« June 2015 | Main | August 2015 »

July 30, 2015

「言語活動」の授業は、アクテイブラーニングの試金石

 現行の指導要領の作成にあたり、

「従来、子ども中心主義の授業に主眼をおくあまり、教師の指導が遠慮される風潮があったこと」

についての反省があったと聞いている。

 だからこそ、「習得ー活用」の2段階が明確にされたのだと理解している。

◆習得段階(系統学習)は、しっかり指導せよ     
◆活用段階(経験学習)は、子どもの応用力に任せてみよ

というように、系統学習の積み上げの先に、経験学習(アクテイブラーニング)を採り入れよという意味だったのだと今さらながら思う。

 しかし、現状は、教えるべき内容をきちんと教えるという「系統学習」にとって当たり前のことが、経験学習の範疇にある「言語活動」や「交流」や「学び合い」という方法にかき消されてしまっている。

 そもそも「言語力育成・言語技術育成」と言えばいいところを、「言語活動」とした時点で、誤解される要因をつくってしまった。

=====================
「話し合いや説明、発表等の活動が多くなり教科の学習を貧弱にする」という指摘を伺うことがある。
ここには目的と方法(結果)の混同が見られるが、実際にそうなったら「言語活動」の本来の設定目的とはズレた事態になる。
=====================
 「国語教育」2011年3月号の佐藤洋一氏の指摘である(P114)。

 「~指摘を伺うことがある」と、やんわり書いてあるが、自分の実感としては

◆「言語活動」中心の多くの授業は、教科の学習が貧弱になっている。
◆「言語活動」中心の多くの授業は、指導がおろそかになっている。
◆「言語活動」中心の多くの授業は、活動そのものが目的になって
しまい、どんな教科の力をつけさせるのか、結果としての学力が不明になっている。

と思う。昔から言われてきた「経験学習」の短所で、いわゆる「活動があって、指導がない」授業である。
 佐藤氏が「目的と方法(結果)の混同」というのは、「系統学習と経験学習の混同」でもある。

 話し合いは、ある目的を達成するための手段にすぎない。
 話し合いそのものを目的にすれば、教科の力はつけられない。
 言語活動そのものを目的にすれば、教化の力はつけられない。


佐藤氏は次のようにも言う(前掲書P115)

==============
より大事なのは、「子どもの学びの思考過程や事実」をきちんと教師が瞬時に診断でき、 的確に評価して子どもに返す、結果的に学力保証の結果責任を果たすことである。
==============

 経験学習の短所である「学力保障」の問題だ。
 同様の指摘が、光村図書の「国語教育相談室小学校75」にある。髙木まさき氏は次のように言う(P5)

==============
何より重要なのは、 子どもたちの考えを発表させるだけで終わるのではなく、それを教師が意味づけたり整理したりし、 子どもたちが確認できるようにするということです。
そうすることで初めて、子どもたちは出てきた考えのどこがどう違うのか、なぜ違うのかということが考えることができるんだと思うんです。
==============

・・・「今日の授業では、ナンバリングによる意見の言い方が分かりやすくてよかったね。」
のように技術的な指摘をきちんと加えるから指導になる。
 そのような教師の総括・総評がない授業は、「活動あって指導なし」の授業であったと言わざるをえない。

 アクテイブラーニングでも、同じような議論(戦後ずっと繰り返されてきた議論)が起こる可能性が高い。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「アクティブラーニング」の前に「総合」の理解を

 「『総合的な学習』は従来の教科の授業とはまったく違う『探求型の授業・協働的な授業』である。
 そのことを理解しないで、教科の授業と同じような教師主導の総合の授業をしていては、各教科のアクテイブ・ラーニングは無理だ!」

というのが、今の実感。
 そのことを知人に力説したら「当たり前じゃん」という顔をされた。
「総合ってそうでしょ?やってないの?」と聞かれて返す言葉がなかった。

 前任校も今の学校も、総合は極めて怪しい。

◆オリエーテーション的に講師の話を聞いた後、自分の興味にそって調べ学習をするとか
◆歴史の授業の延長上で調べ学習をして修学旅行のプランを立てるとか
◆身近な生き物や環境問題を調べて発表するとか

 きわめて「丸投げ(指導なき指導)」のような時間になっているケースが多い。

というわけで、文科省の総合の資料を再度読む。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/sougou/1300434.htm

「今、求められる力を高める総合的な学習の時間の展開」
総合的な学習の時間を核にした課題発見・解決能力、論理的思考力・コミュニケーション能力等向上に関する指導資料

 
  この資料をもとに前任校でも教務主任として資料配布したことがある。
 課題発見・解決能力、論理的思考力、コミュニケーション能力向上のヒントが書かれているからだ。
 教師主導の「習得」の授業に対して、『活用」の授業はどうあるべきか、B問題に対応するためにどんな手立てが必要かを考えてもらいたいという思いもあった。

 しかし、以前は気にならなかったのだが、アクテイブラーニングを必要とする社会状況の説明は、すでに「総合」のこの資料で主張されていたことが分かる。

=================
「まえがき」より

 総合的な学習の時間は、変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることなどをねらいとすることから、思考力・判断力・表現力等が求められる「知識基盤社会」の時代においてますます重要な役割を果たすものです。

P4
○ 学校を離れた社会全体に目を向けてみると、知識基盤型社会化・グローバル化などの社会変化、フリーター・パラサイトシングル・ネットカフェ難民など新しい青少年問題、「失われた10 年」に
よる企業での即戦力に対する需要の高まりなどを背景に、基礎学力や専門知識はもちろん、コミュニケーション力、課題解決力、論理的思考力、創造力など、学校を離れ社会生活や職業生活を営んでいく上で必要とされる「力」の育成の重要性が各方面から指摘されている。

