さだまさし「償い」と東野圭吾「手紙」
さだまさしの「償い」の歌詞を読んで、東野圭吾の「手紙」を思い出した。
といっても、実は本を読んでいない。DVDだけなので、書籍とはストーリーも異なっていると思う。
DVDでも十分「償い」を考えさせられた。
殺人犯の兄は愚直に手紙を出し続ける。
弟に、そして被害者宅に。
殺人犯を家族に持つ弟は、兄の手紙を疎ましくさえ思うようになる。
転々と職を変えねばならず、自分の人生を狂わされてしまったからだ。
被害者宅には読まれない手紙の山が積んである。封も切られていない。
加害者からの手紙など読む気になれないのだ、というような心境だ。
兄の「償い」の手紙は、なかなか相手には通じないのである。
そのことを思い知らせるこのDVDは、実に重い作品だった。
「こんなに謝っているんだから許してあげてもいいじゃないか」
「こんなに『償い』の手紙を出しているんだから、許してあげてもいいんじゃないか」
という淡い期待を吹き飛ばす現実の辛さを感じさせる作品だった。
さだまさしの「償い」を読んで、素直に感激できなかったのは東野圭吾の方が「償い」の意味を深くえぐっていたからだ。
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Comments
5分ちょっとの歌と2時間程の映像を比べること自体ナンセンスだと思いますが。
Posted by: | September 27, 2008 02:15 AM
5分ちょっとの歌と2時間程の映像を比べること自体ナンセンスだと思いますが・・・・だから何?。
Posted by: | September 28, 2008 08:28 AM
コメントいただいてありがたいことではありますが、さだまさしの「償い」の歌詞を読んで、東野圭吾の「手紙」を思い出した・・・という行為は否定されることもないと思います。
私が主張したかったのは加害者の手紙の結末が「手紙」と「償い」で正反対だったという事実です。それは5分の歌か2時間のDVDかという長さの問題とは全く別です。
Posted by: 竹田博之 | October 05, 2008 04:51 PM
>加害者の手紙の結末が「手紙」と「償い」で正反対だったという事実
それはそれでよろしいかと思います。
ただ、さだの「償い」には話のモデルとなる実話があります。
私は東野圭吾の「手紙」は読んではいませんが、実話をもとにした「償い」における手紙の結末も、一つの物語だと思うのです。
そこに「深くえぐったかどうか」というのはちょっとナンセンスかなとは思いますね。
Posted by: | February 18, 2009 04:50 PM
さだまさし「償い」をテレビで聞いて東野圭吾「手紙」(DVD)を思い出しました。
さだまさしの方は「手紙の中身はどうでも良かった」と言う歌詞の所が被害者の事を軽んじてると思いました。その後も仕送りを続ける行為に疑問です。(加害者の自己満足では?)
「手紙」の方は最後にそのことに気付いてると言う点で「手紙」の方が私は納得いく出来です。
Posted by: 08J | February 25, 2009 05:44 PM
「手紙」の小説についても書いてあります。
そちらもご覧ください。
Posted by: 竹田博之 | June 14, 2011 06:35 PM
フィクションであろうとなかろうと、
当事者同士でないと理解できない事が沢山あります。
事実はひとつしかありませんが真実は人の数だけあるという事です。
映像はイメージなので直感的に捉えてしまう傾向があります。それに対して詩も文字で読むのと、歌で聞くのとは歌のほうが直感的であると思います。
いづれにしてもそれを受ける人の心の数だけ真実があるのだと思います。
自分が当事者であれば素直に表現すれば良いと思いますが、当事者で無い場合は他人を傷つける言葉は使用しないほうが良いと思います。
あなたは、被害者の奥さんと話されたのですか?
あなたは、加害者の方とはなされたのですか?
いづれにしても当事者には関係なくあなたの想像で書かれてると思います。
自由とはあなた以外の人の自由を奪わない範囲で行える行為だとは思いませんか。
Posted by: HAL | August 02, 2011 07:16 PM
HALさん、詳細なコメントありがとうございます。
HALさんの主張は
①「自分の勝手な解釈を他人に押し付けるな」
②「当事者でないなら意見を言うな」
ということなのでしょうか?
