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September 29, 2013

マトリックスは複眼的思考である?

 AかAでないかの二項対立では思考しにくいこともある。
 その場合、マトリックスで考えると、整理できることが多い。

 テキスト形式では示しにくいが、次のような分類である


◆  C | A
  =======
    D  | B


(1)例えば「意欲」と「能力」

  できるけど    |  できるし
  やる気がない  |  やる気もある
=============
  できないし   |  できないけど
  やる気もない  |  やる気はある
 
 A:「力も意欲もある子」は問題ない。
 B:「力はないが、やる気のある子」は、がんばっていると評価できる。
 C:「力はあるのに、やる気はない子」は、とにかくがんばらせたいが、ついつい嫌みも言いたくなる。
 D:「意欲も能力もない子」は、まず力をつけて自信回復に努めなければならない。
 
 このマトリクスには「話す」「書く」「運動する」「歌う」などの技能が該当する。


(2)
 先の現職教育では、「能力」「意欲」とは別に、「潜在能力と顕在能力の有無」のようなものを考えた。
 これは、「知能検査と学力検査」の差から生じるオーバーアチーバー・アンダ―アチーバーなどと呼ばれてきたから、特に珍しいものではない。

 A:もともと力があり、今もその能力を発揮している
 B:あまり力はないが、今のところはできている
 C:もともと力があるのだが、今は成果が上がっていない
 D:力がなく、成果も上がっていない

・・・特にCの本当はできるはずなのに、成績が上がらない子を、 「努力不足」「自信過剰」などと冷たく突き放すことは容易だ。
 しかし、その子にとってのいろんな事情で汲んであげないと事態が解決しない。
 まずは、クラスの中の、このCの子の点数を上げさせたい。
 
 クラスの実態を分析する時、「成績の悪い子」について、 
 「やる気の有無はどうか」
 「もともとの力の有無はどうか」
を考慮しないと、アプローチを誤ってしまう。


(3)
 現職教育では「発言・発表」を分けて考えることも話題にした。
 発言は、その場で意見を言うこと
 発表は、準備してから意見を言うこと

 A:発表も発言もできる子は問題ない。
 B:準備して行う発表はできるが、即答が必要な発言の苦手な子がいる。
   その場の発言は正解かどうかの自信がないとできないからかもしれない。
 C:ペラペラ即答はできるが、原稿を書かせると全くできない子がいる。
   話すことは得意だが、作文が苦手な子と言ってもいい
   思いつきがよいのだが、まとめるのが苦手な子と言ってもいい。
 D:発言もしないし、発表も苦手な子。
  
 これは、発言・発表の力の問題もあるが、自分の意見にあってるかあっていないのか自信がない子1人で 
残念ながら、発言も発表もできない子もいる。
 挙手・発言できるかどうかが、よく評価の対象になる。
 しかし、「発言」と「発表」は異なる。
 きちんと分けて考えれば、個々の指導のアプローチも変わってくる。
 
(4)
 発言と発表は「私的なおしゃべり」「公的な意見」ともよく似ている。

 A:きちんとした話もできるし、おしゃべりできる
 B:礼儀正しい話はできるが、ふだん友達とおしゃべりできない
  中学校の演劇部の子の中には、普段無口なのに、舞台に出るとすごい発表ができる子が多かった。
 C:友達とのおしゃべりは平気だが、礼儀正しい話はできない。
  思いつきではペラペラ話すのに、ちゃんと立って言いなさいと言うと急に尻ごみしてしまう子とも言える。
  放課はみんなと大声を出して遊んでいるのに、指名すると全然言えない子。
 D:いつも無口
  
 (5)
 さて、『7つの習慣』の第三の習慣は、「重要事項を優先する」である。

◆第三の習慣・重要事項を優先する (Habit 3 Put First Things First)
 第2の習慣を身に付けたなら、それを具現化し、自由意志を発揮し、毎日の瞬間瞬間において実行する。
 価値観に調和した生活を送るために、効果的な自己管理を行う。
 重要だが緊急でない活動を行う。 重要でない活動に対してノーと言う。

