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March 25, 2017

「偶有性」の概念

Mogi

「脳をやる気にさせるたった1つの習慣」茂木健一郎(ビジネス社)。


 「たった1つの習慣」の中身は、サブタイトルに書いてある。

 ~なぜやりたいことを書きだすと実現するのか~

  やりたいことを書きだすと、ドーパミンが放出されて「成功した気分」になり、やる気がアップすると言う。
  「有言実行」が自分を追い立てることも重要な意味があることは想像に難くない。
 記録することが「メタ認知」になることもよく分かる。

 ただし、「たった1つ」と言いながら、ほかにもやる気のヒントが書いてある。
 やる気をなくす原因が

①コンプレックス ②単調 ③強制や命令

 この反対が、やる気になる方法だ。

①コンプレックスを逆手にとる
②目標をつくる(自分なりの課題を設定する・目安をつくる)
③与えられた課題を楽しむ
④遊びながらやる(フロー体験)


 さて、茂木氏の本著のメインの主張とは別かもしれないが、何度も出てくる「偶有性」というワードが気になった。
 
P28
脳科学には「偶有性」という概念がありますが、脳は本来「定まっていること(確実性)」と「定まっていないこと(不確実性)」の絶妙なバランスの中で生きています。

P64
ある程度「予想がつく事柄(確実性)と、「予想がつかない事柄(不確実性)とが混ざり合っている状態のことで「どのように変化するか分からない性質」のこと。

P65
人生もそれ(オセロゲーム)と同じで、白だと思っていた状況が一転して急に急に黒に変わったりすることの繰り返しです。
地震や洪水などの災害に見舞われたり、事故に巻き込まれないとも限りませんし、勤めている会社が買収されたり潰れたりすることもあるでしょう。
まさに「一寸先は闇」で、自分の人生で次の瞬間に何が起こるかはまったく予想できないのです。

P73
人間の脳は予想できるものと、できないものの割合を1対1くらいに保ちバランスを取ろうとします。
そのバランスの取れた状態が脳にとっては、一番楽しいことなのです。
つまり、脳は本来偶有性を楽しむようにできているのです。

P74
 何が起こるか分からない状態を楽しむ気持ちは、進化の過程で脳が身につけた生きる知恵だといえます。
そのことが分かれば、次に何が起こるのか分からない局面に立たされたときも、「これは何だか分からないけど、もしかしたら面白いことが起こるかもしれない」と偶有性を楽しむことができ、人生の見え方も変わってくるはずです。
 繰り返しますが、脳は確実性と不確実性のバランスの取れた状態を好みます。会社と自宅を往復する確実性ばかりの生活を送っていては、会社が合併したり倒産するという「偶有性」の荒波に放り込まれたとき、適切な行動を取ることができなくなります。
自分が置かれた状況が変化しても、「次のステップに進むチャンスだ」と偶有性を楽しむ気持ちがあれば、その厳しい状況を乗り越えていくことができるでしょう。

P204
偶有性という概念が血肉化されていくと、一つひとつの出来事に対して一喜一憂しなくなります。
なぜかといえば、人生何が起こるか分からないからこそ、楽しいと思えるからです。
何が起こるか分からないからこそ、たとえ最悪の状況に陥っても「もうすぐ事態が好転するかもしれない」と思えるようになるのです。

P209
人生は偶有性の連続で、次に何が起こるか誰にも分かりません。
けれども実際何か事が起こったときに、自分の中にプリンシプルを持っていれば
・・言い換えれば、自分の中に「これだけは譲れない」「これがあれば大丈夫だ」という確実性を持っていれば・・
不況になろうが会社をクビになろうが定年退職しようが、自分自身が揺らぐことはないのです。

P232
人生に確実なことは何一つありません。
自分の中に確実なものを持っていれば、不確実なことがあっても慌てずに対処できるし、ときには楽しむこともできる。
その「たった1つの習慣」とは、やりたいこと書き残すことだ。
書き留めた時点でドーパミンが分泌されて、ヤル気になるからだと言う。

