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November 29, 2015

研究授業の事後検討会は、数値結果で語るべきだ

 ある国語の研究授業。
 「くじらぐも」に乗った子どもたちの言葉を吹き出しに書かせていた。
 授業の前半、雲の上から何が見えるかを問うていた影響で、目標は「会話やしたことを想像する」となっているのに、半数の子が「〇〇が見える」としか書けていなかった。
 全員分をチェックできなかったが、31名中

A 気持ちが書いてある子・・・・・・・10名
B 「見えたもの」だけ書いてある子・・13名

であった。指導案の座席表にABと記録していった。

 先日行われた市内の授業研究会でも、自分は人数チェックをした。
 構想メモの指導をした後、原稿用紙に書かせる作文指導の授業だったが、配られた原稿用紙に即座に向えない子が半数近かった。
 したがって、「丁寧に構想メモに取り組ませて、作文への抵抗感を減らしたい」という授業者の思いは今一つ成果を伴わなかったと判断した。

 そういえば、自分が若い頃の研究授業は、誰がどのグループの様子を見るかを事前に打ち合わせして、どの先生も座席表にしっかり子どもの活動の様子を記録をしていた。指導案にある座席表は、チェック用だと理解してきた。
  授業後は全員のノートを回したり、「何人の子が○○できていた」という授業者の反省があった。
  今でも、誰がどの子(グループ)の活動状況を記録するかを事前に打ち合わて、事後検討会でその結果報告をする学校がある。
 ただ、このところ自分の勤務する学校では、「人数をチェックして、本時の成果を問う」といったシビアな会を行ってこなかった。
 したがって、

〇先生の対応があたたかかった
〇子供が集中していた
○学習規律が徹底していた

といった感想に終始していた。
  付箋を用意して、みんなでよかった点や改善点を列挙していくのも1つの授業検討の方法である。
 しかし、授業の長所・短所を列挙する作業に終始すると、「本時で何人が目標を達成したのか」という肝心な部分の検討がおろそかになる。
 事後検討会は、「今日の授業でつけるべき学力はついたのか」「何がよくて成果が出たのか、何が問題で成果が出なかったのか」をメインにすべきだし、かつてはそうであったことを思い出した。
 
 むろん、そのような検討会を行うためには、本時でどこまで子どもに求めるか・どのような反応が得られれば本時の目標を達成したと判断するのか、その到達目標が明確でなければならない。
 
 指導目標が明確でなければ、評価のしようがない。
 評価する以上は、根拠を明らかにしなければならない。

 初任だった頃、エビデンスなんて言葉を聞いたこともなかった。
 しかし、事後検討会は、今思えばエビデンス意識をもっていた。

 昨今の授業研究は「ゆるく」なっているのだろうか。

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日本教育技術学会 静岡大会報告~贅沢な3大課題~

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 平成27年度の日本教育技術学会大会が、11月14日(土)に静岡で行われた。
 今回の中心テーマは「アクテイブラーニング」と「エビデンス」。
 しかし、多くの講座で「非認知能力」が話題になった。
 それほど、「非認知能力」の話題は避けては通れないのだ。
 アクテイブラーニングは主として「認知能力」だと思っていたので、これほど「非認知能力」が出てくるとは思っていなかった(すごく得した気分という意味です)。

 行きの新幹線で、久しぶりに『天才になる瞬間』(斎藤孝著 青春文庫)に目を通し、「情報の蓄積」についての記述が気になっていた。

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 自分の中に蓄積された情報を、自分なりに再編集し、他の人にはマネのできない自分だけのスタイルで“かたち”にする。その方法をつかんだときが“ブレイクスルー”の瞬間なのです。
 たとえば、天才音楽家のモーツアルト。彼は「自分の中から素晴らしい旋律が湧いてくる」と語っています。この言葉を額面通りにとらえれば、普通の人間の理解を超えた神がかり的な力のように感じるかもしれませんが、何もないところからメロデイが浮かんでくるはずがありません。モーツアルトの才能は、次のように説明することができるのです。
 まず、モーツアルトの頭の中には、彼以前の音楽家の作品が膨大な情報として蓄積されていた。そして、蓄積された情報を自由自在に操ることができた。その上で、自分なりのアレンジを加える作業を積み重ねていくうちに、独創性にあふれる作品が生まれてきた。(P19・20)
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 齋藤氏は、黒澤明監督の「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」の中から、次の一節を引用し紹介している。

