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December 31, 2008

「オウムの消防」と「ハチドリのひとしずく」

Book_hachidori_lg_2
 大安寺のWebサイトの法話集2の中に、次のお話がある。

http://www.daianzi.com/howa2/howa2-31.htm
 
 仏教では、人間のあらゆる行動の基本は意思であると教える。
 しっかりとした意思が伴わない行為は挫折しやすいが、意思さえ強ければ不可能のように見える事業でも成功する。たとえば次のような説話がある。

 ある時、森の中で竹や木がこすれあって自然に発火し、山火事となった。
 そこに住んでいた獣や鳥たちは恐れて逃げまどうばかりで、焼け死ぬ他はなかった。

 それを見た一羽のオウムが一大決心をして飛び立ち、泉で翼をぬらして来ては森の上で羽ばたきをして水を何回となくこれを繰り返した。
 山火事は広がる一方で、オウムはヘトヘトになったが、多くの獣や鳥の命を救おうと決心を固めて努力を続けた。
 オウムの真心はついに天上界に通じた。帝釈天はオウムの熱心さに感動して雨を降らせて山火事を消した。


・・・ある所で「オウムの消防」というタイトルがついて紹介されていたが、原典が不明だったので、ネット検索して大安寺のサイトの講話を使わせていただいた。。
 この話とよく似ているのが、「ハチドリのひとしずく」のお話だ。

南アメリカの先住民に伝わるハチドリの物語

あるとき森が燃えていました

森の生きものたちは
われ先にと逃げていきました

でもクリキンディという名のハチドリだけは
いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て
「そんなことをしていったい何になるんだ」
といって笑います

クリキンディはこう答えました
「私は私にできることをしているの」

出典:『私にできること~地球の冷やし方』(ゆっくり堂)、
     『ハチドリのひとしずく』(辻信一監修、光文社)

 http://www.hachidori.jp/story.html  より


 帝釈天のお話は、他者のためにがんばっているオウムに仏から恵みがいただける。
因果応報というか、日本的ないいお話だ。
 「ハチドリ作戦」は、他者からの恵みはない。
 それでも自分はいいと思うなら信じてやり通せ、ということで、かなり大変だが
 「当たり前のことを当たり前にやり通す」
 「信じた道を突き進む」
 「なせばなる」
というのも極めて日本人に合う考え方だ。
 私の小学校6年の担任の卒業文集の言葉が「雨だれ石をも穿つ(うがつ)」だった。
 いずれにしろ、比べて考えさせてみるのも面白い。

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December 27, 2008

「サーカスのライオン」をどう読むか・どう問うか?

 『サーカスのライオン』は、自己犠牲を感じさせる悲しくて、いい作品だと思う。
 『サーカスのライオン』を深く読み取るためにストレートに次のように問う。

 「なぜ、ライオンは火事の中に飛びこんだのだろう」
 これは極めてありきたりな問いで、
◆少年を救いたかったから
あたりが、正解となるのだろうが、この程度の答えで満足してはいけない。

 「なぜ」というのは普通では考えられない事態が生じた際のギャップを問うことだ。
====================
 自分が死ぬかもしれないんだから、普通だったら火事の中に飛びこまないよ。
 それなのに、ライオンは火事の中に飛びこんでいったんだ。
 不思議だなあ。なぜ、ライオンは火事の中に飛びこんだろう。

=======================
というのが「なぜ」と問うた経緯である。
 だから「少年を救いたかったから」だけでは不十分で
◆少年はじんざにとってたった1人の大切な親友だから、死なせるわけにはいかないから、じっとしていられなくて飛び込んだ。
◆このまま何もしなかったら親友が死んじゃうから、自分の力で何とかしたくて飛び込んだ。
というように、理由の述べ方を細かくさせたい。

 さらに「なぜ」で追いこむ。
====================
 たしかに少年を救いたかったんだよね。
 でも、よーく考えてごらん。
 火事の中に飛びこんだら、自分だって死ぬかもしれないんだよ。
 そんな危ないことは消防署の人に任せればいいじゃない。
 それなのに、なぜ、ライオンは火事の中に飛びこんでいったの?

