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January 05, 2015

改めて『齋藤喜博を追って』を読む

 年末の伴セミナーでは、「自由と平等」を実感した。
 年が明けて、改めて『齋藤喜博を追って』に目を通した。

 子どもに自由と平等を! P107~120

 
わずか13ページの章だから、あっという間に読めてしまう。
 だからこそ、怖い。
 「あれども見えず」で、あっさり読み過ごしてしまっていたのだ。

 この章は、児童会活動の変革が中心になっている。
 しかし、児童会活動や学校行事の改革に至る原点は、教室の発言風景であった。

◆学年が上がると発言しなくなる状況を子どものせいにする教師
◆3年で活発に発言する新卒の向山学級を見て「3年生だからだ」とひがむ教師

が、いかに不遜で、不勉強かが語られるくだりがある。
 そのくだりも深いが、それとは別に、発言者が固定されることへの怒りが述べられている箇所がある。
こっちは深くて重い。

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 六年生になっても発言している子は、いわゆる<優等生>であった。逆に言えば、<優等生>以外の子が段々と発言しなくなるのであった。<優等生>以外は、学校生活を通して段々と発言しなくなる事実は、学校の教育活動の中に原因があることを示唆していた。
<優等生>によりかかった授業・教育活動がその原因であるはずであった。

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 向山氏は、「教師が発問をし、それに<優等生>が得意そうに答える」授業を、「貧弱な授業」と呼んだ。
 力のある先生は、「挙手ー指名」に安易に頼らない。
 力のない自分でも、次のような手を思いつく。

①発言の前にノートに書かせ、書けたら持って来させ、黒板に書かせる。
②隣の子と相談させる。
③机間巡視して、状況を把握する・あるいは支援する。
④意図的指名する。
⑤まだ言っていない子を立たせて言わせる。
⑥列指名する。
⑦指名なし発表をさせる。

 向山氏は次のように述べている。
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 教材の本質を理解して、さまざまな角度から授業が展開できれば、そんなことはないはずであった。一人ひとりの子どものことをよく知っていれば、いろいろの考えをひき出せるはずであった。まちがいの中から真実につき進むという学問の基本をとらえており、それを授業に組み立てる力量を持っていれば、そんなことはないはずであった。
 つまるところ、教材を分析していく力量、一人ひとりを具体的に見る力量、学問的な素養、授業を組み立てていく力量の不足が、貧弱な授業を生み出し、<優等生>中心の授業をしている原因であった。

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 向山氏が、原点として
◆優等生に寄りかからない授業
◆どの子も大事にする授業
◆できない子をなくす授業
を目指していたことがよく分かる。
 
 「できる子が間違えて、できないと思われた子ができて脚光を浴びる」逆転現象の授業の大切さも、ここに関わってくる。だからこそ最初の問題提起が「跳び箱」だったのだ。
 
 「自由と平等」の言葉の重みが、まだまだ分かっていなかった。

◆誰もが自由に発言できる雰囲気
◆誰の発言も大事にされる雰囲気

を成立させる教育思想、願いと怒りを大事にしていきたい。

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