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December 31, 2010

人間中心思想と自然中心思想

 中日新聞夕刊の梅原猛氏の連載「思うままに」で、『草木国土悉皆成仏』の思想について触れている。

12月13日「植物中心の思想」
12月20日「日本の思想が人類救う」

の2回分しか手元にないが、もう少し前から言及されていたようだ。今度図書館で調べてみようと思う。

 『山川草木悉皆成仏』については、次のサイトに詳しい。
http://okwave.jp/qa/q2041831.html

 梅原氏の連載から一部抜粋すると
◆「草木国土悉皆成仏」という思想がインド仏教、中国仏教にない日本仏教独自の思想であり、その思想の淵源が縄文文化に求められる
◆伝統的な日本文化の原理が、「草木国土悉皆成仏」という言葉に表されるような植物を生きとし生けるものの中心におく思想であるとすれば、それはヨーロッパの伝統的思想とは甚だ異なる。ヨーロッパの伝統的思想は人間中心の思想であるといわねばならない。
◆このような思想(人間中心の思想)はキリスト教の聖典である新訳聖書にも受け継がれている。そこでは、人間は創造者である神の被造物であるが、神の似姿である理性をもつがゆえに他の被造物よりもすぐれていて、他の被造物に対する支配権をもつと考えられている。

・・・「古今和歌集」をはじめとする和歌の世界では、植物を読み込んだ四季の歌が多く、恋の歌も植物になぞらえた者が多い。
俳句の季語もしかり、「源氏物語」の女性の名前(桐壺・葵の上・夕顔など)も、戦前までの女性の名にも松・桃・菊・百合など植物の名が多い。
トランプ・麻雀と違い、花札は十二カ月それぞれの季節の植物が札に描かれ、その植物に集う鳥や獣が添えられていると梅原氏は書いている。

 先日読んだ金谷武洋著『日本語には敬語があって主語がない』も同様の発想が書かれている。

▼俳句はまさにその方向で、「大いなる自然の懐に包まれて生きている儚い存在である自分」を詠むのが基本なのです。夏目金之助の「俳句と禅は似ている」という寺田寅彦への答えは、まさにそれを述べています。自然を支配し、自然を変えようとする西洋的、科学的、分析的な<私>はそこにいません。いるのは、それとは逆に、自然に溶け込んで同化してしまう<私>なのですから。P156▲

 また、続いて「俳号と四股名に見る『自然崇拝』」の章があり、俳人の植物志向などが紹介されている。
興味を引いたのは力士の四股名である。

▼戦前の双葉山から平成のは貴乃花・若乃花まで、植物的なものが目立ちます。それはなぜでしょうか。
一言で言うと、それらが日本人にとっては「強そうな名前」だからです。つまり、そこにあって不動の自然物(山・嶺・島・富士)や、人間のコントロールの利かない勢いを帯びるもの(海・川・波)や、そして自然に大きく育つ植物(花・杉・藤)などだからです。▲

 金谷氏は、この後、外国人力士には「龍・鵬」といった架空の動物を使うケースが目立つことも興味深い点として指摘している。西洋由来の野球のチーム名は巨人や龍や虎・鷹のように勇ましいものが多いことも。
外山滋比古氏の『ことばに学ぶ』からの引用もある。

▼ 「アメリカ人の自然に動物が重要な意味をもっているとすれば、われわれの自然はどちらかといえば植物的であるように思われる。手許の歳時記で季語に当たってみると、動物という分類に入っていうものが七七、」植物に入っているものが二○八。植物の方が三倍近く多い」▲

 日本の自然観は植物的、という点が、冒頭、梅原氏の「草木国土悉皆成仏」=自然を支配するのではなく受容する思想とつながってくる。
 であるからこそ、梅原氏は西洋の人間中心主義に異を唱える。

▼この人間中心主義はいつ興ったか。それはもちろんプラトンによって始まったとはいえない。人間が農耕牧畜文明を創造したとき、このような人間中心主義が文明の哲学になったのであろう。農業は人間が植物を絶対的に支配することであり、牧畜は人間が動物を絶対的に支配することであるからである。
今や、遠く農耕牧畜文明に遡る人間中心主義を批判すべきであろう。このように人類文明を根源的に考えるとき、狩猟採集文明の原理を保持している日本の思想が人類の危機を救う思想になるのではなかろうか。▲

 梅原氏は2008年にも同趣旨の講演を行っている。
http://www.geocities.jp/shinnyatarou/date16.html

 2004年にも書いている。
http://shgshmz.gn.to/shgmax/public_html/review/asahi20040720_umehara.html

 西洋思想と東洋思想の違い、これは哲学の問題であり、宗教の問題である。
 実に奥の深い問題だ。ほんの入り口に過ぎない。

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December 29, 2010

いじめ対策~興奮と抑制~

 以前、サークルで「いじめ対策と学級経営」について意見をいただきました。
 差し障りのない程度に引用して、意見を書きます。


◆予防という面から、(中略 竹田)ひとつあげると、国語の授業の中で上手に「百人一首」を取り入れてやればよかったな。ということです。
やれないクラスがあるからやらない。ではなくて、その壁を超える力が必要だったと。
「群れ」となった生徒集団は、自然に「荒れて」、攻撃性を抑制する力を失うということ。
日々の実践で、そこにどう「規律」や「自制」を持ち込むかが教師の力量であり、責任だということを感じています。

・・・先日の特別支援教育セミナーの講座の中で、「興奮と抑制」という話しがありました。
十分理解できていないのですが、すごく印象に残りました。
 
 「抑制」を先に持ってきてはいけない。興奮する(ような楽しい状態を体感した)後で、抑制をもってくることが重要だ。
というような理解をしました。

 これは、なるほどその通りで、子どもにしろ大人にしろ、楽しい活動を行っているからこそ「お預け状態=抑制」が学べます。
 もし、嫌々いっているのに「静かになるまでやりません」と注意されたら、「別にやらなくてもいいし」などといった反発を浴びる可能性があります。
 だから、やりたくてやりたくて仕方ない状況こそ、抑制を学ぶ絶好のチャンスなのです。
 たとえば、次のような資料がネットで検索できました。

http://kids21.gr.jp/joho_box/box_c_02_07.html

●やる気の3つ目安
やる気は大脳新皮質の前頭葉の働きで、この働きの強さを「前頭葉の土台」といいます。
その土台の強さには3つの目安があるそうです。
1つ目は「興奮と抑制のそれぞれの強さ」、
2つ目は「興奮と抑制のバランス」、
3つ目は「興奮と抑制の切り換え」です。

