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July 26, 2014

東野圭吾 「パラドックス13」

9784062778275

◆13時13分13秒、街から人が消えた。無人の東京に残されたのは境遇も年齢も異なる13人の男女。なぜ彼らが選ばれたのか。大雨と地震に襲われる瓦礫の山と化した街。そして生き抜こうとする人達の共通項が見えてくる。世界が変れば善悪も変る。殺人すらも善となる。極限状態で見えてくる人間の真理とは。◆

・・なぜ彼ら13人が選ばれたのか、ほかの人々はどうなったのか、13人は最後はどうなるのか等々、さまざまな疑問が少しずつ解き明かされていくので、手が止まらない作品だった。
ほとんど一気読み状態だった。
「東野圭吾って、こういう作品も書くんだなあ」と、改めて作者の幅の広さに感服した。

(以下、ネタバレを含みます)

 登場人物の兄・誠哉は強い。彼のリードで仲間は命を繋ぎ止めることができた。
 にもかかわらず、彼は元の世界に戻れなかった。
 一方、もともと兄の道連れにしてパラドックスの世界に迷い込んだ弟の冬樹が、無事に生還を果たす。
 この結末は、順当と考えるべきか、皮肉(アイロニー)と考えるべきか。
 
 個人的な見解は「アイロニー」である。
 
 それは自分が、先を見越した兄の行動に、やむをえないながらも共感していたからだ。
 しかし、作者は兄を元の世界に戻さなかった。
 彼の冷静すぎる判断、彼の「種の保存」の発想は、受け入れられるべきものではなかったという主張なのだろうか。

 映画「ポセイドンアドベンチャー」では、沈没の避難者をリードした神父が、最後に命を落とし生還できなかった。
この神父には死ぬべき理由はなかった。その事例と重ねれば、「最大の功労者が命を落とすこと」で、より悲劇性が強まる効果をもたらしているとも言える。

 本書は、生き残った13人が、1人2人と死んでいく。その死に方がそれぞれ悲しかった。
 アクションやパニックの派手さはないが、人間ドラマとして作品の味わいを高めていた。
逆に言うと、とんでもない状況設定にもかかわらず、人間ドラマを読み味わう小説にしあがっていたということだ。

 とんでもない設定と言えば、楳図かずおの「漂流教室」と重なるところがあった。
 そこで、漫画喫茶に行って、全巻読んできましたよ「漂流教室」。
 比べ読みして、また異なる印象を持つことができた。
 「漂流教室」では、突然、小学校が、砂漠の中に移ってしまう(後に、それはタイムスリップであることが分かる)。
 食料を巡って、生存を巡って、大人と子供の殺し合い、子ども同士の殺し合いも起きる。
 その壮絶さ・悲惨さがと比べると、「パラドックス13」は、パニック小説の醍醐味は薄いことが分かる。
 極限状態における人間の本心の悲惨さは、それほど出てこない。
 ミルクの盗み飲みや、レイプ未遂などはあるが、その程度で押さえられているのだとすれば、作者がパニック状態を描きたかったわけでもないのだと想像できる。
 大雨と地震に襲われる中で、ワインを飲んだり、シャワーを浴びたり、着替えを調達できたりするのだから、よくも悪くも「きれいで、スマートな仕上がり」になっている。

 まあ、そのことを物足りないと文句をつけても仕方ない(自分が書いたわけではないのだから)。

 極限状況(絶望的な状況)の中で、人はいかに生きるべきか・いかに死ぬべきか、どんな死なら受け入れらるか、安楽死・尊厳死もを含め考えさせられた作品だった。
 なお、作品後半で「どうせ死ぬんだから、自分はここに残る」という気持ちになったのは、自分が決して若くないからだ。やり残したことがないわけではないが、先の読めない避難をするだけの気力がない。もっと自分の「生きるパワー」を充電しないといけないかも。

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July 24, 2014

漢字で書けない「不撓不屈」

 地区の中学校陸上大会に審判にでかけた。
 ある中学校の横断幕になっていたのが、「不撓不屈」。
 「薔薇」ほど難しくはないが、すぐに忘れてしまう難しい漢字である。
 勘違いなら「不倒不屈」と書いてしまうところだ。

