久しぶりに読んだ『新解さんの謎』
6年生の国語の教科書(東京書籍)に、広辞苑出版のいきさつを扱った説明文がある。
読みとりの後は辞書づくりをすることになっている。
辞書といえば思い出すのが「新明解国語辞典」ということで、10年前に話題になった「新解さんの謎」を久しぶりに読んでみた。
相変わらず面白い。辞書を読みながら電車でくすくす笑ってたら変人扱いされるだろうが、やっぱり面白い。
1つだけ例示して笑えるかどうかは自信がないが、例えば「ごきぶり」を引くと「触ると臭い」と書いてある。
新解さんは触って確かめたんだろうなあ、という感じが伝わってくるのだ。
今でも自分にとってエンタテイメントとして役に立つという実感がある。
しかし、もう少し自己分析して、違う長所も分かってきた。
かつて宇佐美寛先生の著作から「事実と意見は区別できない」という指摘を学んだ。
説明文の文章や段落を事実か意見かを分類させる作業に対する批判だ。
物事を文章化すれば、自ずと、そこには視点や立場が入る。
プロ野球でいえば中日スポーツと報知スポーツを比べれば立場(視点)の違いは明らかだ。
このような視点に着目した読みは、「分析批評」から学んだ。
国語辞典は本来客観的な立場で書かれているべきものなのだろう。しかし「おこぜ=形は不格好だが、うまい」のように嗜好性が入ると、辞書にだって主観が入るのだということが分かる。細かく言えば、この場合「うまい」だけが嗜好ではない。「不格好」も嗜好を表している。おこぜの形が「不格好」なのは「事実」か「意見」かと言われれば、これは明らかに意見なのである。
自分の中で「宇佐美先生の意見への支持」ー「分析批評の読み」ー「『新解さんの謎』への共感」が重なってくることに今ごろ気がついた。久しぶりに読んだ「新解さん」だが、以前よりも明快に「事実と意見は簡単に分けられないのだ」を意識して楽しんだ。
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