「無師独悟」~慢心したら成長は止まる~
30年も昔から、教育実践についても「守・破・離」がよく言われてきた。
法則化運動の追試実践が「猿まね」と批判される中で、誰もが、少しでも早く「破・離」の段階を目指した。
しかし、30年近く経って改めて思うが、「破・離」などは、本当は雲の彼方の行為であった。
正直なところ、今なお発見の連続で、「守」すらゾンザイデあったと言わざるをえない。
軽々しく「破・離」など実現できるものではなかったのだ。
教師修行には果てがないが、むろん「人生修業」も同じである。
今なお、知らないことの多さに唖然としてしまう。
さて、禅寺の僧侶が共同生活をしながら修行することを「叢林」と呼ぶそうだ。
以下の言葉は重い。
◆弟子が師匠の言うことなど気にしないというならば、師匠についている意味はない。先輩の言うことを聞きたくないというならば、叢林である意味もない。そういう者は独りで山に入ればいい。
しかし独りの修行は、大変危険である。共同生活をしなければ、すべて自分の思い通りになるが、肝心の自分の姿は一切見えない。人の目は、鏡の役割をしているのである。叢林はお互いが切磋琢磨する場なのだ。自分独りでは、切磋琢磨のしようがない。
(「日本人に『宗教』は要らない」ネルケ無方(ベスト新書)P186)
・・・教師修行にも通じる指摘である。
しかし、サークルやセミナーの場が「叢林」の役割を果たさなくては意味がない。
サークルに批判検討がなく、セミナーに自分自身の積極的な参加がなければ切磋琢磨のしようがない。
◆「無師独悟」という言葉もある。独りで山に登り、何か月か経って悟ったつもりになる人はどの時代にもいた。しかしほとんどの場合、それはエゴが膨れただけで、結局は悟りとはまったく反対の状態である。
「無師独悟」の人はいまもいるが、自惚れ屋で、威張りちらしている。(中略)だから禅宗では、「無師独悟」を戒めているのである。(同署P187)
・・・同書では「不安を感じたほうが健全である」という項目もある。不安な方が注意もするし、何らかの手も打つからだ。
「楽観的に『大丈夫だ』と思っているときほど、危険な状態はない」(P194)とあるが、できたつもりが一番怖いというのは、先の「無師独悟」の危険性と同じである。
かつて私も大学時代の練習日記の表紙に「慢心したら競技生命は終わりである」と書いていたことを思い出す。独りよがりが一番危ない。
セミナーに行くたびに「自己否定」の連続である。
でも「自分は未熟だ」と思い知ることは大事な機会である。
そのような機会を得られたことをラッキーだと思う。
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