◆困難にくじけず、苦難にくっせず頑張ること
不撓不屈とは、どんな困難に出合ってもひるまずくじけないことである。
 「不撓」も「不屈」も共にくじけないこと。「撓」とは、くじける。
○類義語
•独立不撓(どくりつふとう)
•百折不撓(ひゃくせつふとう)
○ 対義語 •戦意喪失(せんいそうしつ)

http://blog.livedoor.jp/zayu/archives/50001702.html

しっかり書けるようにしておきたいことばである。

 ところで、この日に見かけた中学生のおそろいの部活Tシャツには、いろんな言葉が書いてあった。

①「二流選手」

は、おごらず謙虚に練習に励めという意味が含まれるのだろう。

②「天才は有限、努力は無限」

と同じグル―プだ。

③「最大の敵は自分自身」

というのは、己の弱さに打ち勝てという意味が含まれるのだろう。この日は見かけなかったが、

④「克己心」

と同じグループだ。

 言葉の力は強い。
 Tシャツに言葉を掲げるというのは、自分を鼓舞することにつながる。
 「有言実行」と同じ効果があるのだろう。

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July 19, 2014

堀田龍也先生のご指導

 春日井市立出川小学校の公開授業研究に、堀田龍也先生が今年も助言者として参加される。
 今年度1回目の研修会が7月2日に、行われた。
 指導助言の最後の言葉が印象的だった。

①「教える」場面での教師の話し過ぎ
②「考えさせる」場面でのつっこみ不足
③広い視野での教材研究  
   

①「教える場面」で、
 ・教師がしゃべりすぎない。
 ・やたら説明しない。
 ・「入れ食い」みたいに、子どもから出た正解に飛びつかない。
というような意味合いだ。
 「教師の一方的な説明で教えた気になるな」と自分にも、いつも言い聞かせているが、まだまだだ。

 「教えた」と「伝えた」は、まさに別次元なのである。

②「考えさせる」場面で、
 ・「本当にそうかな」
 ・「それだけかな」
 ・「○○の場合はどうなんだろう」
と問うのが「つっこみ」。
 きちんと立ち止まり、安易に次へ進まないための、「つっこみ」の基本が「良質な発問」である。
 (「ゆさぶり」も、「つっこみ」の1つだ。)

 最近、活動型の授業が優先され、「発問の吟味」がされなくなった。
 今回の公開授業も、「めあて」はあるが、主発問で盛り上がる授業は見られなかった。
 「わかった」と「わかったつもり」は別次元である。
 質のよい発問が、子どもの思考を活性化させることを肝に銘じたい。
 
③広い視野での教材研究は、
 この教科で、
 この単元で、
 この1時間の授業で、
何を学ばせたいかを明確にせよ、というような意味でもある。
 各教科の6年間・9年間の系統性を自覚して、授業に臨んでいるかが、問われている。


 さて、この「広い視野での教材研究」が不足していると
①のように、教師が説明で教え込もうとしてしまう。
②のように、「ここぞ」という場面での突っ込みが不足してしまう。

 やはり、大事なのは「授業準備」である。
 授業準備が足りないと、、説明で押し切ろうとする。
 教具の工夫もなく、鋭い発問(つっこみ)で、思考に迫ることもない。
 教科書1冊、チョーク1本の授業で押し切ろうとする。
   
 教師の授業準備が雑になり、子どもも我慢ができなくなれば、荒れは目に見えている。
 そのような授業にならないよう、日々、研さんに努めたい。

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型を学ぶ~華道と教師道~

 先週、何となく「先輩ROCK YOU」という番組を見た(途中から)。
 ゲストは、華道の未生流笹岡、笹岡隆甫氏であった。
http://www.ntv.co.jp/rockyou/kokoro/2014/07/712.html

※ 「華道笹岡の論理的で緻密な計算」
※ 「華道にまさかあんな方程式があったとは...!」
※「江戸時代から受け継がれてきた花を美しくみせる黄金比率」
などとあるが、これは、直角三角形の比率のことだ。

 笹岡さんのHP「未生流笹岡」で探ってみる。

http://www.kadou.net/learn/index.html

◆江戸時代後期(19世紀の初め)、未生流の始祖、未生斎一甫が庶民のためのいけばなとして「生花(せいか)」を考案します。
ー中略ー
生花は、三角形に納まります。体の先と、用の先と、足下の3点を結ぶと、直角二等辺三角形になります(用の先が直角の頂点です)。

・・・型があるから、誰でも習得できる。
そのこともHPに書いてある。

◆当流では、寸法が定められており、その寸法に従って切れば誰もがほぼ美しい花姿に調えることができます。
「私、不器用だから…」と心配される方が多いのですが、この寸法があれば大丈夫。 誰にでもきれいにいけあげることができます。そのために先生がいるのです。

