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May 15, 2010

金銭感覚の教育

中日新聞の連載で、夜回り先生である水谷修氏のコラムがある。
 5月9日のコラムの一節が印象的だった。

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/yomawari/list/CK2010051002000145.html
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彼らは、高知での中学校時代は、学校に行っても、授業はサボり、昼も夜も先輩たちと遊び歩いていたそうです。
定時制高校に進学したけれどもすぐに中退。建築現場で働きながら、2年間遊んでいたそうです。
そんな彼らの所に、今年の正月に、大阪で働いている先輩が、金ぴかの格好で現れ、「おまえら、なんでそんなださいことしてるんだ。18になったなら、大阪に出てこい。うちで働け。月50万は稼げる。遊べるぞ」と誘いました。
 彼らは、金を稼ぐんだと、親の反対を押し切り、3月に大阪に。
そして、先輩の勤めるホストクラブで働き始めました。
彼らが、下を向いて小さな声で言いました。
「先生、助けて。洋服代、アパート代で、すでに100万円近く店に借金。その上、店では、ノルマがあり、1日に5万円の売り上げがないと、1人1万円の罰金。でも、せっかく来てくれた、お客さんの女性をだまさなければ、そんな金なんて稼げない。俺たち、人を食い物にするなんてしたくない。だから、どんどん借金が増えていくだけ。文句を言えば、袋だたき。もう高知に帰りたい。でも、仕返しが怖い」
 私は、彼らに言いました。
「懲りたかい。うまい話には、必ず嘘(うそ)があります。お金は、きちんと汗を流して稼ぐものです」
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 「月50万円稼ぐ」というお金の意味を、子どもたちはどうとらえているのだろう。
 世の中には、年収何億もの契約を結ぶスポーツ選手の話題もあふれている。
 月50万円なんて軽く稼げると勘違いしているのだろうか。
 アルバイトで時給1000円で積み上げていくと、お金を稼ぐことの大変さはよく分かる。
 1日8時間で8000円。
 25日働いて20万円。
 逆に言うと、コツコツ働いても月に20万円にしかならないと思うから、大きな稼ぎをしたくて甘い罠にはまってしまうのかもしれない。


 甘い勧誘、ノルマ、借金漬け・・・同じような実態が女性の水商売でもあるのだろう。
 漫画「カイジ」では、タコ部屋に入れられて工事現場では働く人たちの給料が、どんどん巻き上げられていく様子が描かれていた。
 重松清の『疾走』では、住み込みの新聞配達で働く主人公に諸費用がどんどんかかって給料が残らない様子が書かれていた。
 
 こちらに知識がないと、稼ぐ以上に経費がかかり借金を背負わされてしまう。
 そのような世の中の恐ろしさをきちんと教育していかないと、悲劇はなくならない。

 上記のコラムの少年たちは、怖くて自分たちで警察にも行けなかった。
 水谷先生に連れられてしか警察に行けなかった少年たちの弱さも、同様に何とかしていかないと悲劇はなくならない。

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May 05, 2010

誰の視点で小説を読むか

 久しぶりに『天気の好い日は小説を書こう』を開いてみて、腑に落ちる箇所があった。
 先の志賀直哉の『小僧の神様』のくだりで次のように書いてある。

◆これはですね、中学校の時に読むと、小僧の神様の立場で読んでしまうんです。

・・・三田氏の主張を、教師はしっかりと自覚しないといけない。
 視点人物が誰であれ、子どもは子どもの立場から作品を読んでしまうということだ。
 新美南吉の「きつね」のラストで朗読して泣いてしまったのだが、子どもは母親の立場では読まないから、このお話では多分泣かないのだ。
 中2の「大人になれなかった弟たちに」は、少年が話者であり視点人物だから生徒は少年の立場で読む。だから生徒に「母親の立場」に感情移入させる必要はないということだ。
 もし、親の視点で書かれた小説が教科書に載っていたら、その時は、「親の視点」に読むように指導すればいい。
 