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 〈創造性というのは記憶ですね。自分の経験やいろいろなものを読んで記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんで、無から創造できるはずがない>
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 浴びるほどの体験(情報の蓄積)・・・大量のインプット
 大量の「わ・き・お」(TOSSメモ)・大量のアウトプット

 インプットなしに、アウトプットはない。
 個人思考がないのに、話し合いのしようがないのと同じだ
 インプットなしに、アクテイブラーニングはないよなと午前の講座を聴いている間、ずっと気になっていた。

 そこで、午後の分科会Aで思い切って意見を述べたが、やや言葉足らずだった。
 真意は、こんな感じ。

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 今回定義された「アクテイブラーニング」の5つのステップには出てこないが、向山実践の大事なキーワードの1つに「情報の蓄積」がある。
 「みる」の授業や「かける」の授業を、アクテイブラーニングの好例とするならば、「集めるー整理するー分類する」という活動も、どこかに加えておく必要があるのではないか
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◆向山型アクテイブラーニングの5段階

1 問題を発見する
2 問題を追求する
3 討論する
4 異なった意見を認める
5 結果をまとめる

◆KJ法とも言える「かける」の授業の5段階

1.できるだけたくさんの用例を集める
2.不要な用例を省く。
3.同じものをまとめる。
4.意味を考える。
5.自分の考えを板書する。(図や絵を描く。)
6.最も悪い例を1つ選び、検討する(討論する)。


 さて、私が気にした「情報の蓄積」については、川原雅樹氏のレジメの「提案 社会科におけるアクテイブラーニング5段階」に含まれていた。

◆提案 社会科におけるアクテイブラーニング5段階

1 内部情報の蓄積
2 課題の発見
3 課題の追究
4 討論
5 まとめる

・・・自分のアクテイブラーニングイメージは、この川原氏の提案に近いということが、帰りの新幹線の中で判明した。

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November 11, 2015

「脚気菌」を否定した日本の英雄たち

 脚気と森鴎外について調べていくうちに、
◆ビタミンの父と呼ばれた高木兼寛、
◆ビタミンB1を発見し鈴木梅太郎、
◆破傷風菌を培養した北里柴三郎
といった日本の誇りともいうべき研究者の足を引っ張った東大医学部派閥の存在が分かる。
 緒方正規(当時東大医学部講師) が発見したと言う「脚気菌」を否定した高木・鈴木・北里らは、東大医学部グループに批判され冷遇されたのだ。

http://www.iph.pref.hokkaido.jp/charivari/2007_01/2007_01.htm

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 森鴎外は陸軍、北里柴三郎は内務省の留学生です。
 森鴎外は留学時まだ22歳でしたが、当時最年少(19歳)で東大医学部を卒業した超エリート、後に軍医としての最高位、陸軍軍医総監の座にのぼりつめ、陸軍省医務局長の椅子につきます。
 一方の北里柴三郎は源氏の流れを組む名門武家の出、武士となる夢を明治維新により絶たれますが、顕微鏡で見た人体の組織に魅せられて東大医学部に入ります。卒業後は衛生事業を志して内務省衛生局に入り、2年後、ドイツのコッホのもとに留学します。
(中略)北里は破傷風菌の増え方から「酸素を嫌う」という仮説を立て、「嫌気培養」という方法を考案して純粋培養を成功させます。
 北里はさらに、破傷風の治療として「血清療法」という革新的な方法を開発します。
 北里はコッホ四天王の一人に数えられ、世界中で争奪戦が始まります。
 イギリスは、細菌研究所を設立し北里を所長に迎えようと働きかけ、アメリカは、年額40万円(現在の価値で約40憶円)の研究費と年額4万円(約4億円)の報酬を提示しました。
 しかし、北里は科学後進国である日本の科学推進、国民の健康増進のためにすべての誘いを断り、日本に帰国します。
 帰国の際、ドイツ皇帝は明治天皇に対し北里を絶賛するメッセージを送り、北里にはドイツ人以外には与えたことのない「プロフェッサー(大博士)」の称号を贈りました。
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・・・北里柴三郎って、こんなにすごい人物なんだと改めて感激。
 しかし、その冷遇ぶりには唖然。
 
