中田厚仁さんは、日本の誇り
1993年4月8日。元国連ボランティア(UNV)、中田厚仁さんがカンボジアの総選挙監視員として活動中に、カンボジア中部コンポントム州プラサットサンボー郡で殉死した。
詳細は以下のサイトに詳しい。
http://www.bangkokshuho.com/archive/2007/oldcolumn/cambodia/1261.htm
中田さんが亡くなった時、その場所には誰も住んでいなかった。 しかし、中田さんが亡くなってから2年後に村が出来た。 村人たちは、中田さんの温かい人柄、献身的な活動と無念の死を悼み、感謝を歴史に残そうと、村の名前を「アツ・ビレッジ」と名づけた。 公式には「ナカタアツヒコ・コミューン」と呼ぶ。
自分の名前が後世に残る。
それだけでも、すごいと思うが、異国の地で村の名前になってしまうというのは、どれほどの尊敬を集めてのことなのか、想像を超える。
http://tamezou6.iza.ne.jp/blog/entry/536110/ の冒頭は印象的なエピソードが示されている。
"I am dying"(私は死んでいきます)という荘重な言葉を最期に、中田厚仁さんが、二十五年の短い生涯を終えたのは、今から五年前の平成五年四月八日、場所はカンボジア、コンポトム州であった。中田さんはUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)のボランティアメンバーとして、総選挙実施の支援活動をしていた途中、何者かに、至近距離から二発撃たれ、一発の銃弾は左側の頭の後ろから左目に貫通したのである。
アツ村のアツ小学校を実際に訪れた人のブログは、実にうれしい。
http://angkor.blog13.fc2.com/blog-entry-774.html
カンボジアに行く機会が生涯のうちにあるかどうか分からないが、アツ村の存在は忘れない。
心の中で中村厚仁さんに手を合わせたい。
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