興奮と抑制の切り換えから見ると、切り換えが遅い子どもは「おっとり型」早い子どもは「活発型」になります。
ところで、最近目立つようになってきた型に「抑制型」というものがあります。
これは、興奮の強さが発達する時期に、抑制の強さの方が先に発達してしまったということが特徴です。

●抑えられすぎた興奮の行方
興奮することで抑制の働きが発達する時期の子どもに、その興奮を強く抑制することを要求するとどうなるのでしょう。
最近の子どもたちは興奮の強さの発達が遅れているといわれています。
ある専門家は、家庭や保育・教育の場で、興奮の強さを発達させる時期にそれを抑え過ぎるるようなしつけや指導がなされているからではないか、といっています。実際、ある学校では、荒れているクラスの子どもたちに身体を激しく使った遊びをやらせたところ、落ち着きを取り戻したというケースもあるそうです。
興奮と抑制のバランスが保たれないとき、子どもは急にキレたり、また幼児期に見られる特徴に逆戻りしたりするといわれています。

◆興奮の強さが発達していないところに、抑制の力をいい形で発達させるということは、難しいことなんですね。子どもたちが安全に、そして安心して興奮というエネルギーを爆発させる場を作ってあげるということは、育児に関わる私たち大人の大切な役割ですね。

参考/正木健雄著「ヒトになる人間になる」創教出版

・・・「荒れているクラスの子どもたちに身体を激しく使った遊びをやらせたところ、落ち着きを取り戻したというケースもあるそうです。興奮と抑制のバランスが保たれないとき、子どもは急にキレたり、また幼児期に見られる特徴に逆戻りしたりするといわれています。」という叙述をしっかり学びたいと思いました。

 また、次の資料。
 
 「人間であること 」 (時実利彦 著 岩波出版)

には自制心をつけて戒律を守ることを「躾ける」という言葉で表現しているが、これは「し繰りかえす」という意味である、と書いてあるそうです。
人は、生きていく上で様々な欲求を持ち、やる気や意欲が高まることで積極的に行動をしてそれらの欲求を満たそうとしますが、このようなやる気や意欲が高まっている時は脳の前頭連合野の神経系が興奮した状態になります。
一方、人は社会を形成して生きているので、集団の秩序を保つためには自分の欲求を抑えなければならないときもありますがこのように欲求を我慢しているときは、脳の前頭連合野の神経系が抑制状態になります。
 このように、人が社会の中で生きていくためには「意欲と我慢」言い換えれば、「脳の興奮と抑制」のバランスを
保つことが重要になります。
 最近の研究では、切れやすい若者が多くなったのは、この前頭連合野の抑制の働きが低下していることがわかってきているようです。

・・・モンテッソーリ教育の次の記述とも重なって感じました。
 以前、次のようにまとめたことがあります。

=================
モンテッソーリ教育の第一人者である相良敦子先生の著書、『幼児期には2度チャンスがある』を読んで、モンテッソーリ教育で「敏感期」と呼ばれる感覚が研ぎ澄まされた時期があり、「正常化」と呼ぶ劇的な変化があることを知った。
◆「正常化」が起こると、「歪み」がひとりでに消えるばかりでなく、その子本来の落ち着きや善良さが現れてきま
す。(P75)

・・・この変化は、「敏感期(幼児期)」でなくてもよい。集中体験が人生を変えるのだと相良先生は書いておられる。
 『お母さんの敏感期』には次のようにある。

◆幼児期の強烈なエネルギーがほとばしりでる敏感期のようなかたちではないにしても、人間には生涯にわたって、いつも何か夢中になれるものがあり、そのために情熱を傾ける時期があります。
 そして、全力投球して夢中にやり抜いたあとは、人間いくつになっても素直になり寛大になります。(P107)

 楽しいことをやるから、やる気が出る。
 楽しいことをやっているから、我慢もできる。
 だから、楽しいことをやり続けると落ち着きが出る。

 「カルタ」も「部活動」「教室のイベント」も同じなのだと感じています。
 そのような循環を仕組むことが授業経営・学級経営の1つの方策なのだと思います。

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December 26, 2010

言語活動のあり方

 道徳の学習指導要領に、「言葉を生かし考えを深める工夫」と題する言葉に関する記述がある。

http://www.fuku-c.ed.jp/center/contents/kaisetsu/doutoku.pdf

 言語活動についての詳しい記述で、国語や他教科における言語活動の例よりも、ずっと汎用性がある。
 以下の内容は、道徳の授業だけの問題ではないのだ。

◆自分の考えを基に,書いたり話し合ったりするなどの表現する機会を充実し,自分とは異なる考えに接する中で,自分の考えを深め,自らの成長を実感できるよう工夫すること。
◆学校の教育活動全体で言葉を生かした教育の充実が求められている。言葉は,知的活動だけでなく,コミュニケーションや感性,情緒の基盤である。道徳の時間においても,その言葉を生かした教育についての充実が図られなければならない。

(1) 道徳の時間における言葉
 道徳の時間の学習では,中心的な資料が生かされ,児童の体験や資料に対する感じ方や考え方を交えながら話合いを深めることが学習活動の中心となることが多い。その意味からも,道徳の時間における言葉の役割はきわめて大きいといえる。
 国語科では言葉にかかわる基本的な能力が培われるが,道徳の時間は,このような能力を基本に,体験などから感じたこと,考えたことをまとめ,発表し合ったり,討論や討議などにより,意見の異なる人の考えに接し,協同的に議論したり,意見をまとめたりする。  例えば,資料の内容や登場人物の気持ちや行為の動機などを考える。
 友達の考えを聞いたり,自分の考えを伝えたり,話し合ったり,書いたりする。さらに,学校内外での様々な体験を通して感じ,考えたことを,道徳の時間に言葉を用いて生かし合ったりする。これらの中で,言葉の能力が生かされ,一層高められている。
 したがって,道徳の時間においては,このような言葉の能力を総動員させて学習に取り組ませることが,ねらいを達成する上できわめて重要であると考えられる。

・・・・・・どの教科においても、言葉の能力を総動員させれ学習に取り組ませなくてはならない。その理由は、上記の通りである。


(2) 自分の考えを基に表現する機会の充実
 話合いは,道徳の時間に最もよく用いられる指導方法であるが,話合いを深めるためには,児童それぞれに自分の考えをもたせ,効果的に表現させるなどの工夫が必要である。

