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September 25, 2011

『考える技術』(大前研一)を読んで考える

Oomae


 教師だけのレポート報告なら、
◆子どもが意欲的に取り組んだ!
◆子どもが表情が生き生きとしていた!
といった情緒的な表現でも通じるが、科学的には受け入れられない。
 1度や2度の授業の成果で「○○の方法は有効であった」と断言する報告も科学的には受け入れられない。

 そのことを裏付けるような書物が、大前研一氏の『考える技術』(講談社)。

問題解決に至るまでには、仮説、検証、実験が無限に繰り返される。このプロセスは、実は私がマサチューセッツ工科大の大学院で行っていた、さまざまな原子炉の実験プロセスとまったく同じである。
科学論文の最後には必ず「結論」があるが、それは実験によって検証されたものでなければならない。他の人間に不備を指摘されないように「これだけの実験をしているから絶対に間違いない」ということがわかるようにするわけだ。P34

 マッキンゼーの先輩は、常に

①「その証拠はなんだ」
②「お前はどんな証拠に基づいてそう言うのか」
③「どうしてその結論になるのか」

と突っ込んできたという(P41)
 このように突っ込みを自問自答できると、レポートや論文に論理性が増す。

 また、仮説と結論は違うという部分も、重要な指摘である。

データを分析して出てくるものは仮説にすぎないのだが、日本のほとんどの経営者やビジネスマンは、その仮説を結論だと思いこんでしまう。そこで「結論を得た」と思って安心し、仮説を裏付けるだけの証拠収集や、本当の結論に至るまでの論理的思考を怠ってしまうのだ。P20

 およそ、自分がうまくいった授業実践報告などは「仮説」レベルにすぎない。
 だからこそ、たくさんの事例の収集をし、検証をし、「結論」に昇華していかないといけない。
 それが「100や200の事例を集めてから言え」といった言葉につながっていくのだ。
 1度や2度うまくいったからといって安易に結論づけるな、という戒めは、自分の行為を謙虚に見直す行為で、メタ認知能力といってもよい。

 むろん、それは「法則化運動」の理念でもある。
 「化」の持つ意味の重みがここにある。

 ついでながら、大前氏の文章の中に、「原因と現象の違い」を述べた部分がある。
 「現象はあくまで現象にすぎず、原因ではない。この当たり前のことがなかなか理解できない」(P21)とあるが、確かになかなか理解できない。

 「売り上げが伸びない」という問題に対して
「営業マンに元気がない」
「製品が悪い」
「価格が高い」
などは、原因ではなく現象(結果)にすぎないと言う。

 実際には原因はこの中の一つであって、他はそのただ一つの原因から生じる場合が多いのである。
 原因になっている部分を直さないかぎり、問題の解決は望めない。大切なのは「さまざまな現象の中で本当の原因は何か」「考えることなのだ。
現象を数え上げるだけで思考を停止させてしまってはいけない。(P22)

 授業がうまくいかない原因を列挙することがある。
 しかしやっていることは現象の列挙になりかねないということだ。
 このあと、「解決策にならない結論は、結論ではない」という章がある。
 問題点(原因)が分かっても、「どうすれば問題が解決できるか」までを提案しなければコンサルティングにはならないからだ。

 「原因と現象と結論(解決策)」については奥が深いので、再度検討してみたい。

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September 23, 2011

他人のやらないことをやる

久しぶり見た「カンブリア宮殿」(9月22日放送)で感銘を受けた。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20110922.html

 「本多プラス」というプラスチックの会社が愛知県の新城市にある。
 トヨタ自動車のお膝元だから、下請受注でプラスチック成型をやっていく方向もあったのだが、単なる下請けでは社員にやり甲斐がないと断ったそうだ。
 安定した収益よりも、自社のプライドを優先したのだと言える。

番組ラストで村上龍は語っている。

◆下請け、なんと響きの悪い言葉だろう。製造業の下請けは、右肩上がりの時代は合理的だった。
今は違う。 円高などのコストを押しつけられ、出口のない不況に喘いでいる。
本多プラスは、「自分で考え、自分で作り、自分で売る」という哲学を武器に独自の技術と営業力を育て、大企業への依存を拒んだ。
他人のやらないことをやるという基本姿勢は、かつては変わり者の象徴として揶揄されてきたが、現代では転換期をサバイバルする必須条件となっている。


 番組HPの解説には次のようにある。
=====================
 今からおよそ30年前、文具業界に革命が起きた。
 私たちがよく使う修正液のボトルが、ガラス製の重い瓶から、軽いナイロン製のものに変わったのだ。
 軽くて使いやすいが成形が難しく、不可能とまで言われていたナイロンの加工を可能にしたのは愛知県にあるプラスチック加工メーカーの本多プラスだ。
  本多プラスは大手自動車メーカー系列の下請けになる誘いを何度も断り、自社製品の開発に汗をかき続けてきた。
 「他人のやらないことをやる」、「売る力を磨く」でサバイバルしてきた、本多プラスの独自戦略に迫る。