=======================

◆一刻を争うから、消防車を待っていられない。
 それに、火の輪くぐりに慣れている自分なら助けられるかもしれない。
 そんな思いでライオンは自分が親友を助けようとしたんじゃないかな。
というようなところまで思考させたい。

 そして、さらに「なぜ」で追い込む。
====================
 確かに少年は友達です。
 でも、友達を助けたいからって火事の中に飛びこんだら、自分だって死ぬかもしれないんだよ。
 みんなだったら少年を助けたいからって、火事の中に飛びこめるかなあ。
 なぜ、ライオンは少年のためだからといって、自分の命まで投げ出せたんだろう。

=======================

◆ライオンにとっては少年は友達というより家族みたいなものだったから、
 年老いたじんざは少年のこと自分の息子のように感じて、自分の命を捨ててでも、救いたいと思ったにちがいない。
 
・・・・ここまで「なぜ」を用いて詰めをしていったら、答えはほんの一言ではなく数行も可能になる。
答えが「単語」でなく「論」になる。

◆自分が死ぬかもしれない状況で火の中に飛びこんでいったのは、たった1人の親友が火事現場にいたからだ。
ライオンにとって少年は親友というより息子みたいなものだったから、年老いた自分の命を捨ててでも少年を救いたいと思ったにちがいない。
このまま何もしなかったら少年が死んでしまう。
消防車なんか待っていたら少年は死んでしまう。
でも、サーカスの火の輪くぐりに慣れている自分なら助けられるかもしれない。
自分が死ぬと決まったわけではない。でも、このままでは少年は死んでしまう。
そんな思いでライオンは火の中に飛び込んでいったのだ。◆

・・・「なぜ」という問いは、ぎりぎりまで追い込んでいかないと、本当の答えにたどりつかず上っ面の答えに終わってしまうというのが自分の考えだ。
 
ところで行動の裏の心境を問う時に
◆なぜ、火の中に飛び込んだのですか? と「なぜ」を使うパターンと
◆火の中に飛び込んだとき、ライオンは、どんな気持ちだったでしょうか? と「どんな」を使うパターンがある。
 考えさせたい内容は同じだが、「どんな気持ちか」かを想像させるのは人物の気持ちに同化させるアプローチである。
 先の場面は「なぜ」でも「どんな」でも、大差なく授業できる。

 ただし、「サーカスのライオン」で一番扱いたいラストの昇天の部分はそうはいかない
◆なぜ、金色に光るライオンは、空を走り、たちまち暗やみの中に消え去ったのですか?
と聞かれても、答えに困る。どの部分を「なぜ」と尋ねているかが明確でない。
 この場合は、
◆空を走り、たちまち暗やみの中に消え去った時、金色に光るライオンは、どんなことを考えたでしょう。
の方がスムーズなのだ。

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December 25, 2008

「ごんぎつね」をどう読むか

 以前『ごんぎつね』を「こそこそ償いをするから相手に通じないのだ」というようなことを書いて批判的なコメントをいただいた。
 「こそこそ」は本文中にない言葉だから、恣意的にイメージダウンをはかった言葉だと言われてもしかたない。
 したがって、今回は無理のない程度の表現で解釈をしてみる。

 さて新美南吉の『ごんぎつね』(小4)を読む。
 すなおに読めば「悲劇」だ。
 最後に「分かり合えた」からハッピーエンドという人もいるようだが、それは無理がある。
 銃で撃たれた後に「分かり合えた」という皮肉な結果は「ハッピー」とは言えない。
 だから、私は「悲劇」でいいと思っている。
 「悲劇」なのだから、
◆なぜ、このような悲劇が起きたのか
◆どうすれば、このような悲劇は防げたか
という形で思考を促せばいい。
 作者の願いも
「読者の皆さんは、この作品のような悲劇を起こさないように」
という警鐘だと、とらえることができる。

というわけで、「ごんぎつね」の悲劇の原因と教訓を探ってみる。
  ちなみに教訓として2つの方向がある。「~すべし」と「~べからず」だ。

(1)ごんは「いたずら」をして、兵十を怒らせたので撃たれた。
  「いたずら」は、よくない行為だからしてはいけない。
(2)兵十の母の死を自分のせいだと「思いこんだ」ため、ごんは自分から兵十に近づき撃たれた。
  よく考えてから行動しよう。「思いこみ」の行動はいけない。
(3)ごんの「謝罪」の気持ちが、兵十に通じなかったので誤解されて撃たれた。
  「謝罪」したいなら、相手に伝わるようにきちんと謝るべし。
(4)ごんは自分の償いの行為を神様のせいだと思われ「引き合わない」と感じ、「感謝されたい」と思い何度も近づいたので撃たれた。
  感謝されたいなどと「欲」を出してはいけない。
(5)動物と人間は「言葉が通じない」からから撃たれた。
  みんなは人間だから、きちんと「言葉」で意志を伝えるべし。
(6)ずばり「不如意」。
  人生は思い通りにいくとは限らないことを知るべし。
(7)「すれちがい」
  人生には「すれちがい」があることを知るべし。

