか「自然と共生した生き方」という意味は、具体的に何を指しているかがイメージできて初めて理解できたと言える。
 では、「愛国心」を教えるというのはどういうことなのか。
 一体、「愛国心」を教えると言う行為をどう具体的にイメージして賛成だとか反対だとか語っているのだろうか。
 「国を愛する心」を育てる授業に反対するというのは、どんな授業をイメージしてのことなのだろうか。
 「愛国心」を教える、という行為は、「君が代」を行事の際に斉唱させるという行為とは具体さが全く違う。
 「国のために戦え」と押しつける授業なら、反対する。
 しかし、「人のためになることをしろ」「国のためになることをしろ」なら賛成するだろう。
 「総論賛成、各論反対」ということもある。そして「総論反対、各論賛成」ということもある。
 「愛国心」を教えることに反対はしないが、そんな授業をするなら反対だ。
 「愛国心」教育は反対だが、そんな授業なら賛成だ。
・・・つまり肝心なのは「どんな授業」をしようとしているか、である。
 その具体性のない「愛国心」の議論は不毛である。
 
◆サッカーのワールドカップでは日本の決勝進出を目指して、新聞やテレビは大はしゃぎだった。
 2点以上の差をつけてブラジルに勝てば決勝リーグに進出できるじゃないか、というのは結果から見ればあまりにも能天気なプラス思考でしかなかった。同じような風潮がトリノオリンピックでもあった。
 たまたま見かけた週刊誌では、ブラジル戦惨敗後、次のような批判文があった(文責は私)。

 冷静に日本チームの実力を分析できず「決勝リーグ進出」を繰り返したマスコミは「大本営発表」を信じて「日本は負ける」と言い出せなかった戦時中と何も変わらない。

 日本代表チームを一丸となって応援することが「愛国心」か。
 代表チームの勝敗に一喜一憂し、興奮のあまり器物損壊することも許されるのが「愛国心」か。
 日本チームは「決勝リーグへ進めない」と述べることさえ許されない雰囲気が「愛国心」か。
 ワールドカップやオリンピックの時だけ盛り上がる「愛国心」なら、なくてもいい。
  

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意見文の内容

 説明文の意見文・物語の感想のいずれにおいても、何かを書かせる時の方向は2つだなあということを感じていいる。

1)立場をはっきりさせて、理由を書かせる。
2)自分の経験や、作品の関連した話題、作品から広がる自分の世界を書かせる。

 理由を書かせるのは、論理的思考の基本で、学力N01のフィンランドの国語の授業は「ミクシ(なぜ?)」に答えられることが重要なのだという話題はかつても書いた。
 2)は、先日書いたフィンランドの国語の3段階で言うとラストの推論(評価)読解レベルのことでもある。

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素材文に含まれる情報と自分の知識や経験を関連づけ独自の結論を推論できる段階。
内容を踏まえた自分の意見や物語の続きの推論を書く。
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 自分の知識や体験と結びつけて文章を書くというのは、優秀な読書感想文も同じである。
感想文も読んだことによって触発された自分の体験談などを書いていくのである。
 説明文の「ちょっと立ち止まって」では、文中に「このような例はほかにもあるだろう」と生活経験を想起するよう呼びかけている。
 だったら、その呼びかけに応えられるように身近な生活例を想起させないといけない。
 このように自己と結びつける読みは、物語文でも説明文でも大切な思考作業である。
 ただし、残念ながら、身近な生活例と関連づける思考作業は難しい。フィンランドでも3段階目になっていることからもその難易度が分かる。
 ちまたのブロクでも、ある事件や報道へのコメントというのが圧倒的で、時事問題に触発された自分の意見表明が基本であると言える。
 だから、「理由を述べる」「自分の体験と結びつける」の2つの「書く」を、きちんと意識づけていこうと思う。
 6月の教材では、理由を問う意見文と具体例を書かせる意見文の2つのテーマを与えた。
 
1)「光と風の贈り物」とは、何のことを表しているのか。「自然」「詩」「宮沢賢治」など、自分で1つ選んだら理由を書く。

2)「光と風の贈り物」の後段に「自然と共生する生き方」「人間の自分勝手な生き方」とあるが、それらは具体的にはどういう生き方のことなのか(例えばどういう生き方なのか)説明する。

 「自分勝手な生き方とは、自然を破壊するような生き方」では、具体的とは言えない。
 それは「例えば」を付けてみれば分かる。
 「自分勝手な生き方とは、例えば自然を破壊するような生き方」では、具体性がないことが分かるでしょ?
・例えば、生き物を殺して食料を作っておきながら、食べ残して捨ててしまうような生き方。
・例えば、ダムを作って他の生き物の生態系を破壊するような生き方。

 「具体的に語るというのは要約するよりはるかに難しいのだ」ということを宇佐美寛氏の本から学んだと思う。
 「具体的に語る」ことを「目を低くしろ」「神は低部に宿りたまう」と書いてあったように記憶している。
 第3段階のレベルなのだから、難しくて当然である。 
 「難しい」という覚悟がないと、できない子どもを責め立ててしまうことになる。
 だから、過度な期待をせずに、訓練を繰り返したいと思う。
 

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July 02, 2006

「ドラゴン桜」13巻の学び その3

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 13巻の後半は国語の芥山先生の独壇場である(次巻にまで持ち越されている)。
 センター入試のテクニックというのは、小中学校の通常の国語の授業に応用の利かない部分も多い。
 そんな中で、選択肢の6つの分類は「なるほど」と思った。

