教育の強制性
野口先生の講座の中で当日の毎日新聞の社説が紹介された。
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20061009k0000m070124000c.html
なるほど、硬派教育の野口先生が反発されるはずだ。
私でも反発できる。
問題は、改革の方向性とその中身である。「規律ある人間の育成」を目標に掲げる安倍首相は、教育への国の関与の度合いを強め、管理の徹底を目指しているように映る。しかし、その方向は、教育をできるだけ学校や地域の自由に任せ、子どもたちをのびのびと育てていこうという教育本来の理念から、かけ離れてはいないか。
→教育本来の理念は「教育をできるだけ学校や地域の自由に任せ、子どもたちをのびのびと育てて」いくことだと、いつ誰が定義したのか。その定義はおよその理解を得られているというのか?
教育本来の理念に「自由」はありえない。教育は一定のルールや約束事に基づいて、歴史的に定められたルールや約束事を学ぶ(身につける)ものであるはずだからだ。
できるだけ自由に任せて「2年生で九九の習得、3年でわり算の習得」といった約束が守れるわけがない。
改正案のポイントの一つは「国は教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」との条文を設けて国の関与を明確にし、教育振興基本計画の策定を政府に義務付けている点だ。現行法の下でも文部科学省が教育の指針となる学習指導要領を策定しているにもかかわらず、あえて明文化することによって、教育内容への国家の介入を強めることにつながらないかとの懸念が生じる。
→「国は教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」のは、現在の様々な問題を考えれば当然のことで、それを「教育内容への国家の介入を強めることにつながらないかとの懸念が生じる」と言ってしまったら、誰がどう、この国の教育を統率していくというのか。
安倍首相が強調する教員免許の更新制度や国の監査官による学校評価制度の導入も、運用によっては教育現場を一層締め付けかねない。こうした管理強化により、学校や教員はこれまで以上に教育委員会や文科省の顔色をうかがうようになり、教育現場にぎすぎすした雰囲気と混乱をもたらすのではなかろうか。教育への国の関与はできるだけ抑制的であるべきだ。
→ 一方で、問題教師(授業不成立だとかハレンチ教師)がいれば、教員の質の低下を憂い、教員の規範意識の低下を嘆き、首を切られない公務員体質を批判しているではないか。
学ばない教師や授業不成立の教師をきちんと整理するには「教員免許の更新制度」は当然のことで、多くの国民が望んでいるだろう。
国の関与を抑制して問題教師が横行した時にマスコミが「国は何をしているのか」と声を荒げるのは目に見えている。
教育現場の管理と競争が強まることで、子どもたちの心からゆとりが消えてしまいかねない。
とは、きわめて聞こえの良い言葉ではあるが、現場の危機感を理解していないし、こうした甘い言葉に油断していると、あっという間にマスコミに袋叩きに合う。しっぺ返しと言ってもいい。
何と言っても、この2日前の同新聞社説には次のように記されている。
(前略)少女はなぜそこまで追い詰められたのか。遺族が最も知りたいことに、今学校も教委もきちんと答えられない。昨秋来の「空白」を埋める覚悟で徹底的に調査し、説明するのが最低限の責務だ。そして、学校、教委は自己検証が必要だ。なぜ目をそむけてしまったのか。例えば、学校側は少女が自殺を図った日に遺族から遺書を見せてもらっているが、内容は断片的にしか覚えていないという。このあやふやさは何だろう。少女が回復して学校に戻ってきた時に備えて何をすべきかなども含め、事件を教訓とした学校づくりを真剣に考えなかったのか。
再び目をそらすことなく、なぜ少女の叫びを受け止められなかったのか、当時の自分たちの内心まで顧みて考えてほしい。いじめ問題を抱えない学校はまずない。今回の「失敗の過程」が報告され、全国の学校現場で共通の教訓として生かされなければならない。そうでなければ今回のケースはあまりに救いがない。
1986年、東京の中野区立中野富士見中学2年・鹿川裕史君が「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」と遺書を残して自殺した。明らかになった陰湿ないじめの実態は社会に大きな衝撃を与え、この20年の間各種の啓発授業やスクールカウンセラー制度などさまざまな方策が導入された。だが文部科学省が集計するいじめ件数(小・中・高校)は昨年度2万件余。この2年やや減少したとはいえ表に出ない部分は相当なものだろう。表に出ない部分から命を絶つ少年、少女が相次いでいる。
鹿川君は自分の死でいじめが止まるよう願って遺書に書いた。「俺(おれ)が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃいみ(意味)ないじゃないか」
こうした悲劇を再発させない決意を新たにしたい。
→いじめ自殺を防ぐために文部科学省も教育委員会も学校も全力を挙げよと、現状の甘さを糾弾しているではないか。
それはいじめ自殺防止のために「国は教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」と訴えているのと同義なのである。
「国は教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」のは当たり前のことなのだということを2日前の社説が訴えている。
「二枚舌社説」だと言われても仕方あるまい。
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