P7
○ ここまで見てきたとおり、学力を“単なる知識の量としてとらえるべきではなく、思考力・判断力・表現力や学ぶ意欲なども含めて総合的にとらえるべきである”といった考え方は、決して新しいものではない。戦後教育改革時の“経験学習か系統学習か”という論争の中でも同様の議論があったように、今から60 年近くも認識されてきたと言えるものの、実際の学校現場では、そういった総合的な学力を指導・評価する手法の開発が間に合わず、また、上級学校への入学試験や社会人採用試験からのニーズなども背景として、どちらかというと、既存の知識・技能の習得に重点を置いた指導が余儀なくされてきたと言えるだろう。

○ しかし、近年のPISA や全国学力・学習状況調査の「活用」に関する問題(B 問題)などのように、総合的な学力に関する評価手法が確立されてくるに至り、改めて今、現実社会で求められる「課題
発見・解決能力」「論理的思考力」「コミュニケーション能力」などが、学校においても強く求められていると言える。
=================

・・・総合的な学習で求められる力の必要性が今に始まったものではないように、アクテイブラーニングに求められる力の必要性も今に始まったものではないのである(当たり前のことですみません)。

 まずは、ここがスタート地点。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「総合的な学習」の延長上に、各教科の「アクテイブラーニング」がある


総合的な学習の時間について-問題解決学習とのかかわりから-」という平成13年度講演記録をWEBで読む。

http://www.apec.aichi-c.ed.jp/project/sogo/ken/ken13/nittei_c/kouen.htm

 読んでいくと、「総合的な学習」が、「問題解決学習」と強く関わっていることが分かる。
 そして、
「戦後の問題解決学習」
「生活科」
「総合的な学習」
の延長上に、各教科の「アクテイブラーニング」があることも想像できる。 

「経験学習や体験学習を取り入れていること、考える態度を育てること、生徒の学習が中心となること」
「教師が一方的に知識を提供しないこと、生徒が自らの学習によって知識を獲得すること」
といった共通点がある。


◆問題解決学習は、生徒が自らの疑問や葛藤から出発して、それを解決していく中で様々な知識や技能を獲得していく学習過程である。
◆コアカリキュラム連盟が提案した問題解決学習では、
「問題→その解決のための手段や計画を考案→知識の収集・交換による仮説設定→仮説の検証→問題解決」
という流れを、一つの学習過程のモデルとして提案している。

◆デューイによる問題解決の過程は、
「問題状況→問題設定→解決のためのアイデアを推測→考えを練る(知識や情報の獲得)→仮説の検証→安定した状況が再度出現する」
という段階で説明される。

◆ 問題解決学習は、以下のような特徴をもつ。
 ○実践知(感性・知識・行動の統合)を育てる
 (後に、問題解決学習は学力の低下をもたらした原因だと批判された)。
 ○「探究(リサーチ)」中心の学習とのつながりがみられる。
 ○状況を創造する力(「生きる力」)を育成する
 ○教師の役割は援助者・アドバイザー・状況提供者へと変化する

 「教師の力量は、生徒が問題解決能力をもった自己学習者へと育てることで評価される」という記述も興味深い。
 子どもに問題解決能力を付けない限り、指導者の力量は認められないのである。
.

◆とりわけ批判が向けられたのは、「活動中心の学習」であった。
それは、生徒が活動的に動き回れば学んでいるという安易な考えに陥り、問題解決学習は「はいまわる経験主義」にほかならないという批判が高まった。
 「指導しない指導」や「立場なき立場」という考えは、生徒に指導することを学んできた教師にとっては抵抗感があり、そのような指導は責任放棄や放任につながると批判された。


◆ 問題解決学習のその後
 問題解決学習は、その後も主に小学校の社会科などでは継続して実践されてきた。
 
◆総合的な学習の時間が意味のない活動や体験にならないよう、生徒を含め他の人々を納得させるに足る「知的内容の学習」を保障することが大切である。


◆自分で調べて学習成果を制作するという作業活動が求められる生徒にとっては、すでにある程度の「自己教育(学習)力」をもっていることが前提とされる。

◆教師にとっても、教科に関する知識の専門性を高める研修のほかに、自らもオープンエンドの課題を見付けて探究していくような課題探究学習に取り組むことによって、総合的な学習の時間を指導する力量が高められるであろう。

ア 上から与えられたテーマや課題になっていないか
イ 考える教師と考えなくてもよい生徒になっていないか
ウ 興味・関心と知識、知識と実践のつながりを工夫しているか
エ 生徒と教師のための相互学習の場を目指しているか
オ 他の生徒に対する理解、コミュニケーション、協力を重視しているか
カ 教師も生徒も、協働探究者として共に学習に参加しているか
キ 学習成果や作品を、冊子やレポート集などにして残すようにしているか
ク 生徒のオリジナリティを評価しているか
ケ 生徒の自分探しや世界探しの手段として総合的な学習の時間を活用しているか

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 28, 2015

偉大な教師は・・・

 アメリカの教育者ウイリアムアーサーワードという人の格言がある。

 The mediocre teacher tells.
 The good teacher explains.
 The superior teacher demonstrates.
 The great teacher inspires.

 凡庸な教師はただしゃべる。
 良い教師は説明する。
 優れた教師は自らやってみせる。
 しかし偉大な教師は心に火をつける。

 面白い4つの対比である。 
 ただし、teacherの本来の仕事は、まさに「teach」である。
 teach以外の動詞で、teacherの仕事をあれこれ言うのはどうかとも思う。
 しかも、tell/explain/demonstrate に比べて、
最後の、inspire は、すごく抽象的な感じがする。
 何をどう指導するとinspireなのか、さらに言及してもらわないと何とも言えない。どうするとインスピレーションを掻き立てられるかな。

 むろん「inspire」の具体的な内容を考えることこそが教師の本業であって、そこを人に尋ねるなどもってのほかと言われれば、
これは「参りました」と言うしかない。

 ところで、この格言は、山本五十六の

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」と

 explain /demonstrate /inspire

が似ていると思う。人を動かす原理原則は万国共通か。

 なお、山本の言葉は、上杉鷹山の言葉に影響を受けたとも言われている。

 「してみせて 言って聞かせて させてみる」

こちらは、explain /demonstrate の意味合いが強い。


 ウイリアムアーサーワードには、別の格言もあるらしい。


 Flatter me, and I may not believe you.
 Criticize me, and I may not like you.
 Ignore me, and I may not forgive you.
 Encourage me, and I will not forget you.