 「視点」について、三田氏は「『小学生の作文』にならないための諸注意」の章でアドバイスをしている。
=======================
 失敗している作品のほとんどは視点が動いているんですね。
 神の視点でものを見て、父と子が出てくるとですね、どうもお父さんがうすっぺらく見えてしまうということになる。
 子どもなり、娘なりの視点に徹して描いていくと、おのずと父親の影というものが気配に伝わってくるものです。子供の目には見えない父親の影の部分は、見えないままにしておく。その方がいいんです。
 見えないものは描かない。すると立体感が出てくるのです。神の視点で何もかも描いてしまうと、嘘っぽくなる。
 同様に、書き手が何もかもを解釈し、説明してしまうと、ただの図式になり、奥行きがなくなってしまいます。
(中略)人物が出てくると、必ずその人物を説明う人がいるんですね。「これがこれこれこういう人である」というふうに説明しちゃったら、それは「絵に描いた餅」になってしまいますね。
 そうじゃなくて、主人公の目でじっと見る、見えたものだけを書けばいいんです。
 そうすると見えなかったものは書かれないということになります。その人物の裏側というのは主人公に見えないわけですね。見えないけど、裏も何かあるんじゃないかなという気配だけが残る。すると作品が立体的になるんですね。
 (P153/154)
========================
 いわゆる「キャラが立つ」についての解説だ。
 書き手は人物の解釈や説明をしていない。
 だからこそ、読者は自分で解釈し説明を加える。
 書き手が書いた解釈や説明をなぞるのではなく、書いていない解釈・説明を読者自身が実行する。
 そのことに遠慮もためらいも必要ない。 堂々と、自分で解釈すればいいのだ。
 でも、みんな自信がないから解説本や解釈本や、著名な批評家のコメントを探して参照してしまう。

 重松清の作品などは作者のサービス精神が過剰なゆえに、人物の解釈・解説までもが詳細に描かれているような印象がある。

 この件についても三田氏は次のように述べている(P116)
====================== 
 もし、これがですね、志賀直哉が父親に向かって、「お父さん、僕の赤ん坊が死んでしまいました。その瞬間、私はお父さんの気持ちがわかりました。いままでの私がわるかった。お父さん、許してください」と言ってですね、父親が息子を抱き締めて、「いや私もいままで説明不足だった。お前もお父さんのことを許してくれ」と言って、二人がひしと抱き合ったら(笑)非常にわかりやすい話になりますね(笑)
 しかし、それでは大衆文学になってしまうんです。教養のない人にはわかりやすいかもしれないが、志賀直哉はそういうふうには自分の文学を作っていかなかったんですね。何にも説明しないんです。だけどわかる人にはわかる。私も二十五歳にして初めてわかったんですね。
======================
 
 重松清は直木賞作家だから、大衆文学のジャンルだ。
 だから重松清の小説に分かりやすい解釈・解説が含まれるのはそれでいい、ということになる。

 「わかりやすさ」が望まれ、分かりやすい大衆小説が増えているので、語らないことの良さを備えた小説がますます減ってしまうのかもしれない。
 
 ついでながら「1Q84」第三部も読了した。
 こちらは、思ったより「解説」が多かった。そのことは賛否分かれるところだろう。もっと自分で読み取っていきたい読者もいるはずだからだ。
 ただし説明が一切なくて分からないところも山ほどある。
 NHK集配人も看護婦さんも作品での存在意義がよく分からなかった。
 これは「教養のない人には分からない」という村上春樹のメッセージなのだろうと解釈している。

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「はせがわくんきらいや」は、「好き」の裏返し

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 たまたま朝、チャンネルをあちこち替えていたらNHKのBSで、朗読者の挑戦「はせがわくんきらいや~中條誠子~」というのをやっていた。
 中條誠子アナウンサーが富山県の小学校に出向いて長谷川集平の「はせがわくんきらいや」を朗読。声だけでどこまで作品世界を届けられるかの挑戦を描く、と題した番組。

