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November 30, 2006

「論理力ノート」~イコールの関係~

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 「出口式 論理力ノート」の第2章「『論理的な読み方』を身につけよう」では「イコールの関係」として、次の4つについて書かれている。
 ①具体例・・・主張の証拠
 ②体験・・・・・主張の強化
 ③引用・・・・・主張の裏付け
 ④比喩・・・・・言葉にならない思い

 以前、出口式の「論理エンジン」に学んだ訳ではないが、「イコールの論理」についてまとめてみた。
 同じことが書いてある、などと偉そうに言うと出口氏に失礼か。
 それにしても①の具体例が主張の証拠になるということを、最近はまさに「その通り」だと思えるようになった。
 それは
1)統括型の文章で意見文を書かせる時に、主張ー理由・具体例を書かせるようにしていること。
2) 説明文を読み取るときに、この主張は例えばどういうことなのか、を読み取らせたり、自分で補わせたりしていること。
3)OECDの読解力が、自分の知識や経験と、結びつけて考えさせることを狙っていること。
4)横山ドクターから教わった「認知心理学による理解の3段階目」が問題解決レベル(理解した内容に自分の思考を加えること)を指していること。
などで、このところ意識していることと合致してるからだ。
 先日授業した説明文「未来をひらく微生物」では、
まず「微生物とは」に答えられる箇所を探し、
次に「例えば微生物ってどんなものか」という具体例を探す。
という作業を行った。
 そして、続いて「発酵」についても
まず「発酵とは」に答えられる箇所を探し
次に「発酵を利用した食品は何があるか」という具体例を探した。
 このような流れは「主張ー定義」「主張ー具体例」という文脈の読み取りを意識した活動だった。
 説明文では「問いと答え」の部分を探すことが大事だと言われる。
 同じくらい「主張ー具体例」の部分を探すことが大事なのだと思っている(思うようになった)。

  ちなみに「イコールの関係」を含む「文相互の関係」については以前もブログで書いた。
 その元となる文章は1991年まで遡るもので、僕にとっては長年の追求過程なのである。
 これまでモヤモヤしてたものが、最近整理(自覚)できるようになってきた。

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November 29, 2006

「論理力ノート」~弁証法的発想~

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 「出口式 論理力ノート」のP36に「弁証法」という言葉が出てきた。

 (対立命題の)それぞれの長所を活かし、短所を補う方法はないかと考えるときは、対立命題をより高い地点で統一すればよい。そういった発想を「弁証法」。あるいは、「止揚」とか「アウフヘーベン」という。

 「弁証法」という言葉は何度も耳にしてきたが、いつも未消化で無視してきたし断念もしてきた。
 ウィキペデイアで「弁証法」を出してみても、ソクラテスやカントや唯物論的~などといった哲学の歴史が出てきてやっぱり今でもギブアップなのである。→ここにも
 そんなふうに敬遠してきた「弁証法」だが、上述のような定義の理解で十分だというなら、とてもうれしいことだ。
 というのも、先日「デイベート型発想の問題点」で触れ、AかBかで話し合っているうちにC案が出てくる書いたのは、まさに弁証法・アウフヘーベンだからだ。
 新任の頃に読んだ宇佐美寛氏の道徳関連の著書に「弁証法」という言葉は出てこなかった。
 しかし、宇佐美氏が道徳授業における二者択一の意志決定を批判したのは、より現実に近い対処法が「弁証法的な発想」によって導かれたからだろう。向山氏の討論の授業に憧れたのも、弁証法的な思考が見事だったからだ。
 この年になって、これまで学んできた発想法が「弁証法」だと理解するなんて、自分は何とまあ不勉強だったことか。

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若者の正社員化

11月27日の中日新聞の社説に「若者の正社員化を急げ」というタイトルで雇用法見直しの記事が掲載された。
ここ
 

国の雇用政策の基本法である雇用対策法が来春にも大幅改正される。焦点は若者の雇用機会の拡大で、フリーターなどからの正社員採用を増やすことが狙いだ。企業側も積極的に対応すべきだ。

 先の「ワールド」の正社員5000人採用の記事を称えたのは、法で縛られないところで進められた会社の方針だからだ。
 現実問題として、パート採用か正社員採用かは会社の方針であり、会社の経営状況次第である。
 正社員を増やそうにも利益のたくわえや増益の見込みがなければ会社自体がこけてしまう。
 僕自身も、正社員登用の一定割合などを法で縛るべきだと思っていた。
 しかし、ワールドのようにいち早く正社員化を進めた企業に人材が集まるなら、あとは適正な業者間の競争や切磋琢磨で正社員登用が増えていくのでないかと思ったのだ(甘いかも知れないけれど)。
 ワールドの正社員化の意図は「優秀な人材の確保」である。
 正社員登用を進めないと、いい人材はよそへ流れてしまいますよ、という雇用側の危機感ができてしまえば、「法」の規制などいらなくなってくる。
 そのような状況の上に、さらに正社員登用の最低ラインの規制が入れば、鬼に金棒と言ったところか。 
 若者の正社員化は、結婚ー出産ー少子化問題ともつながっているし、消費の拡大(景気回復)に問題にもつながっているし、誰が老後の両親の援助をするかという高齢社会の問題にもつながっている。
 給与も低く、雇用が不安定な若者が増えればこの国に未来はない。

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November 28, 2006

いじめ加害者を出席停止

 いじめた加害者側の児童・生徒を出席停止にするという提言を教育再生委員会がしたという。もちろん実現するには様々な手続きが必要だから、すぐに適用されることはない。
 ちなみに、現行法(学校教育法)を確かめてみる。詳細はここ

2.児童生徒の問題行動への適切な対応

小学校及び中学校の出席停止については、(1)他の児童生徒に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為、(2)職員に傷害又は心身の苦痛を与える行為、(3)施設又は設備を損壊する行為、(4)授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、を繰り返し行う等性行不良であって他の児童生徒の教育に妨げがあるときに命ずることができることとし、要件の明確化を図る。
また、出席停止を命ずる際には、保護者の意見の聴取を行う等、手続の明確化を図る。
さらに、市町村の教育委員会は、出席停止の期間中の児童生徒の学習の支援その他の教育上必要な措置を講ずるものとする。(第26条関係)

 現在の法令でも、心身の苦痛を与える場合は出席停止を命じることができる。
 しかし、なかなか適用されることがなかったから「きちんと適用していじめを防ぎなさい」ということなのだろう。
 「いじめ」の加害者は許されないぞ、という通達である。
 このようなニュースが流れることで、抑止効果が期待できる。
 ただし、「いじめ」の加害者が、警察できちんと事情聴取・補導・逮捕されるシステムが望ましい。教師は自白を強制するような権限(懲戒権)はないからである。
 教員採用試験で勉強したように、法務府の見解(「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」)の中に次の項目がある。

(オ)盗みの場合などその生徒や証人を放課後訊問することはよいが、自白や供述を強制してはならない。

 さて、上述したように、出席停止を命ずる際は「保護者の意見の聴取を行う」とある。
 ということは、出席停止を了承してもらおうと教師が連絡をした時に、保護者が次の形で拒否したら話が進まないということになるのだろう。
◆うちの子は「いじめ」をやっていないと言っている。「いじめ」たつもりはないと言っている。
◆以後気をつけるから、許してほしい。

