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December 30, 2012

『海賊と呼ばれた男』~大東亜戦争は「石油のための戦争」~

百田尚樹著『海賊と呼ばれた男』(講談社)を読むと、石油の歴史がよく分かる。
そして大東亜戦争の経緯もよく分かる。
歴史の教科書をまとめるつもりで、上巻をメモし、時系列に並べてみた。
一面的かもしれないが、「石油・エネルギー」の重要さと恐ろしさがよく分かる。


①昭和十五年の半ばになると、国内の経済はさらに厳しくなり、米穀も配給制になった。
支那事変も四年目を迎え、いよいよ総力戦の様相を呈してきた。九月には「日独伊三国同盟」が結ばれた。
これにより日本は米英と完全に敵対関係になった。
アメリカは「対日経済制裁」を宣言し、日本に対し、屑鉄と鋼鉄、それに航空機用の高オクタン価揮発油を輸出禁止にした。
全石油製品の輸出禁止はかろうじて免れたが、政府は重要な軍需物資である石油の枯渇を怖れ、民間用の石油の使用を大幅に制限した。
特に揮発油はほとんど民需用には回されなくなった。
自家用車は制限され、タクシーの「流し」は禁止、バスやトラックには揮発油や軽油の代わりに木炭が使われた。こうして国民の生活から石油が姿を消した。

②アメリカの対日経済制裁の宣告を受けた日本は、石油が禁輸された場合を考えインドネシアの油田の獲得を目論み、ベトナムに軍を進出された。
この行動は、東南アジアのほとんどを自国の植民地としていたアメリカ、イギリス、オランダを怒らせた。

そして昭和十六年八月、アメリカは日本への石油の輸出をすべて禁止した。

③国内産の原油は昭和の初めにはほぼ採り尽くされ、原油及び石油製品のほとんどは米国からの輸入に頼っていた。
だから昭和16年に米国から「石油全面禁輸」の措置が取られたことは、日本にとって死刑宣告にも等しい事態だった。
海軍が誇る聨合寒帯の軍艦や飛行機も動かすことができなければ、戦争状態にあった中国大陸へ兵員や物資を輸送することも不可能になる。
それまで日本政府も軍部も米英との戦争は何としても避けたいと考えていたが、米国が石油の全面禁輸をおこなったことにより、事態は急展開した。
日本は石油を確保するために、連合国のオランダ領であるボルネオとスマトラの油田を奪わなくてはならなくなった。

つまり日本は石油のために大東亜戦争を始めたのだった。

④アメリカが石油を全面禁輸して四カ月、これ以上の時間が過ぎれば備蓄石油も底をつくと見て、昭和十六年十二月八日早朝、日本は、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入った。
とくに海軍にとっては、石油の枯渇は「艦隊の無力化」を意味するだけに、焦りは陸軍以上であったはずだ。
となれば、次に日本軍が進出するのはインドネシアしかない。
ボルネオとスマトラには豊富な油田がある。ここを押さえるために、障碍となるアメリカの太平洋艦隊を叩いた。

⑤年が明けても日本の快進撃は止まらず、二月十五日、陸軍は難攻不落と言われていたシンガポールを攻略し、その九日後には、スマトラ島のパレンバン油田の占領に成功した。
パレンバン油田は南方最大の油田で、年間の産油量は当時の年間消費石油量を上回るほどだった。
それだけにここを無傷で手に入れられるかどうかに日本の命運がかかっていた。
パレンバン油田確保の報せを受けた東条英機首相が「これで石油問題は解決した」と発言したことはよく知られている。

⑥石油の技師は、後に戦場となるインドネシアの油田地帯で、三年半にわたって懸命に任務を全うし、何と千六百人以上が戦死あるいは病死することになる。
その最大の悲劇が有名な「阿波丸事件」である。
昭和二十年四月にアメリカの潜水艦により撃沈された同船に乗り込んでいた石油関係者は千人を超えるとも言われるが、全員死亡した。

⑦財団法人「日本殉職船員顕彰会」の調べによれば、大東亜戦争で失われた徴用船は、商船三千五百七十五隻、機帆船二千七十隻、漁船千五百九十五隻の計七千二百四十隻。
そして戦没した船員、漁民は六万以上に上る。彼らの戦死率は約四三パーセントと推察され、これは陸軍軍人の約二十パーセント、海軍軍人の約一六パーセントをはるかに上回る数字である。