 本多プラスの武器、それは「プロ―成形」という技術。
 金型にプラスチックを流し込み空気を入れて成形する。
 この手法でどんな形の商品でも作ってしまう。
 中でも化粧品のボトルや、目薬のケースなど、ブロー成形に向かないとされる小型の製品を得意分野としている。

=====================

・・・なるほど、あの青いペンテル修正液のボトルは本多プラスの画期的な製品だったのだ。
 カチッと締まる四角い目薬も。
 専務は、ペーパーレス時代が近いのに、いつまでも修正液ボトルのような文具関連だけではやっていけないと次の手を考えた。
 自分が好きだった香水のガラス瓶の美しさをプラスチックで出せないかを模索し、完成させる。
 さらには、医療関連容器も開発していった。

 「他人(ひと)のやらないことをやる」という言葉が何度も出てきた。
 心したい言葉だと思う。

 さて、もう1つ驚いたのが営業力だ。
 デザイナーがアタッシュケースにたくさんの見本=自信作を入れて紹介する。
 その見事な製品に圧倒されているところに、具体的な金額を入れた見積書を手際よく提示して、一気に商談をこちらのペースに引き込んでしまう。
 通常は、企業側が「こういうのを作ってくれ」と依頼して、その依頼に応えるのがメーカーの仕事だが、
本多プラスは、メーカー側から「こういう商品がはいかがですか」と企画・試作・提案を行ってしまう。
 
 いつも具体物を取りそろえよ、というのは、こういうことか!と思えるような商談の光景だった。

 専務の経歴は以下のとおり。

 1969年愛知県生まれ。
  高校時代はバンドに夢中。大学卒業後に渡英、ビジネスに目覚めて現地でMBAを取得。
 1997年に本多プラスに入社。化粧品容器や医療器具の分野を開拓。
 2001年に専務に就任。

・・・外側からの目で会社を見られたからこそ、新しい分野の開拓ができたのだと語る。
 いつも客観的に自分たちの行動を見直すのは「メタ認知能力」である。

 自分のメタ認知能力にも、大いに刺激を受けた1時間だった。

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September 05, 2011

「われは草なり」の教材解釈

 サークル例会で「われは草なり」の模擬授業があった。

われは草なり    高見 順

われは草なり           
伸びんとす       
伸びんとす       
伸びられぬ日は    
伸びぬなり       
伸びられる日は    
伸びるなり

と続く詩。

 話者は誰ですか?
 「われ」です。

 「われ」とは誰のことですか?
 「草」です。

ということで、話者=われ=草 ということで模擬授業が進んでいった。

 「われは草なり」だから「わがはいは猫である」
と同じように「話者=われ=草」と考えて、草の一人語りのように考えている。

 しかし、自分は、文語調の力強さから、「われ=草」ではなく、「われ=人間」としてとらえた。
 自分も草のように生きていきたい、という「雑草魂」のような願いを込めた詩、話者は、草の生き方に憧れる「われ」という人物だと読んだ。

 だから、例会後、WEBで「話者=われ=草」とだけ書かれた実践を読んで疑問を感じた。
 ただし、松藤司先生のサイトは 
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tukasamt/warehakusanari.htm 
==============
発問5 この詩は何かを草にたとえています。何を草にたとえているのですか。
自分、人間、若者

===============
という問いがあるから、「われ=人間」という解釈を前提に進んでいる。

 文芸研の解説も検索できた。
http://www5.synapse.ne.jp/heart/riron-jissen/5nen.html#sec7
に文芸研の「教材の見方」が付いている。


7 われは草なり  (高見順)
◆ありふれた草に寄せる人生
 高見順という人の詩は、人生論的、哲学的な詩が多いのです。この詩もそういう系列の詩と言っても良いと思います。
 〈われは草なり〉――草自身が「われは草なり」と言っていると取ってもいいけれど、人間である我々が、自分を草になぞらえて、「われは草なり」と、一種の比喩として歌っていると見てもさしつかえありません。
 〈われは草なり/伸びんとす〉というように、全体を通して、七・五という調べで、二行ずつくり返しています。七・五調で、しかも文語調ですから、非常に整った形をもった、格調ある詩ということが言えると思います。そして、草というものを題材として、ありふれた平凡なもののもつ美しさとか、情緒とか、すばらしさとか、そういうものを誇らかに歌いあげた詩と言ってもいい。

・・・ 草自身でもいいけど、人間が草になぞらえていると見てもいい、という両論併記の立場である。

 「みたい・のようだ」という表記のない比喩は、「男はオオカミだ」「君は僕の太陽だ」みたいなタイプで「暗喩」。
 草が人間のように語っていると捉えたら、それは「擬人法」。

 「われは草なり」と重なるような暗喩を探してみた。

ヨハネ福音書
◆わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である
◆私が、世の光です、私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

・・・この場合の「わたし・私」は「ぶどうの木・世の光」そのものではない。

 こんな例示で、「われは草なり」が、暗喩という意味が伝わるだろうか・・・。

それにしても、例会参加のおかげで久しぶりに教材解釈を楽しめた。

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