 
茂木氏のブログにも「必然化する偶有性」というタイトルの記事がある。

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自分の回りの「ローカル」な状況を自らコントロールしようとしても、そうはいかない。
局所が、別の局所につながり、それがまた次の局所へとつながっていく。
「ローカル」だけを見ていたのでは、二つ先、三つ先、四つ先のノードで何が起きているのか、把握できない。
「遠く」で起こったことが、回り回って自分の生活に影響を与える。偶有性が必然的となっているのである。
 とりわけ、インターネットの発達は、物流の側面だけでなく、情報の面から見ても、世界各地の相互依存関係を強め、偶有性を増す結果となっている
(中略)脳は、もともと、容易には予想できない要素が本質的な役割を果たすという「偶有性」を前提にその動作が設計されている。
そのことは、認識のメカニズムや、意識と無意識の関係、記憶の定着や想起などのプロセスに反映されている。偶有性に適応するからこそ、脳は創造的であり得る。
グローバル化に伴う「偶有性」の増大に適応することは、脳本来の潜在的力を発揮することに、必ず資するはずなのである。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/07/post-c775.html
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◆ 「成功できる人は、「思い通りに行かない事が起きるのはあたりまえ」という前提で挑戦している」(エジソン)
◆「思い通りにいかないから人生は面白い」(曽野綾子)

 やる前からあきらめてしまう自信のなさは、「思い通りにならないことが許容できない」から起こる。
 できて当たり前のことだけこなす堅実な生き方は、脳に刺激を与えない。それでは創造的な仕事はできない。シンギュラリティの世界を生きられない。
 「偶然を受け入れる」「偶然を活かす」「偶然を引き寄せる」といった心の持ちようが求められる。

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自ら計らわない人 広田弘毅

 32代内閣総理大臣である広田弘毅の座右の銘は、

(1)「物来順応(ぶつらいじゅんのう)」

「物来たればこれに応じて対処する(向こうから来るままに応じること)」の意味。朱子の「近思録」にある言葉とも、佐藤一斎の「言志四録」の言葉とも言われている。
 我欲や邪念を捨てて、眼前の仕事に専念せよ、と理解した。

 広田弘毅が外交官時代に左遷人事とも言えるオランダ公使になった時に詠んだ歌が残っている。

(2)「風車、風の吹くまで昼寝かな」

 「なるようにしかならない」と達観したかのような句だ。
 
  城山三郎は、『落日燃ゆ』で、広田弘毅を次のように書いた。

(3)「自ら計らわない人」


「物来順応」
「風車、風の吹くまで昼寝かな」
「自ら計らわない」

は、いずれも同じような意味だと思う。
 むろん、「果報は寝て待て」「なるようにしかならない」のような受け身な生き方を薦めているわけではない。
 「今すべきことに全力を注ぐ」「与えられた役割を全うする」という極めて能動的な生き方であるべきなのだ。そこは、誤解を招きやすいところだ。

 さて、同じように「なるようにしかならない」という誤解を招く言葉に「無為自然」がある。

(4)無為自然
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◆無為自然(むいしぜん)とは、紀元前の古代中国で書かれた『老子道徳経』に書かれている言葉で、努力はせいいっぱいするけれど、最後の結果は天に任せるという生き方です。
http://www.taoism.gr.jp/taoism/nagasarenai13.html

◆「無為」という言葉は「無為無策」「無為に過ごす」のように「なにもしないでいること」という意味でよく使われますが、
『老子』で使われている「無為」は「意図や作為のないさま」という意味です。
 これは、一切なにもしないということではなく、作為的なことはなにも行なわないことと、とらえてください。(中略)そう考えていくと、『老子』でいう「無為」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味しているといえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。
http://textview.jp/post/culture/8081
=================

 「努力は精一杯するけれど、最後の結果は天に任せる」となると、さらに「人事を尽くして天命を待つ」と同じ意味ということになる。

(5)「人事を尽くして天命を待つ」
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◆自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、そんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえ。
 南宋初期の中国の儒学者である胡寅の『読史管見』に「人事を尽くして天命に聴(まか)す」とあるのに基づく。
http://kotowaza-allguide.com/si/jinjitsukushitetenmei.htm...
================

