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November 30, 2013

日本人の金融教育(2)無尽講

 「モーニング」52号の「インベスターZ」で、日本の金融教育がさらにわかった。
 「講・お伊勢講」は聞いたことがあったが、「無尽講」は初耳だった。

 今週号によれば

①日本は13世紀から700年も「無尽」をやっている。
②もともとは災害や病人の救済が目的だったが、だんだん事業振興支援的な役割
③現在の地方銀行や信用金庫には「無尽」を起源とする金融機関も少なくない
④庶民は日本固有の金融システム「無尽」で投資家として地場の産業を支えて経済を動かしていた
⑤元々日本には投資的要素を持った仕組みが庶民の生活の中に組み込まれていて、日本人は日頃から投資を意識した生活を送ってきた
⑥日本人は投資に向かないイメージありましたけど、ただの思い込みだったんですね。

一方、戦時中は戦費調達のために貯蓄を奨励し強制した。その資金は軍需産業に融資された。
昭和13年「国民貯蓄奨励局」
昭和16年「国民貯蓄組合法」
そして大量発行した国債は紙くずになった。

戦後は郵便局が集金マシーンとなり、その資金が公共事業やインフラ整備に使われ、戦後の復興を遂げた。
その後、国民はお金は金融機関に預けるものという修正が染み着いてしまった。
日本人は投資に向いていないと自分勝手に思い込んでいる。

という主張である。

ネットで検索してみると

http://www.suisovie.co.jp/mla%EF%BC%88%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%88%EF%BC%89/%E6%B3%95%E5%BE%8B%E3%83%BB%E6%95%99%E9%A4%8A%E7%B7%A8/%E7%84%A1%E5%B0%BD%E8%AC%9B%EF%BC%88%E3%82%80%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%86%EF%BC%89/

◆日本が誇ってきた「相互扶助」というシステム
そもそも、大惨事であれば寄付行為は行われます。しかし、実際のところ、庶民の日常ではこうした大きな災害は想定外のことです。
むしろ困るのは、年の瀬にツケを払うお金がないとか、突発的な冠婚葬祭でお金がないなどのわずかな金銭の不足です。こうした日常の金銭問題を、庶民は「無尽講(むじんこう)」とか「頼母子講(たのもしこう)」という内輪だけの金銭融通で対処してきました。

◆こうして、昭和26年(1951)に相互銀行が誕生したのでした。

◆この時、政府は、本来の助け合い目的の講は禁止していません。そのことにより、今でも“講”自体が残っている地方もあります。会津では現在も無尽講が盛んだそうです。

ウイキペディアによると、
◆無尽は、貞永式目追加法にも記述があり、鎌倉時代に登場したといわれる。庶民の相互扶助として始まったものだと考えられる。江戸時代になると、身分や地域に問わず大衆的な金融手段として確立し、大規模化していく講も存在するようになった。

・・・なるほどねえ、もう少し調べてみたいな。

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November 26, 2013

思考タイプと感情タイプ

 『実践障害児教育』12月号に、思考タイプと感情タイプについての記述があった。、

 「”保護者と信頼関係を築けないストレス”への対応」(高山恵子)

 人との信頼関係を築く上で重要なこととして「思考タイプ」と「感情タイプ」について考えてみよう、とある。
 
 自分の責任でまとめてみた。

【思考タイプ】・・・客観的・論理的に判断するタイプ
○ 相談事については、きちんと理論に基づいて解決し、納得することで安定する。
× 「大変だったね」「よくがんばったね」というねぎらいだけでは、どうしたらよいかわからないので「この先生はあてにならない」と思われてしまうことがある。

→ 保護者の思いに寄り添いながら、問題解決につながるような具体的手だてを示していくことで、信頼が得られる。「説得・納得」がキーワードなので、共感するだけでなく、理論的に説明し、問題解決に導く方がよい。