⑧昭和十九年七月、サイパン島がアメリカ軍に占領された。
同島を含むミクロネシア一帯は日本が戦前から統治していた領土で、大本営はここを絶対国防圏としていた。
サイパンを奪われたことにより、日本のほぼ全土がアメリカの長距離爆撃機B29の攻撃圏内に入った。
またサイパンをめぐる戦いで日本海軍は空母三隻と数百機の飛行機を失い、太平洋の制海権を完全にアメリカに奪われていた。
この年から徴用船の戦没率が跳ね上がり、南方からの物資を運ぶ輸送船はほぼ途絶えた。
その結果、日本は石油も鉄も枯渇し、工場は壊滅的な打撃を受けた。
この年、南方から日本に送られた原油はわずかに七九万キロリットルだった。
戦前アメリカから年間約五00万キロリットルを輸入していたことを考えると、もはや戦争継続どころか、国民生活を維持するのも難しい状態と言えた。

⑨昭和二十年、アメリカ軍の空襲は全国の主要都市を焼け野原にした。
日本は文字通り焦土と化した。陸海軍は徹底抗戦を叫び、「全機特攻」を標榜したが、もはや飛行機を飛ばせる燃料はどこにもなかった。
海軍の燃料タンクはほとんど浚われ、もはやわずかな艦艇さえ動かす石油も残っていなかった。
そして八月、人類最悪の兵器、原子爆弾が広島、次いで長崎に落とされ、同月十五日、ついに日本は「ポツダム宣言」受諾を、世界に向けて発信した。

このとき、日本の備蓄石油はほぼゼロに等しく、これ以上戦う力はどこにもなかった。

⑩東亜戦争は極論すれば「石油のための戦争」であった。戦前、日本はアメリカから石油の八割を輸入していたが、それを断たれたためにアメリカとの戦争に踏み切ったのだ。そして南方の油田を確保したが、制海権を失って、その石油を国内に還送する手段を奪われたとき、戦争継続は不可能となった。

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『海賊とよばれた男』 百田尚樹

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 『永遠のゼロ』が文庫本コーナーで平積みの百田尚樹。
 この『永遠のゼロ』は、とてもよかった。フィクションとはいえ、戦争(特攻)の事情がよく分かった。というより、自分が何も知らないことがよく分かった。
 そして、こちらも平積みの『海賊とよばれた男』(上・下)
 正直言って、これはタイトルが悪い。
 このタイトルでは、どんなストーリーだか全く想像もつかない。
 「海賊」といわれても、特に興味をもつこともなかった。
 読者をひきつけるはずの帯も、内容を伝えていない。

(上の帯)
圧倒的感動!ノンフィクション・ノベル誕生!
1945年8月15日、男の戦いは、0からはじまった・・
戦後忘却の堆積に埋もれていた驚愕の史実
「これは、私が久々に書き下ろした0の系譜につらなる作品です。
しかも、この小説に登場する男たちは実在しました。」
100万部突破のベストセラー『永遠の0』の作者・百田尚樹が書き下ろしたドキュメント小説の傑作。

 この帯を見た時、太平洋戦争の海軍の話かと思った。
 下巻の帯を見ても同じだ。

(下の帯)
敵は七人の魔女、待ち構えるのは、英国海軍
ホルムズ海峡封鎖を突破せよ
「日章丸だ」
鐡造が呟くように言った。一同が顔を上げた。
「日章丸をアバダンに送る。」
・・彼は今、国岡鐡造という一代の傑物の、生涯でもっとも美しい決断の瞬間を見た、と思った。

 これも、戦争時の海軍の話かと思っていた。
 もったいない。
 これでは「戦争の話は興味ないなあ・・・」と思って敬遠してしまった読者もいるはずだ。
 自分もそうだった。
 確かに表紙裏には、あらすじがある。
 この表紙裏まで立ち読みしないと、内容はつかめない。

(上)
敗戦の夏、異端の石油会社「国岡商店」を率いる国岡鐡造は、なにもかも失い、残ったのは借金のみ。そのうえ石油会社大手から排斥され売る油もない。しかし国岡商店は社員ひとりたりとも馘首せず、旧海軍の残油集めなどで糊口をしのぎながら、たくましく再生していく。20世紀の産業を興し、人を狂わせ、戦争の火種となった巨大エネルギー・石油。その石油を武器に変えて世界と闘った男とはいったい何者かーー実在の人物をモデルにした本格歴史経済小説