◆第三の習慣:重要事項を優先する
どうありたいかが決まれば、次はそれをどのように実現するかが大切になってきます。それが第三の習慣「重要事項を優先する」です。
ミッションステートメントに照らし合わせて「重要なこと」を優先する時間管理が求められるのです。
電話や会議や接待などの単に「緊急なこと」に振り回されることなく、また、遊びやテレビや待ち時間などの「重要でないこと」に流されることなく、「重要なこと」を優先するのです。

・・・これは、「重要性」と「緊急性」を組み合わせた、次のマトリックスを見ると分かりやすい。
 
 A:「緊急かつ重要な用件」は当然優先される。
 C:「重要でなくても緊急な用件」に、優先して片付ける期になる。
 D:「緊急でもなく重要でもない用件」については、だらだら行ってしまう。

 そして、問題なのが、Bの「緊急ではないが重要な用件」
 実はこのBの部分には、将来の自分に役立つ自己改革などが入る。
 本を読むことが大事だと分かってるけど、時間がない。
 セミナーに行くことが大事だと分かっていても、時間がない。
 自己啓発したいが、日々の生活に追われてしまう。
 このように、緊急でないからと、つい後回しになる重要項目について、1日に少しでいいから取り組むかどうかが大きな差になるのだそうだ。
 まさに「微差が大差」になるのである。

 緊急事項をやるか、やらなかいかと問われればやった方がよいに決まっている。
 しかし、そこに「重要か」という別のものさしを加えると、事情が変わってくる。
 このように、自分のもつ単純思考を戒めるためにも、マトリックスで考えるような習慣をつけたい。

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September 25, 2013

「慎其獨也」=「陰徳」=ミスチルの「彩」

故君子必慎其獨也。

ゆえに君子は必ずその独りを慎しむなり。

「独りを慎む」は、 … 人が見ていない所でもおこないを慎む。

「大学」 伝六章 より
http://kanbun.info/keibu/daigaku06.html

誰も見ていなくても徳を積む「陰徳」に近い意味か。

さりげなく・人知れず「善行」を積む行為。
見返りを求めることなく徳を積む行為。

 
ミスチルの歌に「彩(いろどり)」がある。

ただ目の前に並べられた仕事を手際よくこなしていく

誰が褒めるでもないけど、小さなプライドをこの胸に勲章みたいにつけて

僕のした単純作業がこの世界を回り回って
まだ出会ったこともない人の
笑い声をつくっていく」

そんな些細な生きがいが日常に彩りを加える

と歌い切る。
これも、同じ発想だろうか。
「小さなプライド」「些細な生きがい」「君子は必ずその独りを慎しむなり」
このような生き方にあこがれるのは、どうしても邪念が入り、誰かに認められたいという思いが捨てられないからだ。

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September 24, 2013

「忙しいから本が読めない」と「木こりのジレンマ」

 「『忙しいから本が読めない』のではなく『本を読まないから忙しい』」

 なるほど、見事な言葉である。

 先日、図書館でパラパラ見ていた雑誌に書いてあったので、ノートにメモ書きした。
自信ないから書名は省略。

 ちなみにネットで調べたら、時期が異なる書物がヒットした。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110930/1317373210

 2年前の書物だから、これが原典になっているのかもしれない。
 
 さて、「『忙しいから本が読めない』のではなく『本を読まないから忙しい』というロジックは、「きこりのジレンマ」に似ている。
 これは、自分でも以前書いた。

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2011/04/post-70b6.html

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(前略)
そこで、旅人は親切心で、「木こりさんよ、そののこぎりは随分と刃こぼれが激しいようではないか、のこぎりの目を立直してから切ればもっと良く切れるに違いないだろうから、少し休んで目を立てたらどうですか?」と言った。
 そうすると、木こりは旅人に向かって、「旅人さんよ、ご忠告は非常にありがたいがの、わしは今非常に忙しくってのこぎりの目など立てているヒマがないんじゃよ」と言いながら、一心不乱にまた木を切りはじめた。

