相手の思いを考えるから「思いやり」
自己犠牲の精神・思いやりの行為について、何回か書き込んできた。たとえば→ここ
しかし、もう1歩突っ込みが足りないという気がしてきた。
たとえば、「自分を食べてください」と自らの体を火の中に投じたうさぎの話(瀬戸内寂聴が書いているらしい)。
おじいさんはそのうさぎの体を喜んで食べられるのだろうか。
おじいさんはそこまでやってほしいと望んだわけではないのだから、熊は「うさぎを殺してしまった」と一生辛い思いを引きずるかもしれない。
たとえば「泣いた赤鬼」。
赤鬼のために悪者を演じて去っていく青鬼。そのような青鬼の真意を聞いて赤鬼はどう思うだろう。
青鬼の犠牲の上に赤鬼は漫然と生きていくことなどできない。赤鬼は一生辛い思いを引きずるかもしれない。
結果として赤鬼を泣かせてしまった青鬼の行為はベストの方法なのだろうか。もっといい方法があったように思うし、高学年ならその代案を考えさせたい。
たとえば東野圭吾の『手紙』。
加害者から被害者家族への謝罪の手紙の束。
被害者家族は手紙をもらう度に嫌な思いをし、封も切らず無視し続けた。その事実を知った加害者は手紙を止める決意をする。
道徳の資料で雨の山道で道に迷ったオートバイの青年を助け、おまけにガソリンをあげるという話があった。
青年がガソリンの代金を払おうとしたらトラックの運ちゃんは断っている。
運ちゃんにとっては何とはない代金だろうが、ここは素直に代金を受け取った方が青年の心理的負担も少ないと私は思う。
オートバイのガソリンだから満タンでも1000円程度である。 私が運ちゃんでも「それくらい、いいわ」と断るだろうが、それぐらいの額だから逆に受け取ることも親切のうちなのではないかと思う。
だいたい教員同士で食事や喫茶店に入る時も、おごる・おごられるでバタバタするよりは、きちんと自分の分を支払った方がすっきりする。
「思いやり・やさしさ」が、時に相手に多大な負担を強いることがある。
「小さな親切、大きなお世話」は好きになれない言葉だが、相手が重荷になるような親切は自己満足に陥りやすく要注意なのだということを学校で教えていかなければいけないと思う。
それは、メタ認知(離見の見)の意味でもいいし、視点の変換(相手の立場への感情移入)の意味でもいいのである。
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