« June 2009 | Main | August 2009 »

July 27, 2009

「努力」の指導

Photo
村上春樹よりも村上龍の方が好きである(メデイア露出度のせいでもある)。
 村上春樹の作品を買いに行って、つい息抜きに村上龍を買ってしまった。

 「ハバナ★モード」(幻冬舎文庫)H20年4月初版

 裏表紙の言葉が目を引いた。
================
 『努力すれば何とかなる』と『努力してもしかたがない』。その二つは一見異なった態度のようだが基本的に同じものではないかと思う。
==================
・・・もっと詳しく知りたくなって購入した。
巻頭の1編「ハバナ・モード」に載っている。

◆キューバ人だったら、まず、心のもっともベーシックな部分で、「何とかなるだろう」と楽観するだろうと想像し、それにならおうと思った。それは、必ず何とかなるだろうとたかをくくって安心してしまうことではない。 あきらめるという選択肢を消し、リラックスするためにとりあえず心の状態をポジティブに保つというようなことだ。そして、いったんリラックスしたあと、キューバ人は危機の回避やプロジェクトの実行に向けて猛烈な努力を始める。できることから一つずつやっていくわけだが、その仕事・作業には、「何とかなるだろう」という曖昧でポジテイブな態度とは対極の緊張と集中が必要になる。

・・・この後は先の言葉が続く。

日本では「努力すれば何とかなる」と「努力してもしかたがない」という典型的な二つの態度があるとよく言われる。その二つは一見異なった態度のようだが基本的に同じものではないかと思う。

・・・村上龍は、講演会での質問や、映画制作や執筆途中の出来事、緊迫した国際問題など具体例を重ねることで説得する方法をとる。
 村上春樹は小説の中で比喩表現で抽象的に理解させようとする。
 村上龍はエッセイの中で実例を挙げて具体的に理解させようとする。
 それは作家の違いであるし、文章の質の違いである。

 村上龍の具体例を省いて、「努力」に関する言葉を引用する。
 その言葉は、いわば「変化のある繰り返し」である。

努力というのは、本来その内部にある矛盾を抱えている。「最終的には何とかなるはずだが現状ではまったく不可能だ」というような矛盾だ。

何とかなるという前提とこのままではダメだという絶望が同居して、その二つを近づけ混在させるためのあらゆる努力が必要になるという考え方は、この日本社会にはほとんどない。

何とかなるだろうという曖昧でポジテイブな前提と、このままではどうしようもないという絶望の間に、わたしたちの努力のすべてがある。

そして実は、曖昧でポジテイブな前提と救いのない絶望の広大な乖離から個人としての希望のようなものが生まれる。

◆「ほとんどゼロに思える可能性に対する不断の努力」が不可欠なのだ。
・・・村上龍が「ハバナ・モード」と呼んでいるこのような「努力」の態度は、危機に際した国家や個人が取りうるおそらく唯一の基本戦略なのだと言う。
 ただし、この章の最後となる次の一文は、これまでの主張の繰り返しの一つであるとは思うのだが、私には十分な理解ができなかった。

曖昧でポジテイブな前提とその実現に際して不可能性の自覚だけが、人生の局面に小さな亀裂を作り、努力する対象にわたしたちをフォーカスさせる。
・・・村上龍には申し訳ないが、ここは自分の言葉に直してみないと分かりにくい。
 村上春樹の小説なら、ここで比喩的に伝えるところか?
  「つまりさ、『努力すれば何とかなる』と『努力してもしかたがない』は、コインの裏表みたいなもので、結局は同じものなんだ。視点の置き方次第でポジテイブにもネガテイブにもなれるんだ。」なんて感じか?