・・・忙しい時に休むのは勇気がいる。
 忙しい時に本を読んだり研修会にでかけるのも勇気がいる。
 でも、勇気をもって一歩立ち止まらないと次の一歩が出なくなる。

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 国語の教材解釈でも、自分のスタンスは「まずは何も見ずに自分でチャレンジしてみる。後でいろいろ目を通す」だった。
 しかし、これは傲慢でしかない。
 「最初から様々な文献にあたる。その後、自分で考える」が過去の叡智を利用した謙虚な方法なのである。
 何も見ずに自分でチャレンジしているから時間がかかる。独善的にもなる。
 時間が余って余ってしかたないなら、何でも構わないが、限られた時間を有効利用したいなら、最初から参考文献に目を通すべきなのだ。

「『忙しいから本が読めない』のではなく『本を読まないから忙しい』」

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September 15, 2013

「あまちゃん」「浜田省吾」「想像ラジオ」

「あまちゃん」を夜のBSで見ている。9月2日からは震災後の北三陸が描かれている。
 脚本を書いた宮藤官九郎のドラマスタート前の心境(の一部)が次のように残っている。

◆当初は、フィクションの中に“震災”を入れるのに抵抗があった。ただ、それを入れないのはうそだとも思ったと苦悩を明かし震災を描くことによって何かのメッセージを送るということでなく、それを含めて元気になってもらえるような楽しめる作品にしたいと思いを語った。
http://mantan-web.jp/2013/03/31/20130330dog00m200041000c....

 さて、浜田省吾がコンサートツアーを準備していた2011年の春、東日本大震災が起きた。
 そのような事実があったことを、9月7日のNHK-BSで知った。
 そして、そのコンサートの内容が、たんなる慰問やチャリティーでなかったことも知った。

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「悲しみと喪失感、そして、張り詰めた緊張感の中で行われた、このコンサートツアーはミュージシャンにとっても、ツアースタッフにとっても、特別な旅になりました」と述べている。
「ON THE ROAD 2011 “The Last Weekend”」は震災から1ヶ月後の4月16日に静岡で始まります。震災直後、日本中が音楽活動も含めて自粛ムードだったことを考えると、浜田さんの行動は迅速でした。そこには、活動を止めることによって、関係者の仕事を止めてはならない。ライブを続けていけば、チャリティーライブなどを通じて、被災地を支援することが出来るはずだという浜田さんの強い思いがありました。
 そんな強い思いから始まったツアーの初日、思わぬファンの反応が待っていました。

 本書のタイトルにもなっている曲、「僕と彼女と週末と」の歌詞には、こんな一節があります。

 恐れを知らぬ 自惚れた人は
  宇宙の力を 悪魔に変えた

また、今回のライブで歌われた「A NEW STYLE WAR」という曲には、こんな一節があります。

 ひび割れた nuclear power
  雨に溶け 風に乗って

 「宇宙の力」とは、原子力の比喩です。2011年4月といえば原発の問題が大きく取り上げられていた時期でした。したがって、ライブで「僕と彼女と週末と」や「A NEW STYLE WAR」の演奏を聴いたファンは、歌詞の世界で歌われているメッセージと現実があまりに近すぎるあまり、メッセージを重く受け止め、演奏が終わった後なんとも言えない重いリアクションを返します。

 東日本大震災の後、ミュージシャンはどうするべきなのか。どのようにツアーを進めていくべきなのか。浜田省吾さんを中心としたツアーメンバーおよびスタッフは、こうした重たい現実の中を一歩一歩確実に歩みを進めていきます。神戸で行われたチャリティーライブ、震災以前から活動していた「J.S.Foundation」という基金による活動などの復興支援活動にも取り組んでいきます
http://www.nishi19-bn.com/hamada_lastweekend/
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 震災・原発に踏み込んだ浜田省吾のツアー中のブログの言葉が、見事である。

◆楽しいこと、嬉しいこと、幸せな気持ちは分かち合うことが出来る。
一緒に笑ったり、ふざけたり、はしゃいだり、愉快な時間を共に過ごせる。
しかし、苦しみや悲しみはを共有するのは難しい。
難しいどころか、出来ないといった方が、いいのかもしれない。
痛みを想像することは出来る。けれど、苦しみや悲しみに同化することは出来ない。
時には、それが自分の身に起きたことではないことに安堵しその気持ちに気付き、負い目を感じ、罪悪感を持ってしまう。
慰めや励ましの言葉を口にしようとすると、その空しい陳腐な響きに気付き、黙り込んでしまう。
その沈黙の中で、幾つもの夜が明けてゆく。
http://blogs.yahoo.co.jp/bluesky18bluesky/folder/16669.ht...