 努力が必ず結果に結びつくとは限らない。

 だからといって、努力を放棄していいわけではない。

 「今すべきことに全力を注ぐ」
 「与えられた役割を全うする」
と能動的に生きるのみである。

(6)「無私の心」

と重なってくることは言うまでもありません。


◆Let it be. → あるがままに。
 (性格なりを変更しないでそのままの自分を。) 

◆Let it go. → ほっておいて。解き放って。
 (私のやりたいようにやらせてください。)

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March 18, 2017

クリティカルシンキングの工夫

 「考える力(クリティカルシンキング)」を鍛えるために日常生活でできる工夫を、これまでの研究を基に、紹介します。(*3)

・・・たまたま見ていたサイトで、クリテイカルシンキングについての記載があった。
================
◆仮説を立て、試すことを励ます
例えば、「この食材、このスーパーの袋に全部入るかな?」「この氷とあの氷、どちらが早く解けるかな?」と質問し、子どもに「入らないと思う」「この氷の方が早く解ける」など「仮説」を立てさせ、実際にどうなるかを試す機会を与えてやりましょう。

◆周りの物事の「類似点」と「差異」を見出す
身の回りの物事を2つ以上選び、「類似点」と「差異」について話し合ってみましょう。例えば、「月と雲は同じ空にあるけれど、色も形も違うね」、「スプーンとフォークは両方とも食事を口に運ぶ道具だけれど、先の形が違うよね」など。

◆分類する
玩具でもいいですし、地面に転がっている石を集めるのもいいでしょう。色、形、大きさ、感触別など、様々な分類法を試してみましょう。

◆「事実」と「解釈」の違いを話し合う
例えば、「今日の給食は煮魚だったよ。美味しかった」と報告する子と、「じゃあ今の言葉の何が『事実』で、何が『意見』かな?」と話し合ってみましょう。またニュース番組を見ながら、「今アナウンサーが言ったことは事実かな、それともアナウンサーが思ったことかな?」と尋ねてみます。

◆「他にどんな方法があるだろう?」と考える
積み木を積み上げたなら、「他にも高くする方法があるかな?」と試してみましょう。洗濯物を一緒にたたみながら、「他にたたみ方があるかな?」と考えてみるのもいいです。

◆すぐに答えを示さない
自ら考え、試し、失敗する過程でこそ、「考える力(クリティカルシンキング)」はグンと鍛えられます。積み木を高く組み立てようとする子に向かって、「大きいものを下にした方が積み立てる時安定するわよ」などとすぐに「答え」を言ってしまわず、子ども自らが考え、試す過程を体験させましょう。

◆ディベート遊び
親子間や、兄弟姉妹間などで「ディベート遊び」をしてみましょう。意見が分かれた場合など、絶好の機会です。「お兄ちゃんはハンバーグが食べたいというけれど、あなたは唐揚げがいいのね。じゃあ、なぜそう思うのかを、お互い理由を並べて説明してくれるかな」などと始めます。

◆「遊ぶ時間」を大切にする
子どもの「遊び」には、「考える力(クリティカルシンキング)」を培う機会が溢れています。例えば、お友達と砂山を作るために、「少し水をしみこませた方が崩れにくいと思う」と「仮説」を立て、試すこともあるでしょう。手持ちの道具や玩具の「類似点」や「差異」を見出し、より適切なものを選び、お友達と「どうして砂山の右側からトンネルを掘る方が、左側から掘るよりいいのか」を話し合うこともあるでしょう。遊びは「考える力」を育むチャンスの宝庫です。「夢中で遊ぶ時間」を、なるべくたっぷりとることを心がけてやりましょう。

日常生活に「考える力(クリティカルシンキング)」を培う工夫を取り入れ、子どもたちが、これからの世界を生き生きと駆け抜ける土台を築いてやりたいですね。
https://allabout.co.jp/gm/gc/467251/2/

=============(引用ここまで)

 すごく分かりやすい。
 すごく取り組みやすい。
 
 ママさんたちが、このようなサイトを見ているのだとしたら、下手な教師の授業は糾弾されかねない。
 教師はママさんの知識の上をいかないといけないのだが、この記事の参考資料は、どうやら日本のものではない。

(*3)Abrami PC, Bernard RM, Borokhovski E, Wadem A, Surkes M A, Tamim R, Zhang D. 2008. Instructional interventions affecting critical thinking skills and dispositions: a stage 1 meta-analysis. Rev. Educ. Res. 78:1102–1134.