、
Posted by: 竹田博之 | August 06, 2011 04:25 PM
ずいぶんな過去記事にコメントして申し訳ないですが、歌詞の解釈は人それぞれですが、『手紙』と『償い』を同一に語るのはすごく違和感がある。
「ゆうちゃん」は殺人犯でも強盗犯でもない。過失犯。自ら殺意をもって人を殺した殺人犯と、過失によって人を殺してしまった過失犯を同一では語るのはあまりに悪辣な同一視。
人間が完全でない以上、どんなに気をつけていても、私たちも、被害者の奥さんも、みな「ゆうちゃん」になり得るという前提は、この歌詞の解釈において重要な前提だろう。
この事件は、すべての人にとって不幸な『事故』だったのだ。たまたま偶然「ゆうちゃん」が加害者になり、奥さんの旦那さんが被害者になってしまったに過ぎない。
(私の祖父はトラックに轢かれて亡くなりました。身内を殺人犯に殺害された遺族の気持ちは分からないが、交通事故の遺族の気持ちと殺人事件の遺族の気持ちを重ねるのは非常に違和感がある。)
つまり、殺人犯からの手紙と、過失犯からの手紙は、本質的にその意味合いが違う。
大げさに振り向いたせいで頭がぶつかった相手と、金を寄こせと殴りかかってきた相手の謝罪(言い訳)を同一に語るようなものだろう。
「ゆうちゃん」の過ちは程度の差はあれ、人間なら誰もがしてしまう過ち。それが不幸にも死亡事故になってしまった。その不幸を受け入れられず、7年経っても奥さんが加害者の手紙を煩わしく思っているという解釈はあまりに救われないではないか。
救われないというのは、奥さんが、です。
第三者が被害者に「ゆるせ」とはいえないけれど、7年経っても、彼も起こしたくて起こした事故じゃないんだという事実を受け入れる理性より、憎しみや哀しみが優っているのだとしたら、奥さんが救われない。伴侶を事故で亡くしてしまった事とは別の意味で哀れだ。
「ゆうちゃん」の償いが奥さんを救ったなんてことを言うつもりは毛頭ないが、私は7年の月日は彼女がゆうちゃんをゆるす十分な時だったと思いたい。そしてゆうちゃんも奥さんも7年の心の苦しみから、少しでも救われているのだと思いたいではないか。
Posted by: ゆうちゃん | November 16, 2011 08:37 PM
ゆうちゃんさん、コメントありがとうございました。
1点確認です。
東野圭吾『手紙』を読んで、「自ら殺意をもって人を殺した殺人犯」と判断されましたか?
Posted by: 竹田博之 | November 16, 2011 11:34 PM
法律上では間違いなく殺意が認定されるでしょう。
腰から自分のドライバーを抜き、他人の首に突き刺すという一連の動作をしておいて、「殺すつもりはなかった」、「偶然刺さってしまった」という言い訳が通じる訳がない。
一兆歩譲って、奇跡のような偶然で自分のドライバーが他人の首に突き刺さってしまったという言い訳を認めたとして、映画ではそこまで描いていないのかもしれないが、救命措置を放棄し、現場から逃走した以上、殺意はあったと認定せざるを得ないでしょう。
轢き逃げ犯が殺人罪に問われるのと同じことです。
Posted by: ゆうちゃん | November 17, 2011 12:28 PM
ゆうちゃんさん、ありがとうございました。「手紙」の内容をきちんと理解されての意見だと確認させていただき失礼いたしました。
個人的には、「手紙」の殺人犯については情状酌量の余地があるように描いていると感じました。
しかし、「償い」と「手紙」では、同じレベルで語るべきではないことは確かです。
「償い」から「手紙」を連想した自分の思考まで責められるいわれはありませんが、同一視すべきではないことは心します。ご指摘ありがとうございました。
Posted by: 竹田博之 | November 18, 2011 07:26 PM