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December 29, 2006

新渡戸『武士道』に惹かれた理由

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 PHP文庫の『武士道』のあとがきに岬龍一郎氏が、新渡戸『武士道』に惹かれた理由を書いている(P200)
 自分の感想と本当によく似ていたので驚いた(氏が「全共闘」という部分は私とは別)。 

じつのところ戦後生まれの私が、武士道なるものに興味をもったのも、この新渡戸稲造の『武士道』を読んからのことである。もしこれが、江戸時代に書かれた封建制を支えるような忠君主義的なものであれば、歯牙にもかけなかったであろう。(中略)
 新渡戸『武士道』を読んで、私は自分の浅学を恥じた。この本は、けっして古めかしい道徳を語っているわけでも
、封建制度の因習を記したものでもなかった。むしろそれは、世界文化と比較しながら格調高く書かれてあり、人間としての普遍的な倫理観を内包した本だったからである。

 また「道徳の神髄 『仁・義・礼・智・信』」という見出しのついた部分がある。
 僕が子供のころ見ていたNHKの人形劇「南総里見発見伝」で「仁義礼智忠信孝悌」という八つの玉を持つ人物が登場した。まあ「仁義」「義理と人情」というと、これも子どもの頃に全盛だったヤクザ映画の常套句である。。
 孔子は「仁・義・礼・智・信」の「五常の徳」と「忠・孝・悌」を合わせた「八つの徳」で人の倫を説いてきたと岬氏は言う。
1)仁=思いやり
2)義=正義の心
3)礼=礼儀・礼節
4)智=叡知・工夫
5)信=信用・信頼
6)忠=いつわりのない心
7)孝=父母を大事にすること
8)悌=年長者に従順なこと
具体的に言うなら、「人にはやさしくあれ」「正直であれ」「嘘をつくな」「卑怯なことはするな」「約束を守れ」「弱い者をいじめるな」「親孝行をしろ」「兄弟仲良く」といったことで、これらの想いを「良心」というのである。それゆえに、われわれはこのモラルを犯すと、良心の呵責に襲われるのである。(P211)
 簡単に「人としての正しい行い」といっても、それは個人的な観念であり、いわば「道徳(モラル)」である。実行しなければ罰せされる法律(ルール)とは違う。法律ならば、してはいけないことが成文化しているので明確にわかるが、自己の観念にもとづく道徳は、人間の内面に据えられた「良心の掟」であり、その規準は個人によって捉え方が異なるからである。(P210)
など、要保存の文章がいっぱいであった。
 私が『武士道』に惹かれた理由も、どこに出しても恥ずかしくない人間としての基本的なモラル(徳)が具体的に述べられていたからだ。
 その事も、あとがきで岬氏次のように解説している(P207)。
 新渡戸の記した『武士道』は、人間としてかく在るべきという道徳規範の本であり、たとえ民族が違っても、人が健全なる社会を築き、美しく生きようとするときの”人の倫”に変わりはなかったからである。
 だから『武士道』の精神を今の教育に活かせばいいのだ。
 でも、そういう言い方をすると『教育勅語』も同じことになる。
 『教育勅語』にマイナスイメージがあるように『武士道』にもマイナスイメージがある。現代人が武士の精神を持つ必要は全くない。
 というわけで、日本人が昔から規範意識の拠り所してきたものは何か、もっとさかのぼってみたいと思っている。

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日本の人口のピーク

 「日本の人口のピークは2004年12月だったことが判明」とラジオで聞いた。
 真偽を確かめたくて、ネット検索したら、読売ニュースがヒットできた。
  http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061227i111.htm

日本の人口ピーク、04年12月の1億2783万人  総務省は27日、日本の総人口のピークは2004年12月の1億2783万8000人だったと発表した。  05年10月の国勢調査の総人口が確定したのを受けて、毎月公表している推計人口を改定した。  それによると、総人口は04年、毎月増減を繰り返しながら、12月に最高になった。05年に入っても増減が続いたが、04年12月の水準を超えた月はなかった。  また、05年10月の国勢調査人口(1億2776万8000人)と比較対象になる04年10月の推計人口は、1億2778万7000人に修正され、1年間で1万9000人の減少となった。総人口には日本に3か月以上在住する外国人も含まれている。 (2006年12月27日22時15分 読売新聞)
 これは、重要な出来事だと思う。  もはや右肩上がりの人口増が見込めないのだ。  日本の税収はだれが支えるのか、高齢社会の問題はどう解決していくのか。  「1人の老人を○○人の若者で支える」といったことをよく耳にする。  そういう不安をあおる話題も多いが、事実を受け入れるなら前向きな話題も必要だ。  働き手がいなくて農地が荒れるともいえるし、農地が余ってくるとも言える。  学校も余ってくる・工場も余ってくる・・・。  今はその程度しか思いうかばないが、僕は日本の転換期を自覚する必要があると思う。 

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December 28, 2006

「エリート」という言葉

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  『国家の品格』の中に、「真のエリートが必要」という項がある(P83)。
 「愛国心」は手垢にまみれた言葉だから使わないと藤原氏は言う。
 しかし、「エリート」は特に違和感も持たないで用いている。
 「旧制中学、旧制高校は、こうした意味でのエリート養成機関でした」とある。実際は「エリート養成機関」でなく、どう呼ばれていたのか気になるところである。
 個人的な見解で言うと、「エリート」という言葉も「愛国心」同様マイナスイメージが強く、十分手垢にまみれていると思う。たとえば「エリート」と言われて誇らしく思う人がどれくらいいるか、心からの尊敬の念を抱いて「あの人はエリートだ」と用いるケースがどれくらいあるかを考えてみればいい。
 ウイキペデイアには次のように解説している→ここ
 よい意味でのエリート養成は必要であろう。
 でも、手垢にまみれた「エリート」では選ばれる人もかわいそうだ。まだ「リーダー」の方がましだ。
 藤原氏が「愛国心」について述べたP115の一説を、そのまま「エリート」に置き換えてみる。
=================
 私は「エリート」という言葉は、意識的に使いません。手垢にまみれているからです。そのかわりに「○○」という言葉を使い、それを広めようと思っています。言葉なくして情緒はないのです。
===================
 「エリート」に代わる適切な言葉はないのだろうか。