(下)
敗戦後、日本の石油エネルギーを牛耳ったのは、巨大国際資本「メジャー」たちだった。日系石油会社はつぎつぎとメジャーに蹂躙される。一方、世界一の埋蔵量を誇る油田をメジャーのひとつアングロ・イラニアン社(現BP社)に支配されていたイランは、国有化を宣言したため国際的に孤立、経済封鎖で追いつめられる。1953年春、極秘裏に一隻の日本のタンカーが神戸港を出港した・・。
「日章丸事件」を材にとった、圧倒的感動の適し経済小説、ここに完結。

・・・今、コピペでなく、カバーを見ながら自力で打ち込んでいる。
 打ち込みながら、「そうだった、そうだった」と読後の感激を思い返している。

 まさか、戦前・戦後の石油の歴史の話だとは思わなかった。

 戦後復興、つまり占領されていた日本が真に独立を果たす間に、これほどの格闘があったとは。
 ふだん何気なくガソリンを入れている出光興産にこれほどの歴史があったとは。
 この作品も、「永遠の0」以上に、自分がいかに知らないかを痛感させられるすばらしい作品だ。
 特に、戦後復興のために尽力した人たちの無私無欲の行為に、ただただ敬意を表するばかりであった。日本人の気概を感じさせる場面が幾度となくあった。と同時に、官僚的=日本人的な体質で国岡商店を排除しようと動く役所と組織のひどさにあきれるばかりであった。


 作者の百田氏自身が「日章丸事件」を知らなかったというのだから、我々が知らなくてもおかしくはない。
 とはいえ「日章丸事件」は、日本がずっとずっと語り継いでいくべき出来事だと思う。

 それにしても、「石油」は、魔物である。
 産業も興し、人々の生活を潤わすが、戦争も紛争も引き起こす。
 「20世紀の産業を興し、人を狂わせ、戦争の火種となった巨大エネルギー・石油」という表現が、まさにそのとおりだと思った。
 石油についての歴史、太平洋戦争と石油の関係を知る上でも非常に勉強になった。

  1度目は自分の知らない戦中・戦後の歴史に驚嘆しながら、ストーリーと国岡商店の気概・気骨を楽しんだ。
 今、大東亜戦争の経緯や、石油・エネルギーの歴史を学ぶ資料として再読している。
 一面的かもしれないが、大東亜戦争が「石油をはじめとするエネルギー・資源」の問題だったことがよく分かる。
 
 歴史は、このような「ストーリ-」として提示されないと、エピソード記憶として残っていかない。
 自分が生まれるほんの少し前の出来事について、もっともっと知っておきたくなった。
 貴重な貴重な1冊である。
 それだけに、タイトルに『永遠のゼロ』のような、読者引き寄せる仕掛けがないのが、実に残念なのである。

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December 08, 2012

「死ぬ気でやる」っていうことは・・・

12月6日放送の「カンブリア宮殿」は、カト―プレジャーグループ社長加藤友康氏。
加藤社長の金言は「極限まで追い込めば見えてくる」

①渋谷で店を開く時は朝昼晩と渋谷に足を運んだ。
②うどん店(つるとんたん)を開く時には、1日に12件でうどんを食べた。
③懐石料理を1日に2.5回完食する。
④ホテルを開くために1000回はホテルに泊った。

 ・・・「死ぬ気でやるっていうことは具体的なことだ」と村上龍は言う。
 社長が、日本一のホテルを作る自信があると言い切るのは、それだけ数多くのホテルを回っているからだ。
 店に入ったら、味の良し悪しや売上までだいたい分かると言う圧倒的な自信は、量が物を言う結果だ。

 これは授業の名人と呼ばれる人々も同じだ。
 圧倒的な情報量と修羅場の数が、鑑定眼を高めている。
 力量のある人なら数秒授業を見れば、およそ分かると言われるのは、はったりではなく本当のことだ。
 
 番組最後に、村上龍はこう述べている。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/20121206.htm...
=================
 意識や理性のさらに奥にある無意識の領域まで情報を探らなければ、考え抜くという行為は成立しない。
 それは決して楽ではない。
 だから、たいていの人は「考えているつもり」というレベルで満足してしまい、画期的なアイデアなどとは無縁のまま人生を終える。
 加藤さんにとっては、「徹底的に考え抜く」のは、特別でも何でもなく、ごく自然で、当然の行為なのだろう。
 だから番組ではあえて言及しなかったのだ。
 不敗神話は、奇跡ではなく、考え抜くことによってのみ、生まれる。
=======================