  つまり、
1)被害者が、いじめの事実を認める
2)加害者も、いじめの事実を認める
3)加害者の保護者も、いじめの事実を認める
4)教育委員会が、いじめの事実を把握している


の4つが揃わないと「出席停止」にはならないということだ。
 ということは、逆に「出席停止」させられるほど「いじめ」の実態が明らかならば、わざわざ「出席停止」という手段を用いなくても、解決の方法はたくさんある・あるいは、いじめが既に解決に向かっているということなのである。

 今、問題なのは
1)自殺するまで被害者が誰にも打ち明けないような「いじめ」がある。
2)加害者に、被害者を苦しめているという自覚のない「いじめ」がある。
3)「いじめ」の実態が双方の保護者まで把握できていない場合がある。
4)「いじめ」の事実が学校全体や教育委員会まで伝わらない場合がある。
というようなケースなのではないかと思う。
 これでは「出席停止」の適用は夢のまた夢だ。
 「出席停止」の実行は容易ではない。
 でも、このような方法があることを知って救われる子もいるのだろう。
 法で守られているから安心してね、というアピールで救われる子もいるのだろう。
 あれこれケチをつけて、いじめ対策を否定することでは、被害者は救われない。
 その点において「いじめ加害者は出席停止」という方法に賛成である。
 

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November 25, 2006

「出口式 論理力ノート」PHP

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コンビニで買った本。
ビジネス書扱いだったのでコンビニに置かれていたのだろう。
出口氏の「論理エンジン」の受験参考書は何冊か買ったが演習形式なので少々つらかった。
こちらは、受験国語のような詳細な読解力の解説でなく、論理的思考のススメである。
 「図解」なので、左が解説、右が図解。
 厚さもぺらぺらなので1000円は少し悔しいが、手元に置いておくと便利だろうと判断した。
 第1章の1が「論理とは『他者意識』から生まれる」、2が「『自立心』が論理力を発達させる」
 この2ページだけでも価値があった。
 
 保育園・幼稚園に入ると自分の気持ちをわかってくれない相手(他者)・自分の思い通りにならない相手(他者)の存在を知る。そうなると、必然的に筋道を立てて説明しようと思う。だから、そこに「論理」が生まれる。

 他者を意識し、他者に向かって筋道を通す。それが「論理」である。
 だから、依存心が強い子供は、論理を扱うことができないのだ、と書いてある。なるほどなあ。
 逆に言うと中学校に入っても、我を通したがるような子は他者意識に欠けていて論理的な思考も不十分なのだ。思い通りにならないとすぐ切れたり、押し黙ったりして泣いたりして、自分を表現できず、相手を説得することもできない子が確かにいる。
 斎藤孝さんの講演で聴いた「論理的な人は冷たいという人がいるけど、論理的な思考ができる人ほど思いやりがある」と通じるものがある。
 まだ十分読んでいないが、パラパラめくって目に飛び込んでくる見出しや図解を観るだけでワクワクしてくる。
結構、今まで自分がやってきたことと相通じる点があるようで、読了が楽しみである。

(注 11月27日 P18に「1冊の参考書で現代文の新しい考え方がわかり、新たに出発することはできる。それはあくまで出発であり、何度も繰り返し練習することで、初めて論理に習熟できるようになる」とある。読了しただけでは習熟はできないことも指摘されている。「わかる」と「できる」は大違いといったところか)。

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「教育基本法」について学習しよう(2)

 参議院の審議の詳細は、なかなか1新聞だけでは把握できない。
 ネットでいろいろ検索してみると、伊吹文明文部科学相は24日午後の参院教育基本法特別委員会で次のように述べたということだ。

◆「国会で決めた法律は、国民の意思で全体の意思だ。これと違うことを特定のイズム(思想)や特定の思想的背景を持ってやることを禁止しているのがこの条項だ」
◆「政治結社、イズム(主義)を持っている団体の介入を排除する」
◆「国権の最高機関である国会が定めた法律、その法律の一部を構成する告示、つまり学習指導要領ですね。
これで行われる教育というのは『不当な支配』に当たらないということを、今度の法案で明記している」
◆法律や政令、大臣告示などは「国民の意思として決められた」ことに含まれる。

 9月の東京地裁判決では、国の学習指導要領に基づき国旗掲揚・国歌斉唱などを強要した都教委の通達や処分が「不当な支配」にあたると判断された。
 しかし、教育基本法の改正案では、君が代の強制は「教育の不当な支配」に当たらないという考え方を示したことになる。

 これが「教育への国の介入が強まる」「文科省の権限強化につながる」という反対者の見解につながる。
 反対論者の「論理」は分かる。
 だから、反対論者の発言も、しっかり読んでいきたいと思う。
 
・・・ところで、学習指導要領に基づく教育の強制に反対する人たちは、高校の世界史未履修問題で、どうして受験生の立場・現場の立場で反論しなかったのだろうか。
 どの教科をどれだけ授業するかは、各高校の裁量に委ねられるべきだ。
 補習70時間などという強制は「不当な支配」だ。

 そう言って、受験生の味方になってくれる発言はあったなら、僕はそんな団体にエールを送ったのだが。

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「教育基本法」について学習しよう(1)

 教育基本法改正の何が問題になっているのか。
 そんなことも知らずに教師をしているのも当事者意識に欠ける。
 国会でも市民集会でもいろいろ騒がれているのだから、何が議論の的か理解しておく必要がある。
というわけで、「教育基本法改正」についての「ひとり学習会」を開くことにする(笑)。
 現行法と改正案の比較表なども参考になります→ここ

 11月22日に実質審議入りした参院教育基本法特別委員会で、「不当な支配」の表現が焦点となった。
 民主党の佐藤泰介氏「『不当な支配』とは誰の誰に対する支配か」と追及したのである(ちなみに佐藤議員は教師出身であり、愛教組が支援しています)。
 
「不当な支配」・・・
 分かる人には分かる、分からない人には分からない論点だ。
 現行法では、次のように記されている。
第10条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

文部科学省HPの解説によると「 第1項は、教育と国民の関係を規定したもので、教育が国民の信託にこたえて、国民全体に対して直接責任を負うように行われるべきであり、党派的な不当な支配の介入や、一部の勢力の利益のために行われることがあってはならないことを示したものである。」
とある。
 これに対し、改正案第16条は
(1)教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担および相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならないこと。とある。
 この差異が分かるのは、かなりマニアな人で、多くの人はスルーしてしまう。
 しかし、改正反対論者にとって、この部分はとても重要な意味を持っている。
 あらかじめ言っておくが、わたしは今のところ改正反対論者ではない。
 
