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September 15, 2013

「ぼくは川」「われは草なり」を、どう読むか?

「ぼくは川」(小4光村)という詩がある。

「ぼくは川」 坂田寛夫

じわじわ広がり
背を伸ばし
土と砂とをうるおして
くねって うねって ほとばしり
とまれと言っても もうとまらない
ぼくは川
真っ赤な月にのたうったり
砂漠の中に渇いたり
それでも雲の影うかべ
さかなのうろこを光らせて
あたらしい日へほとばしる


 1行目と2行目が分かれているので、七五調が把握しづらい。
 それは、それとして、問題は話者だ。
  話者は「川」。
 では、この「話者は川」というのは、次のABのどちらなのか・

A:「川」そのものが話者である。

B:「川」のつもりになった人間が話者である。
  「川」にあこがれた話者が、川へのあこがれを描いている。

 同じことを以前「我は草なり」でも考えたことがある。
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September 05, 2011

「われは草なり」の教材解釈

 サークル例会で「われは草なり」(高見順)の模擬授業があった。

われは草なり  伸びんとす        
伸びられぬ日は 伸びぬなり       
伸びられる日は 伸びるなり

と続く詩。

 話者は誰ですか?  「われ」です。
「われ」とは誰のことですか?  「草」です。

ということで、話者=われ=草 ということで模擬授業が進んでいった。

 「われは草なり」だから「わがはいは猫である」
と同じように「話者=われ=草」と考えて、草の一人語りのように考えている。

 しかし、自分は、文語調の力強さから、「われ=草」ではなく、「われ=人間」としてとらえた。
 自分も草のように生きていきたい、という「雑草魂」のような願いを込めた詩、話者は、草の生き方に憧れる「われ」という人物だと読んだ。

 だから、例会後、WEBで「話者=われ=草」とだけ書かれた実践を読んで疑問を感じた。
 ただし、松藤司先生のサイトは 
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tukasamt/warehakusanari.htm 

◆発問5 この詩は何かを草にたとえています。何を草にたとえているのですか。
   自分、人間、若者

という問いがあるから、「われ=人間」という解釈を前提に進んでいる。

 文芸研の解説も検索できた。
http://www5.synapse.ne.jp/heart/riron-jissen/5nen.html#se...
に文芸研の「教材の見方」が付いている。

7 われは草なり  (高見順)
◆ありふれた草に寄せる人生
 高見順という人の詩は、人生論的、哲学的な詩が多いのです。この詩もそういう系列の詩と言っても良いと思います。
 〈われは草なり〉――草自身が「われは草なり」と言っていると取ってもいいけれど、人間である我々が、自分を草になぞらえて、「われは草なり」と、一種の比喩として歌っていると見てもさしつかえありません。
 〈われは草なり/伸びんとす〉というように、全体を通して、七・五という調べで、二行ずつくり返しています。七・五調で、しかも文語調ですから、非常に整った形をもった、格調ある詩ということが言えると思います。そして、草というものを題材として、ありふれた平凡なもののもつ美しさとか、情緒とか、すばらしさとか、そういうものを誇らかに歌いあげた詩と言ってもいい。

・・・ 草自身でもいいけど、人間が草になぞらえていると見てもいい、という両論併記の立場である。

 「みたい・のようだ」という表記のない比喩は、「男はオオカミだ」「君は僕の太陽だ」みたいなタイプで「暗喩」。
 草が人間のように語っていると捉えたら、それは「直喩」であり「擬人法」である。
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 また、新川和江の「わたしを束ねないで」では、各連で「わたしは○○」と歌っている。
 
 わたしを束ねないで/あらせいとうの花のように/
 白い葱のように/ 束ねないでください 
 わたしは稲穂
 秋 大地が胸を焦がす/ 見渡すかぎりの金色の稲穂

 わたしを止めないで/標本箱の昆虫のように/
 高原からきた絵葉書のように/ 止めないでください
 わたしは羽撃き
 こやみなく空のひろさをかいさぐっている/ 目には見えないつばさの音
 (以下略)

・・・あたりまえだが、これは「話者が○○」という意味ではない。
「わたしは稲穂」「わたしは羽ばたき」という表現は、そうなりたい・そうありたいという気持ちの現れである。

 「私は○○」という表現は、「吾輩は猫である」や『のはらうた』の「おれはかまきり」が特例であって、通例は「なりたいものへの憧れ」として表現されるのではないだろうか、というのが実感である。

 「ぼくは川」
 「われは草なり」

 いずれも、「なりたいものへの憧れ」で読むべきだと思う。
 それは、先のダイアリーに重ねて書くと、
 
 表の意味は「川」「草」になりきった詩
 裏の意味は「川」「草」になりたい作者の思い

ということになる。

参考:TOSSランドに「ぼくは川」の太田雅之先生の指導例がある。
話者を大人か子どもかと問うのは、どういう意図なのか、ちょっと分からなかった。

http://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/17403
【授業の流れ】
1.音読
2.視写
3.詩の設定を押さえる。
 ①話者は誰ですか。
 ②大人ですか。子供ですか。
 ③ぼくはどんな性格だと思いますか。
4.イメージをもたせる。
 ①ぼくはどんな様子で進んでいますか。
 ②ぼくから見えるものは何ですか。
5.作品の中心を考えさせる。
 ①ぼくが一番言いたいのはどの部分ですか。
 ②ほとばしろうとするぼくを邪魔している部分があります。どこですか。
 ③「真っ赤な月」「砂漠」という言葉からどのようなことをイメージしますか。
6.詩のリズムに気付かせる。
 ①詩の中でおかしなところが一か所あります。どこですか。
7.それぞれの読み方で朗読させる。
8.感想を書かせる。

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