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May 21, 2011

福島原発のメルトダウンは、周知の事実だった?

 震災から2か月過ぎて、福島原発のメルトダウンの事実が明らかになった。
 というか、東電がやっと認めた。
 メルトダウンが事実となった今から振り返ってみると、あやしいニュースは度々あった。

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819595E3E0E2E39C8DE3E0E2E1E0E2E3E3958AE3E2E2E2
3月12日15:30の段階で次の見出しでニュースが配信されている。

 福島第一原発「炉心溶融が進んでいる可能性」保安院


 保安院が「可能性がある」と言った時点で、かなり怪しかったということだ。
 その頃、自衛隊員が避難所の人々に私見で打ち明けたという福島原発の危険な状況と言うのも、メルトダウンのことだったのだと推察できる。

http://www.gendai.net/articles/view/syakai/129464

自衛隊が逃げた! 深夜の避難所で大パニック起きていた 

 2011年3月17日 掲載
 (前略)
 14日の深夜。町全体が壊滅状態の福島県南相馬市の石神第一小学校の体育館には、津波から逃れてきた1000人もの住民が避難していた。燃料もなく体を寄せ合って眠っている中、突然、自衛隊がジープで乗りつけ、避難住民に向けて大声で叫んだ。
「私たちは上(北沢防衛相)の命令で退避するように命じられたので南相馬市から引き揚げます。これは私見ですが、福島原発は非常に危険な状況にきていると思います」
 そう言うやいなや、隊員たちはジープに乗って去って行ってしまった。館内は騒然となり、避難住民は出口に殺到。止めてあったマイカーに分乗し、大急ぎで福島市方面に逃げ出した。おかげで県道12号は大渋滞。ところがクルマは、規制の影響でガソリンが5~10リットルしか入っていないからたまらない。みんな最初の峠あたりで次々とエンストしてしまった。(後略)

産経新聞の記事 2011.3.21 16:02 には、次のようにあったらしい。

 (前略)米国防総省は福島第1原発事故を受け、同原発半径50カイリ(約93キロ)圏内への米兵の立ち入りを原則禁じている。在日米海軍司令部は横須賀基地と厚木基地内で微量の放射性物質を検出したとして将兵や家族、基地従業員に屋外へ出ないよう通知している。

朝日新聞のニュースには、アメリカのヘリ救助活動が中止になった様子が報じられている。
http://www.asahi.com/national/update/0313/TKY201103130191.html
米空母、宮城沖に到着 原発懸念か、ヘリ救助活動は中止 
2011年3月13日19時41分

 (前略)米軍ヘリ8機による岩手県陸前高田市の孤立住民約600人の救助も予定されていたが、中止になった。ヘリは同日午後、米海軍厚木基地を離陸したが、被災地に入らなかったとみられる。理由は明らかになっていないが、米軍関係者によると、福島原発事故による救援活動への影響を見極めている可能性がある。


・・・今になってみれば「やっぱりそうだったのか」と思う。
 信じていたけれど裏切られた気分。
 落胆も大きいが、「信じた自分がバカだった」と思うしかない。

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May 15, 2011

浜岡原発停止要請の論理

 中日新聞の5月15日に弁護士後藤昌弘氏の「中日新聞を読んで」という文章が掲載された。浜岡原発停止を中電に要請した管首相のニュースについてのコメントである。

 川平静岡県知事のように首相の英断を評価する声もあれば、あまりに唐突だという経団連の批判の声もある。

 そんな中での後藤氏の意見を部分ごとにみていくと・・・。

①しかるべき対応策が取れるまで安全のために運転を停止することは、政府としてはあるべき方向性だと思う。
・・・止めても止めなくても批判はある。最後は首相の判断でいい。経団連などに事前に相談すれば、かえって「癒着」の疑念をもたれたと思う。
 むろん、停止させたことに対する批判の気持ちも自分はもっている。
 停止したところで、今大津波が起きれば、使用済み燃料棒のプールで福島と同じ事故が起こる可能性はあるからだ。原発を停止したところで、地震や津波による危険な状況は変わらない。

②しかし、理解できjないのは、なぜ「要請」なのかという点にある。
・・・「命令」でなく「要請」。中電社長にお願いする、というスタンスに対する疑問である。中電が拒否したらどうしたのかが不明と言うことだろうか。

③原発は、国がチェックし国が承認しないと運転等はできないと聞く。福島原発の事故が「想定外」だったとすれば、各原発における想定の前提が間違っていたことは明らかである。そうである以上、政府としては新たな基準を定めるべきであり、基準に満たなければ対策うが整うまで運転停止を命じることもできるはずである。
・・・「「運転停止」を命ずればいいのに「要請」したのはなぜか。なぜ国はそこまで遠慮するのかということだ。

