自ら計らわない人 広田弘毅
32代内閣総理大臣である広田弘毅の座右の銘は、
(1)「物来順応(ぶつらいじゅんのう)」
「物来たればこれに応じて対処する(向こうから来るままに応じること)」の意味。朱子の「近思録」にある言葉とも、佐藤一斎の「言志四録」の言葉とも言われている。
我欲や邪念を捨てて、眼前の仕事に専念せよ、と理解した。
広田弘毅が外交官時代に左遷人事とも言えるオランダ公使になった時に詠んだ歌が残っている。
(2)「風車、風の吹くまで昼寝かな」
「なるようにしかならない」と達観したかのような句だ。
城山三郎は、『落日燃ゆ』で、広田弘毅を次のように書いた。
(3)「自ら計らわない人」
「物来順応」
「風車、風の吹くまで昼寝かな」
「自ら計らわない」
は、いずれも同じような意味だと思う。
むろん、「果報は寝て待て」「なるようにしかならない」のような受け身な生き方を薦めているわけではない。
「今すべきことに全力を注ぐ」「与えられた役割を全うする」という極めて能動的な生き方であるべきなのだ。そこは、誤解を招きやすいところだ。
さて、同じように「なるようにしかならない」という誤解を招く言葉に「無為自然」がある。
(4)無為自然
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◆無為自然(むいしぜん)とは、紀元前の古代中国で書かれた『老子道徳経』に書かれている言葉で、努力はせいいっぱいするけれど、最後の結果は天に任せるという生き方です。
http://www.taoism.gr.jp/taoism/nagasarenai13.html
◆「無為」という言葉は「無為無策」「無為に過ごす」のように「なにもしないでいること」という意味でよく使われますが、
『老子』で使われている「無為」は「意図や作為のないさま」という意味です。
これは、一切なにもしないということではなく、作為的なことはなにも行なわないことと、とらえてください。(中略)そう考えていくと、『老子』でいう「無為」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味しているといえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。
http://textview.jp/post/culture/8081
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「努力は精一杯するけれど、最後の結果は天に任せる」となると、さらに「人事を尽くして天命を待つ」と同じ意味ということになる。
(5)「人事を尽くして天命を待つ」
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◆自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、そんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえ。
南宋初期の中国の儒学者である胡寅の『読史管見』に「人事を尽くして天命に聴(まか)す」とあるのに基づく。
http://kotowaza-allguide.com/si/jinjitsukushitetenmei.htm...
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努力が必ず結果に結びつくとは限らない。
だからといって、努力を放棄していいわけではない。
「今すべきことに全力を注ぐ」
「与えられた役割を全うする」
と能動的に生きるのみである。
(6)「無私の心」
と重なってくることは言うまでもありません。
◆Let it be. → あるがままに。
(性格なりを変更しないでそのままの自分を。)
◆Let it go. → ほっておいて。解き放って。
(私のやりたいようにやらせてください。)
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