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August 20, 2009

『チルドレン』 伊坂幸太郎

Chird
 
 伊坂幸太郎の『チルドレン』(新潮文庫)。
 とても面白かったし、とても勉強になった。
 ただし主人公の言動はハチャメチャなので、単に真面目な勉強だけをしたい人には勧められない。
 このハチャメチャぶりは『イン・ザ・プール』『空中ブランコ』の精神科医伊良部と双璧のような印象がある。
 そして、破天荒でありながら、決める時は決める有能ぶりも伊良部と同じである。
 
 ベースは「家裁調査官」。
 次のように解説されている(P86)。
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 家裁調査官が扱う事件は二種類に分類できる。身柄事件と在宅事件だ。身柄事件は少年が鑑別所に入れられているものを指す。その場合、僕たちは鑑別所まで出向き、面接をする。反対に在宅事件の場合は、その少年が家にいて、通常の生活を送っているケースだ。万引きや自転車泥棒など軽微な犯罪の場合で、志朗君の場合はその在宅事件に当たった。在宅事件の場合は、さほど大きな事件ではないため、一度面接を行い、事実関係や本人の反省を確認して、報告書を書く場合が多い。
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 家裁呼び出しの書類の本物も見たことがある。鑑別所にお世話になった子も何人か知っている。そのような仕事をしている人が家裁にいることはもちろん知っていたが、詳しくは知らなかった。
 おもしろおかしくではあるが、家裁調査官の立場や仕事や心境がよく分かった。「反省しています。もうしません」という生徒に言葉にまんまと騙される=騙されてやる、という意味では中学校の生徒指導部と共通部分も多いのだ。
 
 中でも「チルドレン」にまつわる会話(P114)は、印象に残った。
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 「世の中にいい親なんていないよ。でも親に影響を受けない子供もいないんじゃなかな。」
 「でもさ、非行の原因が親の生徒も思えないけどな」志朗君は言った。「俺の周りには、暇つぶしで犯罪に手を出す奴もいるし、そういう奴のほうが多いんじゃない? (中略) で、武藤さんのような調査官をころっと騙してみせる、したたかにね」
 それは事実だ。遊び半分で非行に走り、家裁に来た途端に「親が悪い、親の愛がない」と言い出す子も中にはいた。ただ、正直なところ、僕がそういう子供たちについては楽観視している。そもそも彼らはひとりきりでいる時は問題がなくても、集団になると歪むのだ。陣内さんは、「子供のことを英語でチャイルドと言うけれど、複数になるとチャイルズじゃなくて、チルドレンだろ。別物になるんだよ」とよく言った。そういう性質なのだと。
 そういったタイプの少年たちは、勝手に歳を重ね、集団が成立しなくなると、いずれ暇つぶしの非行から離れていく。だから僕も、彼らのことはあまり心配していない。(中略)
 僕たちは、少年たち全員の味方をするほかない。
 「僕たちはお見通しなんだよ。したたかな少年に騙されるんじゃない。騙されてあげてるんだ。」「
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・・・チャイルドは複数になると別物になる。
 まさにその通り!
 このような実感は何度も味わった。
 個別に指導してしょんぼりした顔を見せても、集団に入ると再び元の表情に戻り、同じ行為を繰り返す。教師の忠告を聞いて真人間になることが敗北であり、自己否定であり、母集団への裏切りであるかのように・・。
 
 それでも「チャイルドとチルドレンは別物」と明確な形で意識できなかった。この感覚を自覚していないと、中学生への対応はできない。まさに名言だと思う。

 この本は短編集だが、圧巻は「奇跡」を語るシーン(P227~230)。
 教育に携わる者も、これくらい気概のあるセリフをぶちかましてみたいものだ。

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August 19, 2009

ビジネス書と文学の相違

 世は新書ブームで、新書を読めば手軽にノウハウも分かるし、知識も得られる。
 自分も、教師になって以来、」ビジネス書のコーナーによく立ち止まった。
 手早く「生き方」を学ぶなら、ノンフィクション・ビジネス書・新書がいい。自分の知りたいテーマで学び取ることができる。