 お世辞を言われたら、あなたのことは信じない。
 批判されれば、嫌いになる。
 無視されれば、許さない。
 勇気づけてくれれば、忘れない。

 先の「inspire」と「encourage」は、よく似た感じがする。
 「ほめてやらねば、人は動かじ」との共通点も感じる。


さらに別の格言

 The pessimist complains about the wind;
 the optimist expects it to change;
 the realist adjusts the sails.

 悲観主義者は風にうらみを言う。
 楽観主義者は風が変わるのを待つ。
 現実主義者は、帆を動かす。
 

 すばらしい3者の対比構造だ。
 念のため英単語を確認する・

 complain・・不平を言う,ぐちをこぼす・泣き事を言う
 expect ・・・期待する・ 望む・要求する
 adjust・・・・調整する・順応する


  現実に対応しようとしている与党に対して、野党が代案を示さず、文句ばかり言い、ないものねだりばかりしている姿とだぶってくる。
 我々は、しっかりリアリストの道を歩んでいきたい。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q...

よりインスパイアされたブログでした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 25, 2015

「成長」は結果であって、目的ではない

DeNA創業者である南場智子氏の起業エピソードはすごい。
ベストセラーの「不格好経営」(日本経済新聞出版社)で圧倒された。
合わせて、南場氏の講演記録・対談記録などを重ねていくと、学びが深まっいく。

「不格好経営」第7章より p214~217

◆なぜ育つか、というと、これまた単純な話で恐縮だが、任せる、という一言に尽きる。
 人は、人によって育てられるのではなく、仕事で育つ。しかも成功体験ジャンプする。それも簡単な成功でなく、失敗を重ね、のたうちまわって七転八倒したあげくの成功なら大きなジャンプとなる。

◆だからDeNAでは、その人物が精一杯頑張ってできるかできないか、ギリギリの仕事を思い切って任せることにしている。 

◆ギリギリな仕事を任せれば当然、失敗するリスクもある。でも、不思議と人は顕在化している能力の数倍の能力を有していて、本人も驚くような大仕事をやってのけるものである。万が一できなければチームが寄ってたかって助ける。まれにそれでもカバーしきれず、穴があくこともある。そのリスクはとろう。でも人が育たないリスクはとらない。DeNAはそういう選択をしているつもりだ。

・・・「任せた以上、失敗のリスクは上司がとる」というスタンスは、先のダイアリーでも紹介した「成功したらみんなのおかげ、失敗したら私の責任」と同じ潔さがある。心したい言葉である。

◆成長はあくまで結果である。給料をとりながらプロとして職場についた以上、自分の成長に意識を集中するのではなく、仕事と向き合ってほしい。それが社会人の責任だ。、
 そして皮肉にも、自分の成長だへちまだなどと言う余裕がなくなるぐらい必死になって仕事と相撲をとっている社員ほど、結果を出せる人材へと、驚くようなスピードで成長するのである。

・・・向山先生は「努力など人様が言う言葉であって・・」といったことを書いている。
プロは結果が勝負であることを肝に銘じたい。
この章に関わって、対談では、次のように述べている。

http://logmi.jp/71359
「結果を出すために必死になることが成長につながる」

◆入社した日からは給料が払われるわけなので、給料もらっている立場で「自分の成長が」というところをずっと意識しているという学生気分が続いていると、むしろ成長が遅くなるというか。パラドックスなんですけれど。
結局、プロとして自分を追い込んで、給料もらっているからにはちゃんと成果を出すということに必死になるということが、逆説的ですが成長にもつながるし、それはまた正しい姿だと思っています。

◆いままさに野球の話あったんですけど、マウンドに登ったりバッターボックスに入ったりしながら5万9千人の大入りのファンの前で「今日はちょっとモチベーション上がんねえな」とか「ちょっと打ちたくねえな」みたいな(笑)。
もう即、終わりですよね、それは。そんな選手はプロにはいないわけですよね。プロ野球選手とビジネスの我々とどう違うのかっていうと、本来は給料もらっている以上は違ってはいけないわけであって。

◆結果論ですよね、成長って。それを目標にしていると、やっぱりずっと学校気分なんだろうなと思います。
しかも私がこの歳になって誰にも負けないと思うのが、実は成長です。去年の自分が常にいつもすごい恥ずかしいので。成長してるってとても良いことだと思うんですよね。でも、結果論ですね。

・・・この後、対談相手の森川氏(元LINE社長)が、次のように言う

◆ただまあ目先の評価・結果よりは、自分がユーザーさんに対してちゃんとものを提供できているかとか。
◆すぐ結果が出るので怖い世界ではありますけど。上司が評価するよりはユーザーさんが評価したほうが、シビアですよね。

・・・学校でも上司の評価なんてどうでもいいのだ。ユーザーにあたるクラスの子どもの評価や子どもの向こうにいる保護者の評価が大事なのだし、逆に言えば、子どもや保護者の評価が高ければ上司の評価は結果としてついてくる。「自分は子どもにちゃんとした教育を提供できているかどうか」をまず自問するような教職員集団を目指したい。
そして、振り出しに戻るが、そのように教職員に意識させるには、
「任せてみる」こと、「任せた際の失敗はフォローすること・任せるリスクを背負うこと」だ。そこに管理職の度量と気概が問われている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

子どもの思考回路を分析する

 1年生のクラスに補欠授業に入ったとき、書き方練習帳に取り組ませる前に、少し遊びを入れてみた。

 「かえるが かえる」

と板書して、元気よく読ませる。そして、「どういう意味?」と聞いてみた。

◆「あのねえ、蛙が池まで行って、おうちに帰るってこと」

というような意見が出る。
 言い終えたそばから、ほかの子が「はい。はい」と手を挙げる。
 しかし、あててみると、多少の違いはあるものの、要するに「蛙が帰る」のことを言っている。