 ちなみに、「はせがわくん きらいや」という絵本の内容は、下記のWEBにより一部見ることができた
 (著作権上の問題があると思うので、ここでは載せません)

http://salon.stage007.com/header1009920/archive/88/0

・・・番組は全部見ていなかったのだが、次のようなニュアンスの部分があって印象に残った
(文責は竹田)

◆ 嫌いというのは好きの反対ではない。
◆ 「ぼく」は「嫌い」と言っているが、それは「好き」の裏返しの感情である
◆ 「好き」の反対は「無関心」。
 
 このお話の「ぼく」は、確かに「長谷川君なんか きらいや 」と宣言しているが、 それは、本当の意味での「きらい」ではないと読める。
 なぜなら、次の部分があるからだ。

長谷川くん もっと早うに走ってみいな。
長谷川くん 泣かんときいな。
長谷川くん わろうてみいな。
長谷川くん もっと太りいな。
長谷川くん ごはん、ぎょうさん食べようか。
長谷川くん だいじょうぶか。長谷川くん

 本当に嫌いなら、このようなアドバイスは送らない。
 「きらい」という言葉が繰り返されれば繰り返されるほど、「ぼく」の長谷川君に対する好意が強調される。
 
 「今の長谷川くんは、きらいだ」
 「今の長谷川君にしてしまったヒ素ミルクが憎い」
 「長谷川君が健常児と同じだったら、よかったのに」

という痛切な「怒り」なのだと読める。
 
 残念なことに、この物語を「いじめ」ととらえた道徳実践があるようだ。ネットで検索したらひっかかってきた。
 確かに、同じクラスの障害者に「きらいだ」と言い切る態度は、いじめに近い。
 しかし、繰り返すが

長谷川くん もっと早うに走ってみいな。
長谷川くん 泣かんときいな。
長谷川くん わろうてみいな。
長谷川くん もっと太りいな。
長谷川くん ごはん、ぎょうさん食べようか。
長谷川くん だいじょうぶか。長谷川くん

という励ましの言葉がある以上、「ぼく」には長谷川君を排除する意識はない。
 「ぼく」の発言を「いじめ」と見るのは、全く正反対だと言わざるを得ない。

 「ぼく」は、本当に長谷川君が嫌いなの?

と問えば、子どもだって、それが裏返しの言葉だということは読み取れるはずだ。
 長谷川君を他の子以上に受け入れているからこそ、おんぶし、とんぼをあげ、試合に負け、「しんどうてかなわん」とぼやくのだ。

 「かなわんなあ・大嫌いや」と悪態をつきながら、決して長谷川君から離れない「ぼく」に、いじめの意識があると解釈するのは無理がある。
 「長谷川君はかわいそう」と同情しながら、一緒に遊ぼうとしない子がいたとしたら、その子の方が問題だ。
 
 実際の教室には、障害児と関わるまいとする子の方が多いのだから、無関心な子を糾弾するための資料として、このお話を提示する意義はある。

============================
 「お前なんか嫌い」と言いながら、面倒見てくれる子と 
 「がんばってね」と言いながら、関わりを持とうとしない子と
どっちが優しい子なのですか?
 (あなたは、どっちのタイプですか?)
============================

 ちなみに、人間には「内心の自由」がある。
 心の中で、どう思おうと、それは許される(ただし、ひとたび、外に発すれば、責任を負う)。
 このお話が「ぼく」の「内心」にすぎないのだとしたら、誰にも責める権利はない。
 「かなわんなあ」と心の中では思うのだけれども、それでも、これからもずっと「長谷川君もっと○○してみいな」と励まして寄り添ってあげようとしているのだとしたら、それは、本当に尊い行為=「いじめ」とは正反対の行為である。

  「かなわんなあ」が本音でありながら、それでも、毎日一緒に遊んであげている・・・そう読めるから、このお話は多くの人の心に響く。
 
  「成功」の反対は「失敗」でなく、「何もしない」こと
 「好き」の反対は「嫌い」でなく、「無関心」であること

  同じ構図だ。
 
 このお話、不思議だね。「長谷川君、大っきらい」て言いながら、全然そんな感じがしてこないよね。
 言葉って不思議だね。本当は大切な友達だからこそ、「大嫌い」とか「絶交だ」とか言ってしまうことがあるんだよね。
 
