「言語活動」の授業は、アクテイブラーニングの試金石
現行の指導要領の作成にあたり、
「従来、子ども中心主義の授業に主眼をおくあまり、教師の指導が遠慮される風潮があったこと」
についての反省があったと聞いている。
だからこそ、「習得ー活用」の2段階が明確にされたのだと理解している。
◆習得段階(系統学習)は、しっかり指導せよ
◆活用段階(経験学習)は、子どもの応用力に任せてみよ
というように、系統学習の積み上げの先に、経験学習(アクテイブラーニング)を採り入れよという意味だったのだと今さらながら思う。
しかし、現状は、教えるべき内容をきちんと教えるという「系統学習」にとって当たり前のことが、経験学習の範疇にある「言語活動」や「交流」や「学び合い」という方法にかき消されてしまっている。
そもそも「言語力育成・言語技術育成」と言えばいいところを、「言語活動」とした時点で、誤解される要因をつくってしまった。
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「話し合いや説明、発表等の活動が多くなり教科の学習を貧弱にする」という指摘を伺うことがある。
ここには目的と方法(結果)の混同が見られるが、実際にそうなったら「言語活動」の本来の設定目的とはズレた事態になる。
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「国語教育」2011年3月号の佐藤洋一氏の指摘である(P114)。
「~指摘を伺うことがある」と、やんわり書いてあるが、自分の実感としては
◆「言語活動」中心の多くの授業は、教科の学習が貧弱になっている。
◆「言語活動」中心の多くの授業は、指導がおろそかになっている。
◆「言語活動」中心の多くの授業は、活動そのものが目的になって
しまい、どんな教科の力をつけさせるのか、結果としての学力が不明になっている。
と思う。昔から言われてきた「経験学習」の短所で、いわゆる「活動があって、指導がない」授業である。
佐藤氏が「目的と方法(結果)の混同」というのは、「系統学習と経験学習の混同」でもある。
話し合いは、ある目的を達成するための手段にすぎない。
話し合いそのものを目的にすれば、教科の力はつけられない。
言語活動そのものを目的にすれば、教化の力はつけられない。
佐藤氏は次のようにも言う(前掲書P115)
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より大事なのは、「子どもの学びの思考過程や事実」をきちんと教師が瞬時に診断でき、 的確に評価して子どもに返す、結果的に学力保証の結果責任を果たすことである。
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経験学習の短所である「学力保障」の問題だ。
同様の指摘が、光村図書の「国語教育相談室小学校75」にある。髙木まさき氏は次のように言う(P5)
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何より重要なのは、 子どもたちの考えを発表させるだけで終わるのではなく、それを教師が意味づけたり整理したりし、 子どもたちが確認できるようにするということです。
そうすることで初めて、子どもたちは出てきた考えのどこがどう違うのか、なぜ違うのかということが考えることができるんだと思うんです。
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・・・「今日の授業では、ナンバリングによる意見の言い方が分かりやすくてよかったね。」
のように技術的な指摘をきちんと加えるから指導になる。
そのような教師の総括・総評がない授業は、「活動あって指導なし」の授業であったと言わざるをえない。
アクテイブラーニングでも、同じような議論(戦後ずっと繰り返されてきた議論)が起こる可能性が高い。
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