 村上龍の言いたかったことは、次のようにまとめていいのかどうか自信がない。
 
 『努力すれば何とかなる』は楽天的すぎるかもしれないが、あきらめるより数倍いい。
一方『努力してもしかたがない』は悲観的すぎるが、このままではどうしようもないという絶望を乗り越えるだけの努力を促すには、これくらい刺激があるくらいがちょうどいい。

・・・村上龍の言葉を読んで、かつて大学の友人が「無為自然」と「なせば成る」を使い分けていると記していたことを思い出した。
 「なせば成る なさねば成らぬ何事も」と信じて努力を続けるが、やれるだけのことをしたら、あとは「無為自然(なすがまま)」の心境で結果を待つ、という態度だ。
 友人が提示した2つの言葉は、村上が否定する日本社会における「努力(ハバナ・モード」のありようを端的に表しているように思う。

 ちなみに、「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
・・・米沢藩主の上杉鷹山の言葉である。
 ① 人が何かを為し遂げようという意思を持って行動すれば、何事も達成に向かう。
 ② ただ待っていて、何も行動を起こさなければ良い結果には結びつかない。
 ③ 結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ。
 3つとも意味はほとんど同じ。変化のある繰り返しで、「やればできる」が強調されている。

 さて、村上龍の「努力」の考察は、努力したら実現するほど世に中は甘くないという警鐘を含んでいた。
 それを読んで、昨年「夢」について書いたことを思い出した。
===================
September 05, 2008

 あきらめなければ夢は絶対にかなうのか?
 「あきらめなければ夢はかなう」とよく言われる。夏の北京オリンピックや日本テレビの24時間テレビでもよく聞いた。
 卒業式で子どもが歌う歌に中にも「かならず夢はかなう」「夢をあきらめないで」というフレーズがある。
 その言葉の大事さは分かる。
 しかし、その一方で、無条件に「あきらめなければ夢はかなう」を信じてはいけないぞ、と抑制が働く。
 頂点に立ったほんの一握りの有能選手の下には、たくさんのあきらめた選手がいる。
 100人が「オリンピックのマラソンの代表に選ばれたい」と願ったら、かなうのは4年に3人の狭き門だ。
 夢破れた人が逆に「どうせ、俺は挫折した人間だ」などと自己嫌悪に追い込まれるようではいけない。
  「○○高校に入りたい」と受験勉強にがんばってる中学生も、たくさんいるだろう。
 どんな高校だって、全員合格ははありえない。
 そんな時「あきらめなければ夢はかなうと信じて勉強してきたのに、結局、別の高校に行くことになった」と自暴自棄にならないようなケアが必要で、「必ず夢はかなう」という言葉だけが絶対視され、あきらめずに夢をかなえた人だけが英雄視されるのは問題だと思う。
 転身も大事な人生の1つの選択肢のはずだし、失敗も挫折も人生の大切な糧である。
 そもそも「夢」というものは、「○○になりたい」「○○で優勝したい」といった即物的なものである必要はないわけで、「人の役に立ちたい」「自分の長所を生かした職につきたい」というような幾分漠としたものであってもよい。
 後者のような夢の設定なら達成の確率はがぜん高くなる。
 夢の内容を絞り込めば絞り込むほど自分の首を絞めることになる。大人はそれが分かるが、子どもはどうだろうか。
  週刊ポスト9・12号の連載コラム『昼寝するお化け』(曽野綾子)の中に、同じような主張があった。
 東京オリンピックの際は「なせばなる」というフレーズをマスコミが熱狂的にもちあげたのだそうだ。
◆人間社会で「なせばなる」が通るなら、それは戦争中に命を賭けて闘った日本人すべてを否定するものだ。そんな非礼はない。それなのにスポーツの世界になると、そんな熱狂が平気で通るのである。
人間の世界には、どんなになそうとしてもなし得ないことがある。その悲しみを知るのが人間の分際であり、賢さだろう。
(中略)人間の生涯の勝ち負けは、そんなに単純なものではないのだ。私たちが体験する人生は、何が勝で、何が負なのか、その時はわからないことだらけだ。数年、数十年が経ってみて、やっと答えが出るものが多い。その原則を無視するスポーツに、私は基本的にはあまり魅力を感じない。◆
・・・私はそこまでスポーツを嫌わない。でも曽野氏が批判する戦時中の「なせばなる」と、昨今の「あきらめなければ絶対に夢はかなう」は同義だ。
 無節操な根性主義が、相変わらず日本の精神性に会っていると言うことなのだろうか。
 それにしてもスポーツと人生は違う。
 スポーツの成功者の談話をすぐに人生訓として用い、理想の上司論とつなげ、スポーツコーチングのノウハウを 日常のメンタルトレーニングやビジネスの管理術に安易に流用するような風潮は戒めていきたい。
================
 ところで、実際の指導場面では、夢や目標を列挙させて終わることはない。
 ・イメージを具体化する
 ・何をすべきかを明確にする
 ・数値目標を決める
 ・期限を決める
などの手だてを打つから、夢だけ語って結果待ちということにはならない。
 原典が定かではないが、かつて築地久子学級では「七夕に願い事を書けば、かなううのか?」で討論させていた(と記憶している)。
 他人任せ・神頼みでは願いが叶わないことを自覚させる討論だったのだろう。