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December 26, 2006

「ならぬものは、ならぬものです」

  『国家の品格』の中で、会津若松藩、日新館の「什の掟」が紹介されている(P47~49)。

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
 

  いじめの事件の続いた頃は問い合わせが殺到したのだそうだ。
 「ならぬものはならぬものです」はNN運動とまで呼ばれている。
 ウイキペデイアでも解説がある。 ここ 
 藤原氏は「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です」とある。
 また、別の箇所には次のように。 

 法律のどこを見たって「卑怯なことをしてはいけない」なんて書いてありません。だからこそ重要なのです。
 「卑怯を憎む心」を育むには、武士道精神に則った儒教的な家族の絆も復活させないといけない。これがあったお陰で、日本人の子どもたちは万引きしなかった。
 ある国の子供たちは、「万引きしないのはそれが法律違反だから」と言います。こういうのを最低の国家の最低の子供たちと言います。「法律違反だから万引きしない」などと言う子供は、誰も見ていなければ万引きします。法律で罰せられませんから。大人になってから、法律に禁止されていないことなら何でもするようになる。(P128)
 「親を泣かせる」「お天道様が見ている」「先祖の顔に泥を塗る」という言葉を藤原氏は紹介している。
 「天知る、地知る、我知る、人知る(「後漢書(楊震伝)」より)」という言葉や「恥を知れ・恥ずかしいと思え」「人が笑う」「みっともない」という言葉も同じように自らの行為を規制するために用いられてきた言葉ではないかと思う。
 先日紹介した『歴史街道』の中で(引用元が不確かでくわしく書けない)、ルールとモラルの区別について書いてあった。
 ルールは、その時々で変わりうる。しかしモラルは不変である。だから、大事なのはモラルをきちんと教えることだ、というように。
★同じく『歴史街道』の中で、札幌農学校のクラーク博士の話も書いてあった。札幌農学校にも「あれもだめ、これもだめ」というようにいくつかの校則があった。しかし、クラーク博士がたった1つに絞り込んだのだという。
 引用元が不確かなのでネットで探してみた→ここ 
 着任したクラーク博士が、それまであった校則を拒否して「校則はひとつでよい。それはBE GENTLEMAN(紳士たれ)である」。 このように、博士は技術や知識の習得の前に「一人の人間として育つ」ということ、そして「自由・独立・人間尊重」を教育方針としていました。
 「紳士たれ」と「恥を知れ」は、国柄は違うが同義と言えるだろう。日本の武士も名誉を重んじ、卑怯を嫌った。
 「ならぬものはなりません」は、非論理的だが大事な心得だ。
 何がならぬものに該当するか、何が紳士的で、何が恥かはいろいろである。
 「いろいろ」だから「あいまい」でもある。
 「あいまい」だから「非論理的」でもある。
 屁理屈を言う子どもたちを納得させるのは難しいかもしれない。
 でも、「校則だからきちんと守れ」とだけ言い続ける教師より、「そんなこともできないで大人になれるか」と諭せる教師でありたいと思う。
 それは「校則」だけを盾に語る教師よりは、ぐっとぐっと難しい道なのである。

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関心→認識→知識

 『文芸春秋』7月号が「愛国心論争」がテーマだったので取っておいた。
 石原慎太郎氏の論文の中で目を引く箇所があった(P112)。
 「今の子供たちにいきなり『愛国心を持て』と唱えることがいかに乱暴な話で、いかに短絡的なことかがまったくわかっていない」という文脈の中で、
 

今の子供たちは、さらにいえば子供たちの親の世代に、そういったスポーツの場面を除いて、国に対して心からの「愛着」を持ついかなる理知的な契機があるだろうか。
 愛着なりその逆の嫌悪なりの根底に在るものはその対象への関心に他ならない。関心の前提には認識がある。認識とは、とにかくもそれについての知識を抱いている、ということだ。若い世代にこの日本への愛着が希薄なのは、この国について関心がないから。関心がないのは、この国について何も「知らない」からではないのか。知らなければ、国に対する思い、好き嫌いなど持ちようがあるまい。

と述べている。そして「歴史をきちんと学ぶこと」「母国語をきちんと自分のものにする」ことを説いている。
 きちんと歴史の知識を教えることが国への愛着を育むという考え方は、先日、中日新聞社説でも取り上げられた伊吹文科相の発言とも重なってくる。
 
「学校で歴史的な事実を教えることで、結果的には国を愛する態度が養われてくる」
 歴史教育の必要性を強調した伊吹文明文科相の答弁です。「愛国心は結果」はその通りと思います。
 学校では、各教科で歴史、伝統、文化、風土などをしっかり教えることです。そこまでで十分です。

 この部分については石原慎太郎氏も伊吹文科相も社説氏も私も同じ意見なのである。 

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ナショナリズムとパトリオテイズム

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 『国家の品格』で、藤原正彦氏は「愛国心」を「ナショナリズム(国益主義)」と「パトリオテイズム(祖国愛)」を区別して論じている。
==================
 明治になって作られたであろう愛国心という言葉には、初めから「ナショナリズム(国益主義)と「パトリオテイズム」(祖国愛)の両方が流れ込んでいました。明治以降、この二つのもの、美と醜いをないまぜにした「愛国心」が、国を混乱に導いてしまったような気がします。(P115)
=================