④法律的には、いったん定めた基準で設置を許可した後に、基準を厳しく変えて運転停止を命じれば、責任は国にある。しかし、(中略 竹田)要請を受けて中電が自ら止めたのであれば国の責任は発生しない。したがって要請ということは、中部電力に下駄預けたということであり、責任転嫁、そして損失の押しつけの誹りを受けても仕方あるまい。
・・・そういうことか(そういう推測も成り立つのか)!
 今まで許可していた原発を急に停止命令することになれば、許可してきた自分たちの責任が問われる。
 そのような責任回避の論理が働いていたのだとしたら、首相にはなんら「英断」と呼べるだけの価値はない。首相独自の判断というよりは「入れ知恵」が入った可能性が高い。

 あらためて、 何のための原発停止か、を考える。

A:地震や津波の危険回避としようにも、使用済み核燃料は、ずっと燃え続けている。防潮堤ができるまで地元の不安は消えない。

B:単なるパフオーマンスか。それにしては経済や生活に対する影響は計り知れない。東北地方の分まで中部地方で経済や産業・観光を支えないといけない大事な時期なのに。

C:これまで安易に「安全」をうたってきた原発関係者に対する懲罰か。
 それなら、「要請」などといった遠慮をする必要はない。お前たちには任せられない、と厳しく処置すればいいはずだ。


 首相や現政権に絶大な信頼があるなら「首相の判断に任せる」と言い切れる。
 今の状況では、何をしたって不安と不信に満ちている。本当はよいことを行っていたとしても、半信半疑の状態ではちっとも評価できない。
 調子いい言葉に振り回されるのは、普天間問題・八ツ場ダム・Co2の20%削減の鳩山イニシアチブ・強制力のない事業仕分けなど枚挙にいとまがない。

 日本の将来に関わる問題だ。
 感情論でなく、論理的な議論・論理的な決断がほしい。
 教育の現場でいえば、我々に求められるのは、情報に潜む真意を見抜くリテラシーの能力・得られた情報をどう分析し考察するかのPISA型読解力の育成だ。

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May 14, 2011

英会話の発音をどう指導するか。

 日本人の発音は正確でないので、なかなか英語圏では通用しない。
 そのような発音レベルの指導でいいのかと小学校教師としても不安になる。

 でも、あまり細かく糾弾すると、小学校の英語の授業は引き受け手がなくなってしまう。
 「できる範囲の発音でいから、自信を持って英語の授業に取り組んでください」
という段階なので、あまり厳密には指摘したくない。
 ちょっとやそっと勉強会を開いてマスターできる代物ではない。
 でも、正確な発音が大事だと言うことは、きちんと自覚しておきたい。
 
 ネットで検索していて、興味深い指摘に出会った。
 サイト先は後述する。
 便宜上、改行を増やします。
=================
 私たちの話す英語は、英語圏の国々では「ジャングリッシュ」と呼ばれている。
 ジャパニーズ(日本語)とイングリッシュ(英語)の合成語だろうと思う。
 つまり「あなたの英語と私たちの英語は別の言語ですよ」という皮肉なのだ。
 もちろんジャングリッシュは彼らには通じない。
 ジャングリッシュで話しかけられた英米人は、そもそも英語で声をかけられていることに気づかないという。
 そして「よく聞いてみると日本語は意外と英語に似ているようだ」と勘違いするらしい。
 そのくらい日本人の発音は正しい英語からかけ離れているというわけだ。
 私が思うに日本人の発音が英米人に通じない原因は三つある。

   1.発音数の差
   2.無母音声の有無
   3.推測言語と技巧言語

の三点である。それぞれを詳しく説明していこう。
====================

 3点全部の説明は難しいので、コンパクトにまとめる。

 まず第1点目、発音数の違い。
 
 「Bi」「Vi」      →「ビ」
 「Fu」「Hu」     →「フ」
 「U」 「Wu」     →「ウ」
 「Si」「Shi」「Thi」 →「シ」
 「Di」「Ji」「Zi」   →「ジ」

 こんな具合に、本来ならば異なる発音なのに、日本語ではその区別ができない子音がたくさん存在するのだ。
 (中略)
 「lady」や「only」だってしばしば書かれるように「レディー」や「オンリー」ではない。
 どちらかと言えば「レイディ」と「オウンリ」と書いた方がより本当の発音に近いだろう。
 ともかく、英語にはカタカナでは表記できない音声がたくさんあり、それが英語の習得の大きな障壁になっているのだ。これが第1の理由。

