好きなことだけやればいい?
ノーベル賞をとった中村修二氏の 『好きなことだけやればいい』(バジリコ)は、2002年発行。図書館で借りた。
同じく図書館で借りた『日本の子どもを幸福にする23の提言』(小学館)は、2003年の本。
後者は、ノーベル賞受賞後の緊急メッセージを加えた「中村修二の反骨教育論~21世紀を生き抜く子に育てる」として出版されていると後で知った。
どちらも「自分の好きなことを伸ばそう」というメッセージにあふれている。
この中村氏の主張は、「ポジテイブ心理学」のスタンスと同じだった。、
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昔から日本では、長所より短所を克服することが大事とされました。
しかしポジティブ心理学では、強み(長所)をさらに伸ばす方が効果的であり、そうすればほかの部分も、それにともなって伸びると考えます。
例えば、得意な科目と苦手な科目があるとします。受験を前に、苦手科目の点数を上げようと頑張っても、辛いことは続けられないかもしれません。
それより得意科目をさらに伸ばして、それを生かせる大学でやりたいことを学び、可能性を広げる方がよりハッピーだと考えるのが、ポジティブ心理学なのです。ここ
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「ポジテイブ心理学」と重なる中村氏の主張の一部を拾ってみる。
◆好きなことなら、一生懸命やるものですし、努力も苦痛とは思わない。むしろ喜んで取り組むのが人間です。
好きなことを時間をかけてやれば、誰でもある程度のレベルには達します。そのレベルは、子どもによって多少の差があるのは仕方のないことですが、その差も最初はほとんど小さいものです。
まさに好きこそものの上手なれ。そのことが本当に好きで夢中でやれば、必ずなんらかの効果が出てきて、その小だけが自慢できるものになるのです。(中略)
どんな分野でもいいのです。必ず好きなものや得意なものがあるはずです。その才能を見つけ、才能を上手に伸ばすことができた人が、その分野で成功することができる。
好きなことや得意なものが、なにもない人などひとりもいません。ただ、うまく見つけられなかったり、ほかのことを無理矢理やらされてしまっているのです。
今の日本のほとんどの子どもたちは、自分の好きなことも見つけられず、得意分野にも進むことができず、大切な才能を浪費して大人になっていく。これは日本にとっても大きな損失なのです。(P75~76)
・・・そして、中村氏は、ネガテイブな反論を想定して、次のように反論する。
◆こういうことを書くと必ず「好きなことばかりやってもろくな人間にならない」とか「苦労をしないと人間は伸びない」と反論する人がいます。
もちろん苦労は大事です。壁や生涯を乗り越えなければ、人間は進歩しない。切磋琢磨し、自分を鍛え続けなければアホになってしまうでしょう。
しかし、好きで始めたことで壁にぶつかるのと、好きでもないことでムリにやらされ、それで苦労するのとでは全く違う。反論する人は「嫌いなことも苦労してやらなければダメだ」というのでしょうが、それはとても無意味で無駄なことだと思います。
逆に嫌いなことをムリにやるのは違います。それ自体ストレスがたまるのですから、そこに壁があったらペシャンコになってしまうでしょう。
今の日本の子どもたちは、大学受験というウルトラクイズ競争を強いられています。受験勉強が好きな子どもなど、ほとんどいない。嫌いなことをムリにしているのです。
反論する人は「若いころに受験勉強で苦労すれば、つらさに耐え、壁を乗り越え、人間形成がなされるための準備になる」と言います。もちろん多少の効果があるでしょう(中略)
しかし、好きなことをやる苦労に比べたら、そんな苦労は奥の深さが全く違うのです。第一、専門的な知識や能力を伸ばすために、その苦労は何の役にも立っていない。
大学受験の苦労は、単にウルトラクイズを嫌々やるという苦労です。 (P220~221)
・・・中村氏の主張の意味は分かる。
自分が好きな分野で深く追求していく中で、派生的に学ばねばならない分野が出てきたとしても、それは自分で選んだ好きな分野の延長だから学びの必然性がある。
したがって、苦労とも感じずに努力できる。
しかし、自分の追求する分野とは異なる全教科の勉強を全員に強いる今の受験システムは、無駄が多く、無意味で、若者の学びのエネルギーをスポイルしている。