ア 児童に自分の考えをもたせる
 児童に自分の考えをもたせるためには,何について考えるのかを指導者が明確に示す必要がある。
 例えば,読み物資料であれば,どの場面での,どの登場人物の,どのような行為や,判断,動機などの何について考えるのかをより的確に,より具体的に示さなければならない。そのためには,指導者自身が,読み物資料の構造や表現の意図,そこに含まれる道徳的価値や人間観を深く理解し,さらに,児童の発達の段階や実態を考慮に入れ,児童一人一人が資料の内容をつかみ,自分の考えをもつことができるようにすることが大切である。

・・・・これは、指導者への注文。児童の実態・発達段階の配慮が必要であることは言うまでもない。

イ 自分の考えを基に書いたり話し合ったりする
 自分の考えをもっている児童がそれを表現できるかというと,必ずしもそうではない。
 したがって,日頃から,何でも言い合え,何でも認め合える学級の雰囲気をつくるとともに,教師が受容的な姿勢をもつことが大切であり,場合によっては話合いの一定のルールなどを身に付けさせることも必要になる。
 また,自分とは異なった考えに接する中で学習が深まるということを,日頃の経験を通して実感させるように努めることが求められる。
 また,話合いとともに,書くことも重要である。児童は書きながら考えており,児童にとって書くことは考えることであると言える。また,そのことによって,それまで曖昧であった自分の考えが徐々に整理されたり,日頃は忘れている体験や自分自身のことを思い出したりする。これらの意義を意識した活動を取り入れることにより,児童は道徳的価値をより強く自分とのかかわりでとらえることができるようになる。
 これらの活動を深めるには,先に示した話合いの工夫,書く活動の工夫,表現活動の工夫等,指導方法の多様な創意工夫を効果的に生かすことが望まれる。

・・・・・・この項は、盛りだくさんである。学級の雰囲気・教師の受容態度・話し合いのルール確立・異なった意見の受容・書くことの重視など、どれも全教科において必要な要素である。


(3) 児童が自ら成長を実感できるようにする工夫
 児童が道徳的な成長を自ら実感する場合,一単位時間の指導の中での成長について実感するときと,以前の自分自身と比較しての長期にわたる自己の成長を実感するときがある。
 長期にわたる成長は,例えば書いた内容などの一定期間の変化等によって実感することができるが,道徳の時間の一時間の指導の中において児童が自己の成長を実感することは難しい場合が多い。
 そこで,学習を通して児童が何に気付いたり,何を理解したり,どのような考えや思いが深まったりするのかを予想して授業に臨むようにすることが重要になる。
 実際の指導に当たっては,効果的な方法を生かして成長が実感できるように工夫することが望まれる。例えば,学習を通して,はじめの段階と自分がどう変わったか分かるような書く活動の工夫,児童が想定したもう一人の自己に問いかけて考えを深める自己内対話の工夫などが考えられる。また,事前に以前の様子を想起できるような具体的な材料を収集したり,児童に収集させたりしておき,それを生かして学習を進める工夫なども考えられる。

・・・・・・・いわゆる「振り返り」の場の設定。自分の変容を実感することが、次の成長へのバネになる。「総合」の授業では、よくポートフォリオなどと言われて記録の蓄積が求められた。
 どの教科でも記録の蓄積は大切であることは言うまでもない。

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『夢にも思わない』 宮部みゆき

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 中学生を話者とする軽い調子がちょっと気になったのだが、それでも楽しく読めた。
 そしてラストで深く深く考えさせられた。
大好きなクドウさんを、やっぱり許せない「僕」。
クドウさんは泣いてうろたえるが、その姿に一切の同情もせず、冷淡に見つめる「僕」=作者の視点は厳しかった。クドウさんを糾弾するなら、もう少し亜紀子さんを擁護してもいいかな、とも思ったが、亜紀子さんの行為については厳しいスタンスだったあ。


 「僕」の語りを借りて、作者の主張が登場する箇所がある。
たとえばP88・89

 今日日(きょうび)、若い女の子が売春をしてるなんて話には、誰も驚かない。女子高生が下着を売る時代だ。男子中学生の僕だって、ちょっとやそっとの話じゃびっくりしない。
 だけれど、それはあくまで、それらのことが「実在するどこかの誰か」の話である場合のことだ。名前のない人びとの話である場合だ。だから、それらの人たちに名前と顔がついたら、しかも、その名前と顔が、自分たちの身近にいる人のものだったら、反応はまるで違ってくる。距離感という鎧がなくなって。剥きだしの生身の感情が現れる。そしてたいていの場合、そういう生身の感情が、これ以上ないというくらい保守的なものだ。下着を売って遊ぶ金をつくる女子高生の記事を顔をしかめて読みとばす中年男性は、自分の娘が門限に遅れたら、門の前に立って待っているお父さんでもあるのだから。
 そういう意味では、僕らは今、こぞって「匿名の時代」に生きているのだ。匿名なら何をやってもいい。また匿名の人びとがやっていることなら、どんなことでも「そんなもんか」と認めてしまう・僕が感じたのと同じように、「なんか小説のなかの話みたいだ」と呟いて、忘れてしまうこともできる。そうやって、僕らはみんな早すぎるスピードで進んでゆく世の中の一部と、かろうじてバランスをとりあいながら暮らしているのだ ー
  というようなカタいことを僕が口にできるわけもなく・・・、

と書いているように、上記の内容は中学生が発する言葉ではない。
 要するに「僕」の立場を借りた作者の言葉だ。
 垣間見る作者の難しい言葉が、「僕」の軽い口調にのって、作品に深さを与えているということころか。
 久しぶりに読んだ宮部ワールド。さすが、である。

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December 21, 2010

5つの絶対的信頼

前文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官の押谷由夫氏(現昭和女子大学教授)の講演レジメの中に次の一節がある。
(11月16日稲沢市で開催された愛知県道徳研究大会の資料より)

子どもたちの「未来への意識」を肯定的に 5つの絶対的信頼

(1)生きていれば必ずよいことがある   ~生きることへの絶対的信頼
(2)よいことをすれば必ずよいことがある ~善行への絶対的信頼
(3)続けて入れば必ずできるようになる ~継続への絶対的信頼
(4)一生懸命にやれば必ずそれに見合う成果がある ~努力への絶対的信頼
(5)具体的目標をもって一生懸命に取り組めば必ず実現する ~具体的目標への絶対的信頼


「あきらめなければ必ず夢はかなう」というのは、挫折を伴うこともあり手放しに勧めたくない。
ただ「あきらめなければ~」が、(4)の意味であるならば「それに見合う成果」でフォローできると思う。