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 こうして日本に帰ってきた北里ですが、当時日本では医学研究施設は東大にしかなく、留学から戻った内務省では研究が出来ませんでした。
 しかし、この世界的な研究者の受け入れを東大は完全に拒否します。
 実は、北里は留学直前に緒方正規(当時東大医学部講師) から細菌の扱い方を習いました。
 つまり、緒方に弟子入りしたのです。
 この緒方は北里が留学したその年に「脚気菌」を発見したと発表しました(当時日本では年間3万人が脚気で死亡するという深刻な状況でした)。留学中の北里は、緒方の発見した「脚気菌」について実験を行い「脚気とは無関係である」という論文を発表します。
 脚気はビタミンB1の不足で起こる病気なので北里の発表の方が正しいのですが、弟子である北里が師である緒方に逆らったのですから、東大では忘恩の輩として非難の嵐が吹き荒れました。
 森鴎外も北里を激しく非難する論文を発表しています(東大の脚気菌派の人々は、この後も「脚気薗」説を主張し続け、日清・日露戦争では脚気によって3万人を超える陸軍兵士を死亡させた上、脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した東大農学部教授の鈴木梅太郎を散々批判し、彼のノーベル賞受賞のチャンスをもつぶすことになります)。
 内務省は、このままでは研究の道を経たれた北里が国外に去ってしまうと、感染症研究所の設立計画を閣議に提出しますが、廃案にされてしまいます。
 そこで内務省はOBを介し福澤諭吉に助けを求めました。
 福澤諭吉は、すぐれた学者を擁しながらこれを無為に置くのは国家の恥だと、自分の所有地を提供し私財を投じて研究所を建設してしまいます。
 北里が帰国した1892年暮れのことです。
 福沢の友人、森村市左衛門(TOTO、INAX、日本碍子などの創始者)が研究設備や機器の購入代金を寄付しました。
 こうして日本初の伝染病研究所は民間の力によってスタートし、やがて、コッホ研究所、パスツール研究所と並んで、世界3大研究所の一つと称されるようになるのです。
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・・・ここも、すごい流れだ。
 森鴎外の次は、福沢諭吉だ。
 伝染病研究所からは、
◆赤痢菌を発見した志賀潔、
◆梅毒の特効薬を発見した秦佐八郎、
◆野口英世
と蒼々たるメンバーが輩出されている。
 しかし、伝染研究所もまた、ひどい仕打ちを受ける。

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 北里の伝染病研究所からは、27歳で赤痢菌を発見した志賀潔、梅毒の特効薬を発見した秦佐八郎、さらに野口英世ら優秀な人材を次々と輩出します。
 北里自身も、1894年、ペストが流行している香港に内務省から派遣され、到着2日後にはペスト菌を発見してイギリスの雑誌に発表、コッホの追試によって間違いなくペスト菌と確認されました。
 東大も内科教授青山を派遣しましたが、彼はペストに感染して命からがら日本に戻って来ます。
 ペストは黒死病ともいい、中世ヨーロッパでは大流行により総人口の約半数を死滅させたとされる恐ろしい病気です。
 この様な歴史があったので、欧米各国はペストを大変恐れ原因菌の発見に全力を挙げていました。
 ですから、北里のペスト菌発見という業績を、世界各国は絶賛します。
 しかし、日本では北里は「忘恩の輩」です。
 v北里の発見したのはペスト菌ではないと非難する論文が科学的証拠も無しに次々と発表されました。
 森鵬外もその一人でした。
 こうして北里が日本で散々叩かれている最中の1901年、科学界にビッグ・イベントが誕生します。
 ノーベル賞です。
 欧米では国を挙げての獲得運動に走り、コッホの弟子であるベーリングが第一回のノーベル医学生理学賞を獲得します。
 受賞理由は、「ジフテリア血清療法の開発」。
 血清療法は医学に革命をもたらした治療法であり、ノーベル賞受賞は当然ですが、ベーリングの研究は北里の破傷風研究の二番煎じに過ぎません。
 しかし、ベーリングにはドイツの国を挙げての応援があったのに対し、北里は国を挙げて足を引っ張られていたという決定的な違いがありました。
 日本はこうして、ノーベル賞の最初のページに日本人の名前を残すという栄誉を自らの手で逃してしまったのです。
 1914年、北里の伝染病研究所は突然東大に乗っ取られ、北里以下、所員全員は辞表を叩きつけて伝染病研究所を去ることになります。
 しかし、北里は北里大学の創立、慶應大学医学部初代学部長就任と活躍を続け、1931年に78歳で亡くなりました。北里が取れなかったノーベル医学生理学賞を日本人がようやく受賞するのは、北里の死後56年経った1987年でした。
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・・・すごい経緯だ。
 伝染病研究所の偉業。
 取りそこなったノーベル医学賞。
 愚かな派閥争い。
 1つ1つがドラマである。
 それにしても、北里研究所のDNAのすごさに感嘆するばかりである。