 『文芸春秋』の7月号で保坂正康氏が次のように述べる箇所がある(P107)。その時は、よく分からなかったが、今なら少しは分かる。
 

私は、「愛国心」という言葉に変わる、適切な表現があればいいと思うんですね。愛国心(ナショナリズム)と愛郷心(パトリオテイズム)、国とふるさととはちがうものです。本来、ナショナリズムという言葉はさまざまな意味を含みますが、日本の場合、戦前の、超国家主義や偏狭な民族主義という印象が強くなってしまった。
 ナショナリズムには、上部構造と下部構造があると思います。上部構造は国の政策、つまり国益をめざして政府が決定するナショナリズムです。下部構造には愛郷心も含まれますが、近代日本以前から続いてきた共同体の伝承も、広い意味でのナショナリズムでしょう。
 同じ7月号で石原慎太郎氏も次のように述べている(P111)。 石原氏は「ナショナリズム・ナショナリスト」という言葉に嫌悪感を抱いていない。その意味が、今なら少しは分かる。
 それは、石原氏の意識が、保坂氏の言うところの上部構造「国益をめざして政府が決定するナショナリズム」にあるからだと考えられるからだ。
 藤原正彦氏も「政治家とか官僚とか、日本を代表して世界と接する人々は当然、ある程度のナショナリズムを持っていてくれないと困る。世界中の指導者が例外なく、国益しか考えていないからです。」と述べている(P115)。 政治家である石原氏が「ナショナリスト」であることは、むしろ当然なのだ。
 それにしてもこの「愛国」という言葉は、なぜ今の日本では妙に色のついた、いわばスポイルされた言葉になってしまったのだろうか。(中略)今現在の「ナショナリスト」という言葉には、排他的で民族至上主義的な意味合いが込められていて、むしろ「パトリオット(愛国者)」と称すべきなどだというが、この日本では言葉のニュアンスが、多くの誤解や混乱を生んでいる。

 藤原氏は「愛国心」という言葉は手垢にまみれているから「祖国愛」を使おうと言う。
 マイナスイメージのある言葉(二重の意味をもつ言葉)は、誤解を呼ぶし、議論がかみあわない。
 少なくとも私たちは、今後どこかで目にする「愛国心」という言葉が「ナショナリズム」「パトリオテイズム」のどちらの意味で使われているか、両者を混ぜて述べられていないかなどを検証していかねばと思う。

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December 25, 2006

「愛国教育」の社説について

 12月24日の中日新聞の社説は「気になる『愛国教育』」というタイトルだった。

◆「国を愛する態度を養う」ことが教育の目標に加えられました。さまざまな危うさを感じます。「いつか来た道」にならないか。ことし一番心配になったことです。
・・・・・・こういう言い方は「戦争を再び繰り返す」という意味を含んでいる。

◆「『国を愛する態度』とは、歴史や文化、伝統、自然を愛する気持ちをはぐくむことだ。統治機構としての国が行うことを愛せよということではない」
 安倍首相は、こうした答弁を何回も繰り返しました。
◆「学校で歴史的な事実を教えることで、結果的には国を愛する態度が養われてくる」
 歴史教育の必要性を強調した伊吹文明文科相の答弁です。「愛国心は結果」はその通りと思います。
 学校では、各教科で歴史、伝統、文化、風土などをしっかり教えることです。そこまでで十分です。
・・・・・・安部首相の考えも、伊吹文科相の考えも、大方の基本法改正賛同者も同じである。
 「学校では、各教科で歴史、伝統、文化、風土などをしっかり教える」。
 だから、教えたことには評価も実施する。別に何の問題もない。
 なのに、一方で、次のような批判を持ち出す。
◆ 「国を愛する態度」の表し方を文部科学省や教育委員会が決め、学校へ指示、命令することはないのか。
・・・・・・社説氏が、そこまでで十分と言い切る「各教科で教える歴史、伝統、文化、風土」について、その具体的な内容を教育委員会が決め、学校へ指示、命令することはありうる。
 そして、その授業を受けた子ども達の関心・意欲を評価することはありうる。歴史・文化などについての知識を教えていればテストにだって出題されるだろう。
 「歴史・文化・風土を学ぶ関心・意欲・態度の評価」を「国を愛する態度の評価」という言葉でイメージ操作しているようにしか思えない。

◆時の軍部独裁政権は「忠君愛国」の名のもとに国論を統一し、「国のために命をささげる」教育を徹底しました。その結果、「一億火の玉」、無謀な戦争に突入して、この国は亡国寸前の憂き目を見ました。
・・・・・・責められるべきは「時の軍部独裁政権」であり、軍部独裁政権を止められなかった時の野党・時のマスコミ・教師・市民、全てではないのだろうか。
 戦勝を讃えた新聞記事は「国のために命をささげる」風潮をあおってきたではないか。
 
◆先輩や私たちは、敗戦の廃虚の中から立ち上がり、少しでも豊かな国へと勉強し、額に汗して働いてきました。口にしなくともこれは立派な愛国心でしょう。
◆戦前の失敗から多くを学び、占領下でも英知を駆使して、少しでもいい国へと努力した結果としていまの日本があります。
・・・・・・そのような礼賛すべき日本人の姿、昭和30年・40年代の高度経済成長の時代まで話ではないか。
 「額に汗して働かない」堀江社長や村上社長が持ち上げられたこの1年間を総括してみれば、現代が「少しでも豊かな国へと勉強し、額に汗して働いて」いるとは思えない。
 戦前まで話を戻さなくてもいい。
 社説氏の言うように、戦後復興に努めてきた日本人のように「少しでも豊かな国へと勉強し、額に汗して働く」人が尊敬されるような時代にしたいと思う。

◆いまこの国には排他的で偏狭なナショナリズムがはびこっています。 こんな風潮や戦後認識が国を愛する教育に反映されては大変です。偏狭な愛国教育は亡国を招く-これが戦前の教訓の一つです。
・・・・・・ベストセラーの『国家の品格』に目を通していれば、「愛国心」を「ナショナリズム(国益主義)」と「パトリオテイズム(祖国愛)」を区別して論じることは当たり前で、むしろ、ここで『偏狭なナショナリズム」という言葉を持ってきたのは、この2つの言葉の違いが分かっていて持ち出した確信犯的な論法である。
 藤原氏は「パトリオテイズム」の中身を「自国「国を愛する心」がこちらの意味であることは明らかである。
 それなのに藤原氏が「あさましい思想」「不潔な考え」「戦争につながりやすい考え方」と批判する「ナショナリズム」を唐突に持ち出す社説氏の論法の何と不当なことか。
 
◆本来、政治家がやるべき仕事は、国民に国を愛せよと言うことではなく、国民が愛するに値する国づくりに心血を注ぐことでしょう。
・・・・・・これは分かる。その通りだと思う。同じ論法で言えば「本来、教師がやるべき仕事は、国民に国を愛せよと言うことではなく、国民が愛するに値する国の魅力(歴史・文化・伝統)を伝えることに心血を注ぐことでしょう」ということになるだろうか。
 どんな教師も「国を愛しましょう」などと、みっともなくて口に出さない。
 そのように口にするだけで国を愛する心が育つなどとは誰も思っていないからだ。