・・・そのような気分にさせるような授業展開がのぞましいのだと自分は思う。

※『1Q84』の主人公の1人である「青豆」は、教室の中で徹底して存在を無視される。
 そのことが、少女にとっていかに辛い行為であったかが描かれている。

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May 03, 2010

読書=エピソード記憶

『永遠のゼロ』(百田直樹)を読了した。
2009年最高に面白い本大賞文庫・文芸部門第1位。
なるほど、読み応えのある書物だった。
内容は、太平洋戦争でありゼロ戦であり特攻隊だった。
そのような歴史について多少の知識はあったのだが、初めて知ることも多かった。

江部編集長の「特攻」と重ねて読んだ。
「死ぬかもしれない・死ぬ覚悟で戦う」と
「間違いなく死ぬと分かって突入する」
では、全く意味が違うのだと改めて知ることもできた。

 それにしても、たとえば真珠湾攻撃が奇襲攻撃になってしまった事情については、
知っていたはずなのだが、今回「永遠のゼロ」を読むまで、ほとんど気にしてこなかった。
 本書には、次のようにある。(P92)

===================
「真珠湾では残念なことがありました。」
「何でしょう」
「我々の攻撃が宣戦布告なしの『だまし討ち』になったことです。
「たしか宣戦布告が遅れたのでしたね。」 
「そうです。我々は、宣戦布告と同時に真珠湾を攻撃すると聞かされてきました。
しかしそうはならなかったのです。理由はワシントンの日本人大使館職員が宣戦布告の暗号をタイプにするのに手間取り、
それをアメリカ国務長官に手交するのが遅れたからですが、その原因というのが
前日に大使館職員たちが送別会か何かのパーテイーで夜遅くまで飲んで、
そのために当日の出勤に遅れたからだといいます。」
「そうなのですか。」
「一部の大使館職員のために我々が『だまし討ち』の汚名を着せられたのです。
いや、日本民族そのものが『卑怯きわまりない国民』というレッテルを貼られたのです。」
(中略)
「当時、アメリカは日本に対して強い圧力をかけていましたが、国内世論は逆に戦争突入には反対だったといいます。
我々が戦前聞かされていたのは、アメリカという国家は歴史もなく、民族もバラバラで愛国心もなく、
国民は個人主義で享楽的な生活を楽しんでいるというものでした。我々のように、国のため、あるいは天皇陛下のために命を捧げる心は
まったくないのだ、と。山本長官は緒戦で太平洋の米艦隊を一気に叩きつぶし、そんなアメリカ国民の意気を完全に阻喪せしめようとしたのです。」
「まったく逆の効果に出たわけですね。」
「その通りです。卑劣なだまし討ちにより、アメリカの世論は『リメンバー・パールハーバー』の掛け声と共に、一夜にして『日本討つべし』と変わり、陸海軍にも志願者が殺到したということです。」
===================
 知らない内容ではなかったが、今回改めて「そうだったのか!」という驚きを感じた。
 

『教科書が教えない歴史4(普及版)』のP224にも、書いてある。
=====================
日本はもともと宣戦布告に相当する最後通告を、真珠湾攻撃の三十分前に、国務長官ハルに手交する手配をしていました。
それを実際に行うのがワシントンの日本大使館の役目でした。しかし、大使館員の失態により、
攻撃開始後約一時間も経ってから手渡す結果となったのです。
そのため真珠湾攻撃は、形のうえで日米和解のための交渉のさなか、突然無通告攻撃をしたことになり、
日本は「騙し討ち」の汚名を着せられることになったのです。
アメリカの大統領F・ルーズベルトは、この「結果としての騙し討ち」を戦意高揚に最大限に利用しました。
そのためにアメリカ国民は戦争が終わるまで「リメンバー・パールハーバー」と叫んで日本を憎悪しました。
原爆投下もソ連参戦も彼らの目から見れば当然のことでした。
====================
  
