道徳授業の予備知識 ~「思いやり」を例に~
(1)「行動」の定義
行動分析学(応用行動分析学)が定義する「行動」の条件は、次の2つである。それぞれのチェックを「死人テスト」「具体性テスト」と呼び、双方をクリアしないと「行動」とみなされない。
①死人にはできない
・・・「~しない」というのは死人にもできるので「おしゃべりしない」「動かない」「人を叩かない」などは、「行動」と言えない。
②具体性がある。複数の人が見て(録画してみて)、それと分かる。
・・・「深く考える・反省する・楽しむ」のような心情的・内面的なものは「行動」と言えない。
参考 http://aba-airi.hatenadiary.com/entry/2016/09/05/220352
(2)if-then計画
「思いやりの心」は、具体的な行動が問われる
◆ごみ箱のごみがあふれている時に、こぼれたごみを拾ったり、ごみ箱をぎゅっと押さえて捨てやすくしたりできる。
◆給食当番で自分の分担が終わったら、ためらいなく他の子の仕事を手伝える。
「あかじめ○○になったら△△をする」と決めて実行することで、行動を自動化しようとすることを「if-thenプラン(条件型計画)と言う。
しつけも、行動規範も、「こういう時は、こう動く」という「if-then計画」の積み重ねなのだと言えるのだが、道徳も同じと言えるのかどうか自信がない。
(3)「具体化」と「一般化」(汎化)
if-then的に具体的な行動を習得するだけでは、新しい場面で動けない。
一方、抽象的に「思いやりの行動をしよう」と唱えているだけでは、具体的な場面で動けない。
「ごみ箱があふれていたら、どうすればいいかな?」のような具体的な場面でのシュミレーションを行うとともに、「このように困っている人を見かけたら、自分ができる支援策を考えて実行する」という総括的な心構えとをしっかり結びつけていくことが道徳の授業の大事な役割だと思う。
だから、道徳授業の基本的な1時間の枠組みは、前半は資料の中の出来事に合わせて考え、後半は自分たちのふだんの生活に置き換えて一般化するようになっている。
ただし、この指導過程は理に適っているものの、もはや形骸化してしまっている。
(4)「思いやり」は「想像」であって「看取り」とは違う
国語辞典で調べたら、「思いやり」の2番目の意味が「想像」であった。
ということは、目に見える相手を助けるのは「思いやり」ではなく「見取り(看取り)」にすぎないということになるだろうか。
低学年の「思いやり」なら目の前の人への支援でいいと思うが、高学年にとっての「思いやり」は
◆「この切符を落とした人、今ごろ困っているだろうな」
◆「同じ地球上で、学校に行けずに辛い思いをしている人に何かしてあげたいな。」
というように、目に見えぬ人に思いをはせることであり、それは、やっぱり「看取り」とはレベルが違う。
授業者が「看取り」と「想像」の違いを自覚しないと、高学年で「看取り」の授業をしてしまうかもしれない、
さて、「想像」と言えば、ジョンレノンの「イマジン」が思い浮かぶ。世界の平和は、まず「想像」から始まるのだ。
Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...
Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one
想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...
想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ
http://ai-zen.net/kanrinin/kanrinin5.htm
「私たちの道徳」(中学年)には、「だれかの生活をささえられる人に」と題して、まどみちおの詩が紹介されている。
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朝がくると とび起きて
ぼくが作ったものでもない 水道で 顔を洗うと
ぼくが作ったものでもない 洋服をきて
ぼくが作ったものでもない ごはんを むしゃむしゃたべる
それから ぼくが作ったものでもない本やノートを
ぼくが作ったものでもない ランドセルにつめて せなかにしょって
さて ぼくが作ったものでもない 靴をはくと たったかたったか でかけていく
ぼくが作ったものでもない 道路を
ぼくが作ったものでもない 学校へと
ああ なんのために
いまにおとなになったら ぼくだって ぼくだって
なにかを 作ることが できるように なるために
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・・「モノ」の向こうにいるはずの「人」に思いをはせることで、関係が広がり、関心が広がり、想像が広がり、思いやりの心が広がっていく。
この詩が中学年で紹介されているということは、中学年で「看取り」ではなく「想像」まで指導せよということにもなるのかもしれない。
さて、冒頭の話題に戻るのだが、「イマジン」やまどみちおを詩を読んで「想像する」だけでも、道徳になるのかなという思いがあって、現在困惑中である。
「想像」は、目に見えないから行動でない。
「想像」してみたところで、これからどうすればいいか、全然具体的でない。
それでも、「想像」するだけでも、子どもの人生に何か影響があるかもしれない。
道徳は「心」を扱う。「行動」を扱うのは生徒指導と言わることに、反発したくなるのだが、やっぱりそうなのかなと思ってしまう。
道徳は、やはり奥が深いのだ。
※むろん、「想像」だけでは授業にならないし、評価もできない。
想像したことを発表させたり、ノートに書かせることで視覚化させる。
想像した内容を話し合いの形で相互交流させることで視覚化させるといった授業の工夫が必要である。
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