人が死ぬことの痛みと重み
緒形拳さんの追悼番組ということでNHKで「帽子」が放映された。
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/eighty/boushi/
本放送を観ていなかったので、何気なく観ていたのだが、その味わい深さに引き込まれた。久しぶりに大人の鑑賞に堪えるすばらしい作品に出会えたと思った。
地道に「ノホホン」と生きる頑固な帽子職人を演じる緒形拳はさすがだった。
ちょっとしたアクシデントで運命を呼び込めなかったことの後悔を何十年も引きずる主人公。
人生は何と意地悪なのかと思わせる悲しい話でもあった。
ああ、この緒形拳さんが亡くなったのか、と思うと、単にドラマを観るのとは違う感情も交じっていた。
それにしても、である。
自分が子どもの頃は、よく追悼番組・特集番組があったように思う。
子どもはあまり興味がないから、臨時番組があると残念だった。
でも、著名な人がなくなって特集や再放送が流れるというのは、テレビ業界が「生」と「死」について教育を施していたのだという気がする。
人が死ぬと言うことの重さ。
「ああ、この人、亡くなったんだな」と思いながらドラマを観たり歌を聴いたりすることは、亡くなった後も平然と再放送されるテレビだからこそ、節目として大事にすべきなのでははないだろうか。
人が死ぬというのは「通常番組を変更する」だけの価値のある出来事であっていいはずだ。
人が死んでなお「通常番組がそのまま」という行為は、人が死んでも世の中は何も変わらないと教えてるようなもので、やはり、死を大事にした=生を大事にした世の中ではないことの現れだと思う。
今のテレビは生命の重さよりも営業利益や視聴率といった経済を重んじているんだということだけがよく分かる。
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