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August 09, 2014

太平洋戦争をもっと知らねば

 以前、百田尚樹著『海賊と呼ばれた男』(講談社)の上巻から、石油を元にした大東亜戦争の経緯を時系列に並べてみたことがある。2012年12月のころだ。
 しかし、並べるだけでは見えてこないことが、よく分かった。

 太平洋戦争でアメリカ軍にサイパン島を奪われ、守備隊が玉砕したのが昭和19年7月7日。
 アメリカ軍は爆撃機を発着できる空港を確保したため、日本本土が空襲を受けるようになる。
「海賊~」には、次のような記述がある。

◆昭和十九年七月、サイパン島がアメリカ軍に占領された。
同島を含むミクロネシア一帯は日本が戦前から統治していた領土で、大本営はここを絶対国防圏としていた。
サイパンを奪われたことにより、日本のほぼ全土がアメリカの長距離爆撃機B29の攻撃圏内に入った。
またサイパンをめぐる戦いで日本海軍は空母3隻と数百機の飛行機を失い、太平洋の制海権を完全にアメリカに奪われていた。
この年から徴用船の戦没率が跳ね上がり、南方からの物資を運ぶ輸送船はほぼ途絶えた。
その結果、日本は石油も鉄も枯渇し、工場は壊滅的な打撃を受けた。
この年、南方から日本に送られた原油はわずかに79万キロリットルだった。
戦前アメリカから年間約500万キロリットルを輸入していたことを考えると、もはや戦争継続どころか、国民生活を維持するのも難しい状態と言えた。

・・・これが昭和19年7月である。
終戦の昭和20年ではない。前年の7月である。
絶体絶命のサイパン島陥落から約1年、日本は抗戦したのである。
それは、本土空襲の開始でもあったから、長い1年であっただろう。
サイパン陥落で結末の見えていた太平洋戦争が、その後1年続いたことで、どれほどの被害があったことか。
この1年という機関の長さについての想像が欠けていた。

◆昭和20年、アメリカ軍の空襲は全国の主要都市を焼け野原にした。
日本は文字通り焦土と化した。陸海軍は徹底抗戦を叫び、「全機特攻」を標榜したが、もはや飛行機を飛ばせる燃料はどこにもなかった。
海軍の燃料タンクはほとんど浚われ、もはやわずかな艦艇さえ動かす石油も残っていなかった。
そして8月、人類最悪の兵器、原子爆弾が広島、次いで長崎に落とされ、同月15日、ついに日本は「ポツダム宣言」受諾を、世界に向けて発信した。
このとき、日本の備蓄石油はほぼゼロに等しく、これ以上戦う力はどこにもなかった。

◆大東亜戦争は極論すれば「石油のための戦争」であった。
戦前、日本はアメリカから石油の8割を輸入していたが、それを断たれたためにアメリカとの戦争に踏み切ったのだ。
そして南方の油田を確保したが、制海権を失って、その石油を国内に還送する手段を奪われたとき、戦争継続は不可能となった。

 かつて「サンデー毎日」の「サンデー時評」で、岩見隆夫氏がサイパン島のことが書かれていた記憶があった。
なんとか、HPに残っているのを見つけた。
http://sunday.mainichi.co.jp/blog/2013/01/post-fe4d.html

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サイパンに米軍が上陸したのは敗戦前年の1944(昭和19)年6月15日である
この島は旧軍の大本営が設定した絶対国防圏で、海軍にとっては最重要拠点だった。
だから、海軍は総力戦を展開したのだ。
日本軍3万に対して米軍7万、19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦では、日本側が虎の子の空母3隻を失うなど壊滅的打撃を受けた。
地上戦でも物量の差はいかんともしがたく、7月7日最後の攻防戦で日本軍守備隊は全滅、非戦闘員約1万人も道連れとなる。
 (中略)
一方、サイパン占領によって有力な航空基地を確保した米軍は、四四年末からB29爆撃機による本格的な日本本土への空襲を始めたのだ。
翌四五年八月、原爆搭載のB29が広島、長崎に向け飛び立ったのは、隣のテニアン島からである。
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 百田氏の著作と、岩見氏のコラムを重ねると、より理解が深まる。
 なお、岩見氏のコラムには、次の記述もある。

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車窓の風景はのどかそのものだが、中年日本人女性のガイドさんが語る玉砕悲話は胸に刺さる。
ことに北端のバンザイクリフ(崖)、絶壁には米軍の艦砲射撃でえぐられた大きな穴がいくつも残っていた。
「みなさん、『天皇陛下バンザイッ!』って叫んで……。
女子学生は手をつないで〈仰げば尊し〉を合唱し、歌い終わったところで飛び込んだそうです。
お母さんたちも、子どもを先に投げたり、抱いたりして……」
などとガイドさんの話には次第に熱がこもり、車内はシーンとなる。
近くの空き地には、日本軍の兵器類の残骸が、放置されているのか、陳列しているのか、散らばっていた。
なかに赤茶けた小型戦車が鉄くずのようになって一台。
「これは二人乗りで、一人が操縦し、一人が射撃するのです。
あのころはクーラーなんかなく、車内は三五度くらいあったそうで、もう大変でした」と、きのうのことのように言う。
それにしても、本当に二人乗れたのかと思うくらい、小さい豆タンクだ。
米軍との物量の差を見せつけているように思えた。
「これが日本です」
というガイドさんの言葉があとまで耳に残った。
(後略)
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 歴史を知ることは、年号を並べることではない。
 その時、その時の人々の生き死にに思いをはせることだ。
 また、今の日本を創るために命を懸けた有名・無名の先人達に感謝することだ。
 歴史に対して、謙虚でなければならないと、つくづく思う。
 夏休みは、先の戦争をしっかり学び直すよい機会である。

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