【感情タイプ】・・・自分の価値観を中心に判断するタイプ
○ 相談事については、「大変だったね」「よくがんばったね」というねぎらいや共感がほしい。
× ねぎらいや共感がほしいところに、問題解決の方法を理論立てて話しても、心安らぐことがないので、教師への信頼感はもちづらい。懸命に話したことも、頭に入っていないかもしれない。

→ 大切なのは「共感」。相手が話したことに「あなたはそう感じるのですね」という対応を繰り返すうちに、相手の心にゆとりができ、あなたの意見を聞いてみようという気持ちになってくる。
「同感」するには、似たような体験や意見が必要だが、「共感」の場合は、それぞれの感じ方は違っていても、ありのままを受け止めることができる。
相手と意見が合わずにストレスを感じるときに役立つのが「共感」。

※教師としては、自分のタイプがどうであれ、相手がどんな対応を望んでいるのかを察知し、その思いに寄り添うことが必要。
※比較的、男性は「思考タイプ」、女性は「感情タイプ」が多いと言われる。両親で意見が食い違っているとき、対父親、対母親でアプローチのしかたを変えるとよい。

・・・夫婦でも、よく話題になるんだよな。
 妻は話を聞いてもらうだけでよいので、夫がうっかりアドバイスするとけんかになるとか言いますよ。
 
 独身教師は特に細心の注意が必要である。
 「子どものを育てたことのないお前なんかにアドバイスされたくない」と保護者に思われてしまったら、アウトだ。
 上から目線にならないように。
 理詰めで追い詰めないように。

 高圧的になると、感情を逆なでして逆効果になる。
 かつては自分もそうだったので、理詰めで言い負かすことの危険がよく分かる。
 私は、「正しいことをは言うな」という表現を聞いてから、少しは気を付けるようになった。

July 19, 2006  「正しいことは言うな」

 中日新聞7月18日付の朝刊に「ひろさちやのほどほど人生論」という連載がある。
 「正しいことは言うな」という逆説的な表現の意味を知って感銘を受けた。
 確かに、教師という仕事上、子どもの失敗を責めることは多い。
 しかし、「どうして、宿題を忘れたんだ」などと相手のミスを責めてみても、その言葉が正しければ正しいほど相手を追い込んでしまうだけだ。
 言われた方は一番聞きたくない言葉を耳にして憎しみさえ、わいてくる。
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 怠けている人間、遅刻した人、それぞれに事情があり、理由があるはずです。
 その事情・理由を斟酌(しんしゃく)することなく正しいことを言う人は、じつは、正義という名の魔類になっているのです。
 仏教では、その正義という名の魔類を阿修羅と呼びます。阿修羅というのは、本来は正義の神であったのですが、自分だけが正義だと思って、他人に対する思いやりがないために、神界から追放されて魔類になった存在です。(後略)
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 「阿修羅」とは、そういう意味だったのか。
 教師は「よかれ」と思って平気で子どもを傷つけることがある。
 正義感を振りかざす鈍感な教師はまさに阿修羅だな。
 何も言わずにじっと相手の話を聞いてあげる行為が「慈悲」なのだとも書いてある。なるほど!

・・・7年前のことを思い出しながら、こうして書いていても、やはり、すぐに理詰めになるし、正しいことを言い続けている。
 まだまだ、自分も教師修行が足らないのだと思う。

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November 24, 2013

村上春樹の書き下ろし小説「ドライブ・マイ・カー 女のいない男たち」

『文藝春秋』12月号に村上春樹の書き下ろし小説が掲載された。

「ドライブ・マイ・カー 女のいない男たち」

見出しには次のようにある。

◆彼女はなぜあの男と関係しなければならなかったのか。
人と恋する苦悩を描く新しいラブ・ストーリー

 書下ろし86枚を読んだ限りでは、彼女(亡き妻)と関係をもった「あの男」は高槻1人だが、いずれ4人とも明らかにされるのかもしれない。
 今後、男たち4人が語る事実を集約すると、主人公がつかめなかった妻の姿が明らかになるというストーリーでは、ちょっと陳腐かな?
 今回の書き下ろしは、あくまで一部であると私は思う。

