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November 23, 2007

沖縄集団自決の真偽と教科書検定

中日新聞2007年11月10日の社説は「教科書訂正 検定の透明化を進めよ」

http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2007111002063262.html

 冒頭に紹介があるように、
「沖縄戦で日本軍が住民に『集団自決』を強制したとの記述が検定で教科書から削除された問題で教科書会社各社は訂正申請した」
という件についてである。
 中日新聞社説の意志は次の一文に集約されている。
============================
検定前と同じ趣旨の記述に戻す申請であり、速やかに応じるべきだ。
============================
 おかしい。
 どうして元にもどせばいい問題と言えるのか?
 社説の文章を少しずつ引用して考察を加えていくことにする。

◆二〇〇六年度の検定で、高校生が使う日本史の教科書について文部科学省の教科書検定審議会は、沖縄戦での住民の集団自決が日本軍の強制である旨の記述に「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現」と意見を付けた。

→誤解のある恐れがあれば意見をつけるのは当然だ。

◆この意見は五社七点に付され、教科書会社五社はいずれも削除や修正を行った。たとえば「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」と改めることで検定を合格した。

→要するに「軍の強制」の表記の有無が論点なのだ。

◆日本軍の主語が省かれた修正後の記述では、軍は無関係で住民が自発的に集団自決したかのようにさえ読めてしまう。沖縄戦では軍によって自決用の手りゅう弾が住民に配られた事実があり、軍民一体の「共死共生」の教えが徹底されていた。軍の強制を証言する住民も多く存在する。軍と集団自決は無関係でありえず「歴史の真実」から遠ざかる検定意見や修正記述に沖縄県民が怒るのは当然だ。

→「軍と集団自決は無関係でありえず」と言うほど事実は簡単ではない。だからこそ現在裁判が行われているのだ。自決用の手りゅう騨を渡したのが日本軍ではなく、地元の自衛軍という意見がある。
軍の強制は調査しても出てこなかった・分からなかった・軍は自決をとどまるように説得したという意見がある
。それらの意見に正対して論ずるべきだ。
 この社説は大江健三郎の書いた「沖縄ノート」が事実と違うと訴えられた翌日のものであり、その裁判のゆくえとは無関係であるまい。
 事実はどうであれ、現在係争中の話題である。
 だから検定で「誤解のある恐れ」が指摘されたのである。
 事実が定かでないなら教科書に掲載されないのは当然のことだ。事実でない可能性のある内容を掲載するわけには行かない。

◆沖縄の怒りは党派を超えて拡大したが、検定意見そのものを撤回したのでは教科書検定制度に政治介入を許すことにもなりかねない。

→「政治介入を許す」の意味が分からない文科省が「沖縄の怒りに配慮して検定意見を撤回した」のでは沖縄の抗議が「政治介入」を許したことになってしまう。こうした「政治介入」は好ましくないという意味なのだと読めるのだが、それでいいのだろうか。
 客観的に見れば、沖縄の一部団体が検定意見を撤回するよう要求したわけで、それは、まさに教科書検定制度への政治介入である。
 そして、多くのマスコミ報道が、その政治介入を支持している。
 この中日新聞の社説だって、政治介入ではないのか。

◆意見をそのままにして記述を復活させる解決策として出されたのが教科書会社が訂正申請する手続きだった。

→それが事実なら、すでに沖縄の一部の団体の抗議という政治介入に検定が屈したということでしかない。
社説はどういう意味で、この事態を記述しているのかよく分からない。
沖縄の団体の抗議を認めているのか、「政治介入」として非難しているのか。

◆訂正申請は本来、字句や数字の誤りを正す手続きだが、沖縄戦の本質や歴史の真実という観点から記述修正の検討はやむを得ないだろう。

→「記述修正の検討はやむを得ない」というのは、「強制」がなかったように修正した記述は、再検討し「強制があった」と明記すべきだ、という意味なのだろう。
それこそが政治介入ではないのだろうか。教科書会社も沖縄の団体の勢いに押されて訂正申請したのではないのか?

◆この申請を扱う教科書検定審議会はすでに日本史小委員会を開いた。今回は沖縄の専門家から意見を聞いたうえで年内には結論を出すという。教科書検定で中立性は保たれているのだろうか。「軍の強制」について文科省はこれまで問題にしてこなかった。
検定が行われた当時は戦後の歴史教育や歴史教科書に批判的だった安倍前首相の時代だった。教科書調査官や審議会が「空気を読む」ということはなかったか。検定関係者の人選に臨む場合にも中立・公正さを痛感させる。審議会は非公開で行われており、教科書の合否を実質的に決めている部会は議事の記録文書すら作られていないという。中立・公正を保つためというが、今回の教訓からあり方を検討すべきだ。会議録を作成し、場合によっては公表するなど、検定制度の透明化を進めてほしい。
現行のままでは教科書検定は権威も信頼も失うことになりかねない。

→やはり、分からない。中立性を保つために「軍の強制」の表記を問題視したのではないのか。
「軍の強制があった」という表記を認める方が、中立性を失っているのだ。
むしろ、安倍政権になって堂々と「中立・公正」を保てるようになった、というところではないのか。
「軍の強制」を認めれば「中立・公正」、認めなければ「中立・公正を欠く」ということか。

社説は、なぜAだけを批判するのか?
A:「軍の強制」を削除要求した検定意見
B:「軍の強制」削除に反対している抗議団体の行為

 「安倍政権の空気を読んで」という記述は、Aに対する批判なのだろうと予想がつく。
 今まで問題にしてこなかった「軍の強制」をなぜ今になって削除するよう注文をつけたのかと。
でも、係争中になるような事実なら、記述は留保しようと言うのはきわめてまっとうな判断で、これまで強制の記述があったなら「野放し」だった状態こそ批判すべきだ。
 4万人の抗議行動で検定意見がくつがえるようなことがあれば、教科書検定の権威も信頼も失われるだろう。
 でも、社説は、検定意見がくつがえることを要求している。教科書検定の権威と信頼が失われるのは社説の望むところではないのか。
 4万人の抗議行動を好意的に報道すれば、教科書検定の権威も信頼も失わせる結果になることは自明のことだ。
 それでいて、なお教科書検定の権威と信頼が失われることを心配してみせる社説の態度がよく分からない。

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