「君の目指す大学に行くには、好き嫌いを言わずに万遍なく各教科の点数を稼ぎなさい」という今の受験システムは、オンリーワンを育む意向に反している。
日本の受験制度を変えようという主張とセットにすれば、中村氏の提言も生きる。
しかし、受験制度が変わらないまま、中村氏の主張に同意しても、現実的に子どもたちの将来は保障されない。 (むろん、私学の中には、受験科目を限定するところも増えてきたが)。
現実を無視して「好きなことだけやりなさい」を鵜呑みにしてしまうのは危険だと思う。
実は、「好きなことだけやれ」と主張する中村氏も、母親に無理矢理やらされた英語が役に立ったというくだりがある。
◆(小学校5年から6年にかけて母に言われて通った英語塾では)超スパルタの先生が怖くて、自然に文法や英単語なども覚えてしまい、中学に入った後で非常に楽だったという記憶があります。
私は暗記科目が苦手で算数や理科が好きな理系人間ですが、どういうわけか英語だけは苦労したことがない。それは小学校のころ、母が無理やりにでも英語塾に通わせてくれたおかげです。(P34から35)
なぜそれを好きなのかといえば、やはり得意なことであり、それによってほめられ、また、ほかの子よりも上手にできるとか、早くできるとかいった理由が主だと思います。
逆に考えると、好きだから上手にもなるし、得意にもなるのです。そして、親や先生にほめられれば、うれしいから工夫したり熱中したりして、どんどん得意になっていく。(P74)
・・・ここを読んだ親なら、「やはり無理にでも勉強させることにも一理ある」と思うだろう。
本人の意志に任せていたら、中村氏も英語嫌いだった可能性が高いのだから。
また、大好きな算数も、最初は分からなくて困っていたというくだりがある。
◆小さいころから、きらいなことには全く興味が持てない性格でした。きらいなことはいくら覚えようとしてもダメ。(中略)
反面、好きなことはホントに大好きでトコトンやります。小学校低学年のころ、算数が得意でしたし、好きな科目でもありました。
どうして算数が好きになったのか。
小学校の低学年のころ、父が私に算数を教えてくれたことがあります。
小学校に上がったばかりの子どもはそれまでとは違う学校の勉強にとまどい、そのせいで勉強嫌いになることも多いでしょう。私も算数の宿題ができず、わからなくて困っているのを見た父が助けてくれたというわけです。
(中略)最初は九九もなかなか覚えらtれなかった。何時間後に電車がすれ違うかというような文章問題も苦手でした。
しかし、繰り返しやるうちに九九も自然に覚え、文章問題もわかりやすく教えてくれたのです。解き方や考え方を教えてもらったおかげで、徐々に算数ができるようになりました。それ以後、算数が好きな教化になったのです。
自信がつけば、好きになる。得意なことは好きになってしまうものです。(P32~34)
・・・「わからないということは、苦手なんだからやらなくていいや」と父親が放置していたら、中村氏は算数を好きにならなかったということだ。
「わからない」と「嫌い」は違う。
「わからない部分」さえ取り除いてやれば、すっきりして「好き・得意」になることも多い。
しかし、子どもが「わからないから嫌い・分からないからやりたくない」と駄々をこねていた時、あっさり大人が引き下がってしまったら、その子は一生「嫌い」のままということになる。
中村氏だって、無理矢理、英語を教えてもらって、英語が得意になったんだ。
中村氏だって、分からない算数を教えてもらったからこそ、算数が好きになったんだ。
だから「嫌々やっても成果が上がらない」と決めつけるのは、親として教師として危険な選択であることが、逆に中村氏の著書から読み取れてしまう。
最初は全く興味がなかったけど、やり進めるうちに好きになっていくこともある。
もし「好きなことしかやらない」のだったら、そのような新たな出会いは得られないことになる。
嫌いなニンジンを無理に食べさせなくてもいいと割り切るか、ニンジンの料理方法を工夫しておいしく食べさせるかの選択に似ている。
「好きなことをやらせる」のか「嫌いなものは無理にやらせなくていい」かは、簡単に決められないなあと、かえって迷う結果になった。
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