 第2点の理由もまた、発音の根本的な相違点である。
 英語には子音だけで音をなす部分がしばしば含まれている。
 たとえば、日本では「circle」を「サークル」と表す。つまり「サ・ア・ク・ル」と四音節である。
 しかし本来の英語の「circle」は「 (竹田注:発音記号が認識できません)」と二音節で発音される。
 (中略)
 最後の「cle(クル)」の部分を日本人が発音すると、どうしても「ku-lu」とそれぞれに母音が入ってしまう。
 しかし英米人は舌をうまく使って「kl」と発音する。そこには母音はない。
 子音が単独で存在するときの発音は、頭で理解しているつもりでも日本人にはなかなか難しいものだ。
 そんな舌の使い方など日本語にはないからだ。
 つまるところ、日本語という言語は、発音数が少ないのがその特徴であって、それゆえに英語の発音を日本語では表すことができない。
 それが英語を目指す者にとって最大の問題なのだ 
=====================

・・・なるほど「レデイー」「オンリー」「サークル」「アップル」などと、存在しない母音を勝手に添える片仮名の表記法には「百害あって一利なし」なわけだ。
 おそらく自分の発する「アー ユー レデイー」は、 Lady / ready がどちらなのか聞き取ってもらえないだろうな。
 では3番目の理由。

========================
 日本人の発音が通じない三番目の理由は、日本語の発音数が少ないこと深い関係がある。
   (中略)
 英語のスピーチを聞いたことがある人ならばわかると思うが、彼らが話すときには、喉から出す「有声音」以外に、舌や唇や鼻をつかった「shシュ」「chチッ」「tsツッ」などという乾燥した音を出しているのが頻繁に聞こえるだろう。
日本人にとって、あの音は単なる雑音にすぎないのだが、彼らはそれをも利用して単語を言い分けているのである。
 たとえば「close」と「cloths」を区別するためにはそうした子音を正確に利用できなければいけないのだ。まさに英語とは「発声技巧の言語」なのである。
   (中略) 
 というわけで、私たちが英語を伝えたいと思ったときに、もっとも気を付けなければならない問題は、いかに文法が正しいかということや、いかに表現が適切かということよりも、いかに発音が正しいかという点にかかってくる。
 極言すれば「英語が下手であるとは、発音が下手なことである」とさえ言えるのだ。
 ここまで問題点が明確ならば、それに対する解答は簡単だろう。そうなのだ。発音を修正すればそれで済むことなのだ。
 しかし!!!そこには一筋縄ではいかない問題がある。その理由を語るためには「脳科学」を正しく理解する必要があろう。
 (後略)
=========================

・・・最後は「脳科学」ときた。
 この後、次の指摘もある。

 「英語が聞き取れないとは、まさにこれである。
 「La」という空気の振動が耳に届いても、残念ながら私の脳には「La」に反応する脳回路がない。
 しかたなく脳は「ラ」の神経は反応させる。
 となれば、それは私にとってその音は「ラ」以外の何者でもないだ。
 本当は「La」であっても、そんなことは私に関係ない。
 音は脳の外側にあるのではなく、脳の内側で作られるのだから。
 同様に「Ra」が耳に届いたとしても、それも私にとっては同じ「ラ」である。
 脳とはわがままだ。事実は都合良くねじ曲げられる。
 外界はもはや私の感知の外である。
 実際の世界がどうなっているのかを脳は知ることはできないのだ。」


 引用元はhttp://gaya.jp/english/katakana.htm 発言者は、池谷裕二氏。
 出典文献は

 怖いくらい通じるカタカナ英語の法則
 ネイティブも驚いた画期的英会話術
 講談社ブルーバックス(\1,050) 池谷裕二

 池谷氏が言うカタカナ英語とは「アップル」「サークル」ではない。

 「animal」→「エネモウ」
 「water」→「ウワラ」
と聞こえるままに直すという意味だ。
 池谷氏でさえ、タクシーでフェリーポートに行こうとしたら、ヘリポートに連れて行かれたというのだから、発音は難しいのだ。

 以前、英語の授業中、「What’s this?」を繰り返した時、ある子がプリントに「ワッリース」と読み方を書いていた。
 そう聞こえたのだから、まあいいか、と妙に納得したのだが、子どもの直観に任せた方が自然な発音に近いのかもしれない。

 ALTの発音を聞いて復唱する子ども達。
 実は、多くの子がALTの発音を聞かずに復唱している。
 数字やスポーツや色・食べ物など、子ども達に親しみのある英語を用いるとジャパン英語のカタカナ表記が頭にしみついているので、どれだけALTがネイテイブに発音しても全く無視して平気でカタカナ英語で言い返す事態が起こるのだ。

