« January 2012 | Main | March 2012 »

February 22, 2012

歳月がたって分かる本 『カシオペアの丘で』

41ikxhjpgql__sl500_aa300_
 1年前に『カシオペアの丘で』(重松清)を読了したことを、書き込んでいなかった。
 ガンを宣告された主人公が故郷の友人に支えられ「赦し」「赦され」最期の時を迎える。
 実に壮絶なストーリーだ。
 重松清は中学や高校の読書感想文の対象になりやすいが、これはお勧めできない。
 この作品や「流星ワゴン」などは中学生・高校生が読んでも得るものは少ないと思う。
 家族があって、残りの人生=死について考えることがあって、初めて共感できるのだと思う。
 自分はガンを煩った友人の最期と重ねて苦しくなった。
 
 ところで、『天気の好い日は小説を書こう』(三田誠広)の中に
◆「志賀直哉の作品は二十歳の人にはわかりません」
◆「赤ん坊を抱いて初めてわかる『和解』」
という章がある。
==================
 小説というものは人生経験に基づいて書く芸術ですから、ただ勉強するだけではわからないという面をもっている。
 読者の側にも、それなりの経験が必要な場合もある。
 例えば、志賀直哉の作品は若い人にはわからないかもしれない。
(中略)
 人の親になると人間の心境というのは変わるんですね。変わるし、人生観が深くなります。その時に初めて志賀直哉というものがわかるんですね。
 皆さんもいま、志賀直哉を読んでわからないと思うんです。二十歳の人にはわからないですね。皆さんも三十歳くらいになって、子供がよちよち歩きになるとか、そうした時にもう一度、志賀直哉を読んでみるといいと思います。
===================
 この三田氏の主張は、今回、自分が重松清を読んだ時の印象と同じだった。
 さすが三田氏の指摘は見事である。
  そして、この指摘は、どんな小説やどんな指南書でも同じなのかなと感じた。
 読んでも読んでも、ひょっとして分かっていないことがある。
 それは、ある程度自分自身の経験がないと実感できない類のものなのだ。

 むろん、だからと言って若い頃は読まなくていいというわけではない。
 三田氏の言うとおり、若いころに読んだ本を、10年20年たって読み直してみて、初めて理解することもある。
 だからこそ、愛読書は「座右の書」である。
 何度も何度も読む度に発見があり、何度も何度も読んでいくうちに自分のものになっていくのだろう。

 ちなみに三田氏のこの本は1998年発刊。
 読み直してみたのも5・6年ぶりである。
 すっかり忘れていた指摘もあったし、新しい発見もあった。
 
 1度読んだからといって分かった気になってはいけない。

 まさに、その通りである。

 振り出しに戻って「カシオペア~」。
 5年10年たって読むと、また異なった感慨を持つと思う。
 なぜなら、自分の身近な者の死が年を追うごとに増えていくからだ。

| | Comments (90) | TrackBack (0)

『悼む人』と光市母子殺害事件

『悼む人』(天童荒太)の主人公は、死者を悼む旅に出る。
彼が悼む相手は、あらゆる死因である。
特別な事件、センセーショナルな事件による死者だけを悼むわけではない。
むしろ、注目をされなかった死者・誰も覚えてくれないおうな死者を心に留めようと努めている。

そのような『悼む人』を読んですぐに、光市母子殺害事件の判決が下された。
当時18歳の犯人が死刑になったという点では脚光を浴びやすい事件である。
しかし、犯人が成人であったら、平凡な殺害事件として扱われたのだろうか?
事故死だったら、多くの人に知られることもなく消えていったのだろうか?

また読了前に話題になったホイットニーヒューストンの突然死も同じだ。
彼女の死は永遠に忘れないと多くの友人が弔辞を述べた。
著名な人の死は、一般人の死と扱いが違って当然ということなのか?

天童荒太は、死者の扱いに差を与えるマスコミ報道に批判の目をあてているのかもしれない。

| | Comments (17) | TrackBack (0)

February 19, 2012

『悼む人』(天童荒太)

A
Aa
 早く読みたいと思っていた『悼む人』をようやく読むことができた。
 2009年の直木賞受賞作でありながら、文庫になるまで手が出せなかった。
 ハードカバーの厚みと、聞いていたあらすじから、相当な覚悟を持たないと読めないかなと思っていたからだ。

 1年ほど前に重松清の『カシオペアの丘』を読み、壮絶なガン患者の最後に胸を締め付けられた。
 自分の余命というものも漠然とながら考えた。
 数日前の伊坂幸太郎の「SOSの猿」を読み、メサイアコンプレックスと呼ばれる他人の不幸を放置しておけない
主人公のピュアな心に打たれた。その時、次は『悼む人』を読まねばという気になった。死者がいると聞くとほかっておけないというこの小説の主人公のことだけは知っていたからだ。

 重いテーマであったが、非常に興味深く、ほぼイッキ読みできた。
 『カシオペアの丘に』にも通じ「SOSの猿』にも通じていた。
 「死者を悼む」という行為に没頭するようになった主人公の心は、『永遠の仔』のトラウマ体験に近いものがあった。

 結末は「感動』という言葉で簡単に表現できるものではない。
 母親と主人公は会えずじまいだった。
 主人公と恋人は別の道を歩み出した。
 蒔野という男がどうなったのかが書かれていない。