 改正案では「不当な支配に服することなく」のあとに「教育は法律の定めるところにより行われる」との表現を盛り込んだ。
 伊吹文明文部科学相は24日午後の参院教育基本法特別委員会で、
「教育は、法律の定めるところにより行うべきもの」の規定について「国会で決めた法律は、国民の意思で全体の意思だ。これと違うことを特定のイズム(思想)や特定の思想的背景を持ってやることを禁止しているのがこの条項だ」と述べた。
 何が言いたいのか。
 何が問題なのか。
 私なりの表現に置き換えると
 佐藤氏は「現行法では『不当な支配』とは、国家の不当な支配の事を指すはずだ」と指摘しているのに対し、
大臣は「法に従わないものの圧力が『不当な支配』だ」と明言したのである。
 よって、ここにおいて、「不当な支配」の主が全く逆であることが明らかになったのだ。
 現行法と改正案では、ほとんど差異のないように見える第10条だが、意味が全然違う、ということを、佐藤議員は「誰の誰に対する『不当な支配』か」と問いただしたのである。
 大臣のこのような見解に対しては「詐欺」「スリカエ」だという意見がある。 
 
 「不等な支配」の主語は公権力など。

 現行法ができた経緯からすれば、元々「不当な支配」の主語は公権力だったのだろう。
 そもそも教育基本法は、戦前の教育が国家権力の圧力に屈して軍国主義教育をもたらしてしまったことの反省から成立したものだから、そのような国家の不等な支配を禁じたのである。
 ところが、さまざまな団体が、国や文部省の指導に対して、「不当な支配」という言葉を用いて批判したり、拒否をしてきた。
 そうした批判の一部があまりに過激であったため、今度はその公権力を批判する団体こそが「不当な支配」になってしまった。
 世直しのために立ち上がった殿様が、いつしか暴君になってしまうようなものか。
 戦後60年である。「不当な支配」の主語が変遷してしまったとしても不思議ではない。
 あらたな勢力が「不当な支配」をしているなら、その勢力からの「不当な支配」を排除するのは、国家(行政)として当然の行為である。
 だから、私は「不当な支配」の主語が現行法設立当初と異なっていても、そのことは批判の対象にはならないと思う。大切なのは、現在「不当な支配」をしている勢力があるかないかなのだから。
 もちろん、文部科学省は、そのように主語が変わっていった経緯を詳しくは言わないだろう。
 どういった勢力が「不当な支配」なのかをいちいち断言すれば、ますます糾弾されるからだ。
 いつの時代においても「党派的な不当な支配の介入や、一部の勢力の利益のために行われることがあってはならないこと」が最重要なのである。

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November 23, 2006

がんばれ! 「ワールド」~正社員化~

11月21日の中日新聞夕刊に「ワールド パート5000人を正社員化 優秀な人材を安定確保」というニュースが載った。
ワールドはアパレルのメーカーである。
読売オンラインには下記のようにあった。
 

アパレル大手のワールドは21日、販売子会社の契約社員やパートの販売職約6000人のうち約5000人を正社員にしたことを明らかにした。
 これにより、約1万1000人の販売職のうち、正社員は9割の約9700人を占めるようになった。給与や福利厚生費などで年間22億円(2007年3月期)の費用負担増加が見込まれるという。
 百貨店などの店頭で販売に当たるアパレル販売職は非正社員が一般的だ。しかし、景気回復に伴い大型商業施設の出店が相次ぎ、販売職の確保が難しくなっている。ワールドは、正社員への登用を拡大することで優秀な人材の確保を図る。
 ワールドの対応は、同業他社や他業界にも影響を与えそうだ。
(2006年11月21日23時38分 読売新聞)

 4月以降の新規採用者を含め、正社員化で人件費は年間約22億円膨らむが、これから予想される人手不足を見込んだという。
 寺井社長は「人材の取り合いが始まっている。一生の仕事として取り組んでもらえるためにも正社員が望ましい」と、大量正社員化の狙いを説明した。
 「優秀な人材確保」という理由がうれしい。
 しかも、6000人の非正社員のうち希望した5000人が正社員になれたと言う。
 以前紹介したソフトバンクの場合は新規採用の方はコストが安いという理由だったが、今回は、正社員の方が会社のためになるという意味が強調されている。
 「優秀な人材を長期にわたって確保することが必要と判断。安定的な雇用を確保することで社員の意欲向上も図り、競争力強化を目指す(中日新聞夕刊より)ともある。
 しかも、今後も、新規採用は原則正社員とする考えで、9月末の販売職の正社員比率は約88%だという。よく分からないけれど、すごく高い数字ではないだろうか。

 「同業他社や他業界にも影響を与えそうだ」という推測もうれしい。
 このような報道がきっかけで「ワールド」のような正社員志向のメーカーに人材が集まれば、ますます他社も追随せざるを得なくなる。
 そうなると正社員比率などを法律で規制しなくても、企業は自主的に正社員比率を上げざるを得なくなる。
 がんばれ! 「ワールド」!
 22億円の負担増がチャらになるほど、この件で話題になって宣伝効果を上げてほしい。

※ ちなみに、中日新聞では、このワールドの記事の隣が郵政公社の早期退職者の記事で、早期退職希望者の穴埋めで「アルバイトの増員や職員の残業などで対応するとしている」とある。
 なんとも正反対の記事だなあと思う。

※求人広告などで「正社員登用制度有り」というフレーズをよく見かける。「制度有り」だけでは実情がわからない。ワールドのニュースのすごいのは、6000人のうちの希望者5000人が正社員になったという割合の高さである。

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November 20, 2006

言える立場の人、言えない立場の人

 先週、東京都知事の石原氏が「いじめ自殺予告」の手紙について、あれは大人が書いたものだと思うという発言をした。
 

いじめが原因で「11日に自殺する」との手紙が文部科学省に届いた問題で、石原慎太郎都知事(74)が10日、「あんなのは大人の文章だね」と手紙が“偽物”であるとの見方を示した。また石原知事は、いじめを苦にした自殺が相次いでいることについて「甘ったれている」などと指摘。問題解決のために「もうちょっと親がしっかりしたらいい」との持論を述べた。文科省はこの日、自殺を示唆する手紙が新たに5通届いたと発表。自殺の決行日とされる11日、東京都豊島区では、管轄の3警察署が“厳戒態勢”をしくという。
 文科省に6日に届けられた「いじめが原因の自殺証明書」について、石原知事が信ぴょう性に疑問を投げかけた。
 「あんなのは、大人の文章だね。愉快犯っていうか。今の中学生にあんな文章力はない。理路整然としていて。私は(本物とは)違うと思う」

 大胆な発言である。
 もし、本当に子どもが書いていたら、その子はどう思うだろうか、を想像したら、ひょっとして大人が書いたのではと思っていても、なかなか口にできないものである。
 と思ったら、知事の発言が「さらに自分を追いつめることになりました」などと書かれた自殺予告はがきが知事あてに届いたというニュースも流れた。そのような反響は当然予想されることだ。だから誰も何もいえなかったのだ。
 ちなみに、その後、別の地区の自殺予告の手紙は大人のねつ造だったということで逮捕者が出た。しかも教員だった。したがって実際に大人のねつ造作品が他にもないとは言えない。

 教師の立場では口に出せないことがある。
 たとえば
「学校だって大変なんです」
「いじめの犯人探しは難しいんです。加害者は認めない場合も多いですから」
「きつく叱れば解決するとは限らないんです。仕返しもあれば、かえって陰険ないじめになるケースもあります」
ということは、教師の言い訳・弱音になるから、なかなか表に出てこない。
 もちろん、このような言葉を持ち出して開き直って責任逃れをする教師がいるかもしれない。