 すごいな~。著者の長岡真意子氏のプロフィールを見ると「国内外の豊富なリサーチ資料に基づく子育てヒントの提供」とある。
 こうなると、ママさんが見る無料サイトだからといっても、おいそれと太刀打ちできないことがわかる。

 ただ、クリテイカルに列挙するなら、羅列ではなく、ナンバリングしたい。それに順番も、もう少し工夫したい。
 並び替えてみると、今まで自分たちが目指してきたものと、ちゃんと重なってくる。

(1)「遊ぶ時間」を大切にして、情報を蓄積する。

(2)列挙する・分類する。

(3)「類似点」と「差異」を見出す。

(4)「事実」と「解釈」の違いを話し合う。

(5)仮説を立て、検証する。

(6)他の方法も考える。

(7)ディベート遊び(理由を言い合う)

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パソコンでノートを取るとバカになる

 やや古い文献になるが、見出しの内容について、パソコンで打ち込みます。
 コピーしたままで紛れていたものですが、再活用するにはデジタル化が一番です。

「PREDIDENT」2016.2.29 P68-69 田野俊一 より抜粋 ◆部分が引用文。

◆事実関係では差はないものの、概念理解では、パソコンでメモを取ったグループより、手書きでメモをとったグループのほうが、点数が高くなりました。

とあり、その原因について

◆メモの中身を分析すると、パソコンのグループは講演の内容をすべて記録億するかのように、逐語的にメモをとる傾向が見られました。一方、手書きのグループはすべての言葉を書き取るのが難しいからか、発言を要約しながらメモをとっていました

とある。
要約するのに思考した分だけ、概念理解が促されされ、エピソード記憶が働いたのかというのは私の解釈。
実際には

◆パソコンを使うと手書きよりもメモをとれるが、そのせいで頭の中で行う情報処理が浅くなり、学習効果が低下する恐れがある

と記されている。
パソコンの方がメモを取りながら別のことを考えたりして集中していないこともあるのかなというのが、私の解釈。

人間の認知モードは二種類あると言う。

①「体験的認知」・・何か起きたら後先考えずに反応する動物の一般的な行動原理
②「内省的認知」・・「将来いい学校へ入るため勉強する」のように、想定したゴールに向けて行動するロジカルな知覚

◆知的活動の初期段階においては、情報を収集し、整理してまとめ、自分の考えを足していく作業が大事で「内省的モード」が適しています。だからメモをとるときは内省的モードになるのが好ましいのですが、高い集中力が必要で負荷が大きいため決して簡単ではありません。
 そして操作そのものに快感がある楽しいパソコンや、バーチャルリアリテイのような豊かな刺激を与えられると、人間は「体験的モード」にはまりこんでしまう。そのためパソコンでノートをとると、理解を深めないまま、言葉を入力する作業に没頭してしまうと考えられます。

・・・ある学校で、4年生の調べ学習の発表をパソコンで入力すると聞いて驚いたことがある。
ローマ字入力を習熟させるという意味はわかるが、調べ学習のレポートなどは、アナログでやった方が時間的に無駄がないと私は思う。
「内省的モード」という観点でも、アナログ発表の意義はあるのだということだ。

 今こうしてデジタル入力をしているが、最近になって手書きのメモも多く取るようになった。
 とりあえず思いついたことをメモ書き・なぐり書きをしておくことは、最初からていねいにレイアウトしてワープロ作成するよりも、ブレーンストーミングとしては望ましい。
 ブレーンストーミングしたい時に、丁寧なノート(ワープロ打ち)を意識するのは「二兎を追うもの一兎も得ず」になってしまう。目的を見失ってはいけないのだ。

