自由の度合いが大きいというのは、教師が責任を覚悟するということである
◆「自由」というのは、勝手にやらせるのとはちがう。
「勝手」にやらせれば、「いつもやってる」「ありきたり」のものにしかならない。
そして、多くの場合は「勝手」にやっているうちにトラブルが生じ、結果として「自由」がなくなっていく。
・・・上記の記述は、22年前に書かれた、「教室ツーウエイ」1993年5月号の向山洋一氏の文章である。
世の教室には、今もなおに「勝手」=「粗雑な自由」がはびこっている。
「それは自由ではなく、ただの勝手ですよ」と指摘したくなる授業を何度となく見てきた。
しかし、自分の授業も自由と勝手をはき違えていなかったかを問い直す問い直すと自信がない。
勝手な自由によりできない子が増殖し、教室が荒れる。
①たとえば感想文や行事作文。
②たとえば「自由画」。。
③あるいは「何回も書いて覚えさない」としかアドバイスしない漢字練習。
④あるいは好き勝手にやらせる学級のお楽しみ会
◆「単元を貫く言語活動」
なども、もっともらしい理屈を並べているが
「活動あって指導なし」
「指導抜きの自由」
「ただの勝手」
「自主性の名の放置」
を感じてしまう。
先の向山氏の文章の前には、次の言葉がある。
◆「自由の度合いが大きいというのは、教師が責任を覚悟するということである。
かなりの責任を覚悟するのだから、配慮も行き届かねばならないということである。
自由には責任が伴う・・・この指摘も重い。
「自由」という方針を決めた教師には、「自由」による子どもの損失について責任を問う覚悟がいる。
自由に書かせた作文、自由に描かせた絵画のレベルが低ければ、「自由」を選択した教師の責任が問われるのだ。
にもかかわらず、 「自由という名の怠慢」がはびこっていると思う。
作文を書かせている間に別の仕事をするという教室が今もある。
、
「教えてほめる」
「範を示す」
「コードを与える」
という教師の「指導性」が、授業の基本である。
文科省が示す「習得ー活用」も、そのような意味合いだ、
「習得」の後に、活用型の活動が位置づけられる。
アクティブラーニングも同様で、 単なる「自由放任」では、アクティブラーニングは機能しない。
向山氏が言うように、「勝手」にやらせれば、「いつもやってる」「ありきたり」のものにしかならない。
◆子供の発想の貧困さは教師の発想の貧困さの反映にすぎない。
◆授業の質は教師の力量に規定される
と言われる通りである。
◆子供の発想を凌駕する圧倒的な知の力が、子供の可能性を引き出す。
◆褒めたり、あおったりする教師のパフォーマンスが、豊かな発想を引き出す。
もう一度と言わず何度でも、この「自由」の「勝手」の違いについての向山氏の先生の22年前の警告を肝に銘じて、実践を見直していきたい。
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