 そんな事態を思い起こしたら「さかさまの絵」と同じだな、と思った。
 「脳の右側で描け」は、概念砕きというキーワードで法則化時代から有名な1冊だ。
 
 http://drawlog.exblog.jp/13497281/ 写真や絵をそもまま模写すると、我々は、とくにモデルを見ないで固定概念で書きすすめてしまう。
 逆さまにすると、全体像でなく、目の前の1本1本の線に集中せざるを得ないので、結果的にモデルに近い絵が模写できる。
 
 
 ALTの発音やCDの発音が
 「animal」→「エネモウ」
 「water」→「ウワラ」
に近いならなら、そのように発音させないといけない。

 「ちょっと、本当にアニマル・ウオーターって言ってた?
  もう一度よーく聞いて、聞こえた通りに言ってごらん」

というような助言が必要であり、適切な繰り返し・やり直しが必要である。
 あるいは、未知の単語を発音してもらって、聞こえた通りに復唱させるとか

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/723348.html
に、さまざまな発音のアドバイスが載っている。

 最後の方に

◆耳で感じたとおり発音するのが一番です。◆

とあった。
 Check it out!
は、チェケラとしか聞こえないのだし、

Let it be
を曲名どおり「レットイットビー」と歌うのは不可能で、やっぱり「レリピー」と歌うしかない

文字表記にこだわらないで、恥ずかしがらないで聞こえた通りに復唱する習慣をつける。
やっぱり、そこを大事にしていくことがポイントかな!

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学校の英会話と日常の英会話

 学校で習う英語と、実際の英語にはずれがあると言う。
 関連情報をネットで調べてみた。

「How are you のような挨拶については複数あることが書かれている。

http://easyenglish.jugem.jp/?eid=6
===================
 英会話にはバラエティーが当然沢山あります。
 日本人が思い描く「とりあえず通じる英語」が、必ずしも英語圏で当たり前のように使われている英語だとは限りません。
 例えば今回のように挨拶に関して言えば、

How are you? のほかにも、

How are you doing?
How are you today?
What's up?
What's going on?

など、さまざまな問い方があります。また上記以外にも沢山種類はあります。
それに対する答え方も、

I'm fine, thank you.
だけではなく、

Pretty good.
Good.
Not too bad.

など、その他にも今の気分を更に具体的に言う人だっています。むしろそちらの方が多いかもしれません。
===============

 http://ameblo.jp/akikomueller/entry-10319907465.htmlには、How are you の返答の仕方が指摘されている。

===================
ひょっとしたら少し前からそうだったのかもしれませんが、最近ふと気づきました。
”How are you?"と聞かれたら、少なくともニューヨークでは、たいていの人は”How are you?"と答えています。
日本の中学一年生の英語のクラスでは、徹底的に教え込まれますよね。”
How are you?"と聞かれたら、”I am fine, thank you. How are you?"と答えよ、と
私も最近までそう信じ込んでいましたから、会社で”How are you?"と声をかけられると、若干短めバージョンですが、”I am good. And you?"などと言っていました。 
でも、街中で誰かが友達にばったり出会って”How are you?"と言っても、ダイナー(所謂ファミレスですね。)でウェイトレスが”How are you?"と言っても、返ってくる答えは”How are you?"なのです
====================


さて、Thank you については、別の言い方が多いと書いてある。

http://news.2chblog.jp/archives/51459235.html
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謝意を示すのに『サンキュー』は不人気? 頻繁に使われる言葉はコレ!

何世代にも渡り「Thank you」という言葉は謝意を示すのに欠かせないものだったが、英国人はもはや、感謝する際に「Thank you」とは言わないようで、代わりに「Cheers」という表現がもっとも好んで使われるということが分かった。

「デイリー・テレグラフ」紙の報道によると、ギフト販売サイト「Me To You」が行った調査に答えた人のうち40%が、「Thank you」は堅苦しいと受け止めていたという。
代わりに半数近くの人が「Thank you」よりも「Cheers」を好んで使用。
また、「ta」、「cool」、「nice one」といった表現もよく使われていることが判明した。
「心がこもっており、丁寧でありさえすれば、どのような表現で感謝の気持ちを表そうと構わないと、認識されている」と、「Me To You」のキャロライン・ウィーバーさんは話している。
===============
 
 Thank you very much は古いという指摘も聞いたことがあるが、Yahoo知恵袋には「古くないよ」との回答があった。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1019843740
=================
"Thank you very much"は、古くもなんともない、現在でも米英ともに良く使う表現です。
"Thank you so much"も普通に使いますね。