◆サッカー選手になりたくて一生懸命やれば、たとえサッカー選手になれなくても、それに見合う成果は得られるよ・得られるものは大きいよ。◆

という解釈できれば、挫折してやけになることもないのだ。

 それは、小学生は「友達100人できたかな」とたくさんの友達をつくることを勧め、中高では斎藤孝氏が言うように「そんな友達ならなくたっていいじゃないか」と数を競う無意味さを説くように
小学生はとにもかくにも、「明確な夢をもって一生懸命努力する」ことを勧め、中高では「別の力も養えたね・努力は無駄にはならなかったぞ・次の道もあるぞ」と1つの選択枝に固執する必要がないことを説く。

 それにしても(5)の、「具体的目標を持って一生懸命に取り組めば」の付帯条件は、なかなか鋭いと思う。
 七夕の短冊や初詣のお参りで「○○できますように」と神頼みするだけでは成果は出ない。
 具体的目標(具体的な行動)をどう設定するか、ここを教師は支援してやる必要がある。

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December 17, 2010

二重主語の文の場合

 12月12日付きの日本経済新聞、外山滋比古氏の連材「日本語の散歩道」で、「『は』は主語か」が論じられていた。
 「ボクはウナギだ」
 「象ハ鼻ガ長イ」
 「雨がふる」
などが例示されていた。
 
 以前、自分も書いたことがある。

◆中学校1年国語で「文の成分」を扱っている。指導書を久しぶりにみて驚いた。
 「私は水がほしい(対象語)」と書いてある例文について次のように解説がある。

「論理的には『水を』とも言える表現であるので『連用修飾語』とすべきである」

 当然、その通りである。
 だが、実際は、「『水が』も『主語』と扱う」というのが光村の見解だ。次のように解説している。

===============
 光村版教科書の立場は、述語が表現する事柄(動作・作用=ドウスル、性質・状態・情意・判断=ドンナダ・ドウダ、説明=ナンダ)の主体(ナニガ)を抑えるために、表現や理解の活動の面からも利点があるとする考えによって、前に掲げた例の(1)(2)(3)のようなものをすべて「主語」としている。
 なお、(3)のような例については
 
(主語)   (述部)
 私は、  水が ほしい
      (主語)(述語)
 
のような係り受けの関係が成り立つので、「水が」を述部に含まれる「部分の主語」とする。

・・・分からない。
 そもそも相手は中学生である。
 良心的な先生なら英語と重ねて指導をする。
 
 私は水がほしい= I want water

で考えれば、主語は「私」、「水が」は「水を」だから英語で言えば目的語、日本語で言えば修飾語である。
  「私は リンゴが 好きだ」でも同じだ。
 「学校文法」というジャンルがあるなら、むしろ、中学英語と違和感のない指導を「学校文法」として確立してほしいと思う。
 自分が不勉強なだけなのだろうか。
 「象は鼻が長い」の本を学生時代に読んだ覚えがあるのだが。
 文法について、もう少し勉強しないと。◆

 
 この時は、「私は」が主語に決まっているじゃないか、と力説している。
 しかし、ことは、それほど単純じゃない。
 「は」は主語を表わさない、という主張もあるからだ。

 今日は雨が降る

の場合、「何がどうする」の構文で考えれば「雨が降る」が主語述語になる。

 今日はどんなだ
 ↓
 今日は「雨が降る状態」だ。


 「今日は『雨が降る』日だ」の省略形だとする考え方も同じだ。

 一方

 「今日は、疲れたなあ」

の場合、疲れた主体を表す言葉(たとえば「ボクは」)が、省略されていることは明白だ。中学生だって
「今日は」が主語ではおかしいと気づく。

 外山氏の連載の一部のみ引用する。


 戦前のかなり古い話になるが「象ハ鼻ガ長イ」が問題になったことがある。「象ハ」と「鼻ガ」と主語が二つある、二重主語だと言われたのである。この「ハ」は、「ボクはウナギだ」の「は」と同じで、主題を示すもので、主語ではないと考えれば解決する。英文法の知識があると「は」とあれば主語と考えやすい。
 この問題にはっきり決着をつけたのは、三上章『象ハ鼻ガ長イ』(1960くろしお出版)である。「象ハ」の「ハ」は主語でなく主題を示すものとのべられている。名著だが、どうしたわけか国内より海外で注目され、ことに旧ソ連で評判が高かった(以下略)

 たまたま図工の時間に児童に持ってこさせた新聞の中に、このコラムを見つけた。偶然にしても幸運だった。
 前から知っていたことといえ新鮮な驚きがあった。
 「が」と「は」の言及は、つい最近読んだ『日本語は敬語があって主語がない 「地上の視点」の日本文化論 (光文社新書) にもあった。
 その中では何度も三上氏の「象ハ鼻ガ~」が登場した。
 著者の金屋氏は、『主語を抹殺した男/評伝三上章』という著書もあるほどだ。
 そして、「が」と「は」については詳細なコラムもあった。

======================== 
 P54 助詞「は」は主語を表さない。

 学校文法では、「は」が文の主語を表すと教えますが、これは大きな間違いです。三上章(1903ー1971)をはじめ、優れた文法学者が指摘したように、「は」は述語と文法関係を表すものではありません
 これはすでに江戸時代の国文法では知られていたことで、本居宣長(1730-1801)や富士谷成章(1738-1779)などは、一度も「主語」という概念や用語を使ったことがありませんでした。「は」は「も」「しか」などとともに係助詞と呼ばれて、「を・と・で・が・に・へ」など、格助詞と峻別されていたのです。文法関係を表すのは、これら格助詞のほうです。
 (以下略)
=========================

 そうだった、そうだった!
 中学校で文法を教えているときの、注意事項の1つが

 ◆「は」は、格助詞じゃないぞ。◆

であった。
 格助詞は「鬼が部屋のとから出より」=「を・に・が・へ・や・の・と・から・で・より」
であり、たしか教科書では「は」は強調を表す副助詞だった(現代文法に、係助詞はなかった)。

 その理由について自覚できていなかった。
 結局「ボクはウナギだ」も「象ハ鼻ガ長イ」も、斜め読みだったのが原因だ。
 この機会に、もう少し勉強してみよう。
 

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December 14, 2010

PISA調査:読解力向上の背景

12月7日のPISA(学習到達度調査)で、読解力は15位から8位に上がったとの結果が出た。
 地元中日新聞の記事によれば、
◆文部科学省は改善の背景について全国学力・学習状況調査を通じてPISAを意識した授業の工夫や読書活動の推進が効果があったとしている。
とある。

 別の場所では

◆過去二回の調査で読解力の順位が低下し、日本では学校での朝の始業前に「朝読書」に取り組むなど力を入れてきた。
とある。

 読解力低下の対策は「朝読書」だけなのか?
 これでは「読解力は授業では育たない」と宣言しているようなものだ。
新聞記事は、「NIE」(教育に新聞を) の効果も指摘している。
 「NIEが小中高校で広がっていることも、好成績に影響したと考えられる」とあるが、読書の効用と同じだ。

 じゃあ、国語の授業を止めて読書だけやってれば力はつくのか?
国語の教科書を使うのを止めて新聞を使っていれば、もっといい点がとれるのか?