・・・浜田省吾の述べる「罪悪感」については、芥川賞候補になったいとうせいこう氏の『想像ラジオ』とよく似ていた。
 もっと言えば、浜田省吾の言葉の中に「想像」という言葉がある。
 8月末に入手し、9月8日に読了した『想像ラジオ』の中に、震災ボランティアに関わった人たちの言い合いの場面がある。P64~72
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 「俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。亡くなった人への慰めの気持ちが大事なのはよくわかるんですけど、それは本当の家族や地域の人たちが毎日やってるってことは体育館でも仮設住宅でもいくらでも見てきたじゃないですか。段ボールで位牌作ってでも、皆さんは鎮魂をしています。
 その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きている人の手伝いが出来ればいいんだと思います。」

 「行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや怖ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか。」

 「いくら耳を傾けようとしたって、溺れて水に巻かれて胸をかきむしって海水を飲んで亡くなった人の苦しみは絶対に絶対に、生きている僕らには理解出来ない。聴こえるなんて考えるなんてとんでもない思い上がりだし、何か聴こえたところで生きる望みを失う瞬間の本当の恐ろしさ、悲しさなんか絶対にわかるわけがない。」
===========================

 「想像ラジオ」に批判的な書評もあるが、私は単純に良い作品だと思う。

 「あまちゃん」
、「浜田省吾」
 「想像ラジ
 
は、臆せずに「震災」や「被災者の感情」に踏み込んだ点で、よく似ている(もちろん、他にもあるだろう)。

 批判を恐れていたら、どれも実現できなかっただろう。
 現実から目をそむけても、事態は改善しない。
 ある程度の残酷さを含んでいたとしても、我々は震災を風化させるわけにはいかない。想像を止めるわけにはいかない。
 まさに
 
◆『愛の反対は憎しみではなく無関心です(マザー・テレサ)』◆ 
なのだ。

 9月になって「あまちゃん」「浜田省吾」「想像ラジオ」の3つが重なった。
 「全ての偶然は必然」であるならば、何かの縁だと思い、自分なりのアクション(授業化)につなげたいと思う。

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「ぼくは川」「われは草なり」を、どう読むか?

「ぼくは川」(小4光村)という詩がある。

「ぼくは川」 坂田寛夫

じわじわ広がり
背を伸ばし
土と砂とをうるおして
くねって うねって ほとばしり
とまれと言っても もうとまらない
ぼくは川
真っ赤な月にのたうったり
砂漠の中に渇いたり
それでも雲の影うかべ
さかなのうろこを光らせて
あたらしい日へほとばしる


 1行目と2行目が分かれているので、七五調が把握しづらい。
 それは、それとして、問題は話者だ。
  話者は「川」。
 では、この「話者は川」というのは、次のABのどちらなのか・

A:「川」そのものが話者である。

B:「川」のつもりになった人間が話者である。
  「川」にあこがれた話者が、川へのあこがれを描いている。

 同じことを以前「我は草なり」でも考えたことがある。
======================
September 05, 2011

「われは草なり」の教材解釈

 サークル例会で「われは草なり」(高見順)の模擬授業があった。

われは草なり  伸びんとす        
伸びられぬ日は 伸びぬなり       
伸びられる日は 伸びるなり

と続く詩。

 話者は誰ですか?  「われ」です。
「われ」とは誰のことですか?  「草」です。

ということで、話者=われ=草 ということで模擬授業が進んでいった。

 「われは草なり」だから「わがはいは猫である」
と同じように「話者=われ=草」と考えて、草の一人語りのように考えている。

 しかし、自分は、文語調の力強さから、「われ=草」ではなく、「われ=人間」としてとらえた。
 自分も草のように生きていきたい、という「雑草魂」のような願いを込めた詩、話者は、草の生き方に憧れる「われ」という人物だと読んだ。