 さて、「人を恋する苦悩」については、ここはP339に詳細に描かれているが、ネタバレなので引用しない。
 ただし、直接聞けばすっきりするのに、聞けないで苦悩する主人公の姿というのは、前作「色彩を~」とよく似ている。

 主人公の家服は、運転手の渡利みさきとの会話の中で、自分の進むべき道を示唆される(あるいは自己決定する)
 具体的には、次の箇所だ。

 「そういうのって病のようなものなんです。家福さん。考えたってどうなるものでもありません。私の父が私たちを捨てていったのも、母親が私をとことん痛めつけたのも、みんな病がやったことです。頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです。」
 「そして僕らはみんな演技する」と家福は言った。
 「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」

 見事な会話だ。クライマックスシーンだと思う。
 運転手渡利みさきが、主人公に決定的なアドバイスを与える。
 「頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」が作者の第一の主張なら、主張を担っているのは、主人公の家福ではなく、対役の渡利みさきである。
 「僕らはみんな演技する」が作者の第一の主張なら、主張を担っているのは、主人公の家福である。彼が「役者」である必然性もここにある。
 渡利は決して美人ではなく、恋人という存在にはなりにくい。しかし、亡くなった家福夫妻の子が生きていたら同い年だという設定は、恋人以上に深い意味がある(自分の娘と同い年の女性にそこまで赤裸々に夫婦の事情を話すのは少し無理があるかも)。

 会話によって主人公は癒され、進むべき道を示唆を受ける。
 「主人公と女性との安らぎの会話」というのは、村上春樹氏の定番だが、それだけに心地よさがあった。

 ところで、11月21日の中日新聞夕刊「大波小波」で、この小説について述べられている。

(前略)題名は「ノルウエイの森」のようにビートルズの曲名。素材は社会で成功したが孤独な中年男と利発で意志的な若い女性、病気で死んだ妻など、いつもの村上ワールド。死と喪失、仮面と本当の自分探しといったテーマも同様。だが、いつもとは一味異なり、魂のより深い所へ降りて行こうとする手探りを感じたのは筆者だけであろうか。

・・・これ以上の引用はしないが、さすが評論家のまとめ方はさすがである。
 ただし、「いつもとは一味異なり、魂のより深いところへ降りていこうとする手探り」については、そこまで「いつも」の理解が足りないのでノーコメント。

 この話の続きを期待することを書いた。「ええ、もう終わり?」「もっと読みたい」と思った。
 でも読者への余韻を残し、この先の展開を読者にゆだねるなら、「これで終わり」というパターンもありかもと、今は思う。 

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日本人の金融教育

 モーニング」51号(2013/11/21号)の「インベスターZ](三田紀房)は、興味深かった。
 日本人は決して投資に弱くない根拠として、つぎのような説明があった。

◆日本の子どもは、一定のお小遣いをもらい、計画的に使っている。
◆遠足のおやつ代なども限られた金額の中で、やりくりする機会になっている。
◆日本の子どもは、自分の意志で、気に入った漫画本や文具・お菓子などを購入しているが、これは「投資」と同じだ。
◆江戸時代の商い取引でも、世界に先駆けて「先物取引」が行われていた。

 「子どもに月額のような形でおこづかいを渡す国は、日本以外ほとんどない」

という部分が事実なら、とても面白い(ただしデータがほしい)。
 そのような日本人の投資の意識をスポイルしたのが太平洋戦争の国策だったと話は次回に続く。
 戦後生まれの我々はスポイルされているので、「投資はバクチ」「素人は株には手を出すな」という意識が強いのかもしれない。
 ちなみに、うちのおじいちゃんは満州関連の投資で財産をすっからかんにしたと聞いている。