 かつて国語の名人と言われる野口芳宏氏が話していた記憶がある。

◆自分の読解力をつけてくれたのは読書であると答える人が多く、国語の授業で読みの力を付けたと断言する人はまれである。
 だとするならば、一体国語の授業とは何なのか?

・・・・力をつける国語の授業が「鍛える国語」であり、いくぶん野口氏が否定的だった「分析批評」であった。
 
 ところで、相関関係の考察についても疑問がある。

 読書が読解力に寄与する、新聞が読解力に寄与するという考察は正しいか?
 むしろ因果が逆という印象がある。

 「読解力がある人は、読書の習慣がつく」 「読解力がある人は、新聞を読む習慣がある」のように。

 とにかく、結果をどう考察するか。そこに我田引水のような強引さがないか、きちんと見極めたい。

http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/index.html

には、以下のような考察がある。

(7)生徒の背景と到達度(本文第2.5節)
 2009年調査では、生徒質問紙の中で「趣味としての読書」「読書活動」「読む本の種類・頻度」「オンライン上での読みの活動」「就学前教育機関での教育経験」についても尋ねた。
● 「趣味で読書をすることはない」と回答した生徒の割合について、17か国中最も多いのはオランダで、次いで日本、アメリカ、アイルランド、ドイツの順であった。その割合が最も少なかったのは上海で、次いで台湾、香港、シンガポールの順であった。(「趣味で読書をすることはない」と回答した生徒以外の)「楽しみで本を読む」生徒について、2009年調査の割合が2000年調査の割合に比べて統計的に有意に多いのは、日本、カナダ、ブルガリア、香港、ギリシャ、タイの6か国で、日本の場合、2000年調査に比べ2009年調査の方が男子で約9ポイント、女子で約13ポイント増え、平均で約10ポイント増加した(本文第2.5.1節参照)。

● 読書活動について様々な観点から尋ねたところ、日本の場合、「読書は、大好きな趣味の一つだ」「本の内容について人と話すのが好きだ」「本をプレゼントされると、うれしい」の各項目について「どちらかといえばあてはまる」「とてもよくあてはまる」と回答した生徒の割合が、それぞれ2000年調査に比べて統計的に有意に高い。また、「本を最後まで読み終えるのは困難だ」「読書は時間のムダだ」「読書をするのは、必要な情報を得るためだけだ」「じっと座って本を読むなど、数分しかできない」の各項目について「どちらかといえばあてはまる」「とてもよくあてはまる」と回答した生徒の割合については、日本はそれぞれ2000年調査に比べて統計的に有意に低い(本文第2.5.2節参照)。

● 読む本の種類・頻度については、日本の場合、フィクション(小説、物語など)、ノンフィクション(伝記、ルポルタージュなど)を「月に数回」「週に数回」読むと回答した生徒の割合が、2000年調査よりも統計的に有意に高く、雑誌、コミック(マンガ)、新聞を「月に数回」「週に数回」読むと回答した生徒の割合が、2000年調査よりも統計的に有意に低い。また、読む本の種類と頻度別にみた総合読解力の平均得点については、日本の場合、雑誌について「読まない」グループの方が「読む」グループよりも得点が高く、それ以外の読み物については、「読む」グループの方が「読まない」グループよりも得点が高かった(本文第2.5.3節参照)。

● コンピュータや携帯電話などオンライン上での読みの活動の種類・頻度については、日本はEメールを読む生徒は多いが、ネット上でのチャットや討論会・フォーラムに参加する生徒は少ない。また、これについて各国の生徒を指標値によって上位から下位まで4群に分け、それぞれの総合読解力の平均得点をみてみると、中上位25%、最上位25%に属する生徒は最下位25%、中下位25%に属する生徒より総合読解力得点が高い傾向がみられた(本文第2.5.4節参照)。

● 幼稚園や保育所での教育歴については、日本の場合、ほとんどの生徒が1年より長く就学前教育を受けていた。また、就学前教育機関における生徒の教育歴別に総合読解力の平均得点をみてみると、日本の場合、1年より長く就学前教育を受けた生徒の総合読解力得点が最も高い。OECD平均では、就学前教育を受けた期間の長い順に得点が高かった(本文第2.5.5節参照)。


・・・しかしながら、読書活動は、あくまで背景にすぎないと私は思う。
 なぜならOECD調査の読解力問題は、「読む」だけでなく「自らの意見を述べる」ことまで要求するもので、過去の調査でも「自分の意見表明=読解表現力」の弱さが問われてきた。
 毎日、朝読書を15分続けたからといって「読解表現力」の力が向上するとは思えないのだ。

 OECD生徒の学習到達度調査(PISA2009)について[髙木文部科学大臣コメント] 平成22年12月7日 が、WEBで見られる。
 便宜上、改行を入れる。

http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1299985.htm

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 本日、OECD(経済協力開発機構)が2009年に実施したPISA調査(ピザ調査:生徒の学習到達度調査)の調査結果が公表されました。

 今回の調査結果によると、
(1)我が国の読解力は前回調査(2006年)と比べて平均得点が統計的に有意に上昇し2000年調査と同水準(上位グループ)まで回復したこと、

(2)数学的リテラシーは前回同様OECD平均より高得点グループに位置したこと、

(3)科学的リテラシーも前回同様上位グループを維持していることが分かりました。

 各リテラシーとも前回調査から下位層が減少し上位層が増加しており、読解力を中心に我が国の生徒の学力は改善傾向にあると考えます。

 また、生徒に対する質問紙調査からは、2000年調査時点との比較で読書活動が活発化し、読書に対して積極的に取り組む傾向などがみられています。

 平成22年6月に閣議決定した「新成長戦略」において、「国際的な学習到達度調査において日本が世界トップレベルの順位となることを目指す。」としているところですが、今回の調査結果から、我が国はその目標に向けて順調に歩みを進めていると考えます。