で、この違いは何か?うーん、と最近の身の回りの事例から推測してみましたが、明快に差がありません。「人による、口癖」の部類ではないかと思います。

ただ、あえて区別するなら、あまり親しくない人から(例えばお店の人とか、相手の会社のビジネスライクな関係では)"Thank you very much"、ちょっと親しくなったりすると"Thank you so much"の方が多いかな、という「気がする」程度です。
=================

 英語は「生もの」だから、当然、日本の中学校の教科書とは異なるのはやむをえない。
 日本語だって普段使っている言葉とかしこまった教科書の言葉では随分異なっている。
 学校で教える英語がフランクな英語・普段使う英語でないという批判は、その通りだろうが、それはある程度やむを得ない問題だと思う。
 もちろん、日本でしか通じない英語は困るけど。

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May 04, 2011

防災教育が子どもたちの命を救った

 岩手県釜石市の小中学校の避難の様子をまとめた産経新聞と雑誌WEDGEの記事がある。

http://sankei.jp.msn.com/region/news/110413/iwt11041315120001-n1.htm
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1312?page=1

 産経新聞の言う「避難3原則」守り抜いた岩手県釜石の奇跡 防災教育で児童生徒無事」

 WEDGEの言う「小中学校の生存率99.8%」

 その秘密をしっかりと検証し、自分たちの地域の防災教育に生かしておかねばならない。
 子ども向けの授業を想定してまとめてみる。

◆◆◆
 海岸からわずか約1キロの鵜住居小学校では地震直後、いつもの訓練どおり校舎3階に児童が集まりました。
 ところが、隣の釜石東中学校では生徒が校庭に駆け出しています。大きな津波がくると判断したからです。
 これを見た児童たちは日頃の中学校との合同訓練を思い出して校庭に駆け出しました(校内放送は停電のため使えなくなっていました)。
 そして児童・生徒ら約600人は、指定避難場所である高台のグループホームまで避難しました。
 裏側の崖が崩れ危険を感じたので、さらに約500メートル高台の介護福祉施設を目指しました。
 背後からは轟音が聞こえ、防潮堤にぶつかる津波の白い波しぶきが見えます。
 中学生たちは小学生の手を引いたり、幼稚園から逃げてきた幼児が乗るベビーカーを押したりしながら、みんなて走ったそうです。 
 津波は小中学校をのみ込み、小学校の3階には流されてきた自動車が突き刺さりました。
 津波はグループホームをのみこみ、介護福祉施設の約100メートル手前で止まりました。
 避難開始から10分足らずの出来事だったそうです。
 まさに間一髪で小学生全員が津波に巻き込まれるところだったのです。
 
 釜石市ではかねてより防災教育に力を入れ、「避難3原則」を教えてきました。

(1)想定にとらわれない
(2)状況下において最善をつくす
(3)率先避難者になる。

・・・今回の大津波で児童が校舎3階から校庭に駆け出して高台に向かったこと、中学生が率先避難者となって小学生や幼児をリードしたことなどすべてが「避難3原則」にあてはまります。

 ハザードマップを信じ、避難訓練通りに行動すれば安全だとは限りません。
 電気が止まれば、電話も緊急メールも使えなくなります。
 テレビで被害状況を確かめることもできません。
 その場の状況を自分たちで判断して「自分の命は自分で守る」ように行動できることが大事ですね。
◆◆◆

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May 03, 2011

光村の国語教科書には「アサーション」の概念が。

光村の小学校国語の教科書編集部だよりに、次のような記述がある。

======================================
来年度から使われる新教科書では「アサーション(※)」という概念を導入しました。
「コミュニケーションコラム」とよんでいる教材で試みているのがそれです。
「うれしいことば」(2年)、
「きちんとつたえるために」(3年)、
「話す言葉は同じでも」(4年)、
「話し合うために大切な言葉」(5年)、
「伝えにくいことを伝える」(6年)。
ふと、立ち止まって、人間関係を豊かにする言葉の力や働きについて、児童とともに考えていただけたらと願っています。

※アサーション:相手の気持ちに配慮しながら、自分の意見や気持ちを表現すること。
======================================
 光村の指導書を読んでも、系統表を見ても気づかないが重要なポイントである。
 各学年から上記のコラムを探して確かめてみた。
 なるほど、どれも重要な内容を含んでいる。

2年:言われたらうれしい言葉
3年:言葉が足りないと生じるトラブル
4年:言葉以上に大きな影響をもつ話し手の態度や仕草
5年:会話をスムーズに進めるつなぎ言葉
6年:相手を傷つけずに断る言い方

・・・光村の国語教科書を採用している先生方には、ぜひ目を通してもらいたいと思う。
しかも、新教材だから、下の学年のコラムは授業することができる。
6年生は機会があれば2年生のコラムから順番に授業することができる。

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May 01, 2011

アサーション・アサーテイブに精通しないと!