 マスコミが、おそらくできないこと。
 たとえば
・遺書に名前の載った子どもに直接インタビューする。
・遺書に名前の載った子どもの親に直接インタビューする。
・自殺するまで全然いじめに築かなかったという親に直接をインタビューする。
ということは、なんとなくタブー視される。校長先生や担任の会見では、しつこく責め立てているくせに・・。
 まあ、それはやらなくていい事だし、別にやってほしいとも思っていないが。

 私は教師の立場だから「いじめられる側には問題はない」と言い切る。
 その方針で指導をする。
 しかし、私が親の立場なら話は違う。
 自分の子どもがいじめにあっていて、我が子にいじめられるだけの落ち度があると分かったら
「お前だって悪い。そんなのいじめられて当然だ」
と言う。言うというよりは叱る。
 我が子のふだんの言動の中でわがままぶりが見られたら
「そんなこと学校でやっとったら、みんなに嫌われるぞ」
「お前なんてそのうち仲間はずれになるぞ」
と言う。言うというよりは叱る。
 これは、親の立場だから言うことであって、学校でいじめられている子には絶対に言わない言葉である。
 
 以前も書いたが、我が子が一方的に暴行を受けたら、学校を通さずに、直接相手の家に行く。あるいは警察に被害届を出す。
 しかし、教師の立場だったら、双方の本人・保護者を学校に呼んで「謝罪・和解の場」を設定する。直接ご家族同士で話し合ってほしいなどとは絶対に要求しない。直接交渉をしてもらっても構わないが、学校がそれを要求することはできない。そこまで双方の家庭に頼ってはいけないのだ。

 お互いの立場を想定することが「思いやり」である。
 今の大人の社会に、相手の立場を想定する「思いやり」の心はあるか。

・相手には相手の立場があり、事情がある。
・思っても口にしてはいけないことがある。
・思っても相手に期待してはいけないことがある

 このように場の雰囲気や相手の感情を斟酌(しんしゃく)し、自分の言動をコントロールできることが、「いじめ」のない風土を築く大前提になる。
 自分の権利だけを主張する、言いたいことは言っていい、やりたいことはやっていい、という風潮は、どこかでひずみが来る。例えばそれが「いじめ」なのである。

※「斟酌する」なんて言葉を初めて使ってみた。PCだからいいけど、手書きでは書けない熟語だ。
 「斟酌する」という言葉を知らないから「相手の事情・心情を汲み取ること」ができないわけではない。
 でも、中学生には、どこかで教えておきたい表現だと思う。

しんしゃく 【▼斟酌】大辞林 第二版より

(名)スル
〔「斟」も「酌」も汲(く)む意〕
(1)相手の事情・心情などをくみとること。
「相手の立場を―して裁定を下す」
(2)手加減すること。手ごころ。
「採点に―を加える」
(3)条件などを考え合わせて、適当に取捨選択すること。
「虚心にこれを―商量すべきことなり/西国立志編(正直)」
(4)遠慮すること。ためらい。
「―せず推返(おしかえ)し言へば/五重塔(露伴)」
た。

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November 19, 2006

夕張市の保育料~ところで幼保一元化は?~

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レビのニュースで聞いただけなので不確かではあるのだが書き留める。
聞きまちがえだったらごめんなさい。
財政破綻した夕張市ではさまざまな公共料金が値上がりし、保育料も12万円になるのだと聞いた。
保育料12万円?
そんなにしたら、ちょっとした仕事に出ているお母さんは、働いている意味がない。
聞きまちがいかと自信がなくなるほどの驚きの数字だが、ネットではなかなか数値まで調べられなかった。
(11月25日、どうやら保育料12万円は年間の負担増の金額のようでした。それもテレビの一瞬のニュースで確かめられなかった。負担増の一覧表を載せておきます。クリックすると大きくなります)
ちなみに、少し古いデータでは次のように紹介されている→元はここ

他にも「少子化対策」としては、認可保育園の月額保育料の値下げ。
東京都渋谷区では、昨年4月に、月額保育料(所得税30万円の場合)を
22,600円から11,300円に下げました。
これは全国で一番安い月額保育料だそうです。

逆に最も高い財政破綻した夕張市では53,500円。
その差、53,500円ー11,300円=42,200円
年間で、42,200円×12月=506,400円
3年で、506,400円×3年=1,519,200円
車が買えちゃいます。。。

まー地域性もありますから単純に比べるのはどうかと思いますが。


 逆に驚いたのが渋谷区の11300円。
 日本人って、いろんなところで均一のサービスを受けていると思いがちだけど、実際はすごく違うんだな。
 ただし、保育園や幼稚園というと、どのくらい「入りやすいか」というのも問題で、いくら安くても倍率が高くて入園できなければ意味がない。自治体によっては「入園待ち」の子どもがたくさんいて、「待機児童」の問題もかなり深刻だとか。だって入園させられなかったら仕事が続けられないわけだから深刻である。
 保育料の金額によっては、容易に保育園に行かせられない、という事態が生じ、
 保育園・幼稚園の混雑具合によっては、入れたくても入れられないという事態が生じる。 
 そして保育園・幼稚園というのは、実際はかなりさまざまな方針の差異があり、育てられ方に差異が生じる。

 そのようにお金の問題や人数制限の問題で保育園や幼稚園に入るか入らないか(あるいは、どこに入るか)が左右されてしまう。
 日本の幼児教育は、それほどお粗末なのか。
 そもそも保育園は教育機関でさえない。保育園と幼稚園の一元化は今回の教育基本法の改正では何の話題にもなっていない(ようだ)が、本当はもっと真剣に考える時期に来ている。
 義務教育は小学校からだからといって、それ以下の年齢は放置しておいていいのか。
 小学校より小さい子どもだって社会性を養うために何らかの集団生活を営んでおいた方がいいのは明らかである。自由保育などと言う聞こえのいい方針で放し飼いにされてはたまったものじゃないが、そもそも保育園は学校ではないから教育的な配慮を要求をしても意味がない。
 他方、幼稚園・保育園の問題は「少子化対策」の問題でもある。子供を安心して預けられるシステムがないと第2子・第3子を育てることは困難だ。
 国が掌握する教育の基本的な制度という意味では、「愛国心」の議論よりもっともっと大事な問題だと思うのだが・・・。「厚生省と文部科学省の間でもめている」というようなくだらない理由で棚上げされていないことを祈る。

幼保一元化の話題

◇幼保一元化

 学校教育法(文部科学省)に基づく幼稚園と、児童福祉法(厚生労働省)に基づく保育所の機能を一体化しようという動きのこと。親の就労の有無で利用できる施設が限定されることへの不満に加え、都市の待機児童の増加、地方の過疎化・少子化による子ども集団の小規模化を解消する狙いも。子育て不安に対応した相談や親子の集いの場も提供する。これらの機能を備えた施設を「認定こども園」とする法案をつくるため、国は35園の先行例を検討する総合施設モデル事業を今年度実施。今国会で法案が可決されれば、今秋から施行される。