★今回は、いつになく長々と引用しているので中日新聞社に引用許可の問い合わせをした。
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お申し出の件は、新聞記事の二次利用に当たりますので、著作権に関係してくるように思われます。弊社の著作権を管理しているのは、名古屋本社メディア局データベース部著作権課です。お手数をお掛けいたしますが、同課に見解をお聞きいただいて、その指示に従ってください。同課には名古屋本社の代表電話052(201)8811で繋がります。 よろしくお願いいたします。                   中日新聞読者センター
========================
★電話したところ、常識の範囲内の引用はOKと言われた。ただしリンクについては別の部署ということで、電話番号を教えていただいた。指示に従い中日新聞HPトップページ下の「リンク」からメールで申請をした。

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『武士道』 新渡戸稲造 PHP文庫

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 新渡戸稲造の『武士道』をこの秋に読んで、感銘を受けた。
 『国家の品格』が「武士道」に言及していると知ったのは、その後のことである。
 『武士道』のブームは、2・3年前から始まっており、『国家の品格』は今年ベストセラーになったことで『武士道』もますます脚光を浴びている。。
 武士道というと猛々しいイメージがあるが「金銭よりも道徳を上に見るという日本人の精神性の高さの現れ」だと藤原氏は言う。 
 

まず、仏教、特に禅から、運命を引き受ける平静な感覚と、生を卑しみ死に親しむ心を貰いました。儒教からは君臣、父子、夫婦、長幼、朋友の間の「五倫の道」や、為政者に民に対する「仁義」を取り入れました。神道からは、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行などの美徳を取り入れました。
 最も中心にあるのは、日本に昔からあった土着の考え方です。日本人は万葉の時代どころか、想像するに縄文の時代ですら、「卑怯なことはいけない「大きな者は小さな者をやっつけてはいけない」といった、皮膚感覚の道徳観、行動基準を持っていたのではないかと思います。

 武士道の精神や教育勅語の教育が悲惨な戦争をもたらしたという批判があるが、これに対し藤原氏は、むしろ武士道精神が衰退したからこそ卑怯な中国を侵略した・「無意味で恥ずべき関東軍の暴走」だと書いている(P120)。
 そういう見方もあるのだという意識で、昨今の「教育基本法改正反対」の意見を読むと、かみあっていないと思うことも多い。 
 例えば12月24日の中日新聞の社説→ここ

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December 24, 2006

『国家の品格』 藤原正彦

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 私が購入したのは2006年11月25日版37刷、初版から、ほぼ1年。
 「今年度 新書NO1 日本人に『品格』を問い220万部突破」と帯にある。
 「品格」が今年の流行語大賞にもなった。
 新潮社にくわしいHPがある→ここ

①ベストセラーになったということは、この本の内容について支持が多いということだ。
②帯には「『必読の書』と圧倒的支持の声!」ともある。
③この本の内容についての支持者が多いと言うことは、「教育基本法」の改定や、「日本人のモラルの欠如をなんとかしようという教育」への支持者が多いということである。
 「教育基本法」改正反対論者は、この事実をどう見るか?

・・・このような「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理の破綻について数学的に教示されている(P57)。
それだけでも勉強になった。
 帯に紹介された本書の内容
1)資本主義の勝利は幻想
2)情緒の文明を誇れ
3)英語より国語と漢字
4)論理の限界を知る
5)卑怯を憎む心、憐憫の情の大切さ
6)跪く心を忘れない
7)武士道精神の復興を
8)古典を読め
9)家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛
10)国際貢献など不要
11)重要なのは「文学」と「芸術」と「数学」
12)真のエリートを求める

 「220万部=220万の人が読了し 上記の12項目全ての意見に100%賛同」
は確率的に低い。
 読了した割合を0.8とし、12項目の各支持を0.8と高めに設定したとしても、
 0.8×0.8×0.8×0.8×0.8×0.8×0.8×0.8・・
となるから、あっという間に数値は限りなくゼロに近くなっていく。
 というのが本書に示された藤原氏の論理だ。
 しかし、こうした論理そのものが(4)の「論理の限界」に該当するのだと思っている。
 各項目の支持が大方0.8なら、いくらステップが多くても最後まで0.8というのが常識的な判断だからだ。
 というわけで、藤原氏の意見に賛同したり、異論をはさみながら、自分の学びをまとめてみたい。

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December 22, 2006

人を選ぶなら

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 「ひげを剃ったら就職できるよ」と言われ、ひげを剃ったドイツの青年。
詳しくは→ここ

ひげ面で鼻にピアスをしていたフランクさんが州首相に「仕事がないのは政治が悪いからだ」と絡んだ。州首相は「顔を洗ってひげをそれば仕事が見つかるよ」と冗談交じりに助言。本当にひげをそって鼻のピアスを外し、別人のようになったフランクさんは記者会見で「これで仕事がもらえるかい」と訴えた。

・・・この両者が同一人物と信じられない人もたくさんいるだろう。
 「人は見た目が勝負」と思いたくはないが、やっぱり「人は見た目か」の典型例のような写真である。
 本日は中学校の終業式。
 全校生徒が体育館に集まる。
 この中で、誰かを採用するとしたら誰を選ぶか、と言われたら
「服装の整った子」
「目を見て人の話を聞いている子」
「聞く姿勢の素晴らしい子」
を選ぶ。
 悪いけど、この3点で選べば、まず間違いないなあと思えてしまった。
 ひげでボサボサだろうが、サッパリした顔だろうが中身は同じだという人もいる。
 しかし、他者意識で自分を見れば分かる。
 自分がお客さんだったら、どちらが店員としてふさわしいと思うか。
 自分が社長だったら、どちらが「真面目に働く」と思うか。
・・・「自分を貫く・自己主張・個性豊か」という観点で選ぶなら「ひげボサ」でもいい。
 でも、「真面目さ」や「従順さ」が求められる仕事の方が世の中多いから、「ひげボサ」が断られる確率の方が高いのである。 
 まあ、そんなこと承知で「ひげボサ」しているなら好きにすればいい。
 「ひげボサ」でもOKという仕事をひたすら待つもの、個人の自由である。
 高校入試や会社の採用試験で、だらしない服装や奇抜な頭髪で合格すると思っている生徒は誰もいない。合格したければ、人の制服を借りてでも、こぎれいな格好をしていく。
 ということは、だらしない服装や奇抜な頭髪をしている生徒も、自分で「×」だと分かってやっているのである。
 「自分は、それでいいと思うのか」
 「相手は、あなたの格好を見てどう思うだろうか」
を問いかけていくことが大事かなあと思う。
 そう思った理由は、また後日詳しく書くつもり。

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December 20, 2006

心の教育はいるのか、いらないのか?