 2006年10月に、「NOと言える国語の授業」がいじめから守ると題したブログを書いた。
=================
 「生きる力」を育てるという教育目標が空虚に語られることあった。
 「空虚」と断定したのは、具体的な指導内容が見えてこなかったからだ。
 国語の授業と「危機管理」を結びつけて考えた事がある。
 「No」と言える子を育てる国語の指導である。
 肝心な時に自分の意思表示ができることは大切な言語能力である。
 その代表が、
・嫌なときは嫌と言える。
・助けて欲しいときは大声で助けを呼べる
・きちんと断れる。「やめて」と言える。「NO」と言える。である。

 そんな力も育てられない「伝え合う授業」とは、なんと情けないものかと思う。
 どんな様々な指導をしようが、「NO」の意思表示もできず、自分の安全も守れないなら、誰もその実践を評価はしない。
 ちっとも「伝え合い」になっていないのだから。

 N0と言える子を育てる指導は「いじめ」から子供を救う。
 もちろん、言うは易し、行うは難しである。
 包容力のある授業をしないと、子どもは「No」とは言わない。
===================

 この大元になった着想は、もっともっと古い。
 サークル通信で書いていたころだから、2000年以前である。
 
さて、4年前、本校の児童の実態を次のようにとらえた。

①過度な自尊感情(自己評価が高い)
②過小な自尊感情(自信がない)
③自己主張ができない
④言われたことはできるが、自主性にとぼしい

・・・およそ、どの学校でもあてはまるような傾向である。

 そのような実態を踏まえ、「他者との関わり合いの中で自分を見つめ・磨き・高められる子の育成」をねらった。
 その前は「コミュニケーション能力の育成」をテーマにしていた。

 上記の実態は相も変わらずだ。
 今年度は、「関わり合い」を「話し合い」と限定して取り組むことにした。
 そんな中で「互いに理解するためには、丁寧に聞きあうこと、自分の考えをきちんと伝えること、よりよい関係を作りたいと願うことが基」「アサーテイブ」「アサーテイブネス」という用語を耳にした。
 アサーションは、検索すればたくさん出てくる。

http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/assertion1.htm
を参考に、箇条書きに列挙してみる。

①アサーションとはコミュニケーション・スキルの1つである。
②最近では企業や学校などさまざまな場面でアサーション・トレーニングが行われています。
③アサーションの発祥はアメリカで、1950年代に行動療法と呼ばれる心理療法の中から生まれた。
④当初は自己主張が苦手な人を対象としたカウンセリング技法として実施されていた。
⑤アメリカでその理論を学んだ平木典子氏が日本へ紹介し、日本の風土にあった方法で実践を行っています。
⑥アサーション(assertion)は、主張・断言などと和訳されますが、日本語としては少し強い表現という印象があるためアサーションの本来の意味にそぐわず、アサーションと和訳せずに言ったり、「(さわやかな)自己表現」といったりしています。
⑦ アサーションの理論では、コミュニケーションのタイプを大きく3つに分けて考えます。

A:アグレッシブ(攻撃的)
  自分のことを中心に考え、相手のことはまったく考えない頭ごなしに叱責をするようなやり方。、
  自分の気持ちは抑えることなく表現していますが、相手の気持ちは考慮していないので、相手は不快な思いをします。
  また、怒鳴ったり威圧的な態度で表現するだけでなく、どんなに優しい口調で言ったとしても、相手に選択の余地のないような状況で頼み事をするなど、巧妙に自分の欲求を押し付けて、相手を操作して自分の思い通りに動かそうとする態度もアグレッシブな方法と言えます。
 
B:ノンアサーティブ(非主張的)
  自分の感情は押し殺して、相手に合わせるようなやり方。
  例えば、いつも友人に雑用を頼まれて嫌なのに、はっきりと断れずに引き受けてしまう態度。
  このような態度は一見すると、相手を配慮しているようにも見えますが、自分の気持ちに率直ではなく、相手に対しても率直ではない。
  自分の気持ちを抑え続けていると、次第に欲求不満がつのり、相手に対して「譲ってあげた」という恩着せがましい気持ちや、「人の気も知らないで」という恨みがましい気持ちになってしまいます。