・夢を持つことの大切さは教えるべきだ
・夢を実現するために努力することの大切さも教えるべきだ
(努力もしないで夢だけ描くことの愚かさも教えるべきだ)

 そのようなステップの上に

・努力が実らないこともある。
・努力が直接実らなくても、別の場面で生きてくることがある。
・努力を続ける姿勢が大事

という指導があればよいのだろうと思う。
 早い段階で
・努力したって大半は無駄
・夢はかなわないことは多い
といったネガテイブな指導はいらないし、すべきではない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 24, 2009

「悼む」

 2000年の9月に東海大豪雨が起きた。私の生まれ育った西枇杷島町は大水の被害を受けた。
 水害の数日後、住んでいる一宮市はパチンコ店もコンビニもキラキラ輝いているのに、車で15分も進んだ被災地は停電で真っ暗だった。それはとてもショッキングな出来事だった。
 それからだろうか(その前の阪神大震災もショックだった)、ニュースで被災地の様子をみると、すごく落ち込んでしまう。
 テレビも悠長にバラエテイやスポーツニュースをやっている場合じゃないだろうと思う。
 だから、被災のニュースを目にした日は、自分も悠長にネットの書き込みなどしないようにしている。何となく不謹慎な気がしてならないのだ。
 もちろん、そんな事を気にしたら毎日何もできなくなる、と思う。
 世界に目を向けたら、一日だって悠長な日はない。
 ただ、日本の自然災害はとりわけ自分の中で「落ち込み度」が高い。他のニュースとは受け入れ感覚が違う。これは自分自身の感覚でどうにもならない。

 今回の北海道の登山の遭難ニュースも痛々しかったが、各地の水害も痛々しい。家を失った人たちは明日からどう生活していくのかを自分の家族のこととして想像すると辛くなるのだ。
 確かに自分も部分日食を見た。
 でも夜のニュースが日食ばかり扱っているのを見ると、その悠長さに腹立たしさも感じてしまう。
 自分の感覚が異常かな、と思ったら、本日23日の朝日新聞「天声人語」は、自分とよく似た視点で書かれていた。

=================
(前略)その日その時、太陽と月と地球の「点と線」は確かに奇跡を演じてみせた。他方、雲は時刻表のない列車のごとし。雲なりの理屈で広がり、天体ショーや人の都合にお構いなく空を覆った
▼気まぐれな停滞前線は、落胆どころか悲劇も呼ぶ。山口県の豪雨は死者・不明17人の惨事となった。
7時間に1カ月分が降った防府市では、土石流が老人施設を襲った。
ひとつながりの天気図が、ある所で歓声を、別の地で嗚咽(おえつ)をもたらす
===================

・・・日食の歓声と土石流の嗚咽は対比であり、類比なのだ。

 ところで、このような身勝手な同情は、天童荒太の直木賞作品「悼む人」に近いのだと教えてもらった。
 まだ読んでいないので、ネットで調べてみた。
 主人公は、新聞やラジオのニュースで得た情報をもとに、全国の事故現場、事件現場を歩いてまわっては、見ず知らずの死者を悼むのだそうだ。