 小林よしのりの『戦争論2』にも出てくる。P433
======================
日本は回線を12月8日攻撃目標をハワイの真珠湾と決め、宣戦布告文書を暗号電文で在米日本大使館に送信した。
ところがその時大使館には誰もいなかった。
これだけ情勢が緊迫している時に野村大使以下大使館をカラにして同僚の送別会をやっていたのだ。
宣戦布告当日遅くようやく出勤した大使たちは大慌てで暗号を解読し文書を作成するがそれをハルに手渡したのは予定時刻の1時間後
すでに攻撃は始まっていた。
これが「真珠湾だまし討ち」と言われている事件の真相だった。
=====================

 『戦争論2』では、Fルーズベルトが、日本の動きをすべて察知し、「最初の1発」を討たせるよう画策したと書かれている。
 また、1時間遅れた大使の名が野村・来栖であることも。

 「教科書が教えない~」では、この2名について、その後を書いている。
(1945年(平成二十年)九月二十七日、昭和天皇と占領軍最高司令官マッカーサー元帥との1回目の会見が行われた。)
◆しかし、何とこのときの会見で通訳にあたっていた人が実は、日米開戦の前夜、日本の外交電報をタイプすべきところ、その仕事を放置し、そのために最後通告を指定時間に
手交できなくなった原因をつくった直接の責任者だったのです。
◆1952年(昭和二十七年)占領解除となりますが、その前後に、この通訳を含め、開戦前夜の日本大使館の失態に重要な責任をもつ人物二人を、外務省の最高の官職である外務次官に就任させたのです。

 それにしても、以前はそれほど意識しなかったエピソードが今回気になったのはなぜか。
【原因推測1】小説の形・会話の形で歴史が解説されていたため、「エピソード記憶」として脳にインプットされた。
【原因推測2】何度も繰り返されたことで、断片的だった知識が整理できた。
【原因推測2】小説を読むモードだったため、小説の世界に深く入り、感情移入した。

などが考えられる。
 向山先生は「1回読んだのは、読んだうちに入らない」と言われる。
 今回、その意図がよく分かった。
 「パールハーバー騙し討ちの事情」は、様々な書物で繰り返しインプットされて、ようやく自分の意識に入ってきた。
 ちなみに昨日、近所の図書館に行って、1時間ほど太平洋戦争の本を読んだ。
 『永遠のゼロ』に出てきたエピソードや人物名が出てくると、すんなり入ってくる。
 予備知識があることで、読書の吸収量は飛躍的に向上することが実感できた。


◆ 同じ本を何度も読む
◆ 同じテーマの本を何冊も読む
◆ 期間をあけてから再び読む
のように取り組むことで、知識がようやく自分のものになるのだと思う。

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May 02, 2010

中学校の教師は大変だが、やりがいがある。

3月末のサークル例会は、中学校での実践報告が中心になり、自分のかっての中学校勤務時の大変さがよみがえってきた。
 中学では「あたりまえのことがあたりまえにできる」ことが、それだけで「すごい!」ことになる。
 だから、当時の学年主任も
◆「あたりまえのことが、あたりまえにできる学年にしよう」
と訴えてきた。同感である。
 だから、NHKの『プロフェッショナル』での、あるパテイシエの言葉
◆「あたりまえを続けると、特別になる」
を「なるほど!」と思った。