 「~すべし」・・・・・「謝罪」「言葉」「不如意」「すれちがい」
 「~べからず」・・・「いたずら」「思いこみ」「欲」

・・・(7)は「すれちがいに気を付けよう」ではなく、「すれちがいは起こりうる」という意味で述べた。

 教訓的に読むことだけが全てではない。この7つの読みが正解だとも思ってはいない。
 ただ、教訓的な意味があるからこそ読み継がれる民話も多い。
 「ごんぎつね」は民話風なので、読み継がれ、語り継がれる意味を考えて、教訓を想定することもあっていいのだと思う。

 ★原典はすぐに出ないが「ごんぎつね」を低学年に読ませると「死んでいない・生き返る」として読む子が多いそうだ。生きていてほしい・死んでしまうなんて悲しすぎると思うから、生きていると信じたいのだそうだ。
 そして「ごんは死んだ」と悲劇を受け入れて読めるのが10歳前後=4年生という発達段階なのだそうだ。
 なるほどね、ごんの死を受け入れるのも発達段階の問題だったのか。
 私は、この「ごんぎつね」の結末は、作者が結末をはっきり書かないで読者に委ねる「論点回避」の手法だと思っていました。

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December 24, 2008

「派遣切り」のニュース

 「派遣切り」「期間工打ち切り」のような話題が絶えない。
  テレビや新聞の論調は「派遣や期間工の解雇はかわいそうだ」ではあるが、実はよく分からない。
 それは、いろんな事例をごっちゃにして論じているからだ。 
 例えば、いすず自動車の派遣社員の解雇は、道義的な問題ではなく、法令違反のはずだ。
 その他の派遣社員の場合「今後の契約更新はしない」ということであるならば、これは道義的な責任であって法的には責められない。
 
 12月9日には、不当解雇に関する通達が出されている。概要が、以下のファイル。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2008/12/dl/h1209-1a.pdf

 一部だけ紹介すると、次の箇所が注目される。

1 不適切な解雇、雇止めの予防等のための啓発指導
 労働基準関係法令(有期契約労働者の雇止め等に関する基準を含む。)の遵守はもとより、労働契約法や裁判例(解雇回避のための配置転換等の措置をするよう努めるべきこと等)等に照らし、不適切な解雇や雇止め等が行われることがないよう、事業主等に対し、新たに作成するパンフレット等を活用し、各種機会を利用して、啓発指導を行う。
(参考)新たに作成するパンフレット
「厳しい経済情勢下での労務管理のポイント」
「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準について」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1221240012
には、詳しく解説がある。
派遣社員だろうが直接雇用だろうが正当な理由がなければ解雇できないことに違いはありません。
 派遣やバイトなど非正規雇用者であっても労働者ですから労基法が適用されないなんてことはありません。
 ただ派遣社員の雇用主は派遣先ではなく派遣会社です。
 つまり社員が雇用契約を結んでいる相手がそもそも違います。
 ですから派遣先からの就業解除は解雇にはあたらず、派遣会社との労働者派遣契約に反しなければ労基法の基準にかかわらず解除できるわけです。

