事実と意見の区別は難しい
市の教研レポート「読み手を意識した文章を書くことができる児童の育成」(国語)を見せてもらった。
「事実と意見・感想との違いを意識しながら文章を書く」の指導場面がある。
事実と意見の区別に対する批判は、宇佐美寛氏が述べている。
(原典が出てこないので、孫引きで代用します)。
http://d.hatena.ne.jp/kogo/20060307/p1
たとえば、「事実と意見を区別して書く」という指導法はカテゴリー間違いであって、迷信であるという。
事実の反対は非事実であって、意見ではない。事実について述べればそれが意見になる。
書かれたものはすべてが作者の意見なのである、と。
だから、「……と思う」や「……ではなかろうか」という文体は意味がない。逆にすべてを断定したほうがいい(意見なのだから)。
断定すれば、文と文の飛躍が気になるから、その間に一文入れようという気になってくる。
書くとはそういうことなのだ。
・・・レポート提案者の「研究のまとめ」の一文についてコメントした。次の一文だ。
◆実践を進めることで、文章を書くことの抵抗感が次第に薄れ、自分の意見や考えを進んで書くことができるようになってきた。
「このまとめは『事実』ですか?」と尋ねると、提案者は迷いなく「事実です」と答えた。むしろ、その迷いのなさに、こちらが驚いたくらいだ。
①証拠がないので、これだけでは事実かどうか分からない。
②この記述の裏付けるデータが必要である。
③実践前に、どのような成果が出たらOKとするのかの基準をもっていないと指導の成果は評価できない
といった点を指摘した。
「書くことの抵抗感が薄れ」たとはどのような状態のことか
「進んで書くことができる」とはどのような状態のことか
そのような定義がないと、評価しようがない。
そんなことを、コメントしながら疑問をもった。
「文章を書くことの抵抗感が次第に薄れ」「進んで書くことができるようになってきた」を事実と言い切れるようなデータって、そもそも揃えられるのか。
いくら、ある程度のデータがあったとしても、しょせんは授業者の主観にすぎず、意見でしかありえない。
宇佐美氏の言うように「書かれたものはすべてが作者の意見なのである」。
ただしデータの報告・数値の提示だけなら、事実と言い切れる。
うーん、自分自身、まだまだ理解不十分なのだと実感した。
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