◆未生流笹岡に入門すると、先人が考案したいけばなの設計図「型」に、花枝の長さや配置・角度を書き添えた図面「寸法表」を手渡されます。この図面の通りに花を組み立てていけば、初心者でも、美しい花姿に整えることができます。
寸法表を用いた理論的な教授方法は、未生流笹岡の大きな魅力の一つです。
 

・・・「○○が定められており、その○○に従えば、誰もがほぼ美しい△△ができます」
 この理論的な教授方法が「システム」だ。
 免許皆伝までのステップ=上達論は、システム論でもある。
 
 教師の上達論と重なって、頭の中がスパークする感じだ。

 さて、「型を守れば、誰もが美しい花姿に整えられる」とあるが、次の言葉もある。

◆まずは、型をしっかり身につけ、それを土台として、時代に合った新たな美を追求していきます。
いけばな教室は、その基礎を学ぶ場です。

・・・ 自分も、型をしっかり身に付け、それを土台にして、時代に合った新たな教育実践を追求していこうと思う。

 ただし、先のくだりは、冒頭にあるフレーズがついている。

◆いけばなが目指すのは「型破り」です。
まずは、型をしっかり身につけ、それを土台として、時代に合った新たな美を追求していきます。
いけばな教室は、その基礎を学ぶ場です。

・・・そりゃあ、そうだ。型通りのことだけをしていたら「入門者・弟子」の立場から脱却できない。
 型通りの作品を展覧会に出品するわけにもいかない。
   「型」を身に付けるべき段階の私だが、いずれは「型破り」を目指す。その気概を失ってはいけない。

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学級は「なかよし集団」だけでは成長しない、

 初任研資料として、学級づくり・学級経営について、いろいろ探している。
  例えば、有田和正先生の学級づくりに関する講演記録。

http://seinenjuku.abetaka.jp/?eid=1401073

①「どうぞ」という「思いやり」
②「ありがとう」という「感謝の心」
③おもしろい授業で子どもを鍛えれば、よい学級ができる

とある。なるほど、その通りだ。

 そうした中に、何気ない記述があった。

◆『助け合い』『みがき合い』『けん制し合い』こういうことが学級経営の柱であります。◆

 ①「助け合い」、②「みがき合い」は分かる。
 ③の「けん制し合い」という箇所に引っかかった。

 「けん制し合い」の意味は何となく分かるつもりだが、以下に書くのは、自己流の解釈かもしれない。

 向山先生の学級経営の骨格になるキーワードが2つある。

①「一匹狼のたくましさと、野武士のごとき集団を」
②「千万人といえども吾往かん」(孟子 公孫丑上)
・・・自ら省みて正しければ,敵対者や反対者がどんなに多くとも,恐れることなく自分の信ずる道を進もう。

 これは、論語の「和して同ぜず」とも重なる心意気だ。

◆君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
【意味】すぐれた人物は協調はするが、主体性を失わず、むやみに同調したりしない。つまらない人物はたやすく同調するが、心から親しくなることはないということ。

 もし、学級づくりが「仲良くしましょう・助け合いましょう」だけであれば
「出る杭は打たれないようにしよう」
「和を乱さないよう、自分の主張はほどほどにしよう」
ということになる。

 それでは、仲よし集団・お友達集団はできても、強い集団はできない。
 有田先生が語った「けん制し合い」は、自分の理解では「ライバル意識」である。
 学級集団は、助け合う仲間ではあるが、互いに高め合うためのライバル意識を失ってはいけないということなのだと思う。

 他者への依存度・自立度で考えると、「助け合い」→「磨き合い」→「牽制し合い」の3段階は、

他者依存 (強)→(中)→(弱)
自立度  (弱)→(中)→(強)

ということになるだろうか。

 「助け合い」「磨き合い(高め合い)」を主張する学級・学校は多い。
 しかし、「ライバル意識」を明記する学級・学校は少ない。
 「孤高のススメ」ともなれば、皆無に近いだろう。
 言い方を間違えると、かどが立つし、誤解も生むからだ。

 そのような中で、「一匹狼の強さ」「千万人といえども~」を提唱する向山先生の学級づくりは、異彩を放っている。
 今回、有田学級も同じだったのかと、改めて感心しているところだ。

 むろん、生半可な追試は、火傷の元である。

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