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March 05, 2017

長い一文を読み取る力

  5年生のクラスに補欠で入り、国語テストを監督することになった。
 学年のまとめ(ぶんけい)は、なかなか手ごわい読み取りテストだった。
 「ゆるやかにつながるインターネット」は昨年の教科書教材なので、子ども達にとっては初見の説明文である。
 文章全体に様々な「2つ」が組み込まれていて、その「2つ」を探すことが主に出題されている。
 便宜上、設問の1~4として以下に関連する一文を示す。さらに便宜上「」と①②を書き加えておく。

設問1の該当箇所
インターネットにつながるあやしさ・・「①その一つは~。②もう一つは~。」

設問2の該当文
「①いつも意図した通りにやりとりが運ぶと思わず、わからなかったら確かめる、②予期しない返事が来ても、おこったりあきらめたりせずに、きちんと説明する」ということを重ねていきたい。

設問3の該当文
「①よく考えずにほかの人を考える内容を発信したり、②個人的な情報を無断で公開したりしては」、人をつなぐはずのインターネットが人を傷つける道具になってしまう。

設問4の該当文
「①受け取った情報が信用できるものかを注意深く見きわめることはもちろん、②あなた自身が無責任な言動をしていないかどうか、常に自分に問う必要がある。

・・・設問1は、「その一つは~。もう一つは~。」だから決して難しくない。ただし、場所がずいぶん離れているので、そこが難しい。
 「その一つ」には改行がないの見落としやすいが、「もう一つ」には改行があるので、「もう一つ」が出てきたときに、前の「一つ」がどこにあるかを逆思考で確認するようなスキルが求められる。

 設問2・設問3は、長い一文の中に、2つの注意事項が書かれている文型。
 特に設問3の場合は「~たり、~たり」なので、2つの内容が盛り込まれていることを意識させやすい。
 大人でも間違いやすい「~たり、~たり」の作文に書き慣れておくと、読み取りの際にも2つの内容が意識ができるのではないだろうか。

 設問4は、「Aはもちろん、B~」という構造で2つの内容が盛り込まれている文型。
 なるほど、確かにこういう表現は日常でよく使われる。読み慣れること・書き慣れること・言い慣れることが大切なのだと思う。

 それにしても、今回、じっくり読んでいて「一文の長さ」が、難度を上げていることがよく分かった。

設問2の一文は、
◆たがいに、いつも意図した通りにやりとりが運ぶと思わず、わからなかったら確かめる、予期しない返事が来ても、おこったりあきらめたりせずに、きちんと説明するということをていねいに重ねていきたいものです。

設問3の一文は
◆よく考えずにほかの人を考える内容を発信したり、個人的な情報を無断で公開したりしては、人をつなぐはずのインターネットが人を傷つける道具になってしまいます。

設問4の一文は
◆受け取った情報が信用できるものかを注意深く見きわめることはもちろん、あなた自身が無責任な言動をしていないかどうか、常に自分に問う必要があります。

 この程度の一文の長さに耐えられるような日ごろからの読書体験が必要だ。

 さて、今回のテストで、かなり出来が悪かったのが、設問1に関する部分。
 2か所の内容を15文字以内で書かせるのだが、後半の一文は

◆もう一つは、顔を合わせないですむという気楽さ、いつでもつながりを切ることができるという安易さから、つい無責任になりがちだということです。

 この一文の構造が理解できる人は、要約したら

◆「もう一つは、つい無責任になりがちだということ」

になることが分かる。15字の模範解答は「無責任になりがちだということ」。
 しかし、子どもたちは一文の前半に目がいってしまい、ほとんどの子が「顔を合わせないですむ気楽さ」と書いていた。そこそこ15文字でうまく抜き出せるからだ。

 長い一文を読み取る力として、

(1)一文に含まれた複数の意味を分ける力
  =複文を短文に書き直すトレーニングで身につける。
  =意味ごとに囲む・番号を打つ(ナンバリング)

(2)主述や挿入部など、内容の軽重を理解する力
  =主述をつかむトレーニングで身につける。
  =要約のトレーニングで身につける。
  =余分な箇所を消すトレーニングで身につける。