 「量質変化」は、「技(わざ)化」とセットになっている、
 無意識にでも体が反応するほどに、量をこなすこと・情報を入力すること。そこに「死ぬ気で」と言われても、結局「死ぬ気で」という言葉が急きょになることが多い。

◆たいていの人は「考えているつもり」というレベルで満足してしまい、画期的なアイデアなどとは無縁のまま人生を終える。

◇たいていの人は「やったつもり」というレベルで満足してしまい、画期的な仕事などとは無縁のまま人生を終える。

 「研究授業をするなら100回の練習は当たり前」という言葉とも重なってくる。
 本気度は具体的な「数」に表れる。
 練習量、引用する資料の数、足を運んだ数などなど、
 本気度・気迫の足りなさは、力のある先生には見透かされてしまうのだ。

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「没個性」の修行の中に「個性」が磨かれる

 12月1日(土)の「心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU」(日本テレビ系)で書道家・柿沼康二氏の紹介があった。
 パフォーマンス書道がもてはやされるが、日々の練習は、ひたすらお手本通りに書くこと。

◆個性的な作品を書くことが「個性」なのではない。
◆お手本をひたすら模倣する、その没個性の中に個性が出てくるといった意味の言葉に衝撃を受けた。

 正確な引用をしたかったが、番組サイトでは出てこなかった。
 たまたまヒットしたブログには次のようにあった。
http://nanonmama.blog.fc2.com/blog-entry-510.html

=====================
昨日、テレビで見た
書家の柿沼康二さん☆
紙と墨の白黒の世界を個性的に表現される書家さんだけれど
毎日、大量の臨書をされるらしいデス。
空海の書をひたすら模倣し
没個性的に書くことによって
そこにどうしても出てしまう
「個性」を感じ
それが個性をとぎすますという結果を生むという。
うーん、深いっ(*_*)
最初から個性、個性と意識するより
模倣を繰り返す中で見えてくる
本当の個性・・・かぁ。
個性的で、応用ができる人ほど
基礎、基本を大切にしているのですね~☆
====================--

 番組HPには、「同じ文字を繰り返すトランスワーク...書をアートに高めた腕前披露」という写真が掲載されている。
 「トランスワークという言葉は、没頭して取り組む意味だとは思うが、調べても出てこなかった。
 それでも、空海の書をひたすら模倣している姿は、たしかに「トランス状態」そのものだった。

 「没個性的に書くことによって、そこにどうしても出てしまう『個性』を感じ、それが個性をとぎすます」

 そうそう、そんな事を言ってた!
 プロは、大量の模倣の中から創造を見出し、個性を磨く。
 模倣を軽んずる人は、創造性のある仕事もできないし、個性なども伸長できない。

 NHKの特集では、
◆「型」あってこその自己表現

という主張もされていたようだ。

 みんな同じ絵を描かせているから酒井式は没個性だ、という人は、個々の絵の差異(個性)が見えていない。
 型を提示した作文(評論文)は没個性だ、という人も、個々の文章の差異(個性)が見えていない。

 そうだよな~
 どうして書写コンクールは、手本に近い字かどうかで評価されるのに
 絵画コンクールは、自由画しか評価されないのだろう。
 

 ただし、柿沼氏は別の場所で、次のように答えている。

http://www.nikkei.com/article/DGXBZO48498340W2A111C1000000/

■習字が書を殺す

 先生から配られた「お手本」通りに何度も何度も書き直したり、二度書きして先生に叱られたり……と。
時間内に必死に仕上げた渾身の一作は、お手本と違う箇所があろうものなら、直ちに朱墨で駄目だし添削。
お手本と似ているか似てないかの競争のような授業であった。
本人にとっては、その日その時の自分の存在そのものとも言える表現に違いないのだが、
「○」の一つももらえなければ罪悪感と敗北感が色濃く残り、心からの満足感を得た思い出はほとんどない。
一部の書道愛好家を除けば、学校で書が嫌いになったり、書への関心が無くなったりと……。
この世に生まれ20年も経たないうち、教育の中での「書」のイメージが後味の悪い形で定着したまま今に至っているのではないか、と私は思う。
 誤解されては困るので、先ず断っておきたい
上に述べたのは「書」ではなく「習字」=「書写」のことである。
「習字」とは「文字を正しく整えて書くこと」を主とする分野で、今回、私がダイレクトメッセージのコラムで語る「書」の世界とまったく関係ないとは言わないまでも、書のほんの一要素と思っていただきたい。

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