◆「蛙がぴょんぴょんはねて家に戻るってこと」

など。

 そりゃあ、そうだ。
 1年生が「かえるがかえる」の次のような複数の意味を読み取るわけがない。
 

①蛙が買える
②蛙が孵る
③蛙が飼える
④蛙が返る

 だから、子どもたちは「蛙が帰る」の辞書的な意味ではなく

「『蛙が帰る』とは、どういうシチュエーションかを説明せよ」

という文脈で答えようとしているのだ。
 池とか田んぼとかよく似てはいるが、あくまで自分のイメージしたワールドを説明しようとしているのである。

 おまけで、黒板の文字を替えてみた。

「かえるが きえる」

「かえるが くえる」

「かえるが もえる」

など。
「えー」と言いながら、子どもたちは大喜びで読み、意味を説明する。
 これらは、一通りの意味しかないから、それぞれ、

「『蛙が消える・食える・燃える』とは、どういうシチュエーションかを説明せよ」

という文脈で子どもは答える。
 「消える・食える・燃える」という、へんてこな場面設定を自分なりに解釈したそのイメージを言語化しようとするのである。

 教師からすると「同じだから、もういいじゃん」と思われるが、子どもにとっては別のイメージだから、際限なく挙手が続く。

 これまで見てきた低学年の授業でも、子どもたちは、いつも「はい、はい」と際限なく答えようとしていた。だから、いつも発言を打ちきる場面で苦労していた。
 それでいて、大半は同じような意見の繰り返しだった。
 人の意見を聞いて、自分と同じ意見かどうかを見極める能力は高レベルなんだなといつも思っていた。

 今回、少しだけ自分で授業をしてみて「子どもは自分の脳裏のイメージを言語化するのだ」と実感した。
 やっぱり、自分で授業をすると、学ぶことが多い。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 11, 2015

アクティブ・ラーニングを具体化する単元を貫く言語活動?

もうお分かりでしょう。国語科でアクティブ・ラーニングを具体化することは、単元を貫く言語活動を位置付けた授業づくりを一層推進することに他なりません。

http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/tangengo/?id=20150037

 すごい自信である。
 すでに今年の1月にこのような意見を発信している。

 諮問の以下の部分が「単元を貫く言語活動」に合致するのだと言う。

◆「ある事柄に関する知識の伝達だけに偏らず、学ぶことと社会とのつながりをより意識した教育を行い、子供たちがそうした教育のプロセスを通じて、基礎的な知識・技能を習得するとともに、実社会や実生活の中でそれらを活用しながら、自ら課題を発見し、その解決に向けて主体的・協働的に探究し、学びの成果等を表現し、更に実践に生かしていけるようにすることが重要である」

 水戸部氏監修の「パーフェクトガイド」をwebで見る。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-162212-1

◆単元を貫く言語活動を位置付けた授業づくりを進めるに当たり,例えば「活動だけで力が付くのか」「場面ごとにしっかり読み取らせなくて大丈夫なのか」といった思いから,言語活動を位置付けることをためらってしまうことがある。

と水戸部自身が書いているので
「活動あって指導なし」
「はいまわる授業」
の批判は織り込み済みである。
 
にもかかわらず、具体的な実践例を見ると、「それでいいの?」と思える内容がある。

①「本のショーウィンドウ」でお薦めする
②「読書座談会」で作品の魅力を語る
③「本の帯」をつくってお気に入りの物語を推薦する
④書評で物語を推薦する
⑤新聞を意図的に読み,根拠を基に自分の意見文を書く
⑥「読書座談会」で生き方や命を見つめ直す
⑦お気に入りのファンタジー作品の魅力を推薦文に書く
⑧「読書交流会」を通して思いを深めながら読む
⑨「持続可能な社会」への取組についてリーフレットで紹介する
⑩自分の生き方を見つめて随筆を書く
⑪自分の憧れの仕事について調べたことを調査報告文に書く

 何をやらせるかは分かる。
 しかし、指導者にとって大事なのは「どうやらせるか」である。
 あるいは「どこまで求めるか」である。

 「指導のステップはどうなっているか」
 「書けない子・かたまってしまう子にどう支援するか」
 「作品を残すことが目的か」
 「どこまでの質を要求するか(評価基準をどう設定するか)」

などが明確でない。

http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/tangengo/?id=20150502

のQAを例に考えると

 「登場人物の気持ちを読み取って話し合おう」という課題での話し合いがうまくいかなかったという相談に対して

 「自分が選んだ作品を推薦することに向けて、主人公の気になる行動の理由を明らかにするために、同じ作品を読んだ友達と、読みを交流しよう。」

と変えてみると、「選んだ作品を推薦するためには、明確な推薦理由が必要になります。一人一人がそれを明らかにすることに向けて、目的をもって交流できるでしょう。」とある。

 どちらの課題にしても、五十歩百歩だと私は思う。

  「読みを交流しよう」と言われても、何を言えばよいのかが分からない。
 「主人公の気になる行動の理由を相談しよう」という意味なのだろうが、
 「主人公の気になる行動を明らかにする」ことと「自分が選んだ作品の推薦」とが、どう結びつくのかが分からない。

 そもそも「交流」は「座談会」「話し合い」「相談」「協議」「討論」とどう違うのか?
  「推薦」は「紹介」とどう違うのか。

 高尚な言葉がたくさん出てくるが、具体的に考えると迷ってしまうというのが、水戸部氏の文章に対する印象である。
 ちなみに、「単元を貫く言語活動」の問題点は、『向山型国語教え方教室』の 2014年5・6月号でたくさんの先生が書いている。