 消費者教育・金融教育というとモノモノしいが、消費と投資は、よく似ているという発想はなかった。
 なるほど、本校の修学旅行のしおりにもおこづかいの出納簿のページがあり、きちんと記入させている。
 自分の気に入った商品を購入する行為と、自分の気に入った企業に投資する行為はよく似ている。
 社会科の授業で、株売買のシュミレーションを行う事例もよく聞く。
 情報に敏感になり、自分の発想と柔らかくし、自分の行動力も高めていかないといけないなあ(投資なんてしたことないんだけど・・・)。

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November 03, 2013

「終戦のエンペラー」 + 「日本人はいつ日本が好きになったのか」

Hirohito_3

この夏「終戦のエンペラー」を観た。ストーリーは以下の通り。

◆『終戦のエンペラー』(7月27日日本公開)は、第二次世界大戦敗戦直後の日本が舞台となるハリウッド映画です。
GHQ最高司令官のマッカーサーは、昭和天皇を戦争犯罪人として処分するべきか否かについて決めかね、彼の部下、ボナー・フェラーズ准将にある調査を極秘で依頼します。
それは、戦争中の政府の重要人物を調べ、真の戦争責任者は誰かを突きとめるという特命だった・・・というストーリーです。

http://www.huffingtonpost.jp/rochelle-kopp/post_5281_b_3657353.html

全くの予習もなく観たので、十分理解できなかった。
その後も、しっかり復習することもなかったので、この映画の値打ちも分からなかった。

http://www.emperor-movie.jp/

今、この映画の予告を観ると、よく分かる。
なるほど、終戦当時の状況を丁寧に誠実に描写していると思う。
フィクションとしての恋愛話が挿入されているのは、むしろ余分だったという印象は、上記のサイトでも書かれている。
◆残念だったのは、脚本家が映画をフェラーズ准将と日本人の恋人アヤの「ハリウッド風ロマンス仕立て」にしてしまったことです。

さて、復習してみて、改めて、「マッカーサーと天皇の会見」が歴史的な一日だったのだということが分かった。
この映画に関する田原総一郎のコメントの一部(一部改行)。

◆日本が無条件降伏をして、マッカーサー最高司令官のアメリカ軍が日本に乗り込んで来る、ここから映画ははじまる。
マッカーサーの任務は日本を占領することである。さらにいえば、占領という名の国家管理を行なって、日本を民主主義国として独立させることだ。
マッカーサーは、そのために、まず戦争責任者たちを逮捕して連合国の裁判で裁かなければならない。
その戦犯裁判に昭和天皇をかけるべきかどうか。
マッカーサーは、ボナー・フェラーズ准将に、その調査を命じる。
そしてフェラーズが、東条英機、近衛文麿、木戸幸一たちキーパーソンに直接あたって、天皇の戦争責任を問い、裁判にかけるべきかどうかを確かめる。
これがこの映画のテーマでありストーリーである。
たしかに日本ではとても映画化出来そうにはない。いわばタブーである。げんに、これまでにこのような映画を企画した日本人はいない。
フェラーズはキーパーソンたちを調べてまわり、結局、昭和天皇は裁判にかけず、天皇制も続けるべきだと考える
。日本人がいかに天皇に深い思いを抱いているかを知り、天皇なしでは日本が大混乱して占領政策がまっとう出来ないと判断したからだ。
フェラーズのこうした意思を知り、マッカーサーは、自分が天皇と直接会って話して決断することにした。
そして昭和天皇とマッカーサーの、あまりにも有名な場面が映画でも展開されることになる。これが、この映画のクライマックスでもある。

http://www.huffingtonpost.jp/soichiro-tahara/post_5310_b_3674394.html

・・・映画の中では、戦争責任を問うGHQに対して、関係者は非協力的で、観ている私まで苛立ってきた。それだけに天皇の処刑に踏み切らなかったマッカーサーの英断は「薄氷」だったなだと改めて知った。マッカーサーには、次期大統領選出馬の功績を狙っていたようだ。それも日本には見方したということか。

