山本昌弘投手200勝!
地元中日ドラゴンズの山本昌弘投手が他地区でどのように評価されているか分からない。
でも、史上24人目の200勝達成だ。
これは、もう一流の中でも一流の投手の1人といっていいだろう。
42歳11ヶ月での200勝達成は史上初。
おまけに86年に入団して初勝利は88年。3年間0勝後の200勝達成投手も史上初だとか。
88年に渡米、というよりもベロビーチでチームがキャンプした時、日本にいても役に立たないからとアメリカに残した5人のうちの1人が山本選手。つまり当時の彼は整理対象の選手だったのだ。
当時監督だった星野さんは「日本に帰ってきた彼は、ベルトの上に絶対いかない別の投手に変わっていた」と評している。
http://sports.nifty.com/cs/headline/details/bb-ns-p-bb-tp0-080805-0003/1.htmなどにも苦節の25年の様子が詳しく報じられている。
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25年。山本昌の歩みはウサギとカメの物語だ。野球を始めた小学校4年、初めて先発した試合は0-36の大敗だった。中学時代から2番手だった。エースが故障してやっと出番がめぐってきた。日大藤沢高からプロ入りのきっかけとなったのは引退後の神奈川選抜対社会人チームでの好投。その登板も県内NO・1投手が高校選抜へ引き抜かれたことによる繰り上げだった。プロ5年目で初勝利を挙げたが、勝ち始めてもエースと呼ばれたのは今中、野口、川上だった。
ただ努力では負けなかった。3歳の時から自宅に届く200ミリリットルの牛乳12本を1日で飲んでいた。高校時代は、卒業するまで毎朝8キロのマラソンコースを走った。プロ入りから500試合以上投げたが、登板前日の夜に私用で外出していたことは1度もない。午後11時59分にはテレビも消し、本も閉じて布団に入った。入団当時は必ず遠征先に4キロのダンベルを持参。球団支給のキャリーバッグが誰よりも早く壊れるのが誇らしかった。「常に進化していくんだという気持ちを持ち続けていた。野球に対してはウソをつかなかった。サボったら必ず跳ね返ってくるから」。今でもランニングの量は若手に負けない。
試合後には早くも次なる目標を掲げた。「あとはシリーズで勝ちたい。来年からも毎年、戦力でいられるようにしたい」。日本シリーズでの勝利、杉下氏の球団記録211勝…。200勝はゴールではない。ただ、その道程は尊い。【鈴木忠平】
[日刊スポーツ:2008/08/05 09:53]
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結果的には200勝達成の名投手になったが、山本選手以上に才能を評価されても200勝にいかなかった選手は山の数ほどいる。逆に山本選手以上に努力しても報われなかった選手も星の数ほどいる。
山本選手が、体を丈夫に生んでくれた両親に感謝し、プロ野球に誘ってくれた高木スカウトに感謝し、アメリカでコーチをしてくれたアイク生原氏の写真を玄関に飾っている、という人柄が大きな成果をもたらしたように思えてならない。
中日スポーツ紙に掲載された独占手記に次のような箇所がある。
最後に、ボクのような「決して特別ではない野球少年たち」に言葉を送ります。中学で終わる人、高校でやめる人。いろいろあると思いますが、やっている間は精いっぱいやってほしいんです。どのレベルまで上がるかは関係なく、自分が満足してやり終えてほしい。
偉業を成し終えた選手の言葉は重い。
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