◆「分析の技術」の転用と討論が子どもに力をつける
◆物語文9時間の指導でペープサートづくり
◆2作品では国語の基礎学力はつかない
◆「向山型国語」で最重要な音読・漢字練習が「単元を貫く言語活動」の指導案では示されていない
◆子どもにどう力がついたのかが曖昧である
◆「クイズ大会」は言語活動か
◆一見、論理が明快そうに見えて、実際は分からないことだらけだ
◆言語活動は目的ではなく、「話す・聞く・書く・読む」の力を付けるための手段である

 先にも書いたが、知識を基礎にしなければ、真の問題発見力や課題解決力、論理的思考力などは育たない。
座学で前提となる知識を学ぶことができ、与えられる課題をしっかりこなせるという、学びにおける基礎・基本があり、その上で、個性と応用力を育むのがアクティブ・ ラーニングなのである。


○「適切な指導」がされていなければ、「単元を貫く言語活動」は浅薄な活動至上主義に終わる。
○「コードの習得」がされていなければ、自力による「分析」「書評」「推薦文」「紹介文」は書けない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「アクティブ・ラーニング型授業づくりのヒント」

「アクティブ・ラーニング型の授業を作る国語発問集の決定版」という謳い文句の書籍がある。

「読解力を育てる!小学校国語 定番教材の発問モデル 物語文編」

第1章 アクティブ・ラーニング型の国語授業をつくる教師の「発問力」
第2章 読解力を育てる!物語文の発問モデル

ウェブには、「アクティブ・ラーニング型授業づくりのヒント」のコピーがある。

http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-191319-9

 著者の井上一郎氏は、1つ前の教科調査官で、PISA調査やフィンランドメソッドが話題になった頃、講演を聴いた。現行の『学習指導要領解説 国語編』の著者のはずだ。 

 前書きには、次のように書かれている(改行を入れました)。
===============
長年,子ども自らの主体性を重視した授業の必要性を提唱し,また,実際に指定校や研究会員の勤務校を通して教育課程においても,授業においてもその実現を図ってきた。
今,ようやくそのような主体的・協働的な学習であるアクティブ・ラーニング(Active learning)が広く求められるようになった。
しかし,まだその実現に大きく立ちはだかる問題がある。読む能力を高めるための発問が構想できないということである。
教師自ら児童・生徒がActiveになれるような発問を構想するのが困難な状況にあるのである。
単元構想なら,あるいは,授業展開なら一定の形式化を図り,周囲が支援することも可能だ。
だが,読むことの領域において,教材一つ一つの解釈を施し,発問の可能性を探る作業は,一人一人の教師にとって決して楽ではない。
精読主義でありながら,その実際は,場面や段落ごとに同じ発問を繰り返す旧来の方法では,とても新しい時代の学力観に対応できない。
==============

・・・具体的にどんな発問が並んでいるのかは、著書が手元になくて分からない。
 いずれ、具体的は発問内容いついて検討したい。

 ところで、特設教科である 「読解」のカリキュラムを編成している京都の御所南小学校へ視察に行ったのが8年前。フィンランドの教科書が利用され、9年間の「読解」を提案していた。その際の指導助言者が井上一郎氏だった。
 
(1) 読解のワークが配られ、各自取り組む。
(2) グループで話し合う(「グループ交流」と読んでいた)。
(3) 全体の場でグループで話し合った内容を発表。

 そんな感じの授業スタイルだった。ワークの答え合わせみたいな授業だった。
 研究の中では「司会力」をつけることも重視されていた。
 井上氏の発言部分の私のメモには、次のように記してある。

◆「子どもたちが主体的に授業を進めていく」
◆「司会力・対話力を系統的に育てる」
◆「日本では一斉授業の形態から抜け出せない。どうグループ学習を仕組んでいくか」

・・・今思えば、井上氏には、この頃から「アクティブ・ラーニング」が念頭にあったことが分かる。

 「文部科学省の調査官が、一斉授業より子ども主体の授業を勧めているのだとしたら、これは全国で広がる可能性がある」

というのが、当時の感想。まさに時代が、そうなろうとしている。

 ちなみに、この時の講演を聴いて、次のように感想をまとめた。
 
算数の問題解決学習と同じように、できる子だけが、ひとり学習をし、グループ交流を仕切り、全体発表を盛り上げる。できない子はお客さん状態でスポイルされていく・・そんな不安が消えない。

 当時のメモによると、井上氏は
 
◆「教師が押さえるべきところはきちんと押さえる」
◆「最後の10分は教師がきちんとよかったところ・よくなかったところを指導する」

と述べている。
 一方、フィンランドの国語教科書を作成したメルヴィ・バレ女史の発言部分のメモには

◆「できる子とペアを組むと全部やってしまう」
◆「グループ学習は、さぼる子が出ることもある」
◆「明確な作業指示をすれば全員作業できる」

とある。

 このような但し書き(諸注意)が無視されて、お手軽にやらせっぱなしのグループ学習が増殖していくのだろうか。
 子どもが教師代わりに司会をしたり相互指名したりする授業が広がっていくのだろうか。
というのが、当時の感想。
 「アクティブ・ラーニング」の不安の根本が、ここにある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

・「知にこだわらないアクティブ・ラーニング」批判

現状は、学生にただ、座学以外の活動をさせているに留まっている例が少なからず見られます。
そのような知にこだわらないアクティブ・ラーニングは、浅薄なものにしかなりません。

・・・「知にこだわらないアクティブ・ラーニング」は、まさに「はいまわる経験主義」「体験活動さえすればよいとする体験活動至上主義」と同義になろう。

「概説アクティブ・ラーニングとは」というPDFデータがある。
京都大学 高等教育研究開発推進センター 溝上慎一准教授の解説資料だ。

http://www.keinet.ne.jp/gl/10/11/kaikaku_1011.pdf

 高等教育に関しての記載であるが、参考にはなる指摘がたくさんあった。

◆溝上先生は、「知識が使える人材の育成を目指してアクティブ・ラーニングに取り組むことが重要」と強調する。
「そのためには、フィールドワークをしたりディスカッションをしたりするだけでなく、知識に結びついた授業をするということが必要です。しかし、現状は、学生にただ、座学以外の活動をさせているに留まっている例が少なからず見られます。そのような知にこだわらないアクティブ・ラーニングは、浅薄なものにしかなりません。」

