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October 31, 2008

久しぶりに読んだ『新解さんの謎』

Sinkai
 6年生の国語の教科書(東京書籍)に、広辞苑出版のいきさつを扱った説明文がある。
 読みとりの後は辞書づくりをすることになっている。
辞書といえば思い出すのが「新明解国語辞典」ということで、10年前に話題になった「新解さんの謎」を久しぶりに読んでみた。
 相変わらず面白い。辞書を読みながら電車でくすくす笑ってたら変人扱いされるだろうが、やっぱり面白い。
 1つだけ例示して笑えるかどうかは自信がないが、例えば「ごきぶり」を引くと「触ると臭い」と書いてある。
新解さんは触って確かめたんだろうなあ、という感じが伝わってくるのだ。
 今でも自分にとってエンタテイメントとして役に立つという実感がある。
 しかし、もう少し自己分析して、違う長所も分かってきた。
  かつて宇佐美寛先生の著作から「事実と意見は区別できない」という指摘を学んだ。
  説明文の文章や段落を事実か意見かを分類させる作業に対する批判だ。
 物事を文章化すれば、自ずと、そこには視点や立場が入る。
 プロ野球でいえば中日スポーツと報知スポーツを比べれば立場(視点)の違いは明らかだ。 
 このような視点に着目した読みは、「分析批評」から学んだ。
 国語辞典は本来客観的な立場で書かれているべきものなのだろう。しかし「おこぜ=形は不格好だが、うまい」のように嗜好性が入ると、辞書にだって主観が入るのだということが分かる。細かく言えば、この場合「うまい」だけが嗜好ではない。「不格好」も嗜好を表している。おこぜの形が「不格好」なのは「事実」か「意見」かと言われれば、これは明らかに意見なのである。

 自分の中で「宇佐美先生の意見への支持」ー「分析批評の読み」ー「『新解さんの謎』への共感」が重なってくることに今ごろ気がついた。久しぶりに読んだ「新解さん」だが、以前よりも明快に「事実と意見は簡単に分けられないのだ」を意識して楽しんだ。

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October 29, 2008

相手の思いを考えるから「思いやり」

 自己犠牲の精神・思いやりの行為について、何回か書き込んできた。たとえば→ここ
 しかし、もう1歩突っ込みが足りないという気がしてきた。

 たとえば、「自分を食べてください」と自らの体を火の中に投じたうさぎの話(瀬戸内寂聴が書いているらしい)。
 おじいさんはそのうさぎの体を喜んで食べられるのだろうか。
 おじいさんはそこまでやってほしいと望んだわけではないのだから、熊は「うさぎを殺してしまった」と一生辛い思いを引きずるかもしれない。
 
 たとえば「泣いた赤鬼」。
 赤鬼のために悪者を演じて去っていく青鬼。そのような青鬼の真意を聞いて赤鬼はどう思うだろう。
 青鬼の犠牲の上に赤鬼は漫然と生きていくことなどできない。赤鬼は一生辛い思いを引きずるかもしれない。
 結果として赤鬼を泣かせてしまった青鬼の行為はベストの方法なのだろうか。もっといい方法があったように思うし、高学年ならその代案を考えさせたい。

 たとえば東野圭吾の『手紙』。
 加害者から被害者家族への謝罪の手紙の束。
 被害者家族は手紙をもらう度に嫌な思いをし、封も切らず無視し続けた。その事実を知った加害者は手紙を止める決意をする。

 道徳の資料で雨の山道で道に迷ったオートバイの青年を助け、おまけにガソリンをあげるという話があった。
青年がガソリンの代金を払おうとしたらトラックの運ちゃんは断っている。
 運ちゃんにとっては何とはない代金だろうが、ここは素直に代金を受け取った方が青年の心理的負担も少ないと私は思う。
 オートバイのガソリンだから満タンでも1000円程度である。 私が運ちゃんでも「それくらい、いいわ」と断るだろうが、それぐらいの額だから逆に受け取ることも親切のうちなのではないかと思う。