などが考えられる。
 たぶん、もっと細分化できると思う。しっかり検討したい。

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「議論する道徳」のヒント

 たまたま読んでいた本で「疑う」ことの大切さが出てきた。

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 目的を読むからこその「疑う」です。「イエス、バット(Yes,but」の読み方と言ってもいいでしょう。
書いてあることは分かる、そのとおりかもしれない(イエス)。
でも(バット)、こういうこともあるんじゃないか?こういうやり方もあっていいんじゃないか、など、一度著者の意見を受け入れたうえで、違う見方もあるんじゃないか?と考えてみる。これが、ここで「疑う」と言っていることの正確な意味です。

  「A6ノートで読書を超速化しなさい」松宮義仁 徳間書店
==============

 書いてあることは分かる、そのとおりかもしれない(イエス)。
でも(バット)、こういうこともあるんじゃないか?

・・・そんな意識で道徳の資料に対峙できたら、授業の質も話し合いの質も深まるのではないだろうか。
 そもそも、教師が資料の展開を鵜呑みしていたら、Yes Butの授業展開は期待できない。
 教師が資料を鵜呑みにしないスタンスが必要で、そのためには「セカンドオピニオン(別の意見にあたってみる)も大事なのだとも言える。
 また、自分の考えを絶対視しない客観的な姿勢という意味では、「メタ認知」が必要なのだとも言える。

 ただ、いろんなカタカナ語を使うとややこしくなるので、

「そのとおりかもしれない(イエス)。でも(バット)、こういうこともあるんじゃないか?」

を合言葉にしてみたい。
 むろん、これは道徳に限ったことではない。
 相手を肯定しつつ反論する「確かに○○だ。だがしかし~」は、欧米での議論の定型になっている。
 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一(集英社新書)では、たとえば次の話し方を勧めている。

「君の質問は3つの誤解に基づいている。第一の誤解、それは~」
「そこには、問題点が2つある。歴史的にみると~」
「○○の面からすると賛成だが、▽▽の面からすると反対だ」
「そもそも~とは~」
「今問題にあっているのは~」
「なぜ、そのようなことが起こっているかというと~」
「確かに~、しかし~」

など。 これらを「型思考」と言う。

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朝読書をどう指導するか

 黒柳徹子の「小さいときから考えてきたこと」(新潮文庫)を読んだ。
 最近の自分の読書は教育書・ビジネス書が多かったので、久しぶりに軽めの読書だったが、自分の知らない世界に触れるという意味では有意義だった。

 過日、中学校の国語の先生たちと会う機会があり、朝読書の話題になった。
 そんな経緯もあり、このようなエッセイをたくさん読ませることを勧めたいと思った。
 それは朝読書という短時間でそこそこキリがつかないようでは、授業中に続きが読みたくなって困るからでもある。
 星新一のショートショートは今の中学生にも人気があるとのことだったが、まずはエッセイや短編で読書の基礎体力を付けさせたい。
 最近は重松清も恩田陸も読んでいないけど、「これではいかん」という気になった。児童生徒に読ませたい作品をしっかり把握できるように読書の方向を調整したい。

 黒柳徹子の「小さいときから~」は、ユニセフ親善大使として訪れた紛争地域での子どもたちの様子と自身の戦争中の体験とが重なる部分がある。
 中学生にも読ませたいと思う章が多かった。
 特に「黄色い花束」は、中学校定番の「字のないはがき」や「大人になれなかった弟たちに」よりも、生徒の心に響くかなとも思った。太平洋戦争だけではあまりに遠い過去だが、現在の紛争地域の話題があるので、戦争や紛争にリアリティがあるのだ。
 少しだけ引用する。

◆私が子どものとき、何も知らないで、日の丸の旗を振って送り出した兵隊さんは帰ってこなかった。自由が丘の駅に行って、出征する兵隊さんに旗をふると、スルメの足を焼いたのを一本もらえた。私は、それが欲しくて、時間があると、行っては旗を振った。スルメなんて、あの頃、めったに食べられるものではなかった。知らなかったとはいえ、私は、あのとき、スルメが欲しくて送り出した兵隊さん達が帰って来なかったことを、今も申しわけなく、私の心の傷になっている。あどけなく手を振っている子ども達(竹田注 コソボの子ども達)を裏切っては、いけないのだと、私は子ども達が手を振るのを見るたびに思う。あの女の子から貰った黄色い花は、ノートに挟んで押し花にした、コソボの記念に。