12月20日付の中日新聞のコラム「中日春秋」に、「惻隠」や「憐憫」が出てきた。→ここ
 ホームレスの老女を殺害した中学生の殺伐とした話題と、古き良き時代の日本人を温かい心意気を比較している。ホームレス襲撃は社説でも取り上げられている→ここ
 「惻隠の情」は以前もこの新聞コラムで触れられていた→ここ
 明治時代の日本人のよさを引き合いに出すあたりは、ベストセラーの『国家の品格』を意識したような文脈で、先日も同じようなコラムがあった。→ここ
 いずれも、失われた日本人の品性を取り戻せと訴えているように感じられる。
 日本の規範意識・道徳意識の欠如を嘆いているなら、今の「教育基本法」の改正に賛成すればいいのではないか。
 しかし4日前の社説では、教育基本法改正に疑問を呈している→ここ
 

公共の精神や愛国心は大切だし、自然に身につけていくことこそ望ましい。国、行政によって強制されれば、教育勅語の世界へ逆行しかねない。内面への介入は憲法の保障する思想・良心の自由を侵しかねない。新しい憲法や改正教育基本法はそんな危険性を内在させている。

・・・「公共の精神や愛国心」=「心の教育」と考えていいならば、心の教育の必要性は肯定しているのだということになる。心の教育を自然に身につけることは肯定していることになる。
 しかし、国や行政による強制・内面への介入は反対で、思想・良心の自由の侵害も反対している。
 思想・良心の自由の侵害などと言って遠慮しているから、ホームレス襲撃などという非道な行為が起こったのではないか。
 『国家の品格』は「卑怯なことをするな」を徹底させ、「武士道(教育勅語の12徳みたいなもの)」の復活を説いている。
 道徳教育の押しつけや強要は反対、『国家の品格』=モラルの徹底には賛成では、「二枚舌外交」である。
 要するに「心の教育」が必要なのか、不必要なのかががはっきりしないのである。
 マスコミの言動に振り回されていては「教育」は成り立たない・・・これも『国家の品格』からの学びである。

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December 19, 2006

棒杭の商い~上杉鷹山~

 先日、喫茶店で目にした「歴史街道」の覚え書き。
 携帯電話のメモに「棒杭の商い 上杉鷹山」と記してある。
 本日、ネット検索してみた。
 この時読んだ「歴史街道」には童門冬二氏の対談があったから、おそらくそこに書いてあったのだろう。
 童門氏の対談がネットで検索できた。→ここ

 「棒杭にぶら下げた野菜や果物を、示された通りの値段を支払って持っていく」
といういわゆる無人の野菜販売所は今でも田舎へ行くと目にすることがある。
 それを「棒杭の商い」と呼んだのだそうだ。
 そして、そのような無人販売所で収支が合うことに、日本に来た外国人が驚いたのだとか。

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教育勅語の12徳

下記の12項目を「教育勅語の12徳」と言うそうだ。

1.孝行⇒子は親に孝養を尽くしましょう。

2.友愛⇒兄弟姉妹は仲良くしましょう。

3.夫婦の和⇒夫婦はいつも仲睦(むつ)まじくしましょう。

4.朋友の信⇒友達はお互い信じ合ってつき合いましょう。

5.謙遜⇒自分の言動を慎みましょう。

6.博愛⇒広くすべての人に愛の手をさしのべましょう。

7.修学習業⇒勉学に励み職業を身につけましょう。

8.智能啓発⇒知徳を養い才能を伸ばしましょう。

9.徳器成就⇒人格の向上につとめましょう。

10.公益世務⇒広く世に中の人々や社会の為になる仕事に励みましょう。

11.遵法⇒法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう。

12.義勇⇒正しい勇気をもってお国の為に真心をつくしましょう。

 「愛国心」と同じで、この12徳そのものには罪はない。
 「教育勅語」による思想教育によって不幸な結末がもたらされたからといって、この12徳の教育を放棄するのは
まさに「あつものにこりてなますを吹く」の状態だと思う。

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December 17, 2006

「教育勅語」と「武士道」

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 「修身教育」というようなジャンルに言及するには勇気がいる。知らないことが多すぎるからだ。
 でも少しずつ勉強していきたいと思っている。
 今日は、たまたま入った喫茶店でPHPの『歴史街道』という雑誌が目に入った。
 それも2004年5月号ということで、あとでネットで調べたら在庫ナシだった。
 喫茶店で携帯電話で写した表紙を見れば分かるように「武士道」についてのテーマである。
 映画「ラストサムライ」もトムクルーズが「武士道」から受けた感銘が元になっている。
 その映画のブームと「武士道」のブームがシンクロしたのだが、私自身は最近まで「武士道」に関心がなかった。 今年のベストセラー「国家の品格」を読む前に、新渡戸「武士道」をたまたま読んで、興味を持ち始めたところである。少しずつブログでも書いていこうと思っている。
 さて、本日、喫茶店で読んだ本。
 森本哲郎氏のわずかな発言だけを書き留めた。

 「敗戦後、占領政策を進めたGHQが驚いたことの1つは、修身と言う科目で学校の教師が道徳を教えていることでした。
 彼らにしてみれば、道徳を教える立場にあるのは、牧師あるいは神父だけではないか、というわけです。教会がやるべきことを学校で教師が教えているとはけしからんということで修身教育をやめさせた。・・・」