毎日新聞 2006年3月23日 東京朝刊

 http://www.nri.co.jp/news/2005/050222.html

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/05/post_21.html

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20060101ur01.htm

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『いじめの構造を破壊せよ』

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 向山洋一氏の『いじめの構造を破壊せよ』は、1991年初版、今回入手したのは2006年3月17版である。
 実家にあるはずだが、取りに行く機会がないので注文した。
 月刊雑誌『小学校学級経営』の連載時も含め、読んだことがある内容であるが、やはり大切な部分がたくさんぬけ落ちていた。もっともっと早く目を通しておくべきだった。
 これまでの「いじめ」のブログで、本書関連の部分があれば、追記を入れようと思う。
 
 「いじめの構造」の破壊。学校・学級のシステムとしてどう対処していくかを示している。 
 でも、もっと特筆すべきは「教師の対決姿勢」である。
 目の前でいじめがあったとき、差別があった時、子どもとどう戦っていくかが冒頭に描かれている。
 それは、まさに「戦い」であり「対決」である。
 いじめを解決するには、教師が本気になって「戦い」を挑まなくてはいけないことが書かれてる。
 ささいないじめや差別の現場を見かけたら、それは「緊急事態」である。
 授業を中断してでも勝負をかけねばならない。
 そうした教師のエネルギーなしにいじめはなくせないし、いじめの構造はなくせないのだということがヒシヒシと伝わってくる書籍である(具体的な引用は、またいずれ)。 
 

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November 17, 2006

「いじめ」を超えた非道な行為

相変わらず「いじめ」を越えた非道な行為は起こり、そうした行為による自殺が起きている。
 どこの、とは書かないが、以下のようなニュースも報じられた。
 

同校などによると、男子生徒は14日、4時間目終了後の校内清掃中、女子を含む生徒数人の前で級友の男子1人にズボンと下着を下ろされた。仲の良い同級生に「女の子に見られたことがつらかった」と話していたという。

 「人に言えないいじめがあると思え」ということで、以前書いた。重松清の『ナイフ』に見られる読むに耐えないいじめの描写にも触れた→ここ
 それにしても、男として思う。
 人前でズボンと下着を下ろされるという行為がいかに屈辱で辛いことか。
 その時居合せた生徒は教師に言わなかったのか、言えなかったのか(もちろん「やめろ」と言えれば一番いい)。
 少年は「見られた」ことがショックだったのだ。
 事件が起きたのが4時限目終了後。下校まではまだかなり時間があったはずだ。
 「見た」子や居合わせた子が、その子をフォローしたりケアしたり教師に相談できなかったのかと思うと残念でならない。
 「いじめ」や「非道な行為」の被害者が教師に相談できないことはある。
 そんな時には、周りの子が教師に相談できないのか。
 そうでないと結果的に傍観者も加害者になってしまう。
 被害者が自殺した時、傍観者も一生その事件を背負わなければいけなくなる。
 加害者に覚悟がいるように、傍観者も覚悟がいる。
 傍観者が立ち上がらないと「いじめ」や「非道な行為」は解決が、難しい。
 傍観者になる大多数の子供たちよ、被害者の自殺を止めるのに協力してほしい。 

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November 13, 2006

いじめの起きる原因

寝ようと思っていたら日本テレビの「ニュースZERO」で見過ごせない報道があった。
いじめの起きる原因などについての世論調査結果だ→ここ

日本テレビではいじめの起きる原因などについて、週末、世論調査を行った。
 調査によると「社会全体の道徳・モラル低下」をいじめの原因に挙げる人が45.7%と最も多く、次いで「家庭教育の不足」が28.5%、「学校・教師の不適切な対応」が13.5%だった。

 また、小中学校で指導力不足の教師が増えていると感じている人は70.4%に上っており、そのために必要な措置として「教員資格を更新し、解雇もできる制度」と答えた人が40.5%、「現役教師の研修制度充実」が24.7%、「教師を増やし複数で対応」と答えた人が14.0%となっている。

 これほどの学校バッシングの中の調査にも関わらず、いじめの原因に、45.7%の人が「社会全体の道徳・モラル低下」を挙げている。そして「学校・教師」は13.5%。
 それは世の中の人たちは冷静にマスコミ報道を見ているということか。
 どこかで「もぐら叩き」という比喩を聞いた。
 いまは、たまたま「学校でのいじめ」という非常識な行為(非道な行為)がクローズアップされているが、それ以前は役人の不正があり親子殺人や幼児虐待があり、飲酒運転による死亡事故があった。 
 子どもにだけズルはするな、不正はするな、正しく生きろ、というにはあまりにも世の中が異常事態である。時事問題に強くなるためにニュースを見ろなどと中学生に言えない。
 僕は当事者だから言う気はなかった。
 誰かが「教師ばっか責めても仕方ないよ」と言うのを待っていようと思った。
 でも、学校への風当たりは強いままである。
 ならば、おこがましいが、自分から言うしかない。
 教師が卑屈になってはいけない。
 全ての責任を教師が背負う必要はないのだと・・・。

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がんばれ!ノコギリ屋根の織物工場

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 私の住む一宮市の地元誌「CITYー1」の137号の「近代を築いた産業遺産」という特集にひかれた。
 私の家の周りにも見られる「ノコギリ屋根の工場」については、次のような解説がある。

一宮地方の人たちは、遠い昔、木曽川の水流とのたたかいの中から、逆境を利用し、危機に面するたびごとに、絹から綿へ、さらに絹綿交織へ、そして毛織物へ、ウールラインへと、見事に転換し発展を遂げてきた。そうした経緯の中で建てられたノコギリ屋根の工場は、多い時には3600以上もあったといわれますが、現在は600前後が残っていると思われます

 ノコギリ屋根は、南側がななめになっていて、北側が切り立っている。
 その北側の屋根の部分にはガラスが、はめこまれていて採光の役割を果たしている。
 南からの光は時間によって変化するが北側の光は安定しており、織物の仕上がり具合・色あいを確かめるのにちょうどいいのだそうだ。前述の雑誌には「電気が豊富になった現在でも、反物の出来不出来については一日中変化の少ない柔らかい『北光線』のもとでおこなわれていると聞いています」とある。
 なるほどね、私自身は、この町で生まれ住んだ訳でじゃないので、そんな深い意味があるとは知らなかった。
 ノコギリ屋根の工場は現役で、ガッシャンガッシャンと響いてくる。 
 かつては「ガチャ万」と言われ、1回ガチャンとやると1万円になったというほど景気のよかった町である。
 そんな時代を知らない私にとって、この付近はのどかだが、さびれた雰囲気があることは否めない。
 歴史があるんだなあ。がんばれ「ノコギリ屋根」!