・・・心の傷は、小さいときに生ずるものもあるが、大人になってから「知らなかったとはいえ、申し訳ないことをした」と生ずるものもある。
 大人の入り口にあたる中学生にも、そんな「心の傷」の存在に共感してもらいたい。
「知らなくてもよかったことまで、知ってしまうのが大人なのだ」と言えば、ちょっと格好良すぎるかな。

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中学入試が「思考力型」に

 朝日小学生新聞2月20日号に「中学入試『思考力型』増える」の記事があり、面白い試験が紹介されている。

(1)「くらし」というテーマに沿って、受験校の図書館を利用してリポートを完成させる「思考力テスト」(東京・工学院大学附属中)。

(2)レゴブロックで自分の好きなことを作品として表現し、150字で記述させ、世界が抱える問題の解決法を考えさせる「思考力ものづくり入試」(東京・聖学院中)

 首都圏で今春このような入試を実施した学校は120校だとのこと。

◆こうした「思考力型」「適性検査型」などと呼ばれる入試は、図や表、写真とともに長めの文章を読みこみ、自分の考えを記述するというタイプが主流。国語、算数、理科、社会といった教科の枠にとらわれない出題です。

◆新しいタイプの入試を導入した理由として学校側が挙げるのは、グローバル化などの「世の中の変化」です。実際には大学入試改革で、求められる力がかわることも背景にあるとみられます。

◆「塾通いをしていない子でもチャレンジできる入試が増えている。考える子が好きだったり、世の中の動きなどに関心があったりする子にも『受験』という選択肢が広がっている」

とある。
 大学入試が変わる前に、中学入試から変化が起きているということだろうか。
 むろん幼稚園や小学校のお受験は、知識理解は問えないので、創造力や想像力を試すような課題が従来から課せられてきた。その延長に中学入試の変化があるのかもしれない。

 今回の朝日の記事は、なるほどとは思うが、「塾通いをしていない子でもチャレンジできる入試が増えている」には少し疑問がある。
 こうした思考力を試す入試は、本当に塾通いしないで対応できるものだろうか?
 結局、この手のテストも、それはそれで受験テクニックが必要になるだろうし、採点基準から裏読みした対策が練られることは必至である。
 冒頭の「思考力テスト」は、その指定の細かさを見ると、従来の学力の高さにプラスしての「思考力」なのだと考えざるを得ない。

① 「くらし」に関係することや、言葉から連想することを自由記述。
② 記述内容に関連した情報を図書館でまとめ、表にまとめる。
③ 「くらし」と照らし合わせて、日ごろから感じている課題を書きだす。
④ その中から、重要なことを一つ選び、さらに知りたいことを書く。

 こうしたプロセスをステージ6までふんでリポートにまとめると言うのだから、相当な学力・周到な受験対策が必要だ。

 ところで、図書館で調べてレポートを書くという入試方法は、ハーバード大学で行われていると聞いたことがある。
 ハーバード大学のユニークな入試方法が話題になる。これも「だから勉強しなくてもいい」というわけではない。
ユニークな入試ができる前提は、書類選考によって学科の成績が提出されており、受験するどの学生も高水準の成績だという点にある。優秀な生徒が集まっていることを前提にしてのユニークな入試である。
 日本で言えば、難関大学がセンター入試の比率が低いのと同じ。
 学力を軽視しているわけではなく、どの受験生も高水準であることが分かっているからこそ、学力以外の特性を試験したくなるのだ。学力軽視ではないことは、きちんと把握する必要がある。

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「ハーバードクラスの大学だと、これらのテストのスコアがすこぶる高い入学希望者ばかりが集まります。高校や大学時代の成績、いわゆるGPAも見られるので、学校での勉強にも手は抜けません」