 新渡戸稲造は「宗教のない国でどうして道徳教育ができるのか」を尋ねられ、日本には「武士道の精神がある」ということで「武士道」を著した。
 仏教・儒教・神道の影響を受けた道徳規準・行動基準としての「武士道」。
 教育基本法改正の話題の中で「修身(教育勅語)の復活か」という言われ方もする。
 そのようなQAのウエブもあった。→ここ
 教育勅語については、次のように解説されていた。
 教育勅語の概要は次のとおり。

(1) 第1段落で、天皇の「臣民」が君子に忠誠を尽くし、親に考を尽くしてきたことによって、天皇を中心に日本の「国体」が守られてきたことを強調し、教育の根本もそこにあると指摘しています。 (2) そして、第2段落で、親孝行、兄弟の友情、夫婦和合、友人同士の信頼、自制心、博愛の精神、学業・職業を通じた啓発と修養、公益の促進、国の憲法・法律の遵守、非常事態における国への奉仕を説き、こうした行動を通じて皇室のいっそうの隆盛を支えるよう求めています。 (3) 第3段落では、こうした教えは古今東西に通用するものであるから、天皇・臣民が心をひとつにして守っていかなければならないと説明しています。

  このうち第2段落に書かれていることだけを取り上げて、「教育勅語は普遍的な道徳を示したものにすぎない」と主張する人たちもいます。しかし、全体を通じて読めば、天皇・権力者中心の国家秩序を維持するために教育を利用しようとするものであったことは明らかです。このような文書が戦前の教育の支柱とされたことが、第2次世界大戦を通じて多くの人命が失われ、また人間の尊厳が否定される大きな要因となったのです。

 実は、私も第2段落だけ取り上げればいいと思う1人である。
 第2段落の内容は新渡戸「武士道」と重なり、日本人のモラルの拠り所となるべき部分である。
 「国家の品格」で新渡戸「武士道」が取り上げられている。
 「武士道」を再評価するからと言って主君のために命を投げだせとは誰も言わない。
 同じように「教育勅語」を再評価するからと言って天皇に命を投げ出せとは誰も言わない。
「武士道」や「教育勅語の第2段落」を再評価することに、どう無理があるのか、そこを注意深く勉強してみようと思う。
教育勅語に関する詳しい解説は、 ここ がお薦め。

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December 14, 2006

「論理力ノート」~譲歩~

 以前、「だが、しかし~」の論理ということを書いた。
 論文を書くときの鉄則とでも言うべき方法で、
「確かにAという論もある。だが、しかし、Bの方がいい」
という主張の方を守ることにより、独善的にBを主張しているわけではないことを相手に伝えるのである。
 出口氏の、この本では、そのような「だが、しかし」の論理を「譲歩」と呼んでいる。
===============
 自分の意見の正しさを読者に印象づけたい場合には、反対意見を持ちだしてそれを否定すればいい。
 しかし、それを正面切ってやれば、相手に礼を失することになる。そういった無礼な文章や議論はマスコミなどではしばしば見られるが、真の知識人はそのようなことはしない。反対意見を持ち出すのがそれを否定するためなら、それだけに相手に対する配慮が必要だ。
 だから、筆者は一歩ゆずって反対意見をとりあえずは認める。「なるほど、それはもっともである」「たしかに一理ある」といった具合に譲歩する。
 そして、その後、「しかし~」とゆっくり否定するのである。(P36)
======================
 目の前にいる相手の場合は「譲歩」というような配慮も必要なのだと思う。
 これが、たとえば作品分析のような倒すべき相手のいない内容なら、妙な配慮も遠慮もいらないのではないかと僕は思う。それは僕が「真の知識人」ではないからか。
 相手の論を否定しているのであって、相手の人格を否定しているわけではない。
 だから、堂々と否定すればいいのだが、ビジネス書である本書としては配慮した方がいいということなのだろう。
 
 「論理的な読み方」を身につけるためには、文章の3つの論理の理解が必要だと出口氏は言う。
①イコールの関係
②対立関係
③因果関係

①は、具体例・体験・比喩・引用
②は、対比・譲歩・弁証法
③は、「AだからB」

①の「イコールの関係」は先日書いた。前も書いた。
②の中の「弁証法」も、先日書いた。
②の中の「譲歩」は、今書いている。「だが、しかし」は前に書いた。
②の中の「対比」は、ブログには、あまりないが、研究論文で書いたことがある(HP化はしていないはず)。
③「AだからB」は、もう少し検討してみる。因果関係ということなので「なぜならば」で意識した実践が、ここに該当する。

 出口氏の言いたいことが、かなり分かってきたような気がする。
 もうひとがんばりだ!

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December 13, 2006

「道路建設」の反対との賛成

12月12日の中日新聞の投稿欄「発言」で、道路建設についての対立する2つの意見が掲載されていた。
高校生は身近に道路が建設されたことについて次のように。

(前略)しかし、この道路は山を切り開いて造られました。ふと両側を見ると、側壁の断面にはたくさんの樹木の根が、無惨にもあらわになっていました。あの樹木は間もなく枯れると思います。
そのようなことをしてまで、私たちの生活が便利になることに、私は複雑な気持ちになりました。私たちは山奥にも道路を造り、便利で快適な生活を追求してきました。その一方で、自然破壊が進んでいます。(以下略)

 一方、長野県のある村長さんは道路建設について次のように。
 
 私が住む山奥の村では、公共交通が廃止されたことで、村民の移動手段は自動車だけになってしまいました。
しかも、いまだに大型バスが通行できないため、修学旅行に行く子どもたちは隣村の国道まで親が送迎している。(後略)

・・・最終的にはケースバイケースである。生活に必要な道路があるのは当然のことである。
 しかし、地元が必要がある判断したから陳情するのだから。「必要のない道路」は皆無だろう。
 つまり問題なのは、
A・あった方がいいけれど、なくても困らない道路
B・あまり必要のない道路だけれど、あればあったで便利な道路
である。
 それらは「必要な道路」と「不必要な道路」の間に位置するもので、
必要度に応じて工事の順番などが検討される。
 その際の申請理由が「修学旅行の子ども達のために大型バスが通れるように」では、僕は無理があると思う。
 何せ修学旅行は1年に1回、小6の子どもたちだけである。
 それ以外の村民に支障がないなら、1年に1回、村の6年生の保護者だけ協力してもらえばいいわけで、
その日だけ村がタクシーを用意したところで、大型バス乗り入れのための道路拡張工事の費用の何分の1ですむことか。
 村長さんは「子どもがかわいそうだ」という訴えが有効だと判断したのだろうか。
 しかし、そのような情緒的な論拠からは、逆に道路整備の不要さを訴えるように読めてしまうのである。

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「正社員化がハッピーか」だと!