 一方、文学作品は、ひょっとして読了するまで、何が得られるかが分からない。最初から好みのテーマで作品を選ぶ人もいるだろうが、読み進めるうちにテーマが伝わってくることの方が多い。ということは文学は生き方を学び取るには極めて「遠回り」である。

 にも、かかわらず久しぶりに文学作品を何冊か読んでみると、その学びの多さに改めて感心してしまった。
 自分なりに考えたのは、「生き方の学び」をどう汲み取るか、だった。
 自分は、ずっとビジネス書のような類で生き方を指南されることが多かった。
 しかし、そのようなものとは違う生き方指南が文学にはあるという思いが強くなった。
 まどろっこしい文学作品からの学びが、お手軽なビジネス書の学びよりも心に残るという実感がある。
誤解を恐れずに言うと、次のような実感がある。

◆ビジネス書はお手軽に生き方を入手できるが、お手軽ゆえにインパクトが弱い。
◆文学作品は生き方を入手するには、まどろっこしい。しかし、一度得られた「生き方」の学びには衝撃性すらある。人生観を変えるような読書体験も、ままあることだ。

 なぜ、このような差異があるかというと、それは

◆実務的な読書は、要約的に(ダイジェストに・コンパクトに・ストレートに)に生き方を指南される。
 一方、文学作品の読書は、敷衍的に生き方を指南(示唆)される

からなのだと思う。ここで前回述べた「要約と敷衍」が絡んでくる。
 自分の命を投げ打つ行為の尊さは、
「自分の命を投げ出すなんて、なかなか出来ないものだ」と何百回聞いてもピンとこないが、例えば『塩狩峠』を読めば多くの人が腑に落ちる。

 道徳の授業も同じだ。
 「○○しましょう! 」
 「○○してはいけません!」
と教えるだけなら学級指導で1分もかからない。
 しかし、そのような内容を、腹の底から実感させるためには、実話や寓話を用いた方が効果がある。
それが道徳の時間の存在価値であり、資料の存在価値なのである。
 
 イソップ寓話集も同様だ。
 具体的なエピソードがあって、その後に「この話は○○ということを教えている」というようなまとめがある。

 道徳の授業は、このようにあるエピソードを通して生き方を学ばせるように仕組んである。
 そして、文学作品は、あるストーリーを通して生き方を学ばせるように仕組んである。
 遠回りではあるが、ストレートなメッセージ(お題目)よりも、成果があるのだ、というのが今の私の実感である。

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要約と敷衍

最近自分の中で気になっていた件が、少しずつすっきりしてきた。
 それは「要約」と「敷衍」の関係だ。

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ふ‐えん【敷×衍/布×衍/敷延】
[名](スル)《「衍」はのべる意》

1 おし広げること。
・ 「それを種にして、空想で―した愚痴」〈宇野浩二・蔵の中〉

2 意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること。「教育問題を社会全般に―して論じる」
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 講演で、よく資料が配布され、「資料をみてもらえば分かる」と言われる。
 資料はいわば講座の要約だ。
 しかし、資料だけでは伝わらないことがあるから解説・補足を加える。
 講演=解説はいわば敷衍の作業だ。
 具体例やより詳しい説明がばっちりはまると講座は充実し、寝る間など生じない。
 講座内容が配布資料の域を超えない時は聞いても聞いてなくても同じことになる。敷衍の機能が生きていないのだ。
 安易にセミナーの様子等を文面に残していけないのは、要約情報では伝わらないことが多いからだ。
 要約情報だけでセミナーに行った気になってはいけない。
 同じように書物だって、タイトルや見出しだけで読んだ気になってはいけない。
 例えば、『榊原式シンプル思考力』という書籍のの章立は、ネットで見ることができる。

 第1章 疑うことの大切さ—考える力をつけるスピード思考術
 第2章 知識が感性を磨く—考える力をつけるスピード習慣術
 第3章 脳を活かす暗記と復習—考える力をつけるスピード訓練術
 第4章 頭をやわらかくする方法—考える力をつけるスピード行動術