・・・「論語」にも指摘された学問の永遠の課題でもある。

「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」

⇒「どんなに勉強しても、自分で考え、研究しないかぎり本当の知識とはならない。
 一方、自分で考えるだけで人の知識や経験を学ぼうとしなければ独善におちいる。」

 「他者からの学び」があって初めて「自分の思う」に価値がある。
 確かな「学び」もないのに、浅薄な知識で自分の「思い」だけをペラペラ語っても独善でしかない。
「はいまわる経験主義」の問題も、ここにあったのだ。

知識を基礎にしなければ、真の問題発見力や課題解決力、論理的思考力などは育たない。
だから「座学ができないからアクティブ・ラーニングをさせる」などというのは本末転倒であり、座学で前提となる知識を学ぶことができ、与えられる課題をしっかりこなせるという、学びにおける基礎・基本があり、その上で、個性と応用力を育むのがアクティブ・ ラーニングなのである。

・・・「座学ができないからアクティブ・ラーニングをさせる」は本末転倒と言う指摘もその通りだ。
「基礎的な学力」がなければ「知の応用」はできないという意味では、先の「論語」にも通じる指摘だ。

○「適切な指導」がされていなければ、「自由試行」や「グループ学習」はできない。
○「コードの習得」がされていなければ、自力による「分析」はできない。

 文科省の言う「習得ー活用」のステップの通りである。

また、溝上先生は教員に対しても、「普段勉強しない学生やじっと座って講義を聴いていられない学生が自分たちで何かを調べたり、それなりにまとまったレポートを提出したり発表をしたりすると、それだけで満足してしまいがちです」と苦言を呈する。
・・・これも「はいまわる授業」に対する警告だ。
 何か熱中してやっているから良く見えるだけで、実は何の力もついていないのが「はいまわる授業」の問題点であった。
 「単元を貫く言語活動」にも、この危険性がつきまとっている。
自分たちで何かを調べたり、それなりにまとまったレポートを提出したりといった「形」だけを見て満足するわけにはいかないのだ。

教員が内容にこだわること、つまり学生のレポートなどの論理的に詰めが甘い箇所を指摘したり、アドバイスしたりすることが学びの質を高める秘訣だと指摘する。
そのように学生を指導するには、教員も、学生が設定する多様なテーマについて勉強する必要がある
「高校で導入する場合も基本的には大学と同じです。とにかく重要なのは、内容にこだわること。教員が生徒の学びにどれだけ指摘・アドバイスをできるかが、質の向上につながるのです」

・・調べ学習や議論をさせても、その内容について、指導者に知識も技術もなく適切な助言ができないのでは、結果の質を保障できない。
 何の知識もない教師が「とりあえず調べてみよう・話し合ってみよう」と子どもに丸投げするようでは、話にならないのだ。

 「国語科でアクティブ・ラーニングを具体化することは、単元を貫く言語活動を位置付けた授業づくりを一層推進することに他なりません」などと宣言するなら、指導者側の「論理的に詰めが甘い箇所を指摘したり、アドバイスしたりする力」をどう身につけるかにも言及する必要があるだろう。
 その点、TOSSは、授業プランだけでなく、教師の指導力の向上策を含めて提案している。
 そこがお手軽な「単元を貫く言語活動」「学び合い」との決定的な違いである。

 最後にこの資料で提示された「アクティブ・ラーニング」の例。
これらの言葉の意味まできちんと把握して、理論武装しないといけない。

① 学生参加型授業
  e.g.コメント・質問を書かせる/フィードバック、理解度を確認
  クリッカー/レスポンス・アナライザー、授業最後/最初に小テスト/ミニレポートなど
② 各種の共同学習を取り入れた授業
  e.g.協調学習/協同学習
③ 各種の学習形態を取り入れた授業
  e.g.課題解決学習/課題探求学習/問題解決学習/問題発見学習
④ 学生参加型授業
  e.g.コメント・質問を書かせる/フィードバック、理解度を確認
  クリッカー/レスポンス・アナライザー、授業最後/最初に小テスト/ミニレポートなど
⑤ 各種の共同学習を取り入れた授業
  e.g.協調学習/協同学習
⑥ 各種の学習形態を取り入れた授業
  e.g.課題解決学習/課題探求学習/問題解決学習/問題発見学習
⑦ PBLを取り入れた授業
  e.g.Problem-Based Learning/Project-Based Learning

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 10, 2015

自由の度合いが大きいというのは、教師が責任を覚悟するということである

◆「自由」というのは、勝手にやらせるのとはちがう。
「勝手」にやらせれば、「いつもやってる」「ありきたり」のものにしかならない。
そして、多くの場合は「勝手」にやっているうちにトラブルが生じ、結果として「自由」がなくなっていく。

・・・上記の記述は、22年前に書かれた、「教室ツーウエイ」1993年5月号の向山洋一氏の文章である。

 世の教室には、今もなおに「勝手」=「粗雑な自由」がはびこっている。
 「それは自由ではなく、ただの勝手ですよ」と指摘したくなる授業を何度となく見てきた。
 しかし、自分の授業も自由と勝手をはき違えていなかったかを問い直す問い直すと自信がない。
 
 勝手な自由によりできない子が増殖し、教室が荒れる。

①たとえば感想文や行事作文。
②たとえば「自由画」。。
③あるいは「何回も書いて覚えさない」としかアドバイスしない漢字練習。
④あるいは好き勝手にやらせる学級のお楽しみ会