 たとえば中1の入学直後のしっかりした態度を見た時は
「みんなの態度はすばらしい」
と心から思えた。

(「最初が一番いい」というあたりが、小学校勤務の先生には、意外だったようだ)。

 1年の最初の学年集会では「今より下がるな!」と訴えたことがある。
=========================
今のみんなは素晴らしい。
そこでお願いがあります。
それは「今より下がるな」ということです。
「今できていることを最低ラインにして、さらに成長してほしい。」
ということです。
中学校に慣れるということは、服装をくずしたり、授業をさぼったり、
先生にさからったりすることではありません。
今できていることはそのまま続け、さらに部活動でも活躍し、
勉強でも伸びていってほしい。
気が緩んで自分のレベルが下がることがあるかもしれません。
そんな時、先生たちは
『1年生の4月はちゃんとできていたぞ』
と言い続けます。
みなさんは、自分にいつも『自分は下がっていないか』を
問いかけてみてください。
==========================
 このようなスタートがあり、行事後や学期末には
「よくがんばったよ」「成長しているよ」
と言葉をかけた。
 「がんばっているよ」「よその先生がほめていたよ」
といった支援があるから、中学生は前を向いて歩くことが普通になる。
 多くの生徒は後ろ向きな生き方を否定するようになる。
 後ろ向きな生き方は楽であり、前向きな生き方はしんどい。
 しかし、しんどさの先に幸せがあることが分かれば、生徒は信じて生きていける。
 だから「努力の大切さ」「努力の先に幸せがあること」を繰り返し語って生徒の進路を支えていく。

 TOSSデー講座の練習をした20代の先生は、

◆率先垂範
◆凡時徹底

そのものだった。

◆ささいなことにも全力を尽くす
◆ささいな乱れもみのがさない。

といった意気込みが感じられた。

 市内の中学の先生がセミナーに顔を出すことはなかなかないが、多くの中学校の若手の先生に知ってもらいたい内容だった。

 さて、ここまでは、中学生の対応の苦労の部分である。
 しかし、中学生の対応にも負の部分と正の部分がある。
 決して大変な生徒ばかりではない。当然だが、いい子はいい子だ。
 そのこともきちんと伝えておかなくてはいけない。

 春休みに中学校に出向くことがあり、ほんのわずかだが中学生に触れた。
 真面目な中学生=ごく普通の中学生は、優秀な小学生よりレベルが高い。
 そういう意味では、小学生より「すごさ」があり「パワー」があり「配慮」がある。
 例えば、本校の6年生が卒業式に「旅立ちの日に」を歌った。
 一生懸命歌うが、そんなのは合唱コンクールの中学生の歌に比べたら何十分の一の迫力しかない。
声量もそうだが、何より歌に込める感情が違う。
 同じことは掃除でも言える。
 確かに小学生は熱心に掃除をやる。中学生の方がサボる子は多い。
 しかし、真面目にやる中学生の清掃態度は小学生の比ではない。
 多くの小学生にとって掃除は「体を動かす楽しみ」の1つであり、「毎日の決められた行動」の1つである。
 中学生になると、本来の掃除の意味を考えて行動する。
 本気になった中学生の掃除はすがすがしい。
 「そこまで気がつくか!」と何度も感激した。
 同じことは「あいさつ」にも言える。
 意味のある=心からの「あいさつ」を言うのは中学生の方が多いと私は思う。

 中学生には、すごいパワーがある。
 スポーツの世界では、オリンピックに出たり、日本記録を出したりする子がいる。
 西部中の勤務時代、岩崎恭子はオリンピックで金メダルをとった。
 中部中の勤務時代、浅田真央は年齢制限でオリンピックは逃したが世界選手権優勝だっ
た。
 芸能界でも、中学生で大活躍する人がたくさんいる。それは我々が小学校時代の中3トリオの頃から変わらない。
宇多田ヒカルのデビュー曲が15歳の作というのも驚きだった。

 中学生は、もう「将来」が始まっており、日本を支え始めている。
◆「この子には、将来かなわないだろうな」と感じることもあったし、
◆「この子には、もう既にかなわないな」と感じることもあった。
 体格だけでなく、人間的にも学術的にも、である。
 小学生を相手にしては、めったに感じないことだが、中学生を前にするとよく感じたも
のだ。

◆人間形成という意味でも
◆教師と生徒の距離が近いという意味でも
小学校教師には味わえない魅力がある。

 だからこそ、中学校教師が我流に埋没せず、謙虚に学び続けてほしい。

◆教師自身が歩んできた道
◆教師自身の現在の生き方

が問われている。

 本を読めと語る教師が、どれほど本を読んでいるか。
 堂々と意見を言えと語る教師が、」どれほど発言しているか。
 毎日学べと語る教師が、日々どれほど学んでいるか。
 努力の継続を語る教師が、日々どれだけ努力の継続をしているか。
 クラスの「和」を説く教師が、日々の職員室での人間関係にどれほど気を配っている
か。
 