 だから、例会後、WEBで「話者=われ=草」とだけ書かれた実践を読んで疑問を感じた。
 ただし、松藤司先生のサイトは 
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tukasamt/warehakusanari.htm 

◆発問5 この詩は何かを草にたとえています。何を草にたとえているのですか。
   自分、人間、若者

という問いがあるから、「われ=人間」という解釈を前提に進んでいる。

 文芸研の解説も検索できた。
http://www5.synapse.ne.jp/heart/riron-jissen/5nen.html#se...
に文芸研の「教材の見方」が付いている。

7 われは草なり  (高見順)
◆ありふれた草に寄せる人生
 高見順という人の詩は、人生論的、哲学的な詩が多いのです。この詩もそういう系列の詩と言っても良いと思います。
 〈われは草なり〉――草自身が「われは草なり」と言っていると取ってもいいけれど、人間である我々が、自分を草になぞらえて、「われは草なり」と、一種の比喩として歌っていると見てもさしつかえありません。
 〈われは草なり/伸びんとす〉というように、全体を通して、七・五という調べで、二行ずつくり返しています。七・五調で、しかも文語調ですから、非常に整った形をもった、格調ある詩ということが言えると思います。そして、草というものを題材として、ありふれた平凡なもののもつ美しさとか、情緒とか、すばらしさとか、そういうものを誇らかに歌いあげた詩と言ってもいい。

・・・ 草自身でもいいけど、人間が草になぞらえていると見てもいい、という両論併記の立場である。

 「みたい・のようだ」という表記のない比喩は、「男はオオカミだ」「君は僕の太陽だ」みたいなタイプで「暗喩」。
 草が人間のように語っていると捉えたら、それは「直喩」であり「擬人法」である。
=======================

 また、新川和江の「わたしを束ねないで」では、各連で「わたしは○○」と歌っている。
 
 わたしを束ねないで/あらせいとうの花のように/
 白い葱のように/ 束ねないでください 
 わたしは稲穂
 秋 大地が胸を焦がす/ 見渡すかぎりの金色の稲穂

 わたしを止めないで/標本箱の昆虫のように/
 高原からきた絵葉書のように/ 止めないでください
 わたしは羽撃き
 こやみなく空のひろさをかいさぐっている/ 目には見えないつばさの音
 (以下略)

・・・あたりまえだが、これは「話者が○○」という意味ではない。
「わたしは稲穂」「わたしは羽ばたき」という表現は、そうなりたい・そうありたいという気持ちの現れである。

 「私は○○」という表現は、「吾輩は猫である」や『のはらうた』の「おれはかまきり」が特例であって、通例は「なりたいものへの憧れ」として表現されるのではないだろうか、というのが実感である。

 「ぼくは川」
 「われは草なり」

 いずれも、「なりたいものへの憧れ」で読むべきだと思う。
 それは、先のダイアリーに重ねて書くと、
 
 表の意味は「川」「草」になりきった詩
 裏の意味は「川」「草」になりたい作者の思い

ということになる。

参考:TOSSランドに「ぼくは川」の太田雅之先生の指導例がある。
話者を大人か子どもかと問うのは、どういう意図なのか、ちょっと分からなかった。

http://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/17403
【授業の流れ】
1.音読
2.視写
3.詩の設定を押さえる。
 ①話者は誰ですか。
 ②大人ですか。子供ですか。
 ③ぼくはどんな性格だと思いますか。
4.イメージをもたせる。
 ①ぼくはどんな様子で進んでいますか。
 ②ぼくから見えるものは何ですか。
5.作品の中心を考えさせる。
 ①ぼくが一番言いたいのはどの部分ですか。
 ②ほとばしろうとするぼくを邪魔している部分があります。どこですか。
 ③「真っ赤な月」「砂漠」という言葉からどのようなことをイメージしますか。
6.詩のリズムに気付かせる。
 ①詩の中でおかしなところが一か所あります。どこですか。
7.それぞれの読み方で朗読させる。
8.感想を書かせる。

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