C:アサーティブ
  自分の気持ちや考えを相手に伝えるが、相手のことも配慮するやり方、自分も相手も大切にしたやり方です。アサーティブな自己表現では攻撃的な方法でも、非主張的な方法でもなく自分の気持ち、考え、信念に対して正直・率直に、また、その場にふさわしい方法で表現します。しかし、どんなにアサーティブに表現したとしても、それが相手に受け入れてもらえるとは限りません。お互いが率直な意見を出し合えば、相手の意見に賛同できないことも出てくるでしょう。そのときに、攻撃的に相手を打ち負かしたり、非主張的に相手に合わせたりするのではなく、お互いが歩み寄って一番いい妥協点を探ることがアサーティブなあり方であると言えます。

⑧どんなときにも攻撃的な方法での表現しかできない人や、非主張的な表現しかできない人もいる。
⑨また、友人など気心が知れた人に対してはアサーティブでいられるのに、親や上司など立場が上の人に対してはいつも非主張的になってしまったり、子どもや部下など立場が下の人に対しては攻撃的になってしまうなど、状況によってアサーティブな表現ができない人もいる。
⑩常に攻撃的・非主張的な人も、状況によってそうなってしまう人も、まずは自分がどのようなときにアサーティブでない態度を取ってしまうのかを振り返ってみるとよい。

・・・勝間和代著の「断る力」も、そもそもアサーテイブ(賢い自己主張)の発想がある。


 自分を優位に立たせ相手を傷つける WIN-LOOSE
 相手に合わせ、自分を押し殺す    LOOSE-WIN
に対して、  
 相手も傷つけない・自分も押し殺さないアサ―テイブの発想は「WINーWINの関係」とも言える。

http://www.assertive.org/a/index.html
は、アサ―テイブ(アサーテイブネス)の考えが次の3つの柱からなると紹介している。

①Self-Esteem一人ひとりが自分を大切と思えること
 一人ひとりが自分の存在を心から大切に思えること。それが、よりよい人間関係と社会を築くための土台であるとアサーティブジャパンは信じています。自己信頼とは、自分の心、願い、考え、生き方、価値観、そして身体を、まずは「かけがえのないもの」として扱おうとすることです。私たち自身が自己信頼を築くことで、相手に対する共感や思いやり、敬意の念が生まれるのだと思います。
②Human Rights自分の権利も相手の権利も尊重できること
 アサーティブネスは、私たちの「感じる権利」「考える権利」「表現する権利」を尊重するコミュニケーションです。自分の権利を尊重すると同時に、相手の権利も尊重します。アサーティブジャパンは人権擁護の立場に立って、私たちがまず自分の権利を尊重できるようになることを目指し、その結果あらゆる人の権利が尊重される社会を目指していきます。
③Diversity and Equality多様な価値観の人と対等な関係を築けること
 アサーティブジャパンは、多様な価値観の人たちが集える場を作ります。肌の色、文化、宗教、価値観などの違いを認めた上で、率直に対等に話し合いができる力をつけます。
 バックグラウンドの違いを超えて互いに理解するためには、丁寧に聞きあうこと、自分の考えをきちんと伝えること、よりよい関係を作りたいと願うことが基本です。暴力でも戦争でもなく対話を通して理解しあうことを、パーソナルレベルでもグローバルレベルでも実現していくことを目指します。

 互いに理解するためには、
①丁寧に聞きあうこと、②自分の考えをきちんと伝えること、③よりよい関係を作りたいと願うことが基本というのも、なるほど鋭い指摘だ。

 「伝えあう力」や「コミュニケ―ション能力」の育成を意識するなら「アサ―ション」は、常に念頭に置いておきたい。

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今だから響く、司馬遼太郎のメッセージ

Siba


 「21世紀に生きる子供たちへ」『二十一世紀に生きる君たちへ』は司馬遼太郎が初めて子供向けに書いた随筆。大阪書籍「小学国語」に書き下ろしたものである。

 その一節に次のような箇所がある。

 人間は───繰り返すようだが───自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
 この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
 ───人間こそ、いちばんえらい存在だ。
という、思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。

 同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
 このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
 20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
 おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

 「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
 この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。
 この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
 そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。
そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

 
・・・自然に対する奢りはなかったかが、今回の震災と人災で問われている。
 3,11を境に、日本が大きく変わろうとしている。
 その「うねり」の中に、自分がいる。
 ささやかでいいから、その変化に協力していきたい。

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たたきつけられた奈落に 思いがけない平安が待っていた!

