« リップンチェンシン=日本精神 | Main | ノブレス・オブリジェ 「高貴なる義務」 »

June 05, 2007

「徳育」の教科化

教育再生会議の第二次報告で「徳育」の教科としての位置づけが提言された。
2007年6月2日の中日新聞の社説は「教育二次報告 『修身』復活はごめんだ」と題して早速、戦前の教育とダブらせて論証抜きの印象批判を展開した。
「『修身』のような授業」という表現で批判をするなら、「修身」のどこに問題があったのかについて、一言でもいいから触れるべきだ。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2007060202020879.html

 「徳育」は教科とし、教科書もつくれという。教育再生会議がまとめた第二次報告は、提言の柱の一つに「徳育の充実」を掲げた。教材の例に偉人伝を挙げるが、戦前の「修身」復活ならごめんだ。
 二次報告は「学力向上」「心と体-調和の取れた人間形成」「大学・大学院の再生」「財政基盤のあり方」を四大テーマとし、「心と体」の冒頭の提言で「徳育の充実」をうたっている。
 社会の規範意識や公共心を身につけさせる教科に道徳があるが、再生会議の議論ではいまの道徳教育は十分ではないとし、さらに発展させた教科として徳育を位置づける。国語や社会科、体育、総合学習の時間なども関連付けて充実させるとしており、重要視している姿勢がわかる。
 ことし一月の一次報告は子どもの規範意識を高める方策として「民話や神話・おとぎ話、茶道・華道・書道・武道などを通じて徳目や礼儀作法、形式美・様式美」を掲げた。復古調が目立ち、諮問した安倍晋三首相が絶賛した内容だった。
 この具体的手段が徳育の教科化だが、教材には「教科書と副教材を使う」という。「その際、ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと、感動などに十分配慮したものが使用されるようにする」と補足説明も付く。
 教科書とは文部科学省の検定を受けたものを指す。すでに小学校では副教材「心のノート」が使われているが、これには一定の考え方や感じ方を教え込むものではないかとの批判が出ている。検定を受け、一定の枠にはめられた教科書で徳育を教えることはその傾向がさらに強まる。ましてや、偉人伝などとくると、戦前の教科書を思い浮かべてしまう。
 徳育の評価方法に報告は「点数」を外した。規範意識の習得度を数値化するのは困難であり、当然だ。ただ、教科である以上は評価が伴う。記述式も検討されたという。
 具体的には中央教育審議会でも議論されるだろうが、教科化そのものをもっと慎重に吟味すべきだ。徳育が昔の「修身」のような授業として復活を目指すのなら、批判は相次ぐだろう。
 徳育の教科化に会議メンバーの間では意見が分かれていた。まとまらない段階で座長と座長代理に結論が一任された。七月の参院選を前にして出てきた二次報告は、これを「美しい国」の土台にしたい首相の意向に再び沿う内容だ。会議は公開されておらず、結論までのプロセスが見えにくい。子どもの将来にかかわる重要なことをこんな手順で進めていっていいものだろうか。

  
1) まず「心と体-調和の取れた人間形成」「徳育の充実」とあるが、
 この提言に異論があるのかどうか。この提言そのものに反対せず、再生会議の提言に反対なら、代案を示すべきだ。

2)検定を受け、一定の枠にはめられた教科書で徳育を教えることはその傾向がさらに強まるとあるが、
 日本人としてのごくごく当たり前のルールやモラルを全国共通となる教科書で教える(涵養する)ことのどこに問題があるのかをはっきりさせてほしい。それすらためらうから、ルール無視・モラル低下の現在があるのではないか。

3)ましてや、偉人伝などとくると、戦前の教科書を思い浮かべてしまう、とあるが
 偉人伝のどこが問題なのかがよく分からない。偉人伝はそんなに蔑視されるべきものなのか。
 修身の教科書に登場する偉人は決して批判される人物の羅列ではない。
 巻四で、孝行・兄弟・勉強・規律に登場する渡辺登。 志を堅くせよに登場するイギリスのジェンナー、博愛のナイチンゲール、法令のソクラテスなど感心する人物も多い。巻五は上杉鷹山・勝安芳・吉田松陰・コロンブスといった著名人以外にも三河の古橋源六郎・伊予の作兵衛・伊勢の伊藤小左衛門・山城の義兵衛など失礼ながら地味な人物の例示も多い。「偉人伝=戦前の教科書」とは低俗な印象批判にすぎない。

4)徳育が昔の「修身」のような授業として復活を目指すのなら、批判は相次ぐだろう、とあるが、
どうしたらルール無視・モラル低下に歯止めがかけられるのか、具体的にどうしたらいいかを述べてほしい。。
 ちなみに、「徳育が昔の『修身』のような授業として復活を目指すのなら、批判は相次ぐだろう」ということは、
「『修身』のような授業として復活を目指さないなら、批判はないだろう」ということになる。
 誰も「修身のような授業として復活を目指す」などと述べていないのだから、この「批判は相次ぐだろう」は余計なお世話ともいえるイメージダウンの操作でしかない。
 
 一方、産経新聞の社説は正反対。
 タイトルは「教育再生会議 評価したい徳育の教科化」である。
 その見解の相違をきちんと論じてほしいものだ。
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/shucho/070602/shc070602001.htm

|

« リップンチェンシン=日本精神 | Main | ノブレス・オブリジェ 「高貴なる義務」 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 「徳育」の教科化:

« リップンチェンシン=日本精神 | Main | ノブレス・オブリジェ 「高貴なる義務」 »