 12月12日(火)の中日新聞に政府の規制改革・民間解放推進会議の議長である草刈隆郎氏(経団連副会長)のインタビュー記事が掲載されていた。
 タイトルが「正社員化がハッピーか」。
 次のような発言がある。
◆(今の労働者派遣法では)企業が派遣労働者を三年雇用すると正社員にしなければならない義務があるが、本当にみんな正社員になりたがっているのだろうか。多様な生き方を求める人がいる中で、かえって雇用機会を奪うことになる。
◆正社員になることがハッピーかどうか分からない。正社員にすればいいというのは乱暴だ。

・・・何と乱暴な意見だろう。
 三年勤めた派遣労働者が正社員に「ならなければならない」ことが問題なのではない。
 正社員になりたくて三年間派遣で働いてきた人に正社員に「なる権利がある」かどうかが問題なのだ。
 以前、ワールドのパート労働者の正社員化で注目したのは非正社員6000人のうち5000人の「希望者」が正社員になれたことである。
 正社員になりたくないなら、ならなければいい。それだけの話である。
 肝心なのは正社員になりたいのになれず、いつまでも派遣の不安定な雇用を強いられてしまう人への配慮ではないか。
 5年後、10年後の自分の仕事にある程度のメドがなければ、将来設計など立つわけがない。
 そのような人が多くい世の中で消費が拡大するわけがない。
 議長のご子息が正社員より安い賃金や不利な待遇での勤務を強いられる派遣社員だったら、「正社員化がハッピーか」などという発言ができるのだろうか。
 「自ら望んで派遣社員」の人を持ち出して否定するのは論理のスリカエだ。
 「正社員になりたいけどなれない派遣社員」をどうするかに正対して答えてほしい。

 ところで、今回のインタビューは「規制改革・民間解放推進会議長」に対するものである。
 例えば、次のような発言なら立場上の発言としても理解できる。
◆三年働いたら正社員にという法律を作ったって、正社員にしたくなければ2年11ヶ月で契約を打ち切ればいいのだから、そのような法律は無意味である。
◆正社員であることと、健康保険や老後の年金は本来別問題である。企業に健康保険や年金の負担を強いるから正社員化が難しくなる。それらは別の次元で条件整備すべきである。

 同じ日の新聞の一面は「児童手当0-2才倍増」であった→ネットでは、ここ
 詳細を読むと「必要となる財源の千六百五十億円は、児童の保護者の勤める企業側が約半分の八百二十億円を負担。残額については国が二百六十億円、地方が五百七十億円を支出する」とある。
 どうして半分の負担(国の4倍の負担)を民間企業に強いるような政府案が安易に進められるのだろう。
 「負担増を強いられる企業側は、児童手当の引き上げに反対しており」とあるが、そんなのは企業からすれば当たり前だ。子供1人いる従業員に対して月5000円ベースアップするのと同じことだが、今、月5000円のベースアップをする企業がザラにあるか。
 そのような政府案が、ますます「正社員化」にブレーキをかけるようで気になってしまう。
 

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December 11, 2006

鉄鋼の父~本多光太郎~

 愛知県の道徳の副読本「明るい人生」1年生の中に「鉄の人 本田光太郎」の話がある。
 急遽、授業をやることになり、あわてて調べて授業に臨むことになった。
 例えば、次のようなサイトがあった。
http://www.26magnet.co.jp/enjoy/rekishi16.html

1914年に開戦された第一次世界大戦は、日本における人工磁石の発明に影響を与えました。 戦争の影響で輸入が途絶えた磁石鋼に代わるものとして、東北大学教授本多光太郎らによってコバルト・タングステン・クロムを含む合金磁石であるKS鋼が開発されました。 保磁力で比較すると、KS鋼の保磁力は250エルステッド、当時の高性能磁石であったタングステン鋼の保磁力は70エルステッド程度でした。 磁石に対する技術力が発展途上と思われていた日本がKS鋼を開発したことは、欧米諸国に非常に大きな衝撃を与えた様です。 ところで、KS鋼の開発にあたっては住友吉左衛門より多額の寄付を受けたことから、彼の名にちなんでKS鋼と名付けられています。
 あるいは、http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei101.htm

 別のサイトによると日本の十大発明の1つとなっている。
 http://www.jpo.go.jp/seido/rekishi/judai.htm
 
 小学校の時は学校にも行かない鼻垂れ小僧だったことで、よけいに本田氏の業績がクローズアップされるようだ。まるで幼少の頃に邪魔者扱いされたエジソンのようではないか。
 道徳の教科書では、彼の「つとめてやむな」をキーワードにして、元日から実験をするほど努力を続けた本田氏の研究姿勢を讃えている。
 いずれにしても、そのような偉大な発明者についてきちんと理解しておくべきだった。
 ちなみに、僕の小学校5年生の自由研究は日本の発明・発見者調べだった。
 百科事典をパラパラめくりながら、人物名と業績を「写す」だけの自由研究だったが、僕は昔からそういうのが好きだったのである。

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December 10, 2006

がんばれ!ニッポンの環境ビジネス

12月5日放送の「ガイアの夜明け」第241回に感激した。

http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber/preview061205.html

テーマは「中国“水の危機”を救え!~海を渡る日本のエコ技術~」
特に旭化成の技術が注目だった。
「旭化成」の「汚水・排水処理」では世界トップクラスの技術を持っているのだそうだ。
牛乳をろ過装置に入れたら透明になったのでビックリしました。