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惻隠の情(そくいんのじょう)

 自宅を整理していたら、日付はないがJR福知山線の事故に関する中日新聞のコラム(中日春秋)の切り抜きが出てきた。

井戸に落ちそうな子どもがいるとする。目撃した人はとっさに駆け寄って、子どもを助けようとするだろう。性善説を唱えた孟子はそんなたとえ話を用い、こうした人の心を「惻穏(そくいん)の情」と呼んで道徳心の根元においた。ほめられたいからではなくて、他人の不幸を見過ごしにはできない本性が人間には誰にもあると、説いている。

 広辞苑の入った電子辞書によると「惻穏」は

孟子(公孫丑上)「無惻穏之心、非人也」
いたわしく思うこと。あわれみ    「・・・の情」 あわれむこと

とある。「惻穏の心なきは、人にあらず」ということになろうか。
 恥ずかしながら初耳の言葉だった。(切り抜いたときに知ったはずだが忘れていた)。
 人の不幸にいてもたってもいられない人間の本性か・・・。
 「惻穏の情」は、本来は誰にもある本性なのだろうか。
 「何もそんなことお前がやらなくたって、誰かがやってくれるよ」と過保護な親が引き留め、
 「別に俺がやらなくたっていいか」と子どもも自分で自分を納得させる。
 そのような風潮の中では「惻穏(そくいん)の情」も、ほとんど死語になったと言えるかもしれない。
 ちなみに、次の言葉も同義語になろうか(こちらは知っていた)。

義を見てせざるは勇無きなり
「論語(為政)人の道として当然行うべきことと知りながら、これを実行しないのは、勇気が足りないというものである

 それでも、悲観するばかりではいけない。
 「俺がやってやろうじゃないか」という意気込みを見せてくれる人は今もたくさんいて、世の中は回っている。
 そのことをかつて「愛国心」「自己犠牲」「思いやり」「日本人の気概」という観点でまとめたことがある→ここ
 そのようなキーワードに「惻穏(そくいん)の情」も加えれられるということだ。
 
 教育基本法の改正で何かと「愛国心」という言葉がやり玉にあがる。
 相変わらず「愛国心は教えられるものではなく、自然に育つものだ」という改正反対者の言い分が新聞に掲載される。
 「愛国心」や「自己犠牲」ではマイナスイメージが強すぎると言うことなら、関連キーワードである「思いやり」「気概(自信)」「惻穏(そくいん)の情」といった言葉をアピールすれば、あらぬ批判を受けなくてすむのになあと思う。
 学校で「心の教育」をしなくてもいい、と思っている人は誰もいないはずなだから。

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「どうやって謝るか」のスピーチ

「どうやって謝るか」のスピーチの実践報告も「いじめ」のカテゴリーに入れる。
うまく謝ることも、大事な生きる力(処世術)なのである。

◆僕は友だちに謝る方法について発表します。手紙や次の日に謝るという意見があったけど、ぼくはその日にあやまることが相手に気持ちが伝わりやすい方法だと思います。理由はすぐ謝れるし、相手の気持ちも分かるからです。次の日だとすぐ謝れないし、手紙だと相手の様子が分からないから誤解して気まずくなることもあると思います。電話だと相手が出ないと伝わらないという悪い点があるけど、やっぱり自分の口から早く謝った方が一番気持ちが伝わると思います。ぼくがもし口げんかをしたら電話で謝ると思います。ぼくはこの方法をおすすめします。
 これで僕の発表を終わります。

◆ぼくは友達に謝る方法について発表します。ぼくは次の日に会ってあやまるが一番いいと思います。なぜかというと、手紙やメールだと読んでもらえないかもしれないし、電話だと出てもらえないかもしれないからです。また、次の日だと落ち着いていて許してもらえる可能性があるからです。その日だとまたけんかになるかもしれないからです。さらに手紙みたいに手間もかからないし、電話みたいにお金もいらないということもあるからです。
授業の時にけんかしたから話しにくいというのがあったけれど、M君の意見であったように直接話すのでいやだとは言えないし、気持ちが一番伝わりやすいので、そう考えると話しにくいというのはなくなると思います。
このようなよい点から、友だちにあやまる方法は次の日にあやまりに行くがいいと思います。
これで発表を終わります。

・・・手紙を選んだ子もいるし、メールを選んだ子もいる。それはそれでいい。
それぞれの意見の長所・短所を考えて最終的な自分の判断を下すその過程で
「自分の意見だけが正しい」と考えるのではなく
「そういう考え方もあるんだな」と許容することができたらすばらしいことだと思う。
自分の価値を絶対視したり強制したりすることの無意味さをデイベート的な発想が育んでくれるのだとしたら、まさに国語の授業が心の教育になる。

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November 11, 2006

「ハッピーバースデー」青木和雄

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出版社/著者からの内容紹介
実の母親に愛してもらえず、誕生日さえ忘れられてしまった11歳の少女・あすかは、声を失ってしまう。しかし、優しい祖父母の元で自然の営みに触れ、「いのち」の意味を学ぶ。生まれかわったあすかがどんな行動を起こすのか。そして、母親の愛は戻って来るのか…リアルな展開に、5頁に一度は、涙が噴き出る物語。

内容(「BOOK」データベースより)
「ああ、あすかなんて、本当に生まなきゃよかったなあ。」自分の思い通りに成長した長男に比べ、できの悪い娘あすかに容赦ない言葉を浴びせる母静代。しかし静代の見せかけの鎧は、職場の年若い上司なつきによって徐々に剥がされていく。愛に餓え、愛を求めて彷徨う母娘の再生の物語。

 学校の図書館にあった本。今年の夏の読書感想文でも数点あった(コミックもあるらしいので、そちらを読んだのかもしれない)。100万人が泣いたなどというコピーも踊っている。
 次から次へと主人公あすかに不幸が訪れる。だからといって「5頁に一度は、涙が噴き出る物語」とは・・・。
 
 不幸が訪れれば訪れるほど、先を読みたくなる。ストーリー展開が激しくて、いっき読みしたくなるタイプの本だから、中学生が好んで読むのは、よく分かる。
 ただし、私は好きにはなれなかった。
 作者はカウンセラーで、実話に基づいているというが、道徳の教科書に掲載されるような「できすぎ」な感じがあるからだ。 
 典型的な悲劇に、典型的なハッピーエンド。
 それでも、読みやすさゆえに中学生が喜んで手に取るなら、それでもいいかなと思う。
 読書のきっかけになるなら、コミックでも、映画やドラマの元本でも、お子様ランチのようなお手軽本でもいいと思う。
 「いじめ」問題について考えるきっかけにはなりうる1冊だ。
 「いじめ」問題が騒がれる昨今だから、一度目を通してみる価値はある。

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デイベート型思考の効能

 デイベート型の問題点を述べてきたが、僕はデイベート型の思考でずいぶん助かってきた。デイベートを知って感謝している(というほど学んでいないかも)。
 長所・短所をシュミレートして、双方の立場で物事を考えるなんて事はデイベートで学ぶまでは考えてこなかった。自説の論拠を並べることにのみ意識があった。
 相手に勝つためには、相手の立場で考えてみることが大切で、例えば将棋も相手側の立場から自分の攻め方の是非を考える(それは「メタ思考」なのだとも言える)。
 相手の立場に立って物事を考えることが思いやりの基本ならば、デイベートの訓練は思いやりの心を育てるのに役立つということなのである。

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デイベート型思考の問題点(2)

「けんかをした友だちに謝るにはどんな方法がいいか」
という論題は、ズレが起きる。
 「けんか」という言葉のイメージがさまざまだからだ。
 殴り合いのケンカをした場合と、ちょっとした口げんかでは、謝り方が違うし、許し方も違う。
 今けんかして謝るということなら、別に電話や手紙を使うまでもない。今、直接謝ればいいのだ。
 