◆「単元を貫く言語活動」

なども、もっともらしい理屈を並べているが
「活動あって指導なし」
「指導抜きの自由」
「ただの勝手」
「自主性の名の放置」
を感じてしまう。

 先の向山氏の文章の前には、次の言葉がある。

◆「自由の度合いが大きいというのは、教師が責任を覚悟するということである。
かなりの責任を覚悟するのだから、配慮も行き届かねばならないということである。

 
 自由には責任が伴う・・・この指摘も重い。
 「自由」という方針を決めた教師には、「自由」による子どもの損失について責任を問う覚悟がいる。
 自由に書かせた作文、自由に描かせた絵画のレベルが低ければ、「自由」を選択した教師の責任が問われるのだ。  
 にもかかわらず、 「自由という名の怠慢」がはびこっていると思う。
 作文を書かせている間に別の仕事をするという教室が今もある。

 「教えてほめる」
  「範を示す」
 「コードを与える」

という教師の「指導性」が、授業の基本である。

 文科省が示す「習得ー活用」も、そのような意味合いだ、
  「習得」の後に、活用型の活動が位置づけられる。
 アクティブラーニングも同様で、 単なる「自由放任」では、アクティブラーニングは機能しない。

 向山氏が言うように、「勝手」にやらせれば、「いつもやってる」「ありきたり」のものにしかならない。

◆子供の発想の貧困さは教師の発想の貧困さの反映にすぎない。
◆授業の質は教師の力量に規定される

と言われる通りである。

◆子供の発想を凌駕する圧倒的な知の力が、子供の可能性を引き出す。
◆褒めたり、あおったりする教師のパフォーマンスが、豊かな発想を引き出す。

 もう一度と言わず何度でも、この「自由」の「勝手」の違いについての向山氏の先生の22年前の警告を肝に銘じて、実践を見直していきたい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 05, 2015

憧れの福山憲市氏から学ぶ

 30年近く前から、お会いしたかった福山憲市先生にようやくお会いすることができた。
 平成27年度第3回の教師力アップセミナー が、7月4日(土)に大口中学校で行われた。
◆◆◆
福山 憲市(下関市立勝山小学校 教諭「ふくの会」主宰)
“ 授業のプロ”と言われる福山先生も、かつては子どもに「授業が面白くない」と言われていました。そこからどう這い上がったのでしょうか? そこには20 代での「出会いと挑戦」があったのです。20 代に教師人生を大きく変えた熱い話など、教師修行の数々は若い教師やその指導者必見です! 著書は『スペシャリスト直伝! 学級づくり“ 仕掛け”の極意』『授業づくりの成功法則』シリーズ、『ミスを減らす指導法』シリーズなど多数。

http://www2.schoolweb.ne.jp/swas/index.php?id=school55&frame=frm4daef5dfb49cd
◆◆◆

 福山先生は「ふくの会」「ミスゼロ」などで精力的に活躍され、著書も雑誌連載もたくさんある。
 そのような著名な実践家によくある誠実さで、私のような者にも丁寧に研究通信を送ってくださり、私が送る拙いサークル通信にもコメントをくださった。

 初めてお会いする福山先生は、予想通りではあったが、本当に素晴らしい実践家であった。
 私は笑顔の素晴らしい方に憧れる。
 自分の笑顔がぎこちないので、さりげない笑顔をキープできる方がうらやましい。
 福山先生は、2時間の講演の間、ずっと笑顔をキープされていた。
 そして、褒め言葉のシャワーであった。
 ちょっとした変化、ちょっとした反応をキャッチし、たくさん褒めた。
 ちょっとした冗談で笑わせ、なごませ、短い言葉で「すてき」「すばらしい」「松阪牛だ」「できてる、できてる」と褒めた。セレトニンが出まくる心地よい2時間であった。

 なぜ、あそこまでさりげなく、シャワーのように褒められるか。
 その要因の一端は、「放課後の孤独な作業」のように、毎日、クラス全員の子への気付きをメモする修行をしてきたからだと私は思う。
 「ささいな変化」に着目しないと、毎日のコメントは書けない。
 いつもクラス全体に目を向けていないと、個々のよさをキャッチできない。
 毎日の子どものコメントが書けるようになるまでに「3年かかった」という福山氏の言葉には重みがあった。

 あえて、1つキーワードを上げると「プラスワン」。
 今回の講座で強調されたワードではないが、福山氏の実践の中では重要なワードである。

①講座の冒頭、お隣の人と自己紹介をさせた。
②できた点を褒め、笑顔・目を見る・制限時間を守るなどのプラスを指示して、今度は席を立って自己紹介させた。
③できた点を褒め、今度は、相手の名前を覚えている人を尋ねた。つまり、いくら積極的に自己紹介しても、相手の名前をきちんと覚えていなければ意味がないことをさりげなくたしなめた。
 
 「○○ができてすごいね。ところで△△までできた人はいるかな?」

といった形で、一安心する間もなく、次の課題が提示されるところが、福山流の「プラスワン」だ。
 次のような事例も紹介があった。

①初任の先生と校内を巡り「今、何か気づかなかった?」と尋ねる。
②初任の先生がそれなりに答えるが「そこじゃないんだよな」と新たな視点を提示する。
③また、違う場面で「今、何か気づかなかった?」と尋ねる。
④初任の先生が先の視点を意識して答えると、「そこじゃないんだよな」とさらに別の視点を提示する。
⑤この繰り返しで、初任の先生は「次は何を聞かれるのだろう」と構えをもって周りを見るようになる。