 奇異な主人公の「悼む」という行為に、母も恋人も蒔野も感化されていく。
 それは読者が主人公の「悼む」という行為に感化されていく仕掛けにもなっている。

 http://bunshun.jp/itamuhito/
に作者の思いが詳細に掲載されている。
 9,11のテロが「悼む人」執筆の1つの契機になったと述べている。
 今の自分は「東日本大震災」を悼ませていただきたいと重ねて読んだ。
 しかし「大震災」の死者だけを特別に記憶にとどめ、そうでない死者は気にとめないというには主人公の生き方とは反している。
 残念ながらどんな死に方をした人にも等しく関心を注ぐことは極めて困難である。
 すべての死者を把握し悼み続け、記憶続けることも極めて困難である。
 それがいかに困難なことかを主人公=作者は訴えているのだとも言える。

 せめて「悼む」という言葉、「悼む」という行為を記憶にとどめ、自分のできる範囲で悼ませていただきたい。

| | Comments (26) | TrackBack (0)

『SOSの猿」伊坂幸太郎

Saru

 特別支援教育セミナーに参加する数日前から、伊坂幸太郎の『SOSの猿』を読んでいて感化されていた。
 読了したのは、その日の帰りの新幹線の中だ。
 セミナーを聞いていて重なる部分が多かった。
 「困り感」も、その1つだ。声にならない子どもの困り感、つまりSOSをしっかりキャッチすることの大切さを改めて感じた。
 困っている子の事情や問題行動の背景を知るのは難しい。
 本人の口からすんなり出るとは限らないし、勝手に推測したところで、それが事実だとは限らないからだ。
 
 『SOSの猿』の主人公は、他人の苦しみに必要以上に心を痛めてしまう。
◆誰かが困っている声や相談している話、嘆きや悲しげな話題が聞こえてくると、気になって仕方がないのだ。
同情するのではない。誰かが困っていると、「どうにかしてあげたい」と思う。
傲慢なのは承知している。ただ、熱湯に触れたら、脊髄の神経が反応し、意識するより先に手を引っ込める。
それと同じように、「どうにかしてあげなけれな」と思わずにはいられないのだ。(P6)

 救急車の音を聞くと「どこかで誰かが、痛い痛い、って泣いているのかな、ってそう思うんです」とも言う。
 そのような感受性は「メサイアコンプレックス」と呼ばれマイナス扱いされることもある。自分の心の弱さの裏返しだと。
http://allabout.co.jp/gm/gc/299180/
 それでも教師と言う職業柄、「人の役に立ちたい」と思う気持ちを大事にし、子どものSOSに敏感になれる人間でありたいと思う。

 『SOSの猿』には次のような記述もある。
◆「自己顕示欲、名誉欲、嫉妬、孤独、そういったものは結局、突き詰めれば『僕を見て』ということになるだろう。
自分の存在を忘れないでもらいたい。それはみんなそうなんだ。家族や神父に心配してもらうだけで、救われる。」

 「先生は僕のことを見てくれているんだ」と思えるだけで救われるケースがあるのなら、しっかり見てあげたいと思う。
 そこでセレトニン5の登場だ。
 「見つめる・ほほえみ・ふれる・話しかける・ほめる」

 たとえば、理由が分からなままに不登校を続けている児童がいたとしたら。
 彼もSOSのサインとして不登校という行動をとっているのだろうか?
 彼は何に困っているのだろうか?
 どんな気持ちで「不登校」という行動に至ったのだろうか?
 
 杉山登志郎氏の講座で不登校の3つの要因が列挙された。

 1:カリキュラムが学力に合わなくなってきた
 2:いじめをはじめとする迫害体験
 3:嫌なことはやらないというパターン

 ついつい「なまけ」とか「だらしない」といった理由に決めつけてしまうことがある。

 『SOSの猿』にも、引きこもりの少年が出てくる。

◆(母親)「優しい子なのよ。料理とか作って、喜んでもらうのが嬉しいのよ」
(主人公)「真人君が自分でそう説明したんですか」
(母親)「そうじゃないけど、それくらい分かるわよ。親子だから」
 子供のことは分かります。親ですから。そういう自信満々に言い切りる親には注意しなさい
それはロレンツオの父親が、教えてくれたことの一つだった。
「分かる、と無条件に言い切ってしまうことは、分からないと開き直ることの裏返しでもあるんだ。
そこには自分に対する疑いの目がない。」P83

 相手の思いを推し量るのではなくて、聞いたほうがいいと言う。
 不登校A君の本人の口から何も聞かないままに、原因を断定することも推し量ることも早計だということだ。
◆「人っていうのはやっぱり、言葉にして伝えないと相手には気持ちを理解されないんです。
だけど、言葉にするのを省いて、うまくコミュニケ―ションが取れないと『どうして分かってくれないのか』と腹が立ったり、『きっと相手は自分をこう思ってるのだ』と勝手に先回りをして、怒ったりして、結局、雪だるま式に関係は悪くなっていくんです。」P85

 「他者を理解する」ことの怖れをしっかりもっていたい。、
 「他者を理解することの難しさ」を自覚し、謙虚に接していきたい。
 そんなことを痛感する、面白く役に立つ本だった。
 
 ちなみに「本当に孫悟空はいたのかどうか」は、自分は気にならない。
 伊坂氏の作品には案山子は話すものもある。
(そういう意味で、村上春樹の作品とよく似ているという意見がある)。
不思議な出来事は、錯覚のようにも事実のようにも読める。そのような書きぶりになっている。
論理的にどうだとかリアリテイがどうだとかいっていたら読めない作品であると思えば、まさにエンタテイメントである。

作者のインタビュー
http://www.chuko.co.jp/special/sos/int.html

| | Comments (7) | TrackBack (0)

« January 2012 | Main | March 2012 »