1:正解
2:反対
3:すりかえ(本文中の言葉を使っているが論旨が違う)
4:言い過ぎ(本文の内容の誇張)
5:不足
6:勝手なことを言う(世間的には正しいが、本文にない)

 こうやって書くと正解はすぐに見つかりそうだが、実際はなかなかできない。
 実は昨年中1の塾の模試の国語をやってみたが、ことごとく選択肢ではずしてしまった。
 ラスト2つまでは絞れるが、そこからが難しかった。6つのタイプ分類の意識がなかったからだろうか。
 「すりかえ」「勝手なこと」は、内容は間違ってはいないが問いとの対応で正誤を見抜くものだから、がんばれるか。
 「言い過ぎ」は、簡単そうに思える。だが、そこまでは言っていないという「論理の飛躍」や「断定のしすぎ」を見抜くものだが決して簡単ではない。「常に・すべて・絶対・だけ・必ず」という言葉があるからすぐに見分けられると芥山先生は言うのだが・・。
 「不足」も簡単そうだが、内容的に間違っていないわけだから「不足だ」と断言するのは結構難しいと思う。
 
 バッテイングの技術を用語で学んでも実際に打てるとは限らないのと同じだな。
 6つの視点を意識して選択問題に繰り返し挑んでみるしかないと思う(ここが「ドラゴン桜」を読んだからと言って成績が上がるわけではない、とういう言い分の成り立つところだ)。
  
 後半の芥山先生の話は、結論が見えにくい。13巻で完結していないからだろうか。 
 先日ブログで書いたイコールの論理で芥山先生の話をつないでみる。
 
「自分で考えるな」
=「客観性を持て」=「独りよがりになるな」
=大多数が納得できる一般論を見つけだす
=常識でものを考える
=みんなはこの問題をどう考え、どう答えるだろう、と考える
=たった一つの情報が欠けるだけで全体を見失ってしまう
=客観的になれば、カギとなる情報がつかめ、全体が見えてくる

 「客観性」を持つというのは「メタ思考」のことだろうか。
 「メタ思考」の重要性を話しているようも思うが、「メタ思考」という言葉は出てこない。
 芥山先生の授業の結論が見えてこなくてスッキリしない。
 授業を見学した宮村先生もテクニック重視の授業に納得していない。
 14巻に期待しよう。

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「ドラゴン桜」13巻の学び その2

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 「ドラゴン桜」の先生は、趣意説明がしっかりしている。受験のための理論武装がしっかりしているとも言える。
 生徒に主張をきちんと理解してもらうために、いろんな手を使う。
 今回、数学のセンター入試と二次試験の違いを説明する柳先生の手法は見事だった。
 柳先生は「ジグソーパズル」という「比喩」を用いた。
 「バラバラのピースを組み合わせたら何の絵になるのかを想像するのが東大2次の数学」
 「ほとんどできあがったパズルの数カ所に開いている穴にあてはまるピースを素早く見つけはめ込むのがセンター数学」
 東大二次に必要なのは推理力、センターで必要なのは処理能力
 「推理力」と「処理能力」の違いを説明するのに「ジグソーパズル」を用いることの何という分かりやすさ!
 2つの事項を比較しながら説明するためのポイントは「ベン図」の発想である。
 ジグソーパズルという共通した土俵の上で、「推理力」と「処理能力」の違いを説明してみせる。
 共通項があるからここそ、相違点も明らかにしやすいのである。

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「ドラゴン桜」13巻の学び その1

 13_1
「ドラゴン桜」13巻も、読みごたえがあった。そして考えさせられる箇所がたくさんあった。 
 まずは「桜木式逆進勉強法」ということで「歴史はさかのぼれ」が出てくる。
 モーニングで読んだときは、「歴史学習」の攻略法としてのみ考えていた。
 今回、単行本でじっくり読んでみて「国語学習」でも同じなのではと考えた。
 
①センター入試は歴史の教科書後半から多く出題されるから、最初から細かく勉強すると続かない。
→国語の作品の読み取りは後半(山場)が勝負だから、最初から細かく勉強すると続かない。
 長編を冒頭部分からじっくり読んでいくのはシンドくて退屈な作業でもある。感想を書かせたって、一番印象に残っている山場や結末部分を取り上げるのが自然なのだから、授業も山場や結末部分を先に扱うべきか。

②「・・・がありました・・・がありました・・」の繰り返しではなかなか覚えられない。教科書の各章の最後に起こる大きな出来事に着目して「なぜ」それが起きたか理由を探りながら逆読みするのがよい。
→国語の作品でも同じで、「なぜ」という因果関係で読み解く方が、作品の展開が明らかにしやすいだろう。
 場面毎の大きな出来事に着目して「なぜ」で逆進していけばいいかも。

③歴史上の出来事は、人間の感情に突き動かされて進んでいく。登場する人物の感情を想像して加えてみると、事件がイッキに面白くなり頭にスイスイ入ってくる。
→小説を人物の心情を想像しながら読んでいくのは当然のことで、説明文についても人物の心情を想像することで理解が増す。エピソード型の記憶の応用でもある。

 テストの問題で「なぜ」を問うのが多いのは、「なぜ」が理解できていれば、全体の構造が理解できているものとい判断できるからだ。
 「なぜ」は逆進型の思考で難易度が高いから、まずは順接の思考で「・・・が起きて・・・が起きて・・」という授業を行ってきた。これが「当たり前のことをなぞる」だけの緒退屈な授業の原因だったのかも知れない。・
 低位の子への配慮も必要だが、山場や結末部を重視するダイナミックな授業展開の方が知的な好奇心を喚起するという意味でも教育の効果が大きいのだと思う。
 

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