 これは、まず、何よりも生徒本人、家庭、各学校、地方公共団体が一体となって学力向上に取り組まれた成果のあらわれであると考えています。

 また、全国学力・学習状況調査の実施(平成19年4月から)とそれを踏まえた取組のほか、「学びのすすめ」(平成14年2月)、学習指導要領の「基準性」の明確化による発展的内容の指導の充実(平成15年12月)、読解力向上プログラム(平成17年12月)などの文部科学省のこれまでの各種政策が一定の効果を挙げたものと認識しています。

 一方で、
(1)世界トップレベルの国々と比較すると依然として下位層が多いこと、

(2)読解力は、必要な情報を見つけ出し取り出すことは得意だが、それらの関係性を理解して解釈したり、自らの知識や経験と結び付けたりすることがやや苦手であること、

(3)数学的リテラシーは、OECD平均は上回っているがトップレベルの国々とは差があること、

(4)読書活動も進展したとはいえ諸外国と比べると依然として本を読まない生徒が多いことなどの課題も明らかになっています。

 これらの課題に対応するため、文部科学省としては、来年度以降全面実施される新学習指導要領により思考力・判断力・表現力の育成に努めるとともに、35人以下学級実現のため、教職員定数を改善するなど教育条件を整備し、「個に応じた指導」の推進にしっかりと取り組んでまいりたいと考えています。
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・・・・「読解力を中心に我が国の生徒の学力は改善傾向にある」と「読書活動が活発化し、読書に対して積極的に取り組む傾向などがみられています」との考察はあるが、そこに因果関係があるとまで断じてはいない。
 だからこそ、先に述べたように「読解力がついてきたから、読書する習慣がついてきた」という逆の見解も可能ではないかと思うのだ。


 さて、【学力向上に関するこれまでの施策とPISA2009の結果】には、

○「学びのすすめ」公表(平成14(2002)年1月)

①基礎・基本の確実な定着、
②発展的な学習の推進、
③宿題を出すなど家庭学習の充実や、朝読書の推進など

○学習指導要領(平成15(2003)年12月)等の一部改正
→ 子どもの実態に応じた、発展的内容の指導を充実
(「学習指導要領の基準性」を明確化、教科書に「発展的な学習内容」の記述)

○「読解力向上プログラム」策定(平成17(2005)年12月)
→ PISA型「読解力」の育成を目指し、読書活動の充実など、学校、
国・教育委員会での取組を明示。

○「全国学力・学習状況調査」実施(平成19(2007)年4月~)
→ 調査結果等を踏まえた、学校、国・教育委員会での取組による
検証改善サイクルの構築。

とある。
 現場の感覚でいうと、読解力向上に寄与したのは

◆2000年から改訂された国語の教科書が、話し合いや発表を重視していたこと
◆総合的な学習の時間や各教科においても話し合いや発表活動が行われるようになったこと
◆学力調査でも「記述問題」が出題され、「記述問題」に対する現場の危機意識が変わってきた。

などであり、「自分の意見を表明する」の実践がようやく実を結びかけてきた点にあると自分は感じている。
 いずれにしても、「朝読書を行う学校が増えたから、読解力が向上した」という見解はイージーだと思う。

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December 11, 2010

高陞号撃沈事件に、日本人の気概を感じる

NHKドラマ「坂の上の雲」第一部「日清開戦」で、次の場面がある。

1894年(明治27年)7月25日、日清戦争が開戦。敵艦を追いかけてい た巡洋艦「浪速」が英国旗を掲げた汽船「高陞号(こうしょうごう)」を発見する。船が清国兵を満載していのを目にした「浪速」艦長・東郷平八郎(渡 哲也)は、随航するよう命じる。しかし清国将校が拒否したことから、東郷は「高陞号」を撃沈する。

・・・すごい決断だ。この後、ドラマでは伊藤博文が英国からの抗議を恐れて東郷を非難する場面が続くが、撃沈だからためらう気持ちもよく分かる。

 ウイキの「豊島沖海戦」には、次のようにある。
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 「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。
第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行おうとしたが、清国兵が停船命令に従わないため、「高陞号」を撃沈した。この時、イギリス人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。
日本国と清国の全面戦争が避け難いものとなり、7日後の8月1日に宣戦布告が日本からなされた。
このあと英国籍の商船「高陞」を撃沈されたイギリスでは、日本に対して反感が沸き起こるが、高陞号への攻撃は戦時国際法に沿ったものであったと報道されたことで沈静化した。

 戦時国際法では、交戦国の軍艦は公海上のあらゆる商船を臨検して交戦国のまたは交戦国向けの戦時禁制品を没収(あるいは破壊・処分)でき、そのために必要なら撃沈も許される。イギリス留学で国際法を勉強した東郷はこのことを熟知しており、合法な範囲で行動している。
 国際法学者トーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキは、別個にタイムズ紙に寄稿し、この国際法を説明して、日本側に違法行為はないことを主張した。彼らの論から抜粋すると、以下のようなものである。

• 「高陞号」の行為は戦争で一方に加担することであり、戦時国際法は、これを阻止する権利を他方の交戦国に認めている。「高陞号」がイギリス船籍でイギリスの旗を掲げていたことは、重要ではない。

• 武装解除を拒む多数の清国兵が乗る船をわずかな水兵で拿捕することは不可能であり、武装解除のためには撃沈はやむをえない。
•戦争は宣戦布告なしでも始まる。また、戦争が始まっていることを「高陞号」が最初は知らなかったとしても、日本の将兵が臨検に乗り込んでくるなどの事態を見ていれば気づくべきである。
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 別のサイトには、この時の ホルランドの国際法的見解が紹介されている。

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• 高陞号が撃沈された時は、すでに戦争の始まった後である。蓋し、戦争というものは、豫め宣告することなくして、これを始めても、少しも違法の措置ということはできない。このことは、英国及び米国の法定で、幾度となく確定せられたところである。さればたとへ高陞号の船員は、初め戦争が既に起こったことを知らなくても、日本の士官がわが船に乗りこんで来た時、これを承知したものと見做さねばならぬ。
 この時に当たってその船が英国の国旗を掲げていたといないとは、敢えて注意するにたらない一些事に過ぎない。 当時日本の軍艦は、捕獲の目的をもって、高陞号に兵員を乗船せしむることは、とうてい実行できないという見込みをもっていたので、日本の艦長は、高陞号をその命令に従はしむるためには、いかなる暴力を用いるとも、それは固よりその権内にあることを知らねばならぬ。そもそも、高陞号には、日本軍攻撃のため派遣せられた遠征の一部隊が乗船していたので、日本人がその目的に達することを防止するためには、これを撃沈したことも、正当の所為といはねばならぬ。
 また沈没後に救助せられた船員は、何れも規則通り、自由の身となることができたので、この点もまた日本の行為は、国際法にいはんしたものということはできない。
 故に日本政府は、これがため決して英国に対するの義務なく、また船主及び溺死せる欧人等の家族は、日本に対して、損害を要求する権利はない。
          http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/07/post_524.html
 