4月23日、朝日新聞の「天声人語」で紹介された詩人島田陽子さん(故人)の詩。
次のように記されている。

滝は滝になりたくてなったのではない/
落ちなければならないことなど/
崖っぷちに来るまで知らなかったのだ

▼しかし、〈まっさかさまに/落ちて落ちて落ちて/
たたきつけられた奈落に/思いがけない平安が待っていた/
新しい旅も用意されていた/岩を縫って川は再び走りはじめる〉。
昭和の応援歌を書いた人が残した、震災後日本への励ましに思えてならない。

・・・「天声人語」の引用では、これが詩の全文であるかどうかは分からない。
 ただ、この部分だけでも十分訴えるものがある。

 一言で言えば「困難の後には、きっと平穏がある」
ということになるだろうか。

 「たたきつけられた奈落」にいて、「平安」を信じるのは難しい。
 そうではあるが、困難な状況に置かれても、どうか「前を向いて・上を向いて」歩んでほしい。

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「原発議論が民主主義深める」

「原発議論が民主主義深める」
と題した朝日新聞のサンデル教授のインタビュー記事は、含蓄のあるものだった。

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104230335.html

 サンデル教授インタビュー2011年4月24日9時17分

. サンデル教授は22日、米ハーバード大の学生主催のシンポジウムの後、朝日新聞などの取材に応じた。主なやりとりは次の通り。

 ――福島第一原発の問題をどう見ているか。

 危機が起きる前、米国は原発推進に向かっていたが、再考を迫られた。他のすべての国も、エネルギー政策の安全性やリスクを新たな枠組みで議論することが避けられないだろう。

 だが、根本的には、膨大なエネルギー消費に依存する物質的に豊かな生活様式をどうするか、我々がどんな社会に住みたいかという価値観の問題になる。

 ――日本での原発の賛否をめぐる議論は激しいものになるかもしれない。

 私のアドバイスは、思慮深く、丁寧な議論をすること。絶対に議論を避けてはならない。社会が直面する最も困難な課題について、賛否両派が相互に敬意を持って、公然と討議できれば、民主主義は深まる。だからこそ、建設的に議論するための枠組みの設定が非常に重要となってくる。

 ――誰が枠組み設定を担うべきか。

 政治指導者に責任があるが、しばしば機能しない。有権者が望まないからだ。民主主義に不可欠な、自ら考えて議論する市民を育む教育の責任が大きい。メディアも意味ある議論を提起する義務がある。

 ――日本政府は11年度予算の途上国援助(ODA)削減を決めた。

 日本が震災後の緊急事態を過ぎた時、途上国援助で再び寛大な役割を担うことに、私は疑念がない。(ケンブリッジ=春日芳晃)

 「絶対に議論を避けてはいけない」ことの大切さは、逆を考えてみれば分かる。

◆何が何でも原発反対
◆何と言われようと原発は必要

と双方が一歩も譲らないのは「民主主義」ではない。
 サンデル教授が、よく言う「最大多数の最大幸福(ベンサム)」を追究するには、双方の歩み寄りが大切だ。

「賛否両派が相互に敬意を持って、公然と討議できれば」の意味は重い。

ただ・・・。

 相互に敬意をもつ前提は信頼関係である。
 提示するデータに虚偽やねつ造があれば、議論になるはずはない。
 今は、原発推進派のこれまでの安全の主張のどこに問題があったか、
 これまでの安全対策のどこに問題があったか。
を総括し、場合によっては謝罪し、責任を明らかにすることが大切である。
 原発反対派の意見を門前払いするような態度を続けてきた推進派に「相互に敬意を持って、公然と討議」する素地があるのかどうか。

ところで、孫氏の自然再生エネルギーの提唱に対して池田信夫氏が反論を加えている。


池田信夫ブログ:2011年04月24日 11:18

再生可能エネルギーは原発の代わりにはならない
.
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51701378.html

 私は太陽光に意味がないと言っているのではない。その用途は家庭用の小規模な利用が適しており、原発の代わりにはならないのだ。電力会社は、電圧や周波数の調整が面倒なので、料金だけ払って再生可能エネルギーの電力を捨てている。福島事故のあとは、送電網の調整ができないので電力の卸売市場は停止されている。

 つまり最大の障害は、技術ではないのだ。電力会社が送電網ももっているため、IPP(独立系発電事業者)との公正競争が成り立たないことが根本問題で、この構造が続くかぎり、再生可能エネルギーは補助金に頼らざるをえない。これは孫氏が「光の道」で激しく糾弾したNTTの独占を維持する構造と同じである。
(中略)

 だから孫氏が本当に再生可能エネルギーが原発より安いと思うのなら、発送電の分離を提案し、みずから投資してIPPに参入してはどうだろうか。経産省の改革派も、それを待っている。

・・・発電・送電の分離は、このところよく言われる話題である。
 発電・送電の分離はこれまでの電力会社の独占体制を揺るがすという意味において日本に大きな変革をもたらす。
 それぐらいの変革がないと日本の復興は成り立たないという機運が高まることを期待している。

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