http://matome.naver.jp/odai/2140488623917423701

http://www.fuanclinic.com/ooi_h/ooi_q57.htm

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脚気と言えば、森鴎外

 地元中日新聞の11月5日の夕刊の「B面科学史」のコーナーに、「ビタミン②海軍カレーの起源」が掲載された。
 ビタミンBの欠乏による脚気の問題だ。

◆昔の日本人は脚気に悩まされた。進行すると手足に力が入らず寝たきりとなり、心不全を起こして死ぬことも。
江戸に多発し、徳川将軍の何人かの死因とされる。
明治時代の軍隊でも深刻な問題で「国家の存亡にかかわる」と政府はとらえていた。

◆英国留学から帰った海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因は食事にあると見抜いていた。
練習航海で比較対照実験を行い、白米に比べ、麦飯や洋食が脚気を減らすことを示した。
1883年から85年にかけて、海軍の脚気患者は激減した。

◆どんな栄養素が奏功しているのかは分からないが、理屈はあとでいいという英国流の考え方だ。
緻密なドイツ流医学を尊重する東大の学者は「細菌説」をとり、陸軍は白米の食事を続けさせた。
高木は「学会に一人として自説に賛する人は無かった」と述べている。
鈴木梅太郎が脚気の原因として、後にビタミンB1とされる物質を論文発表するのは1911年、まだまだ先のことだ。

・・・ここまで読んで、谷先生のセミナーで教わった「脚気と言えば、あの人」とつながった。
 東大医学部出身の森鴎外だ。

http://matome.naver.jp/odai/2140488623917423701

に、脚気と森鴎外のつながりが詳しい。

◆脚気対策を明治17年頃終えた海軍に対し陸軍は森鴎外のプライドと面子から「海軍の対策は科学的根拠なし」として真似ようとはしなかった。
その後、国外での戦争が始まると陸軍の脚気病患者は急増した。
海軍の食事改善後も陸軍と森鴎外はその後20年も放置した事になる。

◆森鴎外は、頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しませんでした。
その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。
 森鴎外らが高木の成果に対して柔軟な姿勢をとっていれば、死なずにすんだ多くの人間の命を奪ったのです。
しかし、森鴎外は生涯、誤りを認めませんでした。


・・・日清戦争でが戦死者よりも、脚気による死者の方が桁違いに多い。脚気はそれほど恐ろしい病気だったのだ。
 日露戦争でも戦死者数の半分にあたる人数だ。
 当時の学説に従ったとはいえ、「脚気細菌説」にこだわった人達は、明らかな失策を行った。
 そのあたりの経緯は、次のサイトにも詳しい(ただし、コピペできません)。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/
 さて、中日新聞夕刊の記載に戻す。
 タイトルは「海軍カレーの起源」である。