学力はSATやGPAでチェックされ、さらに願書やエッセイ、推薦状から、その人のバックグラウンドや、課外活動でどんなことをしてきたかを審査される。

「ハーバードは、学力に加えて芸術的素養がある人や、スポーツに打ち込んできた人を好んで受け入れています。
出願時に提出する書類にエッセイがありますが、そのような人たちは、ただ勉強だけしてきた人よりユニークで深みのあるエッセイを書けるからです。
勉強だけでなくスポーツや芸術の才能も求められるなんて……と絶句したくなりますが、実際ハーバードには、天が二物を与えた才能あふれる学生が集まっているのです」
http://president.jp/articles/-/16257
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現在の大学入試センター試験は、マークシート方式で行われています。
また、各大学の試験では、1点刻みで合否が決まってしまいますが、現在、先進国でこのような入試方式を中心にして行っているのは、日本くらいしかありません。
米国も欧州も日本のような知識偏重の学力テストには重きを置いていません。
面接や小論文などを通して、高校時代をどう過ごしたかを見ているのです。
暗記、記憶だけでは測れない能力です。
そうしていかなければ、新しい時代の変化についていけないということでしょう。
http://mainichi.jp/articles/20150508/org/00m/100/026000c
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1つめは、「課題解決の能力」です。
受け身や指示待ちではなく、主体的にその能力を発揮できることです。
それから2つめは、「クリエイティブな企画能力」です。
例えば、東大の文系はかつて優秀な官僚を養成する大学だったわけですが、その官僚においても、いまやクリエイティブな能力が求められてきています。
ただ指示されたことだけをやっている官僚は、もはや使いものになりませんから。
そして最後の3つめは、「人間的な魅力」です。
人を思いやる優しさや慈しみの心、また、新しいものや多様なものを受け入れることができる姿勢など、そうした人間としての度量や魅力を持ち合わせていく必要があります
http://diamond.jp/articles/-/60886?page=3
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・・・さまざまなネット記事で入試の動向なども分かる。
保護者に言い負かされないように、きちんと把握しておきたい。

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中学生に必要な、GRIT

 過日、春日井市の国語研究会に参加して、久しぶりに中学校の国語の先生と話をし、担任当時の苦労を思い出した。
 「分からん」と突っ伏してしまう生徒、まじめに取り組んでいるのに成果が上がらない生徒、いずれも「見通しのある努力」の仕方を自分が明確に伝えられなかったから生じた結果だ。

 中学校では、よくも悪くも、「受験に必要か」が大きな基準になっている部分がある。
 文法をどこまで教えるか、漢字をどこまで教えるかなど、常に「受験に影響するか」を意識して、授業内容に強弱をつけている。

 愛知県の公立高校受検で出題される文法問題や漢字の書き取りは、1・2問。その1・2問が大きいと言えば大きいのだが、勉強時間との費用対効果を考えたら「捨てる」という生徒がいるのも現実だ。
 そもそも国語の受験勉強自体が、費用対効果を考えて「捨てる」という生徒がいる。
 勉強しなくたってある程度の点数は取れるし、他教科の難しい文章を大量に素速く読むことが、国語の訓練につながると考えることもできる。
 暗記科目や習熟科目に時間を費やした方が成果を上げやすい。

 しかし、だからと言って、国語の授業を軽んじる生徒を容認するわけではない。
 受験の制約があろうとなかろうと、魅力ある授業をきちんと成立させ、生徒を引き付ける努力が教師には必要で、できるなら「授業を受けるだけでも十分に受験の力をつけてやる」と言い切れる授業を展開したいと無謀ながら考えてきた。また、それが無理でも、そのような気概だけは持っていたいと考えてきた。

 さて、言語系という意味では、英語も古典も現代国語も同じで

◆どのくらい分からない単語があったらあきらめるか。

という「ねばり強さ・やりぬく力」が問われている。

 分からない単語が多いからあきらめるのか、分からない単語の意味を類推して粘り強くチャレンジするのか。
 むろん、分からない単語が減るように努力する姿勢も大事だが、分からない単語が多くても果敢にチャレンジする姿勢も大事である。

 それは、おそらくどの教科でも、どんな生活場面でも同じだろう。
 だからこそ、GRITに代表される非認知能力の育成が重要なのだ。
 「わからん・できん」とすぐに投げ出しがちな中学生に身につけさせたい重要な要素がGRITなのだとつくづく思った。

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