 別のサイトでは当時の新聞記事も。

 日本巡洋艦浪速艦が英国船旗を翻したる清国運送船高陞号を撃沈したる行為につきては、未だ確定せる意見を立つるあたわざるも、この事たる船旗の関係によりて自然わが国の人心を激励せしむるものを以って、既に一二明瞭となれる点につき説明をなし及び審究すべき点を指示するの必要あるとを信ず。

第一、高陞号は英国人の所有に属し、かつ正当に英国船旗を掲げおりしもののごとく、またこれと同時に清国の使用に供し、運送船として働きし事実もまた明瞭なり。ゆえにもしこれに加うるに同号の供用は即ち戦争的行為に供すにありとすれば同号はこの場合にあたり、好しや船旗は英国なるも所有者は英国人なるも決して英国より何等の保護を求むるの権なきものなり。
 ロード・ストーウェル氏は、オロゼムボー号事件において局外中立国(アメリカ)の船舶たる同号が係争国(オランダ)の士官三人を積載せる事実にたいし、軍人運送のために雇わるる時は、これを運送船と認めその要求を否認すべきものとすと判決せり。もし三人の士官をのせたるがためにこの意見を立つるを得べくんば千七百人をのせたる場合において、とくに然るや論をまたず。

第二、高陞号の供用は単に開戦の宣言未だ出でざりし以前にありというの一事を以って戦争的行為に非ずというも、日本はこれにたいして遠慮するに及ばざるべきは予のまた許すところなり。
戦争を開始するにあたりて宣言をなさざるは悪習なれどもこの慣習たる数世紀前より列強の実際に使用するところにして、現世紀の後半まま開戦前宣言したるの善例あれど、今日はこれをもって彼に斥くることあたわず。
国際公法は、その主義において、両国開戦の宣わるときはこれをもって係争国間に有効なる戦争の開始となさしめ、しこうして局外中立国は開戦のため新たに特別なる義務を負うがゆえに、これに先立ちて交戦国より通知を受くる権利を有す。
 高陞号の行為は局外中立者が封鎖を破るがためのものに非ず。また戦時禁制品を積載せしものにも非ず。しこうして清国運送船の用に供したるをもって、けだし清国にして果たして係争国たるにおいて高麗また日本にたいする戦争にしてあたかもかのオロゼムボー号のオランダにたいする関係と異なることなし。

第三、然りといえども日本は敢えて襲撃したりとの一事により高陞号を係争者となすにあたわず。高陞号の局外中立国の所有者及び局外中立国の船客にたいして日本の行為の正当なるを証せんと欲せば日本たるもの既に他所において日清間の戦争実際に開始せしとを証すべく、しからずんば高陞号その一部をなせる清国艦隊が日本の忍ぶあたわざるところの反対行為をなしたることを証せざるべからず。
 朝鮮において起こりたる日清間の戦闘的行為又は朝鮮が清国の助力を受けつつありし間において朝鮮と日本との間に起こりし対抗的行為などはみな前者を証明するの資料とするに足れり。しこうして清国艦隊の積載せる派兵は日本が自ら占拠の権利ありと認めてその地位を占むるものにたいし、これを駆逐するの目的に出でたるものとせばこれ正しく後者を証明するに足れり。

第四、然りといえども日本が高陞号を係争者と認めたる件につき英国と日本との間の事は予が以上の自認をもって定まるべくもあらず。仮に高陞号なるもの轟沈せずして拿捕せらるるとするも船中の兵士の朝鮮に上陸するを妨ぐるがために追逐せられしとするも、あるいは又その兵士を其達しうるところの朝鮮半島の一港に上陸せしめたりとするも、この行為より生ずる兵事上の損失は軽しとするを得べきか、その他事実に関して想起するべきもの頗る多し。
しこうして予は未だこれを知るを得ざるなり事実明らかなるに及んで、果たして日本の処置よろしからざるものあるにおいては予はもとよりその説を改むるに吝ならざるべし。それ戦争は係争者間にありて互いに必要なき苦痛を被むらしべからざるは何人も拒まざるところなり。
係争者の一方にたいし、この主義を破るときは復讐の権利を行うことを得べく、あるいは又もしなし得べくんば平和の後に及んで賠償を取る得べし。然りといえども欧州文明の化に浴せる国にありてはこの主義を犯したる場合なく、従いて局外中立国の政府がその臣民たるもの係争者の一方に同一体視せらるべき行為をなすのさい、他の一方この主義を破り苦痛を被むらしめたる場合において訴求をなしたるの前例なし。
しかしながら、道理上この訴求をなすを得べく、しこうして局外中立権を眺むるとは過度の行為を否認するの要件となるべし。

第五、高陞号中の清国兵士はその船を引き渡すを許さざりしと伝う。日本はその引渡しを肯ぜざるがために軍事上必要の行為に出でたりとすれば毫もその破壊の権利に妨ぐる所なし。とにかくヨーロッパ人にして清国兵士を指令もしくは運送するの任にあたらんとするもの宜しく彼らと運命を共にすへし。
                 (1894年8月1日タイムス)
            http://ww1.m78.com/sib/westlake.html


 国際法にのっとって行使された武力は何ら恥じることはない正当な権利だという、ごく当たり前の事実も、ともすれば批判を避けてうやむやにされてしまう。
 とばっちりで撃沈された英国でさえ納得させられたのは、ひとえに「法の遵守」があったからだ。

 今の日本の弱腰の対応と比べて、いかに毅然とした態度であったことか。

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December 09, 2010

いじめ対策としての「接待の流儀」

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 パーテイー用語で「壁の花」がある。
 男性から声がかからないでひっそりと壁際にたたずむ女性を表現しているのだそうだ。
 むろん孤立する本人の行動力も問われるのだが、
 壁の花状態の女性を見かけたら、男性なり主催者なりは気を利かせて声をかけるべきだろう。
 「壁の花」という言葉そのものも、『接待の一流』(田崎真也著 光文社新書)で知ったのだが、次の一節がある。