 組み立てがうまいから、このような章立を見るだけでも十分参考になる。
 茂木さんの「脳にいいことだけをやりなさい」などは、題だけも参考になる。

 しかし、詳しく話を聞かないと(具体的な内容を聞かないと)学べないことはたくさんある。
 おそらく、その要因の1つは「エピソード記憶」。
 具体的なエピソードで記憶した方が残りやすい。
 講座も具体例やインパクトある話術や作業化・動作化などが有効なのだ。
 先日もある講座の後に、主催者が、今日のお話で「フットワーク・ネットワーク・ヘッドワーク」の3つの大切さが分かりました、と言われた。
 それは、ただ3つの言葉の語呂のよさもあるが、多少なりとも具体的な説明があったからこそ「腑に落ちる」ことができたのだと思う。

 詳しく説明することの有用性を自覚していない人は、「資料を見ておいてもらえば分かる」ということを平然と言う。
 詳しい説明の有用性を自覚していない人は、新聞も見出しで分かる・書物も章立で分かる・小説はあらすじで分かると思いこんでしまう。

 そうではないのだ、ということを実感するエピソードがいくつかたまっているので、早くまとめてみようと思う。
 なぜなら、今、自分が言いたいことも、いくつかの具体例がないと意味が伝わりにくいからだ。

 ちなみに「要約と描写の指導」について書いたのが99年。
 言いたいことは、同じである。
http://homepage2.nifty.com/take-t/koku03.htm

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August 02, 2009

コンフォートゾーン ・・・「ぬるま湯」からの脱却

「コンフォートゾーン」

http://hibridge.info/2008/382.htmlには、次のようにある。

 「コンフォートゾーン」とは「自分がラクでいられる範囲」のことだ。
 ラクなので、人はこのコンフォートゾーンにとどまろうとする。
 そして人は、この居心地のいい場所を頑固なまでに守るそうだ。
 それもまったく意識せずに。
 この無意識の行動を「ホメオタシス(恒常性維持機能)」という。
 人が変化することを嫌うのは、このホメオタシスが働いているからだそうだ。

http://www.kaimayo.com/archives/2006/08/017.html
■コンフォートゾーンとは?
 人間は、コンフォートゾーンに落ち着くといわれています。
 コンフォートゾーンとは、自分の思っている自分のゾーンです。
   (中略)
 「どうせ自分にはムリ」
 こうゆう人は、自分で自分のコンフォートゾーンを低いところにもってきているのです。
 そうではなくて「自分にはできる」という風にもっていかないとコンフォートゾーンは上がらないわけです。
 つまり自己が高まらないわけです。
 「あ~給料低いなぁ~」と思っているだけの人は、ずっとその給料です。
 そうではなくて、「どうやったら給料を上げられるのか」ということを考えないと、給料は上がりません。
 このように考えると、すでにあなたの人生は決まっているのかもしれません。
 それは平凡でつまらない人生かもしれません。
 しかし、それは変更可能です。
 今からコンフォートゾーンを変更すればよいからです。
 つまり簡単いえば、自分の意識を変えるということと、常識を疑うということです。
 ぜひ、コンフォートゾーンを高く設定することをおすすめします。

・・・無理に英語を使わなくてもいいのかもしれない。

 「ほぼ日刊イトイ新聞」では、コンフォートゾーンのことを「ぬるま湯」と説明している。
 「ぬるま湯」なら、昔から日本で使われている言葉だ。

 「ぬるま湯にどっぷり浸かるな!」と自分を叱咤することも必要だし、
 「どうすれば、このぬるま湯から抜け出せるか」を具体的に思考し実行していくことも必要なのだ。

 例えば、である。
 寝る前には歯磨きをすることがすっかりコンフォートになってしまえば、歯磨きしないで寝てしまうと落ち着かない。
 それは「寝たい」という欲求と「歯を磨いてすっきりしたい」という欲求の力比べである。
 1日に1回はネットサーフィンがコンフォートなら、何とか時間を工面して行動する。
 しかし、発信行為がコンフォートになっていないと、見るだけで終わってしまう日があっても何も感じない。ただナットをながめるだけの「ぬるま湯」につかって満足してしまっているのだ。

 寝る前に歯磨きしないと落ち着かなくなるように、自分のコンフォートゾーンを様々な場面で引き上げていこうと思う。

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