「悼む」
2000年の9月に東海大豪雨が起きた。私の生まれ育った西枇杷島町は大水の被害を受けた。
水害の数日後、住んでいる一宮市はパチンコ店もコンビニもキラキラ輝いているのに、車で15分も進んだ被災地は停電で真っ暗だった。それはとてもショッキングな出来事だった。
それからだろうか(その前の阪神大震災もショックだった)、ニュースで被災地の様子をみると、すごく落ち込んでしまう。
テレビも悠長にバラエテイやスポーツニュースをやっている場合じゃないだろうと思う。
だから、被災のニュースを目にした日は、自分も悠長にネットの書き込みなどしないようにしている。何となく不謹慎な気がしてならないのだ。
もちろん、そんな事を気にしたら毎日何もできなくなる、と思う。
世界に目を向けたら、一日だって悠長な日はない。
ただ、日本の自然災害はとりわけ自分の中で「落ち込み度」が高い。他のニュースとは受け入れ感覚が違う。これは自分自身の感覚でどうにもならない。
今回の北海道の登山の遭難ニュースも痛々しかったが、各地の水害も痛々しい。家を失った人たちは明日からどう生活していくのかを自分の家族のこととして想像すると辛くなるのだ。
確かに自分も部分日食を見た。
でも夜のニュースが日食ばかり扱っているのを見ると、その悠長さに腹立たしさも感じてしまう。
自分の感覚が異常かな、と思ったら、本日23日の朝日新聞「天声人語」は、自分とよく似た視点で書かれていた。
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(前略)その日その時、太陽と月と地球の「点と線」は確かに奇跡を演じてみせた。他方、雲は時刻表のない列車のごとし。雲なりの理屈で広がり、天体ショーや人の都合にお構いなく空を覆った
▼気まぐれな停滞前線は、落胆どころか悲劇も呼ぶ。山口県の豪雨は死者・不明17人の惨事となった。
7時間に1カ月分が降った防府市では、土石流が老人施設を襲った。
ひとつながりの天気図が、ある所で歓声を、別の地で嗚咽(おえつ)をもたらす
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・・・日食の歓声と土石流の嗚咽は対比であり、類比なのだ。
ところで、このような身勝手な同情は、天童荒太の直木賞作品「悼む人」に近いのだと教えてもらった。
まだ読んでいないので、ネットで調べてみた。
主人公は、新聞やラジオのニュースで得た情報をもとに、全国の事故現場、事件現場を歩いてまわっては、見ず知らずの死者を悼むのだそうだ。
「悼む人」を書くに至った作者の心境もネットに出ていた。
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10・7アフガン攻撃という状況下で、誤爆で命を落とした少女、そしてその遺族といった人々の立場に立たざるを得ないわけです。
9・11の慰霊祭は一応は行われるけれど、10・7で亡くなった人たちの慰霊祭はたぶんどこでも開かれていなくて、彼女らの死はすでに忘れられかけている。 そういうことが重なっていったときに、決して政治的な問題ではなく、一般的な感情レベル、日常の生活レベルで、被害者たちの悲しみや、自分や家族をいったい誰が悼んでくれるのだという怒りと不安のうねりが僕の内部で生じて、<悼む人>というものへの熱望が下りてきたのだろうと、いま冷静になって思うんです。
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・・・災害ニュースを耳にする自分の心境が、まさに「悼む」なのだと分かった。
まあ、それほど異常ではないということだな、と思ったら少しほっとした。
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