・・・これも、大事な問題を指摘している。
 例えば自動車メーカーの期間工は、自動車メーカーと雇用契約を結んでいるから、メーカーと交渉することになる。しかし、派遣社員の場合は、派遣会社と雇用契約を結んでいる。派遣社員は派遣会社に文句を言うべきなので、企業は直接苦情を言われる筋合いではないということになる。
 だから、まとめて批判したりまとめて報道したりすると、事の本質が見えなくなってくるのだ。
  
http://blog.goo.ne.jp/urmt/e/120b54c607986e56f167e56385384425

には、赤旗HP(12月8日分)からの引用という形で次のように書いてある。
=====================
 志位和夫委員長が本社に解雇撤回を申し入れたのは、発表直後の十一月二十六日。
 減益といっても六百億円の経常利益を見込み、株主配当を十七億円も増やす計画をあげて、「一方で全員解雇しながら一方で配当を増やすのでは、労働契約法で定める『やむをえない事由』とはいえず、違法解雇だといわざるをえない」と追及。人事担当取締役はまともに返答できず、「法令を見定めてやっているつもり」と答えるのがせいいっぱいでした。 来春まで寮に入れるようにすることも表明しました。
 二日の参院厚生労働委員会。小池晃政策委員長が、いすゞの大量解雇は労働契約法違反だと追及すると、
労働基準局長は法違反もありうると認め、舛添要一厚労相は「調査し、必要な改善策をとりたい」とのべました。
住まいの確保も検討していると答えました

=======================

 内部留保や経常利益があるなら派遣を切るな、というのは法的なクレームか、道義的なクレームか。
 「違法解雇だといわざるをえない」という表現は、違法解雇が確定とは言い切れないような歯切れの悪さがある。 「労働基準局長」は法違反もありうる」というのは極めて微妙な状況を示している。
 契約期間を残して解雇した「いすず自動車」でさえ、法違反が明確でないなら契約延長をしなかった他の会社の場合は道義的にしか責任を問えない。

 ところで、同じように大量解雇を打ち出したソニーについても、次の記事がある。
 http://www.j-cast.com/2008/12/18032513.html
◆ ソニー社長がマスコミとのインタビューで、雇用より会社がつぶれないことを優先することを明らかにした。株主利益も考えた経営判断だが、正社員削減まで踏み込んだことに、「国際企業として、違和感はない」と評価する声も出ている。
◆ 「アメリカの企業なら、好景気でも余剰人員を削っています。国際企業なので、当たり前の感覚なんでしょうね。日本では、ソニーは一歩踏み込んでいると思います」

 やはり、今更ながら「派遣の自由化」という規制緩和がそもそも間違っていたということか。
 空前の利益を上げた会社を支えていたのは不安定な身分と低賃金でも我慢して働いてきた非正規社員であったというだけのことか。
 もっとも、多くの国内メーカーが低賃金のアジア地域に工場をつくった時点で、「派遣切り」ならぬ「日本切り」が起きていた。給料は日本人ではなく外国人に支払われてきたから個人消費=内需は支えられなかったのである。
 
 今回の「派遣切り」問題に根っこは深い。少なくとも軽々しく批判したり断定したりできれるほど簡単なものではない。派遣切りを報じるテレビのキャスターやタレントのギャラはどうなんだ、などと批判し出したらきりがない。
 早々と派遣切りを宣言した会社がスポンサーになったサッカーの大会で、多くの日本人が盛り上がっていたではないか。
 そして「公務員のお前はどうなんだ」と言われれば、それまでなのである。

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December 04, 2008

「海のいのち」の絵本は教科書と違う

Photo
小学6年生の国語のメイン教材とも言えるのが「海のいのち」(立松和平)である。
難教材なので、以前も2回ほど書いた。

◆「海のいのち」(立松和平)は、共生の物語か
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2008/08/post_edbc.html

◆「海の命」(立松和平)をどう読むか?
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2008/08/post_6a7f.html

 例えば「海の命」をどう読むかを考えても、答えは様々だ。

1)尊敬する父親と同じ道を歩もうとする作品
2)尊敬する父とは違う道を歩もうとする作品
3)尊敬する父親を奪ったものを追い求める作品
4)さまざまな人に出会い、成長していく作品
5)自然の偉大さに触れる作品

 「自然界の共生について考えさせる作品」とも言えるが、これには異論もある。
 そのことは以前も書いた。
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 それにしても「共生」か。
◆「千びきに1ぴきでいいんだ。千びきいるうち1ぴきをつれば、ずっとこの海で生きていけるよ」
◆太一は村一番の漁師であり続けた。千びきに1ぴきしかとらないのだから、海のいのちは全く変わらない
といった叙述に、「共生」の思想が読み取れる。
 しかし、そもそも「捕るー捕られる」「食うー食われる」「殺すー殺される」という関係しかない「人間ー魚」に「共生」の思想があてはまるのだろうか。
 一方的に魚を捕まえて殺して食しておきながら「千匹に1匹でいい」から「共生」だというのは、あまりにエゴイステイックな話ではないだろうか。
===================