「そして昭和天皇とマッカーサーの、あまりにも有名な場面が映画でも展開されることになる。
これが、この映画のクライマックスでもある。」

と言われると、その「あまりにも有名な場面」「歴史的な一日」を知らなかったこと、知らずに映画を観たことに恥じ入るばかりである。
ただし、さすがに、ここがこの映画のクラマックスであることは実感できた。
昭和天皇が姿を見せるシーンは、映画の中であるとはいえ、実に厳かであった。

◆歴史好きの人であれば、これだけ忠実に再現された終戦後の日本、そしてマッカーサーと昭和天皇の歴史的な会見(この記事の冒頭の写真)が見られるチャンス逃すわけにいきません!

とあるが、歴史好きの人でない人にこそ、戦後の日本を運命づけた「歴史的な1日」を扱った貴重なこの映画を見てほしいが、今後はDVDを待つことになるだろう。

さて、このように今になって「終末のエンペラー」を振り返ろうと思ったのは、竹田恒泰氏の『日本人はいつ日本を好きになったのか』(PHP新書)を読んだからだ。

「マッカーサー元帥が書き残した感動」の項目を、敬意を込めて一部視写する。

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◆マッカーサー元帥の判断に大きな影響を与えたのは、なんといっても昭和天皇と対面を果たしたときの衝撃だったと思われる。
昭和天皇が初めて米国大使館にマッカーサー元帥を御訪問になった九月二十七日の午前中のことだった。このとき昭和天皇と元帥がどのような会話を交わしたか、いまだ公式な発表はないが、元帥の著した「マッカーサー回想記」(朝日新聞社)や、関係者の手記などからその一端を知ることができる。
 元帥は当初、天皇は戦争犯罪者として起訴されないよう、命乞いをしに来るのではないかと考えていたようだ。しかし、元帥の回想によると昭和天皇は、政治と軍事の画面での全ての決定と行動に対する全責任は御話しになったという。元帥はこれに感動し、次のように記している。

「死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本も最上の紳士であることを感じ取った」(「マッカッサ―の回想記」)

 また、マッカーサーの副官で、専任の通訳だったフォービアン・パワーズは、御引見の直後に元帥から聞いたとして、御引見時の昭和天皇の御言葉を次のように伝えている。

「すべての事は私の名のもとになされたから私が全責任をとる。だから、東郷や東篠や重光らを罰さずに、私を罰せよ」(小堀桂一郎『昭和天皇』PHP新書)

 また、当時、侍従長を務め、御会見の準備に当たり、米国大使館まで同伴した藤田尚徳は、備忘録に昭和天皇の御言葉について次のように書き残している。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するから、ところだ彼らに責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお任せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」(藤田尚徳「侍従長の回想」講談社)

そして、昭和天皇に随伴した通訳・奥村勝蔵も、天皇のお言葉を書き留めている。

「今回の戦争の責任は全く自分にあるものですから、自分に対してどのような処置をとられてに異存はない。次に戦争の結果 現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪もない国民に多数の餓死者が出る死するおそれがあるから、米国に是非食料援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券をまとめて持参したので、その費用の一部にあてて頂ければ仕合せである」(前掲『昭和天皇』)

 昭和天皇はこのようにおっしゃると、大きな風呂敷包みを差し出した。このとき元帥は、立ち上がって昭和天皇のところに行き、握手をして、「私は初めて神の如き帝王を見た」と述べたという。また、マッカーサーの返答についても次のように記録されている。

「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願いしたい」(前掲『侍従長の回想』)
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・・・竹田氏は、連合国が日本を占領した最終的な目的を「日本を精神的に武装解除させること、すなわち、日本人を精神的に骨抜きにすることである」(p41)と述べている。
 天皇処刑の声も大きかった当時のアメリカの風潮に反して、天皇の存続を決定したことの意義は大きい。「復讐の為の復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発されることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある」としても、鎮圧・弾圧するだけの力は有していたはずだ。
 それは、「神の如き帝王」と感じさせた天皇の振る舞いや言動によるものだったということだ。

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