◆もう1つ高木が困ったのは、軍隊では白米が食べられると聞いて楽しみにしていた兵士の気持ちだった。
「パンでは力が出ない。麦飯は貧乏人が食うものだ」と、口々に不満を訴えた。
日露戦争のころ導入された「海軍カレー」は苦肉の策だった。英海軍の食事を参考に、簡単に作れて各種の栄養を補給でき、兵士が喜んで食べるものと工夫された。
(中略)当時のレシピを再現した「よこすか海軍カレー」は、神奈川県横須賀市の名物になっている。

・・・なるほど、それでカレーか。
ウイキペデイアによる「海軍カレー」の解説も見逃せない。
.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC

◆当時、大日本帝国海軍軍人の病死の最大の原因となっていた脚気の原因が、軍内の栄養が偏った白米中心の食事であることを突き止めた海軍軍医の高木兼寛は、同盟関係にあったイギリス海軍を参考に、糧食の改善を行うことを試みた[1]。
しかし、当時の日本人にはシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけてカレーライスが誕生した。
よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、とろみによって船が揺れても食器からルーがこぼれる心配もなく日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている[2]。

・・・ほかの港町でも「○○カレー」って聞いたことがある。
今や 国民食と言われるカレーは、日本人を救った有難い食事なのだ。

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November 03, 2015

吉田兼好が否定した日本人の国民性~「奥ゆかしさ」~

 日米中韓の4か国の高校生の意識調査で、日本の高校生は、「自信がない」といった結果が報告されている。
 力もないのに「自分はできる」と自信満々なのはどうかとも思うが、欧米人などは自信満々で自己アピールがすごいと聞いたことがある。
 一方、日本の伝統は「奥ゆかしさ・謙虚さ」であった。
 他国に比べて「自信がない」と答えるのは、今に始まったことではなく、日本人の相変わらずの思考回路なのかもしれない。
 古い引用になるが、漫画「ドラゴン桜」に次のフレーズが出てくる。
 
TOEFLと日本人の英語力
 日本人が英語をできないと思い込んでいる原因は完璧主義。なんでも完璧にやらないと気が済まない潔癖さと物事をネガティブに考えてしまう国民性がそうさせているんだ。だから本当は胸張って,English is my second language,so splease speak slowly fou me.とか言って,図々しく開き直ってどんどん英語を使えばいいのさ。(川口)

http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/report/doragon.htm
 ベストセラー三浦展著『下流社会』(集英社新書)を読んでいて紹介されていた『ドラゴン桜』とある。 

・・・日本人は、よく言えば、「完璧主義」「潔癖主義」。
  悪く言えば「ネガテイブ思考」(失敗回避の思考)

 長所は伸ばしながら、短所は補っていかないといけない。

 さて、高校の授業で学んだ「徒然草」の50段を思い出した。
 改めて調べてみると、なるほど「完璧主義」の国民性を叱り飛ばす内容だ。

◆能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中に交(まじ)りて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず、妄りにせずして年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。
天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、萬人の師となること、諸道かはるべからず。


◇何にかしら芸能を身につけようとする人が、 「上手でないうちは、強いて人に知られたくない。 内緒でしっかり練習して習得してから人前で披露するようなことが、たいそう奥ゆかしいだろう」と常に言うようだけれど、このように言う人は、一芸たりとも満足に習得できるためしはない。

まだ下手くそで半人前であるうちから、上手な人の中に交じって、 馬鹿にされ笑われることにも恥ずかしがらず、平気な顔をして稽古する人が、 特別な才能はないけれども、その芸に停滞することなく、 無秩序にならないで年を送るので、 上手な稽古しない人よりは、最終的には上手の域に達するし、 名人ともなって人にも認められて、最高の栄誉の名声をも得ることである。

天下に認められた芸事の名人でも、 初心の頃は下手だという評判もあり、最悪の欠点もあった。
けれども、その人は、その芸道の決まりを正しく守り、これを重んじて、勝手気ままなことをしないでいるとかならず、 世に認められる博士にもなって、あらゆる人の師となることは、どんな芸能の道においても変わるはずがない。
 
・・・「ドラゴン桜」のアドバイスは、吉田兼好のアドバイスの延長線上にある。
 吉田兼好の指摘は実に鋭い。

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