 人の生き方(意気込み)は、オーラのようにほとばしり出る。
 学びの成果は、さりげない会話の端々にあらわれる。
 信頼できる教師かどうか、子どもは見抜く。

 それが「率先垂範」であり「背中で語る教育」だと思う。

 教師の生き様が「まあ、これでいいのではないか」だったら教えられた子は「まあ、これでいいのではないか」を日々インプットさせられる。
教えられた子はそれ以上には伸びないかもしれない。
 教師の規定したワク以上に子どもを伸ばすことは極めて難しい
(よほど子どもに力があるか、家庭その他の教育力があれば教師の規定を越えて育っていくだろう)。

 また、中学校は、特に教科担任制だから、担任1人の力で子どもを支えることは難しい。
 だからこそ、学年全体・学校全体で一枚岩になることが望まれる。
 たとえば、学年集会における学年主任・生徒指導担当の言葉は、生徒に訴えるとともに学年の先生に訴えるために存在する。
 学年の先生に意図が伝われば、その後の指導はチームワークが可能です。
 学年主任が発行する学年通信は、生徒を通して保護者に訴えるとともに、学年の先生に訴えるために存在する。
 これも、学年の先生に心に響けば、各クラスでフォローしてもらえる。

 むろん、学年主任1人しか意識していない問題を訴えても教師集団には響かない。
 今の教師集団にとっての「最大公約数」となる問題を、うまくピックアップする必要がある。
 その意味では教師集団の雑談や日常会話が大事だと思う。
 
 特に中学1年の学年経営は3年間を左右します。
 3年間を見越した「語り」を続けると、賛同する先生・賛同する保護者が増えていく。

 春日井市では小学校勤務から中学校勤務に異動することが多い。
 その異動は決して「大変だよね」ではない。
 心から「やりがいのある仕事だよね」「楽しみだよね」とエールを送りたい

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『1Q84』読了

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『1Q84』第三弾は2日で読み終えることができた。
1・2は昨年の6月に読んだから、すいぶん記憶も途切れていたがすんなり読めた。

『1Q84』の1・2には、さまざまな要素がある。
ヤマギシとオウムを連想させる宗教団体,DV,トラウマ,ゴーストライター,文学新人賞(村上春樹がとれなかった芥川賞)。

この後、どんな展開になるか期待をもたせての第3段。
「青豆」の生死すら分からない状態でのスタートだった。

おもしろい。
分かりやすい。
1・2の多くの要素が、ごっそり削られていた。
1・2で重要な登場人物だったフカエリも老女もほとんど出てこなかった。
怪しげな宗教団体もほとんど関与しなかった。

今回関与しなかった要素は「1Q84」のテーマではないということになる。

テーマは、「再会」であり「遠く離れた相手を想い続ける愛」・・・まさに「純愛小説」だ。

純愛の象徴が「青豆」の「受胎」。
身に覚えのない受胎の相手が「天吾」だと断じることのできる信頼感こそが「愛」だ。

何十年も会っていない「天吾」の子を身ごもるというストーリーを組み立てるには、宗教儀式と巫女の存在が必要だった。
結果から考えると、そのための「さきがけ」、そのための「フカエリ」だったのか、ということになる。
終末には『ハードボイルドワンダーランド』のような大どんでん返しはなかった。
互いの「会いたい」という思いが、ストレートに成就してしまうのは、逆に意外な顛末だった。

天吾の父、看護婦、狂言回し役の「牛河」、青豆を支え続けた「タマル」といった絞り込まれた登場人物の意味を理解しきれてはいない。
おそらく自分の読みは、かなり表面的なのだと思うが、表面的には意味が分かり楽しめた作品だった。
下記のブログの書評の圧倒的な記述を前にすると、ひれ伏すしかない気持ちである。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/04/1q84-book3-e707.html

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