もう1つは納豆菌の殺菌力を利用した水質浄化ブロック。
ブロックを作ったのは、従業員わずか5人の熊本のベンチャー企業「ビックバイオ」と福岡のコンクリートブロック会社。
このブロックを河川や池の底に並べれば、納豆菌が水中の有機物を食べ、水を浄化してくれるという。
先日「未来をひらく微生物」という説明文で、環境を守る微生物の授業をしたばかりで、自分にとってはタイムリーな話題だった。

この特集の最後は、こう締めくくられていた。
=====================
かつて日本経済の牽引役だった化学繊維産業はアジア諸国の台頭で競争力を失いました。
しかし、その技術力は衰えるどころか進化を遂げ、環境ビジネスという新しい分野を切り拓いて今世界をリードしています。
公害に苦しんだ経験を持つ日本が環境保護の技術力で世界を守る。
これこそ日本ならではの国際貢献。
そして同時にビジネスとしてもまだまだ可能性を秘めています。

======================
「環境ビジネス」というとお金儲けのいやらしい響きもあるが、
それは「環境分野での国際貢献」でもある。
何かと批判の多い一部のODAのように、相手国のためと言いながら結局日本に企業だけが儲けるような話はウンザリだ。
でも、日本の技術力で国際貢献できるなら、こんな誇れることはない。
がんばれニッポン、がんばれニッポンの環境ビジネス!

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December 08, 2006

がんばれ!斉藤隆選手

 最近のプロ野球のニュースは来期の契約更改で、「夢を与える仕事」という言葉を免罪符に、一般庶民では考えられない年棒1億・2億・3億と言った数字が飛び交っている。
 松坂大輔投手の代理人はレッドソックスとの交渉を年俸1500万ドル(約17億)からスタートさせるそうだ。あたりまえだが、これは年棒金額である。ニュースを見ている子どもたちの金銭感覚が麻痺しないか心配になってしまう額だ。まあ松阪投手がごねているわけではないので松阪投手に責任はないが。

 そんな中で大リーガー斎藤隆投手の話題はさわやかだった。
 斎藤投手は昨年マイナー契約50万ドル(約6000万円)からスタートした。
 それが、来期は1年100万ドル(約1億1500万円)、出来高30万ドル(3400万円)で再契約したと発表された。チーム新人記録の24セーブで地区優勝に対する貢献度から2年目の選手としては異例の給与倍増となったのだそうだ。[夕刊フジ:2006/12/06 より]
 もちろん、マイナー契約6000万円という数字だって決して低いわけではないし、逆に来期が約1億だから安いのではないかという気もするのだが・・。
 ちなみに、新庄剛志選手は、00年オフ、阪神の5年12億の条件を蹴り、FAでメッツに移籍。契約金は30万ドル(約3500万円)、年俸20万ドル(約2340万円)のメジャー最低保障額だった。開幕戦でベンチ入りはできたが、レギュラーは獲得できず。その後はチャンスをモノにしてメッツの3番を任されるまでになった。

 現ドラゴンズの落合監督はドラフト後の契約の際、実業団の監督が契約金を上げるよう交渉しようとしたら「入ってから稼ぐからいい」と断ったのだとか。
 こうした損得勘定を抜きにしたチャレンジャーにエールを送りたくなる。
 それは、人間のモチベーションは金銭だけで上がるわけではないからだ。

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December 07, 2006

品格と徳

12月5日付の中日新聞のコラム「中日春秋」が目に留まった。→ここ
◆明治初期に、見知らぬ人力車夫同士でも助け合う光景に心打たれた英国人教師の話。
◆友人が病気を治療してもらったお礼にと家まで送ってくれた車夫の話。
◆日本人の「善徳と品性」をたたえた米国人モースの話。
・・・「当時は貧しい暮らしだったろう。でも、名もない人々が示した心意気は、今の時代から見ればきらりとした光を放つかのようだ」というコラムの言にうなずいてしまう。
 新渡戸稲造の「武士道」については、一部批判もある→ここ
 しかし、新渡戸「武士道」が記した「仁・義・礼・忠」などの徳は、日本人が(いや人間が)失ってはならない心意気である。たとえば ここ
 日本人はいつから身勝手になり、利己的になったのかなどと嘆くことはしない。
 今だって、徳のある行いをしている人はたくさんいるはずで、そうした行いが話題にならず、とんでもない犯罪行為だけがニュースになるから、世の中が荒んでいるというイメージがすり込まれてしまう。
 もっともっと徳のある行為がアピールされる世の中になるといいし、
学校関係者としては、もっともっと徳のある行為を子ども達に紹介していきたいと思う。

※紹介された渡辺京二氏の「逝きし世の面影」は、ネット検索したら名著の評判だった。
※すみません『国家の品格』まだ読んでいません。この本で新渡戸「武士道」が紹介されているそうです。

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December 01, 2006

「論理力ノート」~見出し語~

Deguti
 「論理力ノート」の第2章の論理的な読解法の1番は「見出し語を頭に置いて、本文を読む」である。
このP24には、2つの内容が書かれている。
 文章の趣旨を縮めたものが題だから、題に注目して読めば「おそらく記事の内容は見出し語の内容について、具体的に書いてあるはずだ」ということになる。
 題に注目するというのは読解に置いても大切だが、書く作業に置いても意識させることが重要だと思っている。
そのことを「構造化の自覚」ということでブログにも書いてきた。構造的に書くことで、今度は構造的に読むことができる。読む活動と書く活動は表裏一体なのである。
 
 もう1つは、「文章には要点の部分と飾りの部分とがある」という主張で

・「要点の部分」=一般的な表現
・「飾りの部分」=具体的な表現

という構造になっている。これは、大西忠治氏の言うところの「柱概念」である。
 「一般的な表現」というのは誤解を含みそうな言い方で、
次ページの言葉で言えば「主張」、
よく使う別の言葉で言えば「抽象」である。
 「もっと具体的に論ぜよ」ということを「抽象のハシゴを下りよ」などと宇佐美寛氏は使った。
 例えば「愛国心を授業する」とはどういうことなのか、それを具体的に述べないと賛否は語れないということを「具体的に語る」という観点でブログに書いた。
筆者の主張が分かりにくいので「例えば何のことなのか」を考えさせる実践もしてみた→ここ

 いろんなところで学んできたことが、集約されているようなので一気にまとめてみたい。
 

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