あるパーテイに招待されて、ドレスアップしてでかけました。そこは、1階から階段を上ったところがデイナー会場だったんですが、知り合いがまだ来ていなくて、一人、壁の花状態でした。先に二階に上って待っていようかと思い、階段を上りかけた瞬間、スッと腕をだしてくれる男性がいました。それが、俳優の故・岡田真澄さん。初めてお目にかかったのですが、『まいりましょう』ともいわずに、ごく自然にイスに座らせてくれました。私が壁の花状態で、心細かったことを見抜いてくれて・・。それだけで、その日はとても幸せな気分になりました。」
P201

 ホストというと誤解のある言葉だが、学校という現場にあって我々教師は子供たちをエスコートし、満足させる立場にある。
 まさに接待役(ホスト)であらねばならない。

 ひとりぼっちの子をどうするか。

 「あの子はひとりぼっちだな」と把握するだけでは意味がない。
 その子をどうサポートし、ケアするか。
 ホスト流に言えば、どうエスコートし、満足させるかをしっかり意識し、実行していきたい。
 教師にとっても「壁の花状態」を意識し、どの子も「その日1日幸せな気分でした」という気持ちにさせるようにアプローチしたい。

 

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December 05, 2010

地球外生命の可能性

地球外生物についてのNASAの発表があった。

http://www.astroarts.co.jp/news/2010/12/03astrobiology/index-j.shtml

【2010年12月3日 NASA】
 NASAは、猛毒のヒ素をDNAやたんばく質、細胞膜に取り込んで成長するバクテリアが発見されたことを発表した。この発見は生物に関する基本的概念を覆すもので、地球以外の場所における生命探しにも大きな影響を与えることになりそうだ。
 NASAが援助を行っている宇宙生物学の研究で、米・カリフォルニア州にあるモノ湖で採取されたバクテリア「GFAJ-1」が、リンの代わりに猛毒のヒ素をDNAやたんぱく質、細胞膜に取り込んで成長することがわかった。
 炭素、水素、窒素、酸素、リン、硫黄という6つの元素は、地球上のすべての生物を構成する基本元素だ。そのなかでリンは、DNAやRNAなど核酸のらせん構造の骨格を成す物質の1つで、生命にとって必須物質と考えられている。また、細胞でエネルギーを運ぶ役割を果たす分子(アデノシン三リン酸)や細胞膜をつくるリン脂質の構成物質でもある。
 一方、ヒ素は化学的にリンに似ており、リン酸塩と同じようにふるまって代謝経路に混乱をきたすため、地球上のほとんどの生物にとって猛毒である。
 発見された細菌「GFAJ-1」は、バクテリアの一種でγ(ガンマ)プロテオバクテリアと呼ばれるありふれた種に属する。モノ湖が研究対象に選ばれたのは、塩分濃度やアルカリ濃度、およびヒ素の濃度が高いためだ。モノ湖は過去約50年もの間、淡水源から隔絶されてきたために、このような環境となった。
 地球生物学者Felisa Wolfe-Simon氏らの研究チームは、実験によってリンを取り除き、ヒ素と置き換えてバクテリアが成長することを明らかにした。また分析から、ヒ素は新たな細胞を作り出すために利用されていたことがわかった。このような細菌が発見されたのは初めてのことである。
 NASAの宇宙生物学研究所の部長をつとめるCarl Pilcher氏は「サイエンス・フィクションの世界では、“生体を構成する元素の置き換え”というアイデアはよくあります。しかし、ヒ素を生命維持のために基本的な元素として利用する生物の存在は、これまで理論上の推測に過ぎませんでした。ところが、そのような生物が実際にモノ湖に存在していたのです」と話している。
 また、NASAの科学ミッション局副長官Ed Weiler氏は「これで生物の定義が広がりました。つまり地球外生命探査をする上で、より広い視野に立って考える必要が出てきたということです」と語っている。
 猛毒のヒ素で成長する生物の発見は、地球以外の惑星における生命存在の可能性を広げただけでなく、生物を構成するもっとも基本的な物質に関する理解を新たにする成果となった。また、地球の進化や有機化学にとどまらず、病気の緩和といった医療分野など、さまざまな分野に影響を及ぼすことになるようだ

・・・・記憶が定かではないの題名は出さないが、以前、中学校の説明文で、地球だけが生命の存在する奇跡の星というような記述があった。
 生徒に検討させると
◆地球の生命と同じ生き物は存在しないかもしれない。
  しかし、高温に耐えられる生命・水がなくても生きられる生命が存在してもおかしくない。
という意見が自然に出た。
 ただ、そのような生徒の意見も何の裏付けもないものだった。
 「生命の定義」も含め、きちんとした理解を踏まえて論じるべきだった。
 これを機に、少しは調べてみようと思う。
 それにしても「モノ湖」はすごいなあ。
 
 

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December 02, 2010

説明文教材は数値に感動させよう!

 「説明文」でも感動できる、といった主張をどこかでしてきた記憶があり、たどったらモアイ像の大きさ・重さについて書いたことがあった。

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2005/02/post.html

 ある小学校の研究授業で『ウミガメのはまを守る」を参観した際、次のように発言した(記録者に書いてもらった文)

 説明文でも感動的に扱うことができる。冬の寒いときに6ヶ月間も当番児童が世話をする。水の冷たさを想像させ、世話することの大変さを想像させたとき筆者の思いが伝わる。写真を見てこれだけのゴミを片付けるのにどれだけかかると思うかと投げかけ想像させることにより浜を守るということは半端なことではないと気づく。
 何万年、何十億年、何トンという数字に着目させ想像させると説明文がもっと楽しくなる。
説明文から感動が得られたとき作品に深く入れて、もっと調べようかなとか別のことを書くときに興味が湧く。

 
 なるほど、自分が言ったことは、ほぼ伝わったみたい。
 あえて言うならば「数字」ではなく「数値」に着目させたいと思っている。

 モアイ像の説明文で思ったのは、何トンもの石像を運ぶことの大変さ
 工業技術の説明文で思ったのは、ミクロン単位で削る職人のすごさ
 地球環境の説明文で思ったのは、何十億という地球の歴史の長さ
 森林の説明文で思ったのは、木造建築物が千年も残っているという不思議

 たとえば「10万分の1の精度でレンズを磨くのだ」と書いた筆者は、その数値のすごさを含めて読み取ってほしいのだ。
 そのような数値を何気なく読み飛ばしてしまっては、せっかくの説明文が台無しになり、筆者の主張も読めなくなる。
 説明的文章の数値に着目さえることは、指導の中の重要なポイントの1つである。

 新学習指導要領の「理科」では、「実感」が強調されている。
 これも、同じ意味なのだろうと解釈している。

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