『海賊と呼ばれた男』~大東亜戦争は「石油のための戦争」~
百田尚樹著『海賊と呼ばれた男』(講談社)を読むと、石油の歴史がよく分かる。
そして大東亜戦争の経緯もよく分かる。
歴史の教科書をまとめるつもりで、上巻をメモし、時系列に並べてみた。
一面的かもしれないが、「石油・エネルギー」の重要さと恐ろしさがよく分かる。
①昭和十五年の半ばになると、国内の経済はさらに厳しくなり、米穀も配給制になった。
支那事変も四年目を迎え、いよいよ総力戦の様相を呈してきた。九月には「日独伊三国同盟」が結ばれた。
これにより日本は米英と完全に敵対関係になった。
アメリカは「対日経済制裁」を宣言し、日本に対し、屑鉄と鋼鉄、それに航空機用の高オクタン価揮発油を輸出禁止にした。
全石油製品の輸出禁止はかろうじて免れたが、政府は重要な軍需物資である石油の枯渇を怖れ、民間用の石油の使用を大幅に制限した。
特に揮発油はほとんど民需用には回されなくなった。
自家用車は制限され、タクシーの「流し」は禁止、バスやトラックには揮発油や軽油の代わりに木炭が使われた。こうして国民の生活から石油が姿を消した。
②アメリカの対日経済制裁の宣告を受けた日本は、石油が禁輸された場合を考えインドネシアの油田の獲得を目論み、ベトナムに軍を進出された。
この行動は、東南アジアのほとんどを自国の植民地としていたアメリカ、イギリス、オランダを怒らせた。
そして昭和十六年八月、アメリカは日本への石油の輸出をすべて禁止した。
③国内産の原油は昭和の初めにはほぼ採り尽くされ、原油及び石油製品のほとんどは米国からの輸入に頼っていた。
だから昭和16年に米国から「石油全面禁輸」の措置が取られたことは、日本にとって死刑宣告にも等しい事態だった。
海軍が誇る聨合寒帯の軍艦や飛行機も動かすことができなければ、戦争状態にあった中国大陸へ兵員や物資を輸送することも不可能になる。
それまで日本政府も軍部も米英との戦争は何としても避けたいと考えていたが、米国が石油の全面禁輸をおこなったことにより、事態は急展開した。
日本は石油を確保するために、連合国のオランダ領であるボルネオとスマトラの油田を奪わなくてはならなくなった。
つまり日本は石油のために大東亜戦争を始めたのだった。
④アメリカが石油を全面禁輸して四カ月、これ以上の時間が過ぎれば備蓄石油も底をつくと見て、昭和十六年十二月八日早朝、日本は、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入った。
とくに海軍にとっては、石油の枯渇は「艦隊の無力化」を意味するだけに、焦りは陸軍以上であったはずだ。
となれば、次に日本軍が進出するのはインドネシアしかない。
ボルネオとスマトラには豊富な油田がある。ここを押さえるために、障碍となるアメリカの太平洋艦隊を叩いた。
⑤年が明けても日本の快進撃は止まらず、二月十五日、陸軍は難攻不落と言われていたシンガポールを攻略し、その九日後には、スマトラ島のパレンバン油田の占領に成功した。
パレンバン油田は南方最大の油田で、年間の産油量は当時の年間消費石油量を上回るほどだった。
それだけにここを無傷で手に入れられるかどうかに日本の命運がかかっていた。
パレンバン油田確保の報せを受けた東条英機首相が「これで石油問題は解決した」と発言したことはよく知られている。
⑥石油の技師は、後に戦場となるインドネシアの油田地帯で、三年半にわたって懸命に任務を全うし、何と千六百人以上が戦死あるいは病死することになる。
その最大の悲劇が有名な「阿波丸事件」である。
昭和二十年四月にアメリカの潜水艦により撃沈された同船に乗り込んでいた石油関係者は千人を超えるとも言われるが、全員死亡した。
⑦財団法人「日本殉職船員顕彰会」の調べによれば、大東亜戦争で失われた徴用船は、商船三千五百七十五隻、機帆船二千七十隻、漁船千五百九十五隻の計七千二百四十隻。
そして戦没した船員、漁民は六万以上に上る。彼らの戦死率は約四三パーセントと推察され、これは陸軍軍人の約二十パーセント、海軍軍人の約一六パーセントをはるかに上回る数字である。
⑧昭和十九年七月、サイパン島がアメリカ軍に占領された。
同島を含むミクロネシア一帯は日本が戦前から統治していた領土で、大本営はここを絶対国防圏としていた。
サイパンを奪われたことにより、日本のほぼ全土がアメリカの長距離爆撃機B29の攻撃圏内に入った。
またサイパンをめぐる戦いで日本海軍は空母三隻と数百機の飛行機を失い、太平洋の制海権を完全にアメリカに奪われていた。
この年から徴用船の戦没率が跳ね上がり、南方からの物資を運ぶ輸送船はほぼ途絶えた。
その結果、日本は石油も鉄も枯渇し、工場は壊滅的な打撃を受けた。
この年、南方から日本に送られた原油はわずかに七九万キロリットルだった。
戦前アメリカから年間約五00万キロリットルを輸入していたことを考えると、もはや戦争継続どころか、国民生活を維持するのも難しい状態と言えた。
⑨昭和二十年、アメリカ軍の空襲は全国の主要都市を焼け野原にした。
日本は文字通り焦土と化した。陸海軍は徹底抗戦を叫び、「全機特攻」を標榜したが、もはや飛行機を飛ばせる燃料はどこにもなかった。
海軍の燃料タンクはほとんど浚われ、もはやわずかな艦艇さえ動かす石油も残っていなかった。
そして八月、人類最悪の兵器、原子爆弾が広島、次いで長崎に落とされ、同月十五日、ついに日本は「ポツダム宣言」受諾を、世界に向けて発信した。
このとき、日本の備蓄石油はほぼゼロに等しく、これ以上戦う力はどこにもなかった。
⑩東亜戦争は極論すれば「石油のための戦争」であった。戦前、日本はアメリカから石油の八割を輸入していたが、それを断たれたためにアメリカとの戦争に踏み切ったのだ。そして南方の油田を確保したが、制海権を失って、その石油を国内に還送する手段を奪われたとき、戦争継続は不可能となった。
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