・・・さらなる高みを目指した「あくなき追究」の対応術(指導術)である。
 通常の授業でも、次のような場面が目に浮かぶ。

①この資料を見て「何か気づくことはありませんか?」と尋ねる。
②子どもが躍起になって気付きを発表する。
 「すごい! でも、先生が見つけてほしいのは、そこじゃないんだよな」とあおる。
③子どもはまた躍起になって考える。そして思いもよらない先生の解説を聞いて「そうか、そういう見方ができるのか」と分析コードを身に付ける。
④別の場面で「何か気づくことはありませんか?」と尋ねる。
⑤子どもが躍起になって、前回の視点を意識して気付きを発表する。
 「すごい。よく見つけたね。でも、今回、先生が見つけてほしいのは、そこじゃないんだよな」
 とさらに次の見方をあおる。
⑥子どもはさらに考える。
 そして先生の解説を聞いて「そうか、そういう見方もできるのか」と、さらに分析コードを身に付ける。
⑥こうなると、子どもは、次はどんな視点を聞かれるのだろうと構えをもつようになる。
⑦そして、教師が準備した視点以上の新たなコードを自ら駆使するようになる。
⑧すると、次のようなやりとりが起きる。
 「先生、僕はこんな発見をしました」
 「おお、それは先生も発見できんかった。やられたなあ」
⑨このようなやりとりを紹介すれば、その子もほかの子も、ますます追究するようになる。
⑩こうして、毎日、山のような自学ノートが提出される。

 分析視点の追加や意味づけを繰り返すことで、福山氏に学んだ子どもたち(教師たち)は、加速的に成長する。
◆教師の圧倒的な知の力。
◆その知の力に憧れ、一歩でも近づこうとする子どもの知的好奇心。

 その両者のぶつかり合いが、まさに「福山マジック」なのだと思う。
 
 うーん、もっと早くお会いしたかったな。
 福山先生、ありがとうございました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「追究の鬼」と「上達の法則」

①漫然と生活していては「見えていないこと・見落としていること」が多い。

②だから「あれども見えず」を自覚するような問いかけをして、Aという視点(分析コード)を入れていく。
 「数を問う・位置を問う・見えを問う」というような・・。

③子どもは視点Aで周囲を見るようになる。
 視点Aをさまざまな事象にあてはめて追究する子を「追究の鬼A型」とする。
 視点Aでさまざまな事象を追究する子どもは褒められ、クラスのヒーロー・ヒロインになる。

④しかし知的な学級の子どもは、視点Aによる追究にとどまらない。
 新たにBというオリジナルな視点で周囲を見てみようとする。
 A以外の視点を考える子を「追究の鬼B型」とする。
 新たな視点で追究した子どもも先生に褒められ、これまたクラスのヒーロー・ヒロインになる。

⑤A・Bとくれば、次のヒーロー・ヒロインになりたい子は、さらに新たなCやDといった視点を探し出す。
 深く追究する子もいれば、広く追究する子もいる。それぞれの興味・関心の方向性を認め、支援していけばよい。
 
・・・というわけで、有田和正氏の「はてな帳」「追究の鬼」のシステムを踏まえて勝手にA型・B型と名づけてみた。しかし、追究の方向性の「深さ」と「広さ」のことだから、この程度の分類はとっくになされていると思う(見つけられなかったので、勝手に進めさせていただく)。

 過日、「上達の法則」を3つに限定した。

①早くできるようになる(時短)
②たくさんできるようになる(増量)
③精密にできるようになる(精密)

 当然、この3つでは足りなかった。

④他への応用が効くようになる(転用)

 文学の読みで言えば、別の作品を同じ分析コードをあてはめて読んでみることだ。

 しかし、これだけでも足りなかった。

⑤新たな視点を創造するようになる(独創性)

 与えられた視点だけでなく、オリジナルな視点を発見・創造するところまで要求し続けることが大事だ。
 そのような知のエネルギー(知的好奇心・探究心)をかきたてるための前提条件が

◆最初に提示する視点Aの魅力(意外性と普遍性)

である。
 最初に提示する視点Aが、面白いからこそ、子どもの追求心に火がつく。
 また、視点Aが、他への転用可能な普遍性をもっているからこそ、チャレンジの意味がある。

 向山先生も有田先生も圧倒的な知の力で、視点Aの「発問」を提示する。

「何を問うか」「どう問うか」「どう展開させるか」「集団にどう波及させるか」

が、永遠の教師修行なのだとつくづく思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 02, 2015

ささいな行為にも「上達の法則」

 以前、岡本浩一氏の『上達の法則』を参考に、読解力の上達を考えてみた。

 今回は、ごくごく平凡な作業の例。
 岡本氏の「上達の法則」を自分流にまとめると、次の3つがある。

1:同一量を短時間でできるようになる。(時短)
2:同時間で多量にできるようになる。(増量)
3:精密・正確にできるようになる(精度のアップ)

 一方、トレーニングの原則の中には、たとえば次のものがある。

ア:継続性
イ:過重負荷
ウ:斬進性

 この「過重負荷」と「斬進性」は表裏一体である。
 上達すると同じ量では負荷が下がってくるので、少しずつ負荷を上げる必要がある。同じ量の作業を同じ時間でこなしていては向上しないのだ。

 さて、新しい学校に赴任して、朝の鍵開け当番が日課となった。
 校舎・体育館・校門を開けるのに約20分かかる。

◆20分かかる作業が、何とか1分でも縮められないか試みる。
◆窓開けもするなど、昨日よりプラス1ができるように試みる。
◆カギあけと同時に行う校内点検の精度を上げる。

というように、「昨日より今日、今日より明日」と少しでも進歩させようとしている。
 2か月経過してカギあけにも慣れてきたので、最近は、交差点の登校指導をするようにしている。

 平凡な当たり前のことを、毎日毎日当たり前にやり続けること=「凡時徹底」は、それだけでも確かに難しい。
 しかし、「当たり前のことを積み重ねると特別になる」は、ただただ愚直な積み重ねを意味するわけではない。
 常に「向上・改善・プラス1」を意識して工夫し努力するからこそ、「当たり前」が「特別」に昇華するのだと思う。
 
 とはいえ、語るほど立派なことをしているわけではない。ただ、新しい職場でのたくさんの慣れない仕事について、
  ①時短 
  ②増量 
  ③精度アップ

 を意識すると、苦しい気持ちもやわらいでくる。
  1ヶ月間大変だったと語った教育実習生の実習ノートにも、この上達の3要素を書いておいた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« June 2015 | Main | August 2015 »