あきらめなければ夢は絶対にかなうのか?
「あきらめなければ夢はかなう」とよく言われる。夏の北京オリンピックや日本テレビの24時間テレビでもよく聞いた。
卒業式で子どもが歌う歌に中にも「かならず夢はかなう」「夢をあきらめないで」というフレーズがある。
その言葉の大事さは分かる。
しかし、その一方で、無条件に「あきらめなければ夢はかなう」を信じてはいけないぞ、と抑制が働く。
頂点に立ったほんの一握りの有能選手の下には、たくさんのあきらめた選手がいる。
100人が「オリンピックのマラソンの代表に選ばれたい」と願ったら、かなうのは4年に3人の狭き門だ。
夢破れた人が逆に「どうせ、俺は挫折した人間だ」などと自己嫌悪に追い込まれるようではいけない。
「○○高校に入りたい」と受験勉強にがんばってる中学生も、たくさんいるだろう。
どんな高校だって、全員合格ははありえない。
そんな時「あきらめなければ夢はかなうと信じて勉強してきたのに、結局、別の高校に行くことになった」と自暴自棄にならないようなケアが必要で、「必ず夢はかなう」という言葉だけが絶対視され、あきらめずに夢をかなえた人だけが英雄視されるのは問題だと思う。
転身も大事な人生の1つの選択肢のはずだし、失敗も挫折も人生の大切な糧である。
そもそも「夢」というものは、「○○になりたい」「○○で優勝したい」といった即物的なものである必要はないわけで、「人の役に立ちたい」「自分の長所を生かした職につきたい」というような幾分漠としたものであってもよい。
後者のような夢の設定なら達成の確率はがぜん高くなる。
夢の内容を絞り込めば絞り込むほど自分の首を絞めることになる。大人はそれが分かるが、子どもはどうだろうか。
週刊ポスト9・12号の連載コラム『昼寝するお化け』(曽野綾子)の中に、同じような主張があった。
東京オリンピックの際は「なせばなる」というフレーズをマスコミが熱狂的にもちあげたのだそうだ。
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人間社会で「なせばなる」が通るなら、それは戦争中に命を賭けて闘った日本人すべてを否定するものだ。そんな非礼はない。それなのにスポーツの世界になると、そんな熱狂が平気で通るのである。
人間の世界には、どんなになそうとしてもなし得ないことがある。その悲しみを知るのが人間の分際であり、賢さだろう。
(中略)人間の生涯の勝ち負けは、そんなに単純なものではないのだ。私たちが体験する人生は、何が勝で、何が負なのか、その時はわからないことだらけだ。数年、数十年が経ってみて、やっと答えが出るものが多い。その原則を無視するスポーツに、私は基本的にはあまり魅力を感じない。
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私はそこまでスポーツを嫌わない。
でも曽野氏が批判する戦時中の「なせばなる」と、昨今の「あきらめなければ絶対に夢はかなう」は同義だ。
無節操な根性主義が、相変わらず日本の精神性に会っていると言うことなのだろうか。
それにしてもスポーツと人生は違う。
スポーツの成功者の談話をすぐに人生訓として用い、スポーツコーチングのノウハウを日常のメンタルトレーニングたビジネスの管理術に安易に流用するような風潮は戒めていきたい。
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