 「悼む人」を書くに至った作者の心境もネットに出ていた。
================
 10・7アフガン攻撃という状況下で、誤爆で命を落とした少女、そしてその遺族といった人々の立場に立たざるを得ないわけです。
 9・11の慰霊祭は一応は行われるけれど、10・7で亡くなった人たちの慰霊祭はたぶんどこでも開かれていなくて、彼女らの死はすでに忘れられかけている。 そういうことが重なっていったときに、決して政治的な問題ではなく、一般的な感情レベル、日常の生活レベルで、被害者たちの悲しみや、自分や家族をいったい誰が悼んでくれるのだという怒りと不安のうねりが僕の内部で生じて、<悼む人>というものへの熱望が下りてきたのだろうと、いま冷静になって思うんです。
========================

・・・災害ニュースを耳にする自分の心境が、まさに「悼む」なのだと分かった。
 まあ、それほど異常ではないということだな、と思ったら少しほっとした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 03, 2009

PISA型読解力と「論語」

 「読解力から読解リテラシー」というテーマを、時々耳にする。
 これは、OECDの国際学力調査(PISA調査)を念頭においたもので,PISA型読解力の定義は
「自らの目標を達成し,自らの知識と可能性を発達させ,効果的に社会に参加するために,書かれたテキストを理解し,利用し,熟考する能力」
とある。従来の「読解力」と区別して「読解リテラシー」とか「PISA型読解力」と呼ばれる。
 文科省の 読解力向上プログラムによれば,指導3つの重点目標が示されている。

①テキストを理解・評価しながら「読む力」を高める取り組みの充実
②テキストに基づいて自分の考えを「書く力」を高める取り組みの充実
③様々な文章や資料を読む機会や,自分の意見を述べたり書いたりする機会の充実


 筆者の主張を自分はどう思うのか・・・読み取った内容を元に自分の意見を述べる【読み書きの関連指導】は指導要領でもきちんと位置づけられていますが,行事作文や日記を書かせるだけでは意見文を書けるようにはならない。
 「○○について,あなたはどう思うか」
 「あなたの意見に対する意見をどう思うか」
という形で書かせたり発表させたりする活動に日ごろから取り組むことが大事だ。

 指導要領では「書くこと」の指導の中で,
「なぜかというと~」「その理由は~」「~のためである」「例えば~」「事例を挙げると」「などが当たる」などの表現について指導するとある。こうした表現の習熟させれば,意見文の質も上がってくる。

 各学年「読むこと」の「自分の考えの形成及び交流に関する指導事項」からも明らかなように、自分の意見や感想を発表することと,みんなの感想や意見を聴き合うこと・比べて考えてみることが大切です。

◆1・2年 文章の内容と自分の経験とを結び付けて,自分の思いや考えをまとめ,発表し合うこと
◆3・4年 文章を読んで考えたことを発表し合い,一人一人の感じ方について違いのあることに気付くこと
◆5・6年 本や文章を読んで考えたことを発表し合い,自分の考えを広げたり深めたりすること

 指導要領には感想を述べ合う言語活動について「次のようにも感想を述べ合ったら,自分の感想が,友だちの感想と比べてどのような特徴をもつのかを認識させていくことが大切です」と記されている。

 さて、7月1日の地元中日新聞の文化欄、池内了氏(総合研究大学院大)の文章が掲載された。
 論語の「学びて思わざれば即ち罔し。思いて学ばざれば即ち殆し」を引用し、「学ぶ」だけで「思う」がなければ、干からびた知識の集積でしかなく真理が明らかにならないし、「思う」だけで「学び」がなければ根拠や論理性のない空論や暴論がはびこってしまう、 と説いている。

 「国際学力テストなどでも指摘されているように、日本の小中学生は暗記した知識には強いが応用問題には弱いと言われてきた」ともある。
 「論語」の説くところは、まさにPISA型読解力の望むところと同じだ。
 論語の言葉はもちろん知っていたが、このPISA型読解力と重ねたことはなかった。(既習の「論語」の知識をPISA型読解力と結び付ける思考力こそが、PISA型読解力なのだ)。
 論語からも分かるように、PISA型読解力の望むものは、決して目新しい学力ではない。
 永遠の課題ともいえるほど根源的な学力なのである。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

« June 2009 | Main | August 2009 »