・・・さて、「海の命」の絵本(ポプラ社)を入手した。
 もし、この絵本は、教科書と異なる部分がある。
 与吉じいさの言葉だ。

「わしはもう年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、これ以上とるのも罪深いものだからなあ。魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる」

 ここは東京書籍も光村出版も次のようになっている。

「わしはもう年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、もう魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる」
 
・・・「これ以上とるのも罪深い」
 この言葉があれば、魚を捕ってその命の犠牲の上に人間が生活していることがよく分かる。

1)漁師は海の命の犠牲の上に生きている=人間は、他の命の犠牲の上に生きていることを訴える作品
2)人が生きていく上で無意味な殺生をしてはならないことを訴える作品

ということになる。ならば「共生」のキーワードも浮かんでくる。
 「いただきます」の精神と同じで、常に「罪」の意識を感じながら魚を捕り、魚を食べろというメッセージだ。
 逆に、この言葉がない教科書版では、「千匹に一匹でいいんだ」という意味が伝わりにくい。漁業で生計を立てているなら少しでもたくさん捕って大漁を喜ぼうと考えるのが当たり前だからだ。
 クエを捕まえようとしていた太一が最後にやめた。
 それは、父親の敵を討ちたいとか大きい魚を捕りたいといった単なる我欲でクエを捕るのは罪深い行為なのだと気付いたからということになる。
 そのように読ませるには、与吉じいさの「これ以上とるのも罪深い」の言葉は、無視できない。

教科書版の「海のいのち」では、クライマックスが分かりづらい。
太一の気持ちが、がらっと変わったところが、分かりにくい原因の1つにページレイアウトがある。
 東京書籍版。
=======================
・・これまで数限りなく魚を殺してきたのだが、こんな感情になったのは初めてだ。この魚をとらなければ、本当に一人前の漁師にはなれないのだと、太一はなきそうになりながら思う。
 水の中で太一はふっとほほえみ、口から銀のあぶくを出した。もりの刃先を足の方にどけ、クエにむかってもう一度えがおをつくった。
 「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから」

      (次ページ)

 こう思うことによって、太一は背の主を殺さずにすんだのだ。大魚はこの海のいのちだと思えた。
=====================
 ページの切れ目が意識の区切れ目になるから、「こう思うことによって・・」の前、「おとう・・」のセリフが一番盛り上がるように読めそうだ(私はそうは思わないが)。

 ちなみに光村版も、「こう思うことによって~」の部分から次のページになるが、見開きページの中の改ページなので切れ目の意識は弱い。

 さて、入手した絵本の場合は、どうかと言うと・・。
====================
・・これまで数限りなく魚を殺してきたのだが、こんな感情になったのははじめてだ。この魚をとらなければ、ほんとうの一人前の漁師にはなれないのだと、太一はなきそうになりながら思う。

 (次ページ)

 水の中で太一はふっとほほえみ、口から銀のあぶくを出した。もりの刃先を足の方にどけ、クエにむかってもう一度えがおをつくった。
 「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから」
 こう思うことによって、太一は背の主を殺さずにすんだのだ。大魚はこの海のいのちだと思えた。
=====================
 こちらは、私の解釈するクライマックス(ピナクル)と一致している。
 太一は「水の中でふっとほほえみ」の時点で、すでにクエを殺さない・殺さない自分なりの理由を考えついた、という意味で考え方がガラッと変わっている。直前の「なきそうになりながら思う」と比較すると、ガラッと変わったのは、「なきそう」と「ほほえみ」の間の行間だということが分かる。
 絵本では、ページをめくったところで、場面が変わる・人物の意識が変わるという形になっている。教科書はその変化が分からなくなっている。
たしかに「おとう、ここにおられたのですか」の一言は決定的でクライマックス(ピナクル)ともとれるが、意識の変化・太一の葛藤はもう終わっている
 むろん、絵本が原本と言えるかどうかは分からない。
 絵本作家(伊勢英子さん)のページ割が、立松和平の意向と一致していつのかどうかは、我々には分からないからだ。
 絵本版を参考にすると、「ほほえみ」の直前で意識が変わったことがよく伝わる、という程度の補足になるだろうか。

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