 だから、「口げんか」ということでイメージを統一しよう。
 「謝ろうとしたら帰ってしまった。明日学校で会えるけど、どうするか」という状況に統一しよう。

ということにする。
 ただし、実際に授業してみると、これでも不十分だった。
・ 「口げんか」といってもどれくらいなのか。自分の方が悪いのかどうかで謝り方も違ってくる。
・それほどたいしたことのない口ケンカなら、わざわざ家まで行って謝るのは大げさすぎるし相手に迷惑だ。
・ケンカしたのは、いつのことなのかが分からない。
などといった場面設定の不備が質問されてくるのである。
 僕は、このように慎重に疑問を呈する子は「よく考えている素晴らしい子」だと思っている。
  このように論題に対して慎重になることは、とっても大切なことである。
 ぱっと状況を見て、安易に断定するのは危険な行為である。
 マスコミの学校批判も時に一面的・独善的であることが多くて辟易する。
 「いじめ」という言葉で表現してはいけない犯罪行為を「いじめ」と断じたり、一部の保護者や有識者の意見を「総意」のような扱いで流したり・・。
 
 「想像力がある子は思いやりがある」とたびたたび主張しているのは、この意味である。 

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デイベート型の発想の問題点(1)

前回のブログの補足をする。
★「友だちに謝る方法は電話がいいか、手紙がいいか、メールがいいか」
という言い方は、選択肢を限定してしまう。そもそも「直接謝る」という方法が削除されている理由(状況設定)がない。

★「AかBか」で議論して、それぞれの長所・短所を言い合って、それでも再度AかBかで結論を出すのは「意固地」になっている感がある。
 現実的な対処の仕方には折衷案がある。
・「その日のうちに電話で謝っておいて、次の日直接会ったときに「ごめんね」と言いながら手紙を手渡す。
というと、3つの合わせ技になる。これなら、様々な短所を補完できる。

1)他に選択肢はないかを考える。
2)それぞれの長所・短所を考える
3)組み合わせたり、新たな改善案を考えてよいことを話す。

・・・そのような拡散的な思考ができることが、自分の視野を広げたり、相手の立場を思いやる心を育てることに役立っていく。
 齋藤孝さんの講演で「客観的な思考のできる人ほど思いやりがある」という話しを聞いたことがあるが、この意味なのだと理解している。

 デイベートについての私の論考


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November 08, 2006

「どうやって謝るのか」の国語の授業

 中1の国語の単元にグループデイスカッションがあって、「けんかした友だちにどんな方法で謝るか」というテーマが例示されている。
 デイベートのテーマは「あいまいさ」があると、議論がかみあわないというのが僕の持論なので
「口げんかした友だちが帰ってしまったら、どんな方法で謝るか」
という形に条件を設定した。
 教科書の流れでは「電話・手紙・メールなど」で話し合わせる形になっている。
 しかし、である。
 謝罪の基本は、直接相手の目を見てきちんと謝ることだ。
 最初からメールだ電話だ手紙だと逃げるような方法を学校が勧めてどうするのか。
 実際の授業では各自で方法を考えさせたので、子どもの中には、「直接謝る」という方法を書いてくる子がちゃんといた。
 ただし「直接謝る」といっても時期が問題になる。
 「その日のうちに」「翌日学校であった時に」の2通りにあるけど、どっちで考えてるの?などと確認していく。
 「手紙」を選んだ子には「その日のうちか、翌日か」「直接渡すか、ポストや机の中など間接的に渡すか」を明記させる。 そのような枝分かれを考えずに、手紙・メール・電話で選択させるのは混乱の元なのである。
 そして、他の子の意見を聞いて、それぞれの方法の長所・短所を考えさせた。
 繰り返す。
 基本は「その日のうちに、直接会って、きちんと謝る」だ。
 しかし、会ってしまうとうまく謝れないという子もいるので、百歩譲って、自分の心を届けやすい「電話」や「メール」「手紙」などを選ぶことも「あり」とする。
 でも、電話は通じないかもしれないし、受話器を取ってくれないかもしれない。
 メールや手紙は、差出人を見て開かないかもしれないし、届いたことに気づかないかもしれない。
 まあ、そこまで言うと「先生、そんなこと言ったら会いに行っても会ってくれないかもしれないよ」という子が出てくるのでキリがないが・・・。
 現実的には、1つの方法ではうまくいかない場合も多いし、合わせ技で攻める場合もある。
 電話をかけたけど通じなかったから、直接会いに行くとか、
 当日は電話で謝って、翌日顔を合わせた時にきちんと目を見て謝るとか・・。
 そのように、たくさんの方法を列挙し、それぞれの長所・短所をしっかり列挙することが「思考の訓練」になる。
 読んでいて感激した生徒の感想を2つ示す。
=================
あやまる方法は、いっぱいあるけれど、どれもいいな~と思った。メール、電話、直接あやまる、どれもいい所もあるけど、悪いところもいっぱいあるな~と思った。あまりこういうこと考えた事はなかったけど、考えてみると、けっこう大変だった。もし、これが口げんかじゃなかったら、相当考えるだろうな~と思った。でも、口げんかだからあやまりにくいとも思った(大けがさせたら、すぐにあやまれるから)。
==================
全てのものに一長一短があり、決めるのに迷ったが、最後は次の日に会って話した方がいいと思った。このシチュエーションはけっこうあるから話していて楽しかった。やっぱり1人で勉強するよりみんなで話し合った方がいろんな考え方をもった答えが出るから、話すといろいろな考え方ができるようになったと思う。
==================
 1つの方法しか浮かばない子、選んだ方法の短所を意識できない子は失敗する。
 だから、想像力のある子はコミュニケーション能力が優れていると言えるのである。 

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November 06, 2006

齋藤孝の本「そんな友だちなら、いなくたって・・・」

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齋藤孝の「ガツンと一発シリーズ」(PHP)というのが、学校の図書館に入れてある。
その第3巻は「そんな友だちなら、いなくたっていいじゃないか」である。
これは、私がブログで書いたことと、意味合いは同じだった。

齋藤氏の言葉を紹介すると
「ほんとうの友だち以外はいらない」
「ひとりになれない人は、仕事ができない人間だと判断されてしまいます」
「友だちといつもいっしょ、というのはやめよう」
「お弁当ぐらいひとりで食べたっていいじゃないか」
「友だちから仲間はずれにされたら、チャンスだと思えばいい」

 つるまない人=単独者として
・集団から抜けて自分のレースをした高橋尚子選手
・一人で黙々と練習をした中田英寿選手
・小学校の時から友だちと遊ばないで練習したイチロー選手
などが挙げられている。

 「たくさん友だちがいた方が人間的に優れている」わけではない。それが単なる「つるみ仲間」なら、なおさらだ。
 それはバレンタインのチョコの数で人間の優劣が決められないのと同じだ。
 バレンタインのチョコだって、無意味な10個よりも厳選された1個の方が価値がある。
 「友だち100人できたかな」などといった言葉で、人数を競う風潮だけはなくしていきたい。

 ただし、私は、このように友人関係を冷ややかに見られるのは中学生になってからだと思う。
 小学生のうちから「僕は1人で生きていきます」なんて厭世的な発想はしてほしくない。

 教師は「1人でいるからほかっておいて」という子どもの本音を把握しなくてはいけない。
 単なる強がりなら、やはり友達とうまく協調していける方法も身につけさせていかねば。 

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November 04, 2006

「いじめ」に耐えられる人間に育て!

 「いじめ」関連のブログも18本目になった。
 10本程度で終わるつもりだったが、マスコミ報道も終わらなくて、いじめ自殺もまだまだ続いているようで、他の話題に移りにくい。
 とりあえず、今回で終わろうと思う(どうしても書きたいことが1つ残っているが、しっかり調べてからにする)。
 
 「いじめ」はいけないことだし、許せないことだ。
 だから、「いじめ」をやめさせる指導・「いじめ」をさせない指導は当然行っていく。
 しかし「いじめ」は現存し、おそらく簡単にはなくならない(永遠になくならないとはこわくて言えない)。
 ならば、いじめられる側の「いじめ」に耐えられる精神の強さが大切だ。

というわけで、誤解を恐れずに書く。
1)「ひとりぼっち」を恐れる必要はない。
 学校で1人でいたって本でも読んでいれば大丈夫だ。気に入らない友達と無理に話を合わせるくらいなら「ひとりぼっち」で構わない。群れる必要はない。私自身、群れるより1人の方が好きである(「ネクラ」という言葉があてはまるかもしれない)。
 
2)無理して学校に行く必要はない。
3)加害者の名前を隠す必要はない。
4)いじめ・暴力を受けて黙っている必要はない。
 自殺して遺書に相手の名前を書くくらいなら、相手の名前を断言して学校をしばらく休めばいい。
 「加害者が保護者と一緒に謝りに来るまで自分は学校に行かない」
と学校に通告したら、さすがに学校は無視できない。これは保護者が「加害者が保護者と一緒に謝りに来るまで学校に行かせません」と宣言してもいい。
 自分が教師でありながら言うのもおかしいが、このように宣言されたら学校は欠席理由をどう表現するだろうか。「いじめられるから休むんです。、必ずそう書いて下さい。病欠や気分不良や家事都合ではありませんから、そういう書き方をしないで下さい」と言われたら学校はかなり困ると思う。でも、この場合は困らせることが大事なのだ。困らなければ放置される。困るから事態を解決するために重い腰を上げてくれるのだ。
 ちなみに、我が子から「いじめ」の相談があったら、自分なら直接相手の家に行き、
「あなたのお子さんのいじめのせいで、我が子は学校に行けません」
と詰め寄るだろう。我が子とその子との問題なのだから教師は必要ない。

5)私は小さい頃「たーけだ」と言われてきた。「タケダタケダタケダー」とも言われてきた。
 そんなことは、言われて気にすることではない。気にしたら相手の思うつぼだ。無視して心の中でさげすんでやればいい。

4)重松清の小説『見張り塔からずっと』で衝撃を受けたのはマンション住人同士の「いじめ」だった。
 職場での意地悪やいじめは、どこでも起こる。学校にある間だけ「いじめ」が起きるわけではない。 
 自分の心の強さを鍛えておかないと、いつまでもからかわれたり、無視されたりして悩んでしまう。

  「いじめ」に負けるな!
  「いじめ」なんて、どこにだってあるんだぞ。そんなことで死んでどうするんだ。
・・・こんな言い方は公には出てこない。
  だから思い切って、ここで書く。
  まっとうな批判なら喜んで受けようと思う。
     

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November 03, 2006

授業の中でいじめ対策をする

中1の国語の時間。「四字熟語」の指導場面だった。
「針小棒大」という言葉が出てきた。
「しんしょう」と言うだけで、どのクラスも男子を中心にざわつく。
子どもたちにとって「しんしょう」は「身体障害者」の略の「身障」である。
そして、この「身障」は、いじめの言葉・差別の言葉なのである。
子どものざわつきに一言。
「どこのクラスでも『しんしょう』というだけで騒ぐ奴がいる」
むっとした態度を表して言うと、ふっと静かになる。
言ってはいけない言葉と知っていて使っている。
だから、たしなめられれば「まずい」と思う。
このように、授業中のちょっとした場面での指導の繰り返しが大事なのだ。

「針小棒大・・・針のような小さな事を棒のように大きく言うことです」
と解説すると「大げさだ」というような声が聞こえる。
「小さな事を大げさに言いふらすのはよくないよね。トントンと肩をつついだけで殴られたって言われたらたまらないよね」と話し、続けて逆のことも言う。
「でも、中には『針小棒大』の逆で、棒のように大きな出来事を、小さく言う子もいます。さんざんひどいことをしておいてそんなつもりじゃなかったとか、そんな強くやっていないよとか言ってごまかそうとする子です。『棒大針小』ですね。こっちも気をつけないといけません」
 
このようなことは教科の指導内容には含まれていない。
でも、時期が時期だから、いろんな場面で生活指導や生徒指導やいじめ防止の指導を入れていく必要がある。
とりたてて1時間学年集会をして説教するよりも、日常の5秒・10秒の話の方が効果がある。

必修科目の授業をどうするかも大切な問題だ。
しかし、教師の裁量や英断で授業内容を臨機応変に考えていくことも、目の前の子ども達のためには、とても重要な問題である。
必修科目しかやらない、言われたことしか教えないという教師集団になってしまったら、それもまた「教育の崩壊」なのである。

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November 01, 2006

「いじめ自殺」報道の本来の目的は?

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(写真はクリックすると大きくなります)。
 「いじめ自殺」の報道は連鎖を呼ぶから、ということで躍起になってささやかながら、このブログに書き続けている。トータルで1日100ほどのアクセス数だから、発信とはいえ自己満足にすぎない。
 それでも、書かずにいられないのは「いじめ自殺の連鎖」を防ぎたいからだ。
 にもかかわらず、今のテレビや新聞の報道はどうか。
「またいじめ自殺です」
「学校側はいじめの事実を否定しています」
「部活動での仲間外しが原因のようです」

 このような話題を毎日続けたら
「自分も同じようないじめを受けていたから、自殺しようかな」
「自分も加害者の子の名前を書き残して死んだらすっきりするかなあ」

という意識をすり込んでしまう。
 それはいわば「二次被害」みたいなものなのだ。
 そのような負の影響をどこまで意識しているのだろうか。
 「いじめ自殺」の連鎖を防ごうという意識はあるか。
 「いじめ自殺」の連鎖を防ごうといういうのは、いわばマスコミの使命感ではないのか。
 
 有識者のコメントで学校批判や現代事情の批判もいい。
 しかし、できれば「しめ」の部分で

たとえどのような辛い目に遭っていても自殺はいけない。
遺書に加害者の名前を書いたって自殺しては意味がない
自殺すれば、親や親友を苦しめることになるんだ。
いじめは必ず解決できる。自殺は解決法にならない。
自殺しなくてもいじめから逃れる方法は絶対にある

ということを強調してほしい。
 「この子は自殺するほど苦しんていたんだね」という言い方は、一つ間違えば「自殺容認」になる。
 自殺は容認してはいけない。
 少々厳しい言い方になるが「いじめられたからといって自殺してはいけない」ということを指導の基本にしていかなくてはいけない。

====================
マスコミは、いじめの発端となったと言われる教師が自殺すればいいと思っているのか。
遺書に名前を書かれた加害者の子ども達が自殺すればいいと思ってるのか。
加害者の保護者の謝罪より、教師の謝罪の方が重要だと思っているのか。

そのような受け止め方をされかねない書き方になっていることを自覚してほしい。

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