 だいたい教員同士で食事や喫茶店に入る時も、おごる・おごられるでバタバタするよりは、きちんと自分の分を支払った方がすっきりする。

 「思いやり・やさしさ」が、時に相手に多大な負担を強いることがある。
 「小さな親切、大きなお世話」は好きになれない言葉だが、相手が重荷になるような親切は自己満足に陥りやすく要注意なのだということを学校で教えていかなければいけないと思う。
 それは、メタ認知(離見の見)の意味でもいいし、視点の変換(相手の立場への感情移入)の意味でもいいのである。

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October 12, 2008

「授業のまとめ」の2つの意味

 ありがたいことに拙ブログに質問が届いた。

小学校高学年の国語のまとめ作業とは何でしょう。
教える側としての定義と指導法は確立したものがあるのでしょうか

・・・「まとめ作業」という意味がよく分からなかった。

学校の方針でどの教科も、「まとめ作業」が多く戸惑っています。
①国語の物語文、説明文 を系統だって指導する方法はあるのでしょうか。
まとめって、要約、ではそれはどういう作業をどうスモールステップで教えてあげるにはどうすべきか悩んでおります。
丸写しではないこと、要点をいれること。では要点とはなにか。など、すべて一からスモールステップで教えたいと思いますが、すでにそういう指導法は確立されているのでしょうか。

・・・ここまで読んで、「まとめ作業」に2つの意味が混ざっていることが分かりました。
 1つは各教科の「授業のまとめ」
◆今日の授業で分かったことを整理する
◆今日の授業の感想や新たに生じた疑問を書く
というような作業のことです。
 今日の授業のふりかえり、ということでプリント形式で「ふりかえりカード・自己評価カード」という形で書かせる場合も多いです。
 「授業・ふりかえり」などで検索してみるとヒットすると思います。
 
 もう1つは「要約・要点」=文章を簡潔にまとめる、という意味での「まとめ作業」
 子どもに示す手法としては
◆5W1Hであら筋をまとめる。
◆起承転結・はじめーなかーおわり・序論ー本論ー結論のような文章構造を把握し、作者・筆者の一番言いたい部分をつかむ
◆一番重要な1文(トピックセンテンス)を抽出する
◆段落ごとに小見出しをつける
◆文章全体には最初から「題名」がついているから見出しはいらないが、題名と文章全体の意味関係を確認する作業が効果的な場合がある

などがあります。
 後者の意味なら「要約指導」あたりでネット検索すれば、書籍も研究論文もたくさんヒットすると思います。

 私の要約指導のレポートもよかったらご覧ください

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人が死ぬことの痛みと重み

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緒形拳さんの追悼番組ということでNHKで「帽子」が放映された。

http://www.nhk.or.jp/hiroshima/eighty/boushi/

本放送を観ていなかったので、何気なく観ていたのだが、その味わい深さに引き込まれた。久しぶりに大人の鑑賞に堪えるすばらしい作品に出会えたと思った。
地道に「ノホホン」と生きる頑固な帽子職人を演じる緒形拳はさすがだった。
ちょっとしたアクシデントで運命を呼び込めなかったことの後悔を何十年も引きずる主人公。
 人生は何と意地悪なのかと思わせる悲しい話でもあった。
 ああ、この緒形拳さんが亡くなったのか、と思うと、単にドラマを観るのとは違う感情も交じっていた。

 それにしても、である。
 自分が子どもの頃は、よく追悼番組・特集番組があったように思う。
 子どもはあまり興味がないから、臨時番組があると残念だった。
 でも、著名な人がなくなって特集や再放送が流れるというのは、テレビ業界が「生」と「死」について教育を施していたのだという気がする。
 人が死ぬと言うことの重さ。
 「ああ、この人、亡くなったんだな」と思いながらドラマを観たり歌を聴いたりすることは、亡くなった後も平然と再放送されるテレビだからこそ、節目として大事にすべきなのでははないだろうか。
 人が死ぬというのは「通常番組を変更する」だけの価値のある出来事であっていいはずだ。
 人が死んでなお「通常番組がそのまま」という行為は、人が死んでも世の中は何も変わらないと教えてるようなもので、やはり、死を大事にした=生を大事にした世の中ではないことの現れだと思う。
 今のテレビは生命の重さよりも営業利